第十一章 惨劇発生
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ここは日下部宅から数キロ離れた所にあるM川の河川敷。そして、その河川敷のとある場所では以前日下部三兄弟が三兄弟の窮地から脱する為の謀議が行なわれた。そして、その三兄弟が謀議を行なった場所の近くで今朝、若い男の惨殺体が近くに住んでいる大友俊行という六十五歳の男性によって発見されたのだ。俊行は毎朝、その河川敷に設けられた堤防でジョッギングをしてるのだが、その最中、その若い男の死体を発見したのだ。それで、直ちに持参していた携帯電話で110番通報したのだ。
その若い男の身元はすぐに判明した。何故なら、その男の上着のポケットに免許証が入っていたからだ。
その男の姓名は日下部国男(30)で、近くに住んでいることが分かった。
それを受けて、警視庁捜査一課の秋川警部(47)は早速、部下の刑事たちと日下部宅に急行した。何故なら、国男の死は心臓を鋭利な刃物によって刺されたことによるものであり、また、死体が見付かった時の状況などから明らかに他殺であったからだ。それ故、その死を家族に告げる為に、また、事件を捜査する為に、日下部宅に向かったのだ。
だが、何度インターホンを鳴らしても、日下部宅からは応答はなかった。また、日下部宅の電話に電話をしても、電話は繋がらなかったのである。
一方、熊男がいる伊豆高原の別荘では、今、ちょっとした異変が発生していた。というのは、国男がまだ別荘に戻って来ないからだ。昨日の午後八時頃この廃屋を後にし、今日の昼までには戻って来ることになっていたのに、依然として国男は姿を見せないのだ。また、午前十時頃、熊男は国男の携帯電話に電話してみたのだが、呼出音が鳴るばかりで、電話は繋がらないのだ。熊男たちから連絡が入る可能性があるので、国男は携帯電話を手放す筈はないのだ。それ故、熊男と虎吉の表情は自ずから陰りが見られるようになったのである。
もっとも、虎之助の見張りの方は、順調であった。虎之助は相変わらず手足をロープで括られぐったりと横たわっていた。そして、今は田中がリビングで見張っているのだ。
それ故、虎之助の見張りは今のところ順調といえるだろうが、国男が戻って来ないことには、この計画に支障が生じることは当然だといえよう。また、先程も田中という労働者風の男に金はまだかと催促されてしまった。そして、その催促をかわすのに熊男は苦労したのだ。それ故、金を手にした国男に早く戻って来てもらいたいのだが、国男はまだ姿を見せず、また、国男の携帯電話に繋がらないし、また、熊男の携帯電話に何ら連絡が入らないのだ。この事の成り行きは、熊男と虎吉を戸惑わせるのに十分であったのだ。
そして、午後零時となった。だが、状況に変化は見られなかった。
それで、熊男と虎吉の表情は一層戸惑いの色が見られるようになった。やはり、今の時間になっても国男と連絡が取れないのは、何か異常事態が発生した可能性があると言わざるを得ないのだ。
それで、虎吉は、
「交通事故にでも遭ったのではないのかな」
と、いかにも心配したように言った。
そう虎吉に言われると、熊男は持参して来たポータブルラジオのスィッチを入れた。昼のニュースを聞こうとしたのだ。
ニュースは最初は政治絡みのことが多かったが、やがて熊男と虎吉の耳を疑うようなニュースが飛び込んで来た。何とそのアナウンサーはこう言ったのだ。「今朝、東京都世田谷区内のM川の河川敷で若い男性の刺殺体が発見され、その男性は所持していた免許証から近くに住んでいる日下部国男さん(30)と判明しました」と!
そのポータブルラジオから流れ出て来た言葉を耳にし、熊男と虎吉は正に呆気に取られたような表情を浮かべた。しかし、それは、当然であろう。今のラジオのニュースは正に熊男と虎吉の兄である国男の死を報道したわけだから。しかし、こんな馬鹿なことがあるだろうか? 国男は昨日までこの別荘で熊男たちと共にいたわけだから。それ故、この信じられない事の成り行きを目の当たりにして、熊男と虎吉は呆気に取られたような表情を浮かべては言葉を失ってしまったのだ。
だが、やがて虎吉は、
「何かの間違いじゃないのか」
と、国男が死んだという報道に異議を述べた。すると、熊男は何も言おうとはしなかった。何故なら、熊男ははっきりと国男が死んだというアナウンサーの言葉を耳にしたからだ。絶対に聞き違いではないのだ。また、国男が死んだのなら、国男と連絡が取れないのは当然なのだ。
それ故、国男が死んだというのは事実なのかもしれないと熊男は思った。しかし、虎吉が言ったように何かの間違いということもある。それ故、
「警察に確認してみる必要があるよ」
と、眉を顰めては言った。
「じゃ、兄さん。兄さんの携帯電話で警察に電話してみてよ」
虎吉は殺気立った表情を浮かべては言った。
すると、熊男は、
「俺の携帯から掛けるのはまずいよ」
と、眉を顰めては言った。
「何故?」
「俺から掛けたということが分かれば、すぐに兄さんの遺体が置かれてる病院に来てくれと言われるよ。だったら、親父や田中たちのことをどうするんだ?」
そう熊男に言われ、虎吉の表情は歪んだ。確かにその通りだからだ。国男が死んだからといって、この場を放棄して熊男か虎吉が東京に戻るわけにはいかないのだ。
それで、二人の間にしばらく重苦しい沈黙の時間が流れた。二人はこれからどうすればよいのか分からなかったからだ。
そして、その重苦しい沈黙の時間はまだしばらく続いたが、やがて熊男は、
「とにかく、俺たち二人だけでも、この計画を成し遂げるんだよ」
と、いかにも険しい表情を浮かべては言った。
「つまり、予定通り、親父を始末するのかい?」
「ああ。そうだ。この計画は何度も兄さんから説明を受けてるから、俺たちは十分にこの計画のことを理解してるよ。兄さんがいなくても二人で成し遂げられるさ」
熊男はいかにも険しい表情を浮かべては小さく肯いた。その熊男の表情からは、熊男の只ならぬ決意が露骨に現われていた。
その熊男の言葉に虎吉は何も言おうとはしなかった。
それで、そんな虎吉に熊男は、
「いいか。この計画を途中で放り出すことは出来ないんだ。何故なら、一体親父をこのような目に誰が遭わせたかとなると、それは俺たちだったということは自ずから明らかになるよ。親父だって、もうそれに気付いてるよ。そんな親父をこのまま生かして返すことは俺たちの身の破滅となるんだぜ」
「……」
「被相続人を故意に殺そうとした者は、相続人の権利を剝奪されるんだ。つまり、俺と虎吉は一円も親父の遺産を相続出来なくなるんだ! そうなれば、正に俺たちは破滅だ!」
「そんなの嫌だよ!」
虎吉は正に悲愴な表情を浮かべては言った。
「そうだろ。だったら、この計画を俺たち二人で最後まで遣り遂げるんだよ。後は俺が大河内に親父をRVボックスに入れさせ、それを森内に裏山の穴にまで運ばさせ、虎吉と田中が穴に土を被せればいいだけさ。それだけのことをやれば、俺たちは一生安泰というわけさ」
と、熊男は些か安堵したような表情を浮かべては言った。
すると、虎吉は小さく肯いた。そんな虎吉は正にその熊男の考えに全面的に同調したかのようであった。
だが、虎吉は、
「でも、金はどうするんだい? つまり田中たちに払う金だよ」
と、いかにも渋面顔を浮かべては言った。何しろ、田中たちに払う金は日払いとなっていたからだ。
そう虎吉に言われ、熊男も渋面顔を浮かべ言葉を詰まらせたが、やがて、
「俺は今、七万持ってるから、そこから払うことにするよ。この金は非常用に持っていたんだがやむを得ない」
これによって当面の危機は脱せられたようであった。
そして、やがて午後三時となった。午後三時からは、大河内の見張りの番である。
龍雄は思い足取りで、昨日惚け親父を見張ったリビングへとやって来た。そんな龍雄の表情はかなり芳しいものではなかった。というのは、昨日から今日にかけてこの廃屋のような別荘とやらで過ごした印象としては、龍雄はどうやらとんでもない事件の渦中に置かれてしまったのではないかという思いを強くしたからだ。というのは、この別荘はどう見ても、別荘というより、廃屋だ。即ち、相当の期間人が住んでなかったことは歴然としているのだ。それは、昨夜龍雄が眠った部屋からしても自ずから証明出来るのだ。何しろ、昨夜龍雄が眠った部屋は蜘蛛の巣が至る所にあり、また、このリビング以上に埃塗れで、また、黴臭かった。正に長期間人が入ったことのない部屋であったことは歴然としているのだ。それらのことから導き出される結論は、この廃屋は高橋という男のものではないということだ。龍雄は、そのように看做したのだ。
では、そうだとすると、どうなるのだろうか? 龍雄はその点に関して頭を働かせてみた結果、龍雄は正にとんでもない事件の片棒を担がされてしまったのではないかということであった。
即ち、これは誘拐事件なのだ! 高橋は惚け親父を伊豆の別荘で見張る為に龍雄たちを雇ったと説明したが、それは嘘でこの親父は惚け親父ではなく何処かの資産家で、この廃屋に監禁しては身代金誘拐を行なってるのではないのか? そして、この廃屋は無論高橋のものではなく、高橋によって資産家老人を監禁する為に勝手に選ばれた廃屋であったのではないのか? これが事の真相なのだ!
そう察知すると、龍雄の表情は自ずから険しいものへと変貌した! 即ち、龍雄が恐れていた事態にやはり龍雄は巻き込まれてしまっていたのだ! 龍雄はやはり刑事事件に巻き込まれてしまったのだ! やはり、あの求人案内はとんでもないものであったのだ!
そう察知すると、龍雄の表情は自ずから一層険しいものへと変貌した。そして、しばらくの間、頭に血が上り、頭を働かすことが出来なかったが、やがて冷静になって来ると、龍雄は今後どうするべきかと思いを巡らせ始めた。即ち、この仕事を放棄して、この場から逃げ出すか、あるいは、最後までこの廃屋に留まるかだ。そして、それに対する結論はなかなか出せそうにもなかった。というのは身代金誘拐を行なう輩はとてもまともではないと思われたからだ。高橋という男は優男に見えたが、内面はその面立ちとは対照的に凶暴さを持ち合わせているかもしれないのだ。そんな輩は何をするか分からない。それに高橋たちは三人だ。それ故、この廃屋から龍雄たちが逃げ出さないように見張っているかもしれないし、また、凶器も持ってるかもしれない。そう思うと、安易にこの廃屋から逃げ出すのは危険だという結論を見出さざるを得なかったのである。