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 今、八木守男は羽田空港に向かう飛行機の中にいた。そんな守男の表情は正に悲痛なものであった。何しろ、守男は今、一億の借金を抱えているのだから。ホストしか能がないと自負してる守男がホスト稼業で失敗してしまったからには、もう再起の途はないと言わざるを得ないであろう。
 もっとも、守男はホスト稼業で失敗したというよりも、ホストクラブの経営に失敗したわけだが、そうかといって、もはや新たなホストクラブを興すなんてことは不可能であった。況してや、ホストとして働くことも今や不可能というものだ。年齢的に今や土台無理だし、また、いくらホストとして頑張っても一億という負債を守男が返済することは不可能というものだ。即ち、今や守男の人生は終わったのである!
 そう思うと、守男の表情が悲痛なものだというのは十分に理解出来るというものであろう。
 思えば、十二年前の十月にも守男は今のように悲痛な表情を浮かべては、今のように飛行機の窓から東京の光景を眺めていたものであった。
 確かに、その時も正に守男は悲痛な表情を浮かべるのに十分な状況に置かれていた。何しろ、父親である誠一が商品先物取引で多額の負債を抱えてしまい、一家は離散し、誠一は職を失ってしまい、病身の身となってしまった。長崎の家を売り払っても、尚三千万の負債が残った。誠一がその三千万を返せないとなると、守男が返すしかない。
 それ故、守男は東京でホストをする為に高校を中退し、そして、東京に向かったのだ。そして、その時も今のように、悲痛な表情を浮かべながら、飛行機の窓から眼下に映る東京の光景を眼にしていたのだ。
 だが、今はその時以上に守男が置かれた状況は厳しいと言わざるを得ないであろう。何しろ、十二年前の負債は三千万であり、また、守男には若さ、無鉄砲さというものがあった。そんな守男の若さと無鉄砲さが守男がホストとして成功出来た原動力となったのは間違いないであろう。
 それに対して、今の守男には十二年前の若さ、無鉄砲さは消え失せていた。歳の割には人生の裏を知り尽くした疲れた中年の男性という表現が相応しい守男と成り下がってしまったのである。
 そんな守男は眼下に映る東京の光景を眼にしながら、この先どうすればよいのかと、ぼんやりとした意識の中で考えていた。何しろ、正に今の守男の状況はまともではないのだから。何しろ、守男は今、一億という借金を踏み倒し、東京に逃げようとしてるのだから。
 そんな守男がまともな職に就けるわけはなかった。しかし、働かないわけにはいかない。何しろ、今の守男の所持金は十万だったのだから。これが、今の守男の全財産なのだから。
 誠一は守男の事業が破産になる寸前に心臓発作により死んでしまった。そんな誠一が守男に遺してくれた金がその十万だったのだ。
 そして、その十万が尽きれば、守男も誠一のように死んでしまうのではないのか? そう思ってしまう程、今の守男は切羽詰まった状況に陥ってしまってたのだ。
 守男を乗せた飛行機はやがて羽田空港に着陸した。
 それを受けて守男は重い腰を上げた。
 人の流れに合わせて、守男は到着口を出たものの、これから先、守男は何処に行くか、全く目処が立ってない状況であった。何しろ着の身着のまま、夜逃げするかのように、福岡から逃げて来たのだ。東京に来てから東京の何処で何をするかなんてことは、考える余裕がなかったのだ。ただ、東京は人口が多い為に身を隠し易いという理由と、以前東京に住んでたことがある為に土地勘があるという理由で、逃亡先に東京を選んだに過ぎなかったのだ。
 そんな守男は羽田空港ターミナルビル内にあった椅子に腰を降ろし、改めてこれからのことを考えた。
 しかし、いくら考えても、いい知恵は浮かばなかった。
 それで、守男の表情は一層悲痛なものへと変貌した。しかし、守男は努めて平静を装おうとした。というのは、あまりにも悲痛な表情を浮かべていると、周りの者が守男のことを不審に思うかもしれないからだ。何しろ、守男は目立ちたくなかった。目立てば、何処で足がつくかもしれない。守男はそれを恐れたのである。
 それはともかく、守男が出来ることといえば、水商売の仕事位なものであった。
 しかし、安易に水商売の仕事というのは危険があると守男は思った。
 というのは、守男の債権者は守男が水商売の仕事しか出来ないということを知っている為に守男がそのような仕事に従事すれば、そのことをまるでハイエナのように嗅ぎ付けては、守男の前に姿を現わすかもしれなかったからだ。
 もっとも、福岡の債権者が東京にまでその情報網を巡らせてるかどうかは分からない。
 しかし、念には念を入れるべきだと守男は思ったのだ。何しろ、借金を踏み倒し逃げたともなれば、見付かれば殺される危険もあるのだ。
 それ故、いっそのこと福岡に戻り、自己破産しようかとも守男は思った。だが、自己破産しても、債権者が安易に守男を見逃がしてくれるとは思えなかったのだ。何しろ、守男の債権者の中には随分性質の悪いのもいた。そんな奴等は守男の内臓を売ってでも金を作れと迫って来るかもしれない。守男は正にそれが恐かったのである。だから、逃げようと思ったのである。
 つまり、今まで考えてみた結果、守男がこの東京で水商売の仕事につくのは止めた方が無難だという結論に達した。
 となると、守男はいかなる手段で金を稼げばよいのか? その点に関して守男は頭を働かせた。
 だが、すぐにはそれに対する答えを見出すことは出来なかった。
 それで、更に懸命に頭を働かせた。
 すると、自らの身分を明かさずに出来る仕事というものがないことはないと思うに至った。
 それは、スポーツ紙なんかに載っている求人だ。それらは、確か履歴書なんかは不要のものもあった筈だ。
 そう思うと、守男は些か納得したように肯いた。即ち、当面のところ、そういった求人を頼るしかないと、守男は思ったのである。
 この時点で守男は椅子から立ち上がった。守男の考えがまとまったからだ。
 そんな守男はモノレールの切符売り場に行っては浜松町までの切符を買った。
 守男を乗せたモノレールはやがて出発した。
 モノレールから流れ行く光景に眼をやりながら、守男は今日何処で夜を過ごすか考えていた。
 だが、宿に泊まろうとは思ってなかった。何故なら、今の守男の有り金は前述したように十万しかなかったからだ。宿に泊まったりすれば、十万などあっという間に無くなってしまうことであろう。それに、その十万は食費に使わなければならないからだ。寝る所には金を使わずに済まそうと思えば、済ませるであろう。しかし、食事はそうはいかないのだ。それ故、十万は食費に使うことが最優先というわけだ。
 それ故、守男はモノレールから流れ行く東京の光景に眼をやりながら、今夜、何処で野宿するか思いを巡らせていたのだ。
 そして、それはやがて決まった。
 それは、上野公園だ。上野公園なら野宿する場所位いくらでもあるだろう。それに五月という季節柄、野宿するには何ら問題はない。しかも、今日は晴天だ。
 そう思うと、守男は些か安堵したような笑みを浮べたのであった。
 守男は浜松町でモノレールから降りると、山の手線に乗り換え、上野に向かった。
 そして、東京駅に着いた時、守男は一旦列車から降りた。というのはまだ午後四時であり、寝るにはあまりにも時間が早過ぎたからだ。
 とはいうものの、金がないから、金がかかる時間潰しは出来ない。
 それで、守男は金のかからない時間潰しは出来ないものかと、思いを巡らせた。
 すると、金の掛からない時間潰しがあることが分かった。
 それは、山手線だ。山手線に乗り続ければよいのだ。山手線には終点はない。しかも、乗客は頻繁に乗り降りするから、周りに気兼ねすることなく、乗り続けることが出来るというものだ。
 そう理解すると、守男は早速、次の外回りの山手線に乗った。
 そして、三周回った時点で降りることにした。そろそろ仕事を終えたサラリーマンの姿も見られるようになって来て、守男はこの辺が潮時だと思ったのだ。
 そんな守男は上野駅のキオスクでスポーツ紙を買い、そして、駅構内の食堂で中華定食を注文した。そして、先程買った新聞を見てみたのだが、守男はその全てに眼を通すことは出来なかった。食堂内の客の出入が激しく、じっくりと新聞に眼を通せるような状況ではなかったのだ。
 守男は食堂を出ると、程無く上野駅を後にし、上野公園に向かおうとしたのだが、そんな守男は上野公園ではなく、アメ横の方に足を向けた。ホストをしていた東京での五年間に守男は三、四回程アメ横に行った記憶があった。そして、その時のことが何となく懐かしく思い、守男は久し振りにアメ横を歩いてみようと思ったのだ。
 アメ横を歩き始めると、今日も人でごった返していた。正に雑踏であった。そんな中を歩くのは面白かったのだが、美味しそうな魚介類を売った店が並んでいるのを見るのは辛かった。何しろ、金の無い守男はその美味しそうな魚介類を買うことは出来ないのだ。また、それらを食べる家もないのである。
 そう思うと、守男は何だか気分が滅入ってしまい、程なくアメ横を後にした。そして、今度こそ、上野公園に向かった。
 そして、上野公園正面入り口の階段を上り、まず西郷隆盛の銅像がある広場に行った。すると、そこには都合よく、ベンチがあった。
 それで、守男はそのベンチに座り、一息入れた。
 時刻は既に午後九時を過ぎていたということもあり、辺りは閑散としていた。花見の季節も既に過ぎてる為に夜遅く上野公園にやって来るのは、アベックか浮浪者位なものなのかもしれない。そして、守男は正にその浮浪者なのだ。
 東京に来て守男が真っ先に思ったことは、ホスト時代の知人と顔を合わせないかということだ。何しろ、その頃は正に守男の人生の絶頂期であった。それ故、自信に溢れ、また、生気が漲っていた。
 それが、今はその時の守男とは別人のように生気のない中年男のような様相を帯びてしまってるのだ。無論、守男はまだ中年という年齢には達してないのだが、その心労が重なってか、実年齢よりは遥かに老けてしまったのである。
 そんな守男をホスト時代の知人が見れば、果たして守男だと気付くだろうか?
 その辺は何とも言えなかった。気付く者もいるかもしれないし、気付かない者もいるかもしれない。
 守男としては、気付かれたくはなかった。やはり、今の自分を見られるのが、恥ずかしかったのだ。何しろ、今の守男はその生活に疲れた面立ちで、また、使い古した安物の衣服を身に付けていた。そんな守男を眼にすれば、今の守男がうまくいってないことは自ずから察せられるであろう。ホスト時代の守男のことを好ましく思ってなかった連中なら、そんな守男を見て、喝采を叫ぶかもしれない。また、守男にあっさりと捨てられた娘なら、守男に冷笑を浴びせるかもしれない。守男はそんな仕打ちを受けるのが嫌だったのだ。
 それ故、守男はホスト時代の守男の知人とは顔を合わせたくなかったのだ。
 その一方、この広い東京では、そのようなことは有り得ないだろうという楽観的な気持ちもあった。
 それはともかく、辺りに人気が見られないのを幸いとばかりに、守男は西郷隆盛の銅像の傍らにあるベンチに腰を降ろしてると、いつの間にかうとうとしてしまった。そして、いつの間にか眠りについてしまったのである。
 そして、正に今、守男は眠りに陥ってしまったのだが、そんな守男は何だか身体がむずむずするのを感じた。それで、思わず寝返りを打った。だが、再び身体が何だかむずむずした。
 それで、守男は思わず左手を動かしたのだが、すると、その時、何だか異物に触れた。それで、守男は思わず眼を覚ました。
 すると、守男の眠気は一気に覚めてしまった。何故なら、正に乞食のような男が守男のズボンや上着のポケットに手を伸ばしていたからだ。即ち、その乞食のような男は守男が眠ってるのを幸いとばかりに、金目のものを持ってないかと物色していたというわけだ。
 そう察知した守男は思わずその乞食を睨んでやった。
 すると、その乞食、即ち、六十歳位の髪と髭が伸び放題のよれよれの服を着た男はまるで逃げるように守男の許から去って行った。その男は小柄で、また、腰を曲げ、その足並みも鈍かった為に、守男がその男を捕まえることは朝飯前と思われた。だが、守男はそのようなことはしなかった。面倒なことに首を突っ込みたくはなかったからだ。また、守男の全財産である十万近くの金が入った財布は実のところ、今、守男のパンツの中に入っていたのだ。そして、その慎重さが功を奏したと改めて思った。もし、財布を上着やズボンのポケットに入れておいたとしたら、あの乞食に盗まれていたことは請け合いだったからだ。
 そう思うと、守男は「この場所では落ち着いて眠れない」と、いかにも険しい表情で呟いたのだ。
 そういうこともあって、結局その夜は満足な眠りにつけなかった。このような場所で我を忘れたように熟睡してしまえば、その損失が大きいということを実感したからだ。とはいうものの、眠らないわけにはいかない。ホスト時代に睡眠時間三時間で一週間過ごしたことがあるが、それは若かったからこそ可能であったのだ。今なら、それはとても不可能なことであろう。
 それ故、今日はカプセルホテルにでも泊まろうと思った。カプセルホテルなら料金は安いから正にお金を節約出来るというものだろう。
 しかし、十万しか持ち金のない守男は、たとえカプセルホテルといえども、何度も泊まることは不可能だ。
 それ故、一刻も早く、職を見付けなければならないのだ。
 そう思うと、スポーツ紙の求人欄に向ける守男の表情が甚だ真剣なものとなったのは、正に当然のことであった。

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