第一章 三人の男



「じゃ、行って来るよ」
 そう大河内龍雄(52)が言っても、妻の道代(46)は何ら言葉を返そうとはしなかった。道代は相変わらず三面鏡の前に腰を降ろしてはじっと三面鏡に映った自らの顔を見やっては化粧に余念がないようなのだ。そんな道代はまるでそう言った龍雄の言葉に答える必要はないと言わんばかりであった。
 龍雄は熊本生まれの熊本育ちであった。
 そして、熊本の小、中、高校を卒業すると、福岡の某大学に進学し、経済を学んだ。そして、大学を卒業すると、熊本にUターンし、地方公務員となった。厳しい競争倍率であっただけに、公務員となれた龍雄は正に順調な社会人としてのスタートを切ったといえよう。
 そして、三十歳になった頃、上司の勧めで見合いをした。その見合い相手が高村道代であった。
 道代は龍雄と同様、熊本生まれの熊本育ちで、その当時、K交通で事務員をやっていた。そして、道代の父親が龍雄の上司と友人であった為に、龍雄と道代の縁が出来、結局龍雄は道代と結婚するに至った。
 龍雄は学生時代は特に目立ちもしない影の薄い存在であった。だから、小、中、高、大学を通して、クラスの委員なるものになったことは一度もなかった。ただ、真面目で地味な存在、それが龍雄だったのだ。
 そんな龍雄であったから、もしクラスの中でいじめっ子がいれば、龍雄はいじめの対象となったかもしれない。だが、幸いなことに龍雄はいじめっ子なる生徒とは同じクラスになったことは一度もなかった。また、龍雄が通っていた学校はいじめっ子が数多くいるような学校ではなかった。それ故、龍雄は正に順風満帆の人生を歩んで来たといえよう。
 そんな龍雄は、その温厚な性質の為か、三十になっても、一度も女性と付き合ったことはなかった。女性が嫌いというわけでもなかったのだが、龍雄に言わせれば、女性と付き合ったりすることが何となく面倒だったのである。
 それで、三十を超えるまで、女性とは縁のない人生を送って来た。また、その外見はお世辞にもカッコいいとは言えないし、また、居るのか居ないのか分からないような存在であったから、女性にもてるわけがなかった。
 そんな龍雄であったから、道代との見合いの話が持ち込まれた時には、龍雄は思わずめったに笑わないその表情を綻ばせたのである。
 そして、正にごくりと唾を飲み込んでは道代の写真を眼にしたのだが、そんな龍雄の表情には特に変化は見られなかった。
 というのは、道代は特に美人とも思えなかった。要するに月並みの女だと思ったからだ。
 そんな道代であったが、道代との見合いを龍雄が断る理由は何らなかった。何しろ、今まで女性と何ら縁がなく、そして、今後もありそうもない龍雄のことだ。正にこのチャンスを逃がしてなるものかと言わんばかりに道代との話を進め、そして道代との見合いの話があって三ヶ月目に挙式を挙げたのだ。
 因みに道代は龍雄のことをどう思っていたかというと、正直言って龍雄がいい男だと思いはしなかった。しかし、公務員という安定した職についていることは魅力的であった。道代はかねがね道代の夫は公務員でなければ駄目だと思っていたのだ。
 それ故、道代は龍雄と結婚したというよりも、公務員の男性と結婚したみたいなものであった。
 そんな龍雄と道代との間にはなかなか子供は出来なかった。というよりも、正確に言えば作ろうとはしなかった。
 というのは、龍雄にしろ道代にしろ、心の底ではお互いを信頼してなかったからだ。
 龍雄と道代は、見合いで結婚したのだが、毎日毎日一緒に暮らしていると、当然のことなのだが色々と粗が眼につくようになり、また、人生観、好み、趣味とかいったものの違いも眼につくようになって来た。それ故、龍雄にしろ、道代にしろ、結婚はもう少し慎重にすればよかったと後悔する時も徐々に増えて来た。
 とはいうものの、女にもてず、女に対する自信もなく、また、離婚によって世間の信用を失うことを恐れた龍雄は道代と離婚するわけにもいかず、また、道代も男にもてない女性であり、また、これといった資格もない為に龍雄と別れて一人で自活して行く自信もなかった。それ故、龍雄と離婚するなんてことは、道代にとって現実的なこととは思えなかったのだ。
 そんな龍雄と道代ではあったが、正に時が経つのは思ってた以上に早く二人が結婚して十五年が過ぎた。そして、その夏に一大事件が発生してしまったのである。
 その一大事件というのは、龍雄は土木課に所属していたのだが、そんな龍雄の上司である田代伸一課長(53)が収賄容疑で逮捕されてしまったのである。田代は県が発注する公民館の水道事業を請け負う業者を決定する権限があったのだが、業者から賄賂を受け取り、便宜を図ったことが明るみとなり、収賄容疑で逮捕されてしまったのである。また、龍雄もその贈収賄事件に関与していた疑いを持たれ、警察から事情聴取されてしまった。
 だが、龍雄を逮捕するだけの証拠はなく、結局龍雄は逮捕されずに済んだ。
 だが、警察から事情聴取された悪影響は甚大なものであった。職場内では龍雄を白い眼で見るようになり、また、いじめも受けるようになった。
 その結果、龍雄は退職を余儀なくさせられてしまったのである。
 そんな龍雄に対する道代の悲憤慷慨振りは凄まじいものであった。何しろ、道代にとってみれば、龍雄と結婚したというよりも、公務員と結婚したみたいなものだったからだ。それ故、公務員でなくなった龍雄はもはや道代の夫でないに同然であったのだ。
 それ故、龍雄に罵詈雑言を浴びせまくるようになったのは無論、食器や本を龍雄に投げつけたりして、龍雄を激しく非難するのが日課となった。
 そんな道代に龍雄はどうすることもなかった。というのは、龍雄は根っからの温厚な男だったからだ。そんな龍雄は学生時代から人と争ったことはなかったのである。それ故、いくら道代から罵詈雑言を浴びせられようが、物を投げつけられようが、道代に何もしようとはしなかったのだ。正に、怒りを外に出すというよりも、我慢する。それが、龍雄であったのだ。
 そんな龍雄と道代であったから、龍雄の退職を受けて離婚すればよいと思うのだが、実際には離婚とはならなかった。
 それは、道代が離婚に強く反対したからだ。
 前述したように道代にはこれといった資格なんかがなかった為に一人で自活して行くことは困難と思われた。また、実家の両親は既に他界し、また、実家には姉夫婦が住んでいた。即ち、龍雄と離婚しても、道代は実家には戻れないのだ。
 そういった事情により、道代は龍雄と離婚しようと思っても離婚出来ないのだ。離婚しない方が、まだましなのだ。
 それ故、龍雄には早く再就職することを促した。その再就職先がまずまずの会社なら道代のプライドも満足出来るので、その要望も無論龍雄に話した。もっとも、龍雄としては道代にそう言われなくても、自らでそう思っていた。
 だが、現実はそう甘いものではなかった。龍雄と道代が満足出来そうな再就職先は見付からなかったのだ。そこそこの会社に役員面接まで行ったこともあったのだが、結局不採用となったのが二社あった。龍雄はその理由に関して、龍雄の前職場に龍雄が退職した経緯を問い合わせたからだと思った。何しろ、龍雄は贈収賄事件に関与した疑いで警察から事情聴取された。その事実を知り、そのような人物は採用出来ないと看做したのだ。龍雄はそのように解したのだ。
 そして、龍雄が得られた職は結局、タクシーの運転手だった。
 給料は役所勤め時代と比べて、無論下がった。しかし、贅沢は言ってられない。職につけただけまだましだと思わなければならないのだ。
 そう自らに言い聞かせ、龍雄は日々の業務に励んだのだが、道代はそんな龍雄に不満だった。だが、離婚も出来ない。
 それ故、道代は一気に老けてしまった。実際の年齢より十歳も老けて見られる位であった。
 そんな龍雄と道代との間で交わされる会話は一層少なくなっていた。正に龍雄と道代は形だけの夫婦となってしまったのだ。
 そして、七年が過ぎた。
 そして、その時龍雄は遂に切れた。
 龍雄は「じゃ、行って来るよ」と道代に言っては、いつも通り家を後にしたのだが、もう二度とこの家に戻る気はなかったのである。

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