2
その情報を蛭田にもたらしたのは、近くの別荘で暮らしてる瀬戸明男という六十五歳の男であった。明男は通信機器会社でエンジニアをしていたのだが、定年退職後、伊豆高原に住み始めた。そして、一年中、この伊豆高原で住んでいるので、明男の住まいは別荘とはいえないかもしれない。
それはともかく、明男宅に聞き込みに訪れた蛭田に対して、明男は、
「この近くにある別荘で少し妙な光景を眼にしましてね」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「それ、どんな光景ですかね?」
蛭田はいかにも興味有り気な表情を浮かべては言った。
「この近くに誰も住んでない別荘があるんですよ。もう十年以上誰も住んでないみたいですね。それ故、別荘というより廃屋みたいなものなんですがね。で、二、三日前からその廃屋に人がちょくちょく出入りしてるのを僕は眼にしたんですよ」
そう明男に言われ、蛭田は「ふむ」と、呟くように言っては眉を顰めた。確かにその話は妙であった。とはいうものの、その件が蛭田が捜査してる事件とは関係してるとは思えなかった。
そんな蛭田に明男は、
「僕は新興宗教の信者たちの住み家になったりするんじゃないかという気がしましてね。それで、気にはしてたのですが、今日はまだ人は見られてないみたいなのですよ」
と、今度は幾分か安堵したような表情を浮かべては言った。
その明男の話を聞いて、蛭田はとにかくその別荘とやらに案内してもらうことにした。何しろ、今はどんな些細な情報でも入手したいと思っていたからだ。
明男に案内してもらったその別荘は、正に別荘というより廃屋で、嘗ては綺麗であったと思われる白壁は茶色っぽく色褪せ、また、苔むしたりしていた。また、窓ガラスには蜘蛛の巣がこびり付いたりして、もはやこの別荘は別荘として機能することは不可能であろう。だが、別荘前の地面には車の痕が見られたことから、明男が言ったように、ここ数日の間に何者かがやって来たのは事実と思われた。
蛭田は、この二階建ての別荘を眼にしながら、
「所有者は分かっているのですかね?」
「噂では、下田の方に住んでる人みたいですがね。でも、僕はそれ以上のことは知らないですね」
そう明男に言われ、蛭田は眉を顰めた。所有者がいれば、無断で入るわけにはいかなかったからだ。それで、とにかく別荘の周辺を調べてみた。すると、勝手口の窓ガラスが壊れていたので、そこから中を覗いてみた。すると、早々と足跡を眼に留めた。部屋の中は埃塗れとなっていたのだが、その上に正に足跡がくっきりと遺されていたのだ。それ故、この別荘の中に最近になって何者かが侵入したのは明らかであった。
それで、蛭田はとにかく明男と共に中に入ってみることにした。この別荘は建坪は五十坪程と思われ、どの部屋も埃塗れとはなっていたが、また、どの部屋にも最近人が入った痕跡が見られた。床に溜まった埃に足痕がくっきりと刻まれていたからだ。また、その様からして、その人数は二、三人とは思われなかった。
そのように蛭田が思っていたその時である。
「ギャ!」
というけたたましい悲鳴が発せられた。その悲鳴は正に明男の悲鳴であった。
それで、蛭田はその悲鳴が発せられた部屋に急行した。明男は今、別の部屋にいたのだ。そして、蛭田も程無くそれを眼に留めた。
それは、正に若い男の惨殺死体だった。蛭田はその様を見て、すぐに魂切れていることを理解した。何故なら、その大の字になってうつ伏せに倒れている男の胸元にはどす黒い血の染みが拡がっていたからだ。今はその床には血溜まりは見られなかったが、嘗てはまるで池のような血溜まりが見られたのではないのか。
それはともかく、程無く男は救急車で伊東市内のS病院に運ばれ、司法解剖が行なわれることになった。
すると、死因と死亡推定時間が明らかとなった。死因は鋭利な刃物で心臓を刺されたことによるショック死であり、また、死亡推定時刻は今日の午前十時から十二時頃であった。
男に死をもたらした手口と、男の年齢からして、朽ちた伊豆高原の別荘で刺殺体で発見された男は、蛭田たちが捜していた日下部熊男である可能性が高まった。
それで、直ちにその確認が行なわれた。そして、その結果はやはり蛭田たちの推測通りであった。やはり、朽ちた伊豆高原の別荘で発見された男は、日下部熊男であったのだ!
この事実を受けて、蛭田たちの間に戸惑いの色が浮かんだ。何故なら、誰が日下部三兄弟を殺したのか、一層分からなくなってきたからだ。西口刑事が推理したように、熊男だけが生き残っていてくれれば、熊男の仕組んだ事件として捜査を進めることも可能であったろうが、その捜査はもはや出来なくなってしまったからだ。
そこで、伊豆高原で起こった事件の捜査本部が置かれている伊東署内で、捜査会議が開かれることになった。その席で、西口刑事が、
「大林安子さんの関係者が犯人ではないですかね。大林さんの身内が日下部三兄弟が大林さんを殺したという事実を突き止めたりして、その復讐を行なったというわけですよ」
と、些か自信有り気な表情と口調で言った。すると、西口刑事と同じく若手の森刑事(29)が、
「その可能性がないとは思えないが、日下部家にはまだ兄弟がいるんじゃないかな」
と言っては眼をキラリと光らせた。
「それはないよ。日下部家の兄弟は三人だというのは、確認済みなのだから」
と、西口刑事。
「だから、腹違いの兄弟がいるかもしれないというわけさ。つまり、日下部さんは妾がいて、その妾には日下部さんの子供がいたというわけさ。そして、その妾の子供が日下部さんの遺産を独り占めにしようとして、三兄弟を殺したというわけだよ」
と、森刑事は些か自信有り気に言った。すると、蛭田が、
「まだ、そのような事実は浮かんでないから、その推理はまずいな」
と、眉を顰めて言った。そして、
「日下部家の主の虎之助さんのことを注目しなければならないよ」
「それ、どういうことですかね?」
森刑事も眉を顰めて言った。
「だから、虎之助さんはとても誠実な方で、三人の息子が出来が悪く、また、ぐうたら息子であることをとても嘆いていたらしいんだ」
蛭田はそう言っては些か険しい表情を浮かべては言った。
すると、森刑事は、
「そうだからといって、どうなるんですかね?」
「だから、ひょっとして、虎之助さんが国男さんたちの死に関係してるかもしれないということだよ」
と、蛭田は再び険しい表情を浮かべて言った。そして、
「つまり、国男さんたちは虎之助さんの金をとても当てにしてたそうなんだ。更に、国男さんたちはかなりの借金を抱え、その返済に苦しんでいたそうなんだ。そして、当てに出来るのは虎之助さんの金だけであったそうなんだよ。虎之助さんはそんな国男さんたちに愛想を尽かせ、国男さんたちを殺したという可能性は十分に有り得るというわけさ」
蛭田はそう言っては眼をキラリと光らせた。そんな蛭田はその可能性は十分にあると言わんばかりであった。
すると、森刑事は、
「確かに警部の言われる通りです」
と、いかにも感心したように言った。
すると、西口刑事が、
「でも、赤嶺さんの死はどう説明するのですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
そう西口刑事に指摘されると、蛭田は少しの間言葉を詰まらせたが、やがて、
「だから、赤嶺さんは虎之助さんの手先となっていたのかもしれない……」
蛭田はそう言ったものの、その表情と口調は自信無げであった。
そういう風にして、様々な意見が述べられたのだが、結局、これといった捜査方針は決まらなかった。引き続き、虎之助の行方を摑むという位しか、捜査方針は決まらなかったのだ。