第二章 東京


 
 龍雄の眼下には今、とてつもない大都会の光景が拡がっていた。その果てしなく続くかのような街並みは正に龍雄が今まで眼にしたことのないものであった。
 即ち、龍雄を乗せた飛行機は後少しで羽田空港に到着しようとしていたのだ。
 実のところ、龍雄はこの歳になるまで、一度も東京を訪れたことがなかった。何しろ、仕事で行く機会もなかったし、また、行きたいと思ったこともなかったからだ。大阪とか、中国には行ったことはあったのだが、龍雄は東京には特に関心はなかったのだ。
 それ故、この歳になって初めて東京という都市を空から眼にしたのだが、そのあまりにもの巨大都市振りに大層驚いてしまったのである。
 それはともかく、何故、今、龍雄は羽田空港に着く飛行機に乗ってるのだろうか? 本来なら、今、龍雄は熊本市内でタクシーに乗ってお客を待ってるのではないだろうか?
 確かにその通りなのだが、つまり、その任務を龍雄は放棄したのだ! つまり、龍雄はもう何もかもが嫌になったのだ! そんな龍雄は仕事、そして、妻を捨て、新たな旅に出たのだ! 新たな自分を見付けるという旅に出たのだ! その場所として、東京が選ばれたのだ!
 龍雄はこの歳になるまで、まるで達磨大師のように我慢することだけの人生であった。龍雄は元々、温厚で控えめな性格であった。だから、そんな人生でも我慢が出来ていたのだ。
 しかし、正に妻とは形だけの夫婦となり、職場でも愉しいことは何もなかった。そんな龍雄は俺は一体何の為に生きているのかと自問自答した。
 その結果、龍雄は新たな人生に乗り出すことを決めたのだ! 龍雄はこの歳になって今まで経験したことのないような冒険に乗り出そうとしたのである! 
 そんな龍雄を乗せた飛行機はやがて羽田空港の滑走路に着陸した。
 そして、しばらくその広大な羽田空港を飛行機はまるで自動車のように走り続け、やがてボーディングブリッジに横付けとなった。
 これによって、龍雄は初めて東京に足を踏み出すことになったのだが、実のところ、龍雄はこの先、何をするかまるで決めてなかったのである。新たな冒険をする為に東京にやって来たものの、それからの先がまるで決まってなかったのだ。また、今夜何処で寝るか、それもまだ決まってなかったのだ。
 そんな龍雄ではあったが、龍雄の表情には悲愴感はまるで漂ってはいなかった。
 龍雄は人の流れに身を任せるかのようにしながら、到着口を通過し、羽田空港のターミナルビルを少しの間ぶらぶらした。というのは、龍雄は腹が減っていたので、手頃な飲食店を探そうとしたのだ。
 そして、手頃な飲食店が見付かったので、その飲食店で中華ランチを食べた。そして、少しの間寛ぎ、やがてモノレール乗り場に向かった。羽田空港に長くいても仕方ないと龍雄は思ったからだ。
 モノレールからの光景にぼんやりとした表情を浮かべながら見入っていた龍雄を乗せたモノレールは、やがて終点の浜松町に着いた。
 モノレールから降りた人々は正に行く先は決まってる人ばかりのようで、速やかにその目的にそって足を動かしてるようであったが、龍雄はそうではなかった。何故なら龍雄の行く先はまだ決まってなかったからだ。
 とはいうものの、この忙しくその目的に向かって歩みを進めている人たちの間で立ち止まるわけにもいかなかった。それで、とにかく一旦、浜松町駅の外に出ることにした。
 もし、この辺りにベンチがあればベンチに座ってこれからのことをじっくりと考えるところなのだが、そのようなものは辺りには見られなかった。
 とはいうものの、この近くに東京タワーがあることが分かった。 
 それで、東京タワーにでも行ってみることにした。東京に来たからには、一度は東京タワーに行ってみるべきであろう。
 そう思った龍雄は東京タワーに向かって歩き始めた。そして、三十分程で東京タワーに着くことが出来た。
 それで、早速入場券を買い、展望台に上り、東京の光景に眼をやり、その光景を愉しんだものの、徐々に龍雄の表情には曇りが見られるようになって来た。何しろ、仕事と妻を捨て東京に出て来たものの、この東京で何をするのか、まだ決めてなかったからだ。そのあまりにもの無頓着振りを目の当たりにし、改めて龍雄の脳裏に不安が押し寄せて来たのだ。元々、龍雄は小心な男である為に、この先が一層不安となったのだ。
 そんな龍雄であったが、道代の許に戻ろうなんてことはまるで思わなかった。道代の許に戻る位なら、今の方がどれだけましかもしれないと、龍雄は改めて思ったのである。
 それ故、この東京タワーからの光景を眼にしながら、龍雄は今後どうすればよいか、思考を巡らせ始めた。
 そして、そんな龍雄はいずれ働き口を見付けなければならないという結論に達した。
今、龍雄は百万程の金を持ってることには持っていた。しかし、いずれその金は尽きることは請け合いだ。それ故、金が尽きるまでに働き口を見付けなければならないというわけだ。
 幸いにも、龍雄の知り合いで東京に出ている者を龍雄は知らなかった。それ故、体裁を気にせずに、どんな仕事でもやってやろうと龍雄は思った。幸いにも身体は何処の具合も悪くなかった。そんな龍雄であったから、手頃な仕事がなければ、道路工夫でもやってやろうと思ったのであった。
 そう決心がつくと、その時点で東京タワーの展望台から降りることにした。
 東京タワーを後にすると、近くに公園があり、また、その公園にはベンチがあったので、ベンチに座っては少し休憩した。
 だが、疲れていた為かつい転寝してしまい、眼が覚めた時は午後五時となっていた。一時間程転寝してしまったのだ。
 そんな龍雄は、ベンチから立ち上がると、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。
 そんな龍雄は、今からの行く先を実は心の中で決めていた。というのは、浜松町駅から東京タワーに向かってる時にカプセルホテルがあったことを眼にしたからだ。それ故、今夜はそのカプセルホテルに泊まろうと思ったのだ。何しろ、カプセルホテルなら宿泊料金は高くないであろう。出費を抑えたい龍雄にとって、その料金は納得出来るものに違いない。
 そう思った龍雄の足は、自ずからそのカプセルホテルへと向かったのである。
 そして、龍雄の思い通り、そのカプセルホテルに泊まることは出来た。
 だが、今までカプセルホテルに泊まったことのない龍雄はその割り当てられた空間の狭さに愕然とした。それは部屋というより二段ベットであった。二段ベッドの一階、あるいは二階が割り当てられる。それが、カプセルホテルであったのだ。これでは、寛ぐことはとても出来そうにはなかった。正に寝る為だけのスペースが確保されている。それが、カプセルホテルであったのだ。
 とはいうものの、龍雄は今日は疲れていたということもあってか、その狭いスペースでたっぷりと休むことが出来た。それは、今夜のカプセルホテルの利用者が少なかったことも影響してるだろう。何しろ、辺りがとても静かであったのだ。
 それ故、龍雄は翌朝の七時までたっぷりと熟睡出来たのである。
 そんな龍雄は午前九時になると、カプセルホテルを後にした。そして、近くにあったコンビニで求人誌を買った。
 そして、近くのビル内にあった休憩所のような所にあった椅子に座り、早速その求人誌に眼を通してみた。
 しかし、龍雄が働けそうな所は見付かりそうもなかった。というのは、どこも履歴書が必要であったからだ。そのような所は受けることは出来なかったのだ。何しろ、龍雄は仕事も妻も捨て、何をするかという目的もなく勝手に東京に出て来た男だ。そんな男を履歴書を要求する所が採用する筈がないからだ。
 それで、龍雄は履歴書が不要な所を探さなければならないと思った。だが、そのような所があるだろうか?
 龍雄はそれに関して頭を働かせた。
 すると、さ程考えることもなく、そのような求人が行なわれていることを思い出した。
 それは、新聞だ。新聞、しかも、スポーツ紙なんかには履歴書が不要の求人案内が載っていることを龍雄は思い出したのだ。
 もっとも、その求人内容は新聞の拡張員とか、人がやりたくないようなセールスといったものが多いかもしれない。そして、それは龍雄に向いてない職種ばかりかもしれない。
 しかし、今はそのようなことは言ってられないのだ。
 それ故、龍雄は決意を新たにしたような表情を浮かべては、スポーツ紙を買う為に椅子から立ち上がったのであった。

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