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日下部熊男は日下部家の二男であった。
日下部家の長男の日下部国男の状況は前述したが、では熊男はどういった男なのか、説明する。
熊男は国男と比べれば、多少は学業の成績は良かった。その証拠として、国男よりは多少偏差値の高いD大に入学することは出来た。D大は国男が卒業したY大よりは偏差値的に上にランクされてたが、二流大の中では下位に属してる大学であった。
そんな熊男は女の子が大好きであった。といっても、熊男の高校は男子高であった。それ故、女の子と知り合うきっかけがなかった。
そんな熊男は都内のD大に進学した。D大は共学であった為に、それが熊男にとってとても嬉しかった。
そんな熊男は、大学生活が始まると、早速、大学内で女子学生の物色を始めた。
そして、そんな熊男の物色が一週間続いた頃、熊男の眼に留まった女子学生が現われた。
その女子学生は身長が164センチ程で、肩まで垂らした髪を少し茶色に染めていた。そして、ピンクのカーディガンを着ていた。
一見、派手な感じで、軟派のように見受けられたが、そのどことなくぎこちない様からして、その女子学生は熊男と同様の新入生のように思われた。
それで、熊男はそれを確かめたくなった。
熊男は毎日、中庭でその女子学生が来るのをベンチに座って待っていた。手には文庫本を持っていたが、無論それは体裁上だけであった。
熊男がその女子学生を中庭で待ち始めて二日目に熊男のお目当ての女子学生が姿を見せた。その女子学生はD大の中では正に一際目立っていた。
その女子学生は熊男が注視してることはまるで知らないようであった。熊男がその女子学生のことを何も知らないように、その女子学生も熊男のことを何も知らないのに違いなかった。
女子学生は中庭から校舎に続く階段を上がり始めた。それで、熊男はすかさずその後に続いた。
女子学生は今日もピンクのカーディガンと白の短めのスカートをはいていた。
そんな女子学生は熊男につけられてることなんてことは全く思ってないようで、ただひたすら歩みを進め、やがて三階のB教室に入った。その教室は百人程は入れそうで、既に三十人程の学生が集まっていた。熊男はとにかくその教室に入った。そして、その女子学生が座った席の後の席の横の席が空いていたので、座った。
熊男が席について五分程経った頃、女子学生の隣に新たな女子学生が座った。すると、その二人は話し始めた。どうやら、二人は友人みたいだ。
それで、熊男はその二人の会話を盗み聞きしようとした。熊男の席からは二人の会話が決して聞き取れないことはなかったのだ。
だが、やや席が離れている為に会話の詳細は聞き取ることは出来なかった。
やがて、教授が入ってきたので、熊男はそそくさとその教室を後にした。だが、その講義は商業概論であることが分かった。何故なら、熊男はその教授の顔に見覚えがあったからだ。即ち、熊男もその教授の講義を受けていたからだ。
そういう風にして、熊男の女子学生の調査は始まった。そして、一週間が経過した。だが、依然として、その女子学生の姓名は分からなかった。だが、熊男と同じ経済学部生であることは凡そ分かった。
熊男としてはその女子学生と話すきっかけが欲しかったのだが、そのきっかけは一向に訪れそうもなかった。いくら同じ大学の同級生といえども、所詮通りすがりの他人と同じで、クラスが同じとかゼミが同じとかクラブが同じでなければ、話すきっかけなど生まれないのだ。
そう思うと、熊男は渋面顔を浮かべざるを得なかった。
しかし、同じ講義を受けるという手はある。大学の講義は中学や高校とは違って、必須科目以外は自由に選択出来る。それ故、その選択科目で同じ講義を受ければよいのだ。
いや。実際には同じ講義を既に選択してるかもしれない。何しろ、まだ四月の終わりであり、熊男は熊男が選択した講義をまだ全て受講していないのだ。
そして、その熊男の読みはやはり当たっていた。西洋史の講義で遂にお目当ての女子学生と一緒になったのである。
だが、露骨に女子学生に近付くのは危険だ。そのようなことをすると、相手に警戒されてしまうことにもなり兼ねない。飽くまで、自然に近付かなければならないのだ。
そう思っていた熊男に思いがけない光景が飛び込んで来た。というのは、その女子学生の隣に男子学生が突如座ったかと思うと、馴れ馴れしく話し始めたのだ。その様からして、その男子学生はかなり女子学生と親しい関係にあるものと思われた。
その様を眼にして突如、熊男の表情は歪んだ。それは、正に自らの恋人を他の男に寝取られてしまった時に見せるかのような表情であった。
熊男はその男子学生は見覚えのない顔であった。それ故、熊男と同じクラスでないことは間違いないであろう。となると、女子学生と同じクラスということか。
それはともかく、熊男はそのショッキングな光景を目の当たりにして、頭に血が上ってしまい、講義はまるで頭に入らなかった。
やがて、一時間に及ぶ講義は終わった。
だが、熊男はすぐに席を立とうとはしなかった。女子学生のその後の行動が気になったのだ。
女子学生はそんな熊男の関心など全く無関係であるかのように男子学生と共に席を立ち、颯爽と教室を後にした。それで、熊男はとにかく女子学生の後をつけてみることにした。
すると、女子学生は廊下を歩きながら、その男子学生と何やら話してはいたが、程無く別れ、一人すたすたと歩き始めた。そして、やがて中庭に続く階段を降り始めた。
それで、熊男はすかさずその後に続いた。
女子学生はどうやら今日の講義はこれで終わりのようであった。何故なら、校舎に背を向けてはすたすたと校門のほうに向かって歩みを進めているからだ。熊男はそんな女子学生の後を更につけた。
女子学生はやがて校門を通り過ぎ、T駅に向かって歩き始めた。T駅からD大の校門までは徒歩で五分程だ。
女子学生はやがてT駅の改札口を通り過ぎた。それで、熊男もすかさずその後に続いた。熊男はT駅まで電車で通っていたから、通学定期を持っていた。それが、今、役に立ったのである。このような時に切符を買っていたら、女子学生のことをきっと見失っていたことであろう。
T駅は郊外にあったといえども、何しろここは東京だ。それ故、昼間といえども、T駅内にはかなりの人が姿を見せていた。そして、そのことは熊男にとって幸いであったといえよう。何しろ、それが熊男の尾行を女子学生に気付かせない要因となっていたことは間違いないと思われたからだ。
程無く電車が来たので、女子学生は乗車した。それで、熊男もその後に続いた。
その電車は各駅停車であったが、熊男がいつも利用してる各駅停車でもあった。そして、熊男が降りる駅はその各駅停車でT駅から七つ目の駅であった。
熊男は女子学生を見失わないようにと絶えず気を配ってる為か、まだ女子学生を見失わずにいた。既に、T駅から三駅目を後にしていたが、女子学生はまだ降りてはいなかった。
だが、T駅から四駅目のK駅で女子学生は降りた。それで、熊男はすかさずその後を追った。
女子学生は熊男に尾行されてるとはつゆ思ってないのか、後を振り返ることもなく、ひたすら歩みを進めていた。
熊男は恐らく女子学生は熊男の顔を知らないのだと思った。もし、知ってる顔であれば、既にD大を後にして三十分も経過してるのだから、そろそろ尾行されてることに気付いてよい筈なのだが、そうでないということはやはり熊男の顔を覚えていないということであろう。
それはともかく、K駅を後にして七分経った頃、遂に女子学生はその目的地に到着したみたいだ。何故なら、一階にある郵便受けをチェックしたからだ。即ち、その室が女子学生の室というわけだ。
そのアパートは「高梨ハイツ」という軽量鉄骨二階建てのアパートで、間取りは2K位と思われた。
女子学生は郵便受けのチェックを終えると、速やかにその場を後にした。
そして、この時点で熊男は正に安堵したような表情を浮かべた。何故なら、この時点で女子学生の姓名を確認出来たからだ。更に、その住居も確認出来たというおまけもついた。それ故、熊男は正にご機嫌であった。
そのご機嫌の表情を熊男は隠すこともなく、早速女子学生の名前を確認してみた。
すると、花村みどりとなっていた。
「花村みどりちゃんか……。いい名前だな」
熊男はまるでうっとりとした表情を浮かべながら、呟くように言った。
そんな熊男はしばらくの間、うっとりした表情を浮かべ、その場に佇んでいたのだが、そんな熊男の表情が突如、真剣なものに変貌した。というのは、花村みどりの室は203室なのだが、その隣の204室が空室になってるみたいだからだ。二、三の室を除き、郵便受けのネームプレートにはその室の入居者名が記されていることから、204室は空室である可能性が極めて高い! 熊男はそう閃いたのだ!
そんな熊男は正に真剣な表情を浮かべては眼をキラリと光らせた。
そして、熊男は小さく肯くと、その場を離れ、「高梨ハイツ」の周囲に沿って歩き始めた。
すると、熊男のお目当てのものはすぐに見付かった。
熊男が何を見付けたかったかというと、それは不動産屋だ。「高梨ハイツ」を管理してる不動産屋名を見付けたかったのだ。
そして、それが分かった。
それは、「中里商事」という駅前にある不動産屋であった。
それを確認した熊男は小さく肯くと、早速「中里商事」に向かって歩き始めた。そんな熊男はまるで夢遊病者のようであった。それ故、今の熊男に熊男の知人が声を掛けたとしても、熊男は返事を返すことが出来ないだろう。そんな熊男はまるで憑かれたように「中里商事」に歩みを進めていたのだ。
やがて「中里商事」の前まで来ると、熊男は躊躇わずに中に入った。そして、早々と「高梨ハイツ」204室の入居を決めたのである。
熊男の父親の虎之助は、何故一人暮らしをするのかと熊男に訊いたが、熊男は適当に誤魔化した。その本当の理由を話すわけにはいかないからだ。花村みどりの隣室に住みたいからなんて、話せるわけはなかったからだ。
それはともかく、その一週間後には熊男は「高梨ハイツ」204室への転居を済ませた。そして、その頃に丁度ゴールデンウィークとなった。
熊男は花村みどりの住居を突き止めてからは、大学内でみどりの後をつけるなんてことはやらなかった。何しろ、今や熊男はみどりの隣室に住居を定めることが出来たのだから。それ故、みどりの後をつける必要がなくなったわけだ。
花村みどりの隣室に住むことが出来るようになったものの、それによって熊男に新たな悩みが発生してしまった。
それは、家賃だ。家賃を負担しなければならないという悩みであった。
今までは自宅で暮らしていたから、そのようなものは負担しなくて済んだ。だが、「高梨ハイツ」の家賃は六万なのだ。その六万に光熱費まで熊男が払わなければならないのだ。
その負担は正に大きいと言わなければならないだろう。といっても、アルバイトをする気にもなれなかったし、また、する自信もなかった。何しろ、熊男は怠け者で働くのが嫌だったからだ。
それ故、頼りになるのは、貯金と虎之助の援助であった。貯金は三百万程あり、その三百万は今までのお年玉などを貯めたものであった。そして、当面の間は、その三百万で家賃を払うしかなかった。もっとも、生活費は親父から月に六万貰っていたが、熊男にとって六万などすぐに無くなってしまう位であった。それ故、親父から貰う生活費を「高梨ハイツ」の家賃にあてるわけにはいかなかったのである。
ゴールデンウィークは無論、大学は休みであったが、熊男はゴールデンウィークから「高梨ハイツ」に入居することにした。
しかし、それはどうやら無駄になったみたいであった。というのは、みどりはゴールデンウィークの期間は「高梨ハイツ」にはいなかったみたいだからだ。親元にでも戻ったのかもしれない。
だが、ゴールデンウィークが過ぎると、みどりは戻って来た。隣室に住んでいる熊男には無論それが分かった。
みどりが戻ってくれば、熊男はどうするかはちゃんと考えてあった。
それで、熊男は早速その考えを実行することにした。
熊男は身嗜みを整えると、和菓子の入った折箱を手にしては、203室のブザーを押した。
すると、程無く扉が開いた。だが、チェーンが掛けられたままであった。
だが、そこには紛れもなくみどりがいた。そんなみどりは、黄色のシャツとジーパン姿であった。そして、その様はとても似合っていると熊男は思った。それで、熊男は思わず興奮してしまったが、その興奮を抑え、そして、
「あの……、僕は先日、隣の204室に転居して来た日下部と申します」
と、いかにも愛想よい表情と口調で言った。
すると、みどりは啞然とした表情を浮かべた。
そんなみどりを見ると、みどりは熊男の顔に見覚えがあるかのようであった。
だが、熊男は飽くまでみどりのことを知らない振りを装い、
「あの……、今日は引越しのご挨拶をと思いまして、これを……」
と言っては、和菓子の折箱をみどりに差し出した。
すると、みどりは少しの間啞然とした表情を浮かべては言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「あなたはD大生ではないかしら」
と、些か緊張したような表情で言った。
だが、熊男はこの時、初めて間近でみどりの声を聞いた。それはまさしく女性特有の甘い声であった。そして、熊男はその声を耳にし、一層みどりのことを気に入ってしまった。
それはともかく、みどりにそう言われ、熊男は、
「ええ。そうですが」
と、さりげなく言った。
すると、みどりは、
「やっぱり……」
と言っては眉を顰めた。
そんなみどりを眼にして、熊男の表情は些か曇った。というのは、そう言ったみどりの表情と口調は熊男に好意的なものとは思われなかったからだ。
それで、熊男は眉を顰めては言葉を詰まらせると、みどりは、
「日下部さんは、偶然隣に引っ越して来たの?」
と、眉を顰めては些か冷たい口調で言った。
そうみどりに言われて、熊男は再び言葉を詰まらせた。それは正に先制パンチのようであった。正に、まるでみどりは先制パンチのような言葉を発したのであった。
だが、熊男はとにかく、
「ええ。そうですが」
と、些か真剣な表情を浮かべては言った。
すると、みどりは些か渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせた。そして、少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「この折箱はいただけないわ」
と言っては折箱を熊男に返そうとした。
それで、熊男は、
「そんな……」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては呟くように言った。だが、みどりは正に強引に折箱を熊男に返し、そして、
「用はこれだけ?」
と、素っ気無く言った。
それで、熊男は思わず、
「ええ」
と、些か顔を赤らめて言った。
すると、みどりはさっさと玄関扉を閉めてしまった。
熊男はみどりにあっさりと閉められてしまった玄関扉の前で呆然とした表情を浮かべてはしばらくの間、その場から動くことが出来なかった。みどりと仲良くなる為に熊男はみどりの隣室に引っ越したといえども、それはどうやらみどりに好意的には受け取られなかったようだ。
そう自覚すると、熊男の表情はみるみる内に赤くなり、そして、熊男の部屋に逃げるようにして戻った。そして、熊男はしばらくの間、その善後策を考えていた。即ち、熊男はいかにすればみどりが熊男に対して好意を見せるようになるか、それに関して頭を働かせたのだ。
しかし、先程見せたみどりの様からして、事態は好転しそうもなかった。つまり、熊男はみどりは熊男のことを知らないと思っていたのだが、実際にはそうではなく、みどりは熊男のことを知っていたのだ。そして、その熊男が隣室に引っ越したことから熊男の下心を見抜いたのである。
となれば、熊男は正に手痛い失態を早くも演じてしまったと言わざるを得ないであろう。みどりと仲良くなる為にみどりの隣室に引っ越したものの、それは正に裏目に出てしまったというわけだ。
そう看做した熊男の表情はみるみる内に深刻なものへと変貌してしまった。というのは、みどりを先程直に眼にし、話してみた結果、熊男は一層みどりに魅せられてしまったからだ。今や、みどりを熊男のものにしないと、熊男は我慢出来ない状況に陥ってしまったと言わざるを得ないのである。しかし、現実的にはそれは困難なようだからだ。
熊男はそう察知した。熊男は勉学の方の出来はさして良くないのだが、勘はなかなか鋭いものがある。熊男の勘がそう熊男に告げたのである。
しかし、まだそうだと決まったわけでもない。将来、熊男とみどりの関係は修復されるかもしれない。熊男はそのように思った。
それで、今、強引にみどりに近付くのは、得策ではないと判断した。だが、そうだからといって、みどりに遠ざかってるのは嫌だった。毎日のようにみどりの傍にいたかった。
しかし、その思いは既に達成されてるのではないのか。何故なら、熊男は既にみどりの隣室に転居したのだから。
しかし、隣室に転居しただけではみどりの傍にいるということにはならないだろう。隣室に住んでるからといって、毎日顔を合わすわけではないのだから。
そこで、熊男は頭を働かせた。
すると、熊男は江戸川乱歩のことを思い出した。江戸川乱歩の小説に屋根裏の散歩者というのがあり、その小説の中でアパートの屋根裏に忍び上がっては隣人の生活を覗き見してる人物のことが描かれていた。即ち、熊男もその屋根裏の散歩者となってやろうと考えたのだ。そして、みどりの部屋の屋根裏に穴を開けてはみどりの生活を覗き見してやろうと目論んだのだ。
そう決意した熊男は早速洋間にあった物入れの天井をチェックしてみた。
すると、忽ち熊男は失望感に包まれてしまった。何故なら、物入れの天井はコンクリートとなっていて、微動だにしなかったからだ。これでは、天井裏の板を外して、屋根裏を散歩することは不可能というものだ。
その事実を目の当たりにして、熊男はいかにも深刻そうな表情をして洋間のフローリングの上に座り込んでしまったのだが、そんな熊男の表情が一気に輝いた。何故なら、正に妙案を思いついたからだ。
そして、その妙案とは、盗撮だ。盗撮カメラをみどりの部屋に仕掛ければよいのだ。そうすれば、みどりのことを毎日眼に出来るというものだ。今、電気街に行けば驚く程小型で性能のよい盗撮カメラが売られてるという。もっとも、それは本来防犯の目的で開発されたものだそうだが、それがマニアたちに盗撮カメラとして使用されているらしい。そして、その盗撮カメラから発せられた電波は遠方にまでは届かないが、隣室の熊男の部屋には十分に届くであろう。
そう思うと、熊男は思わずにやっとした。
即ち、江戸川乱歩の小説に語られていた世界は、正に今のように科学が発達してなかった時代のことであり、今は盗撮カメラという便利なものがあり、屋根裏の散歩など行なわなくても、他人の秘密を眼に出来るのだ!
そして、これによって、熊男の今後の取るべき方針は決まった。そんな熊男は翌日、早速電気街に向かった。
そして、熊男のお目当てのものが見付かったので、何ら躊躇わずに買った。決して安いものではなかったが、みどりを毎日眼に出来るとなれば、その値段のことなど熊男は全く気にしなかった。
熊男はアパートに戻って、その盗撮カメラの性能を試してみた。すると、それは驚く程性能がよかった。僅か数ミリのレンズで驚く程広範囲に渡り鮮明な画像を受信機に送信することが出来るのだ。
その事実を確認した熊男はいかにも満足げな表情を浮かべては肯いたのだが、そんな熊男の表情は忽ち強張ったものへと変貌した。何故なら、この盗撮カメラをみどりの部屋に仕掛けなければならないからだ。そして、それにはみどりの部屋に忍び込まなければならない。更にみどりの部屋にうまく忍び込めたとしても、この盗撮カメラを巧みに隠せる場所があるかというと、それは何とも言えないのだ。盗撮レンズは数ミリといえども、盗撮カメラ自体の大きさはマッチ箱程のものだ。それ故、盗撮カメラをみどりの部屋の中で巧みに隠せる場所があるかどうかということが正に問題であったのだ。
そう思うと、熊男の表情は渋面顔に変貌せざるを得なかったのである。
それ故、熊男は正に渋面顔を浮かべながら、しばらくそれに関して思いを巡らせていたのだが、結局、それはみどりの部屋の中を見てみないと何とも言えないということになった。
それ故、熊男は意を決して明日にでもみどりの部屋に忍び込もうと思ったのである。
とはいうものの、玄関扉から進入することは出来ないだろう。何故なら、熊男は玄関扉の鍵を開ける技術を持っていないからだ。また、このアパートの玄関扉の鍵はシリンダータイプの鍵で、ピッキング出来にくいタイプのようだ。
となると、ベランダからしかなさそうだ。玄関扉の鍵は掛けても、ベランダと鍵を掛けるとは限らない。
そう! 正にその通りなのだ!
そう理解すると、熊男はいかにも満足したような表情を浮かべては小さく肯いたものの、その表情はすぐに険しいものへと変貌した。何故なら、そう事がうまく運ぶかどうかは何とも言えなかったからだ。
とはいうものの、矢は既に放たれたのだ。それ故、後は熊男の思いを実行するだけだ。
そして、その翌日午前七時半頃から熊男は熊男の玄関扉にへばり付くようにして腰を下ろしながら、外の様子を窺っていた。即ち、その日、みどりが部屋を後にするかどうか、それを確認しようとしたのである。
そして、やがて八時半となった。
だが、みどりはまだ部屋を後にしてなかった。
そして、やがて九時半となった。
だが、依然としてみどりが部屋を後にはしなかった。
それで、熊男はみどりは既に部屋を後にしたのではないかと思った。即ち、熊男が熊男の部屋の玄関扉にへばり付くようにしてみどりのことを窺い始めたのは午前七時半であったのだが、それ以前にみどりは部屋を後にしたのではないかということである。そして、それが事実なら、熊男の今までの行為は正に徒労であったというわけである。
そう思った熊男は後少しだけ待ってみてみどりが出て来なければ、今日はみどりの部屋へ侵入するのは止めようと思ったその時である。
みどりの部屋の玄関扉が開く音が聞こえた。そして、程無くそれが閉まる音が聞こえ、それと共に靴音が聞こえ、その靴音は程無く遠ざかって行った。
これによって、間違いない! みどりはやっと部屋を後にしてくれたのだ。
その事実を目の当たりにして、熊男は薄らと笑みを浮かべた。その笑みは些か卑猥げな笑みでもあった。
それはともかく、みどりが部屋を後にしたからには、今度は熊男がみどりの部屋に忍び込まなければならない。
それで、熊男は直ちにベランダの方へと移動した。
「高梨ハイツ」は東側に面しているが、その東側には民家が立ち並んでいて、その民家はどれもが二階建てだが、西側には窓は殆どなく、しかも、その窓はどれも小さくて、また、カーテンが掛かっているのが多い。即ち、ベランダから隣室のベランダに移動するには絶好の条件が整っているというわけだ。
だが、熊男は正に真剣な表情で「高梨ハイツ」の前に建ち並んでいる民家に眼を凝らした。熊男は今からベランダ伝いでみどりの部屋に忍び込もうとしてるのだが、その場面を誰にも見られては駄目なことは当然だ。それ故、熊男はそれが可能なのか、厳重にチェックしなければならないのだ。そして、その場面を眼にするとすれば、それは「高梨ハイツ」の東側に位置している民家の住人しか有り得ないのだ。
そのことを十分に認識している熊男は、正にいかにも真剣な表情を浮かべて「高梨ハイツ」の前に並んでいる民家の窓を注視した。そして、その時間はしばらく続いたが、やがて熊男の表情は緩んだ。何故なら、正に今は大丈夫だということを確認したからだ。
すると、その後の熊男の動きは迅速であった。熊男はまるで忍者のようにみどりの室のベランダに飛び移ると、すかさずみどりの部屋のベランダに面した窓ガラスに手を掛けた。
すると、その時、熊男の表情は満面に笑みに包まれた。何故なら、鍵が閉まってなかったからだ。折角みどりの部屋のベランダに飛び移ることに成功しても、窓ガラスの鍵が閉まっていれば、熊男の苦労も水の泡となってしまう。だが、熊男の苦労は水の泡とならなかったのだ!
だが、熊男はその悦びに浸ることもなく、素早くみどりの部屋にその身体を滑り込ませた。
そして、熊男は直ちにみどりの部屋に眼をやった。すると、部屋にはピンクの絨毯が敷かれていた。
その様を眼にして、熊男はみどりはピンクが好きなのではないかと思った。何しろ、D大でもみどりがピンクのカーディガンを着てるのを熊男は眼にしている。みどりがピンクを嫌いなら、ピンクのカーディガンを着たり、部屋にピンクの絨毯を敷いたりはしないであろう。
みどりの好きな色がピンクであることが分かった熊男は、些か満足したように肯いた。何故なら、みどりの秘密を一つ知ったからだ。
そんな熊男は引き続きみどりの部屋を観察した。
だが、深く観察するまでもなく、その部屋の中には32型の液晶TVが置いてあるのが眼についた。そして、その六畳程の洋室の中で眼についたものはその液晶TV位であった。
それで、熊男はすかさずもう一つの部屋を見てみることにした。
もう一つの部屋も洋室であったのだが、その部屋は液晶TVが置いてあった部屋よりはやや狭く、五畳位であった。
熊男は早速その洋室に足を踏み入れた。
すると、その部屋は液晶TVがあった部屋とは違って洋ダンスが二つと、机があった。その机には小さな本箱が置いてあったことから、その机でみどりは勉強するものと思われた。
だが、熊男はその勉強机には眼もくれようとはしなかった。熊男の関心は自ずからその二つの洋タンスに向かったからだ。何しろ、その洋タンスには、みどりの衣服は無論、みどりの下着が入っているに違いなかったからだ。それ故、熊男の関心がその二つの洋タンスに向かうのは当然のことと思われた。
熊男はいかにも好奇心を露にした表情を浮かべてはその二つの洋ダンスに近付くと、速やかにその引出しを開けようとした。だが、この時、熊男はどの引出しから開けようかと、少し考えた。というのは、下着は下の引出しで、上着なんかは上の引出しに入っているのではないかと熊男は思ったからだ。何故なら、熊男はそのようにしてるからだ。
それ故、熊男はまず、下着から見ようか、それとも、上着から見ようかと思案したのだ。
そして、その結果、上着から見ようとした。下着の方が、愉しみが大きいから後にしようと熊男は思ったのである。
それで、熊男は早速一番上の引出しから開けてみた。すると、案の定、そこにはみどりの上着が入っていた。緑色のカーディガンや黄色のブラウス、更に熊男の知っているピンクのカーディガンもあった。
それで、熊男はそれらに触れてみては、その肌触りの感触を愉しんだ。正に、これらの衣服を日頃みどりが身に付けてるのかと思うと、その悦びも一入というわけだ。
それ故、熊男は正に満面に笑みを浮かべながら、その感触をしばらくの間、愉しんでいたのだが、やがて、次の引出しのチェックに移った。
すると、その引出しにはスカートが入っていた。そして、そのスカートはミニ、ロングと様々であり、また、その色、柄も様々であった。
そして、熊男はそれらのスカートの肌触りを愉しんだ。正にこれらのスカートをみどりが履いているのだと思うと、正にその悦びも一入というものだ。
そのようにして、熊男はみどりの洋タンスの引出しを順次チェックを行ない、そして次は下から二番目の引出しとなった。そして、この引出しには熊男のお目当てのみどりの下着が入っている可能性が高い。
そう思うと、熊男は興奮を抑えることが出来なかった。そんな熊男は今や、みどりの部屋に盗撮カメラを仕掛けるという本来の目的を忘却してしまったかのようであった。
それはともかく、熊男はごくりと唾を飲み込み、その引出しを開けた。すると、案の定、そこにはみどりの下着が入っていた。
それで、熊男の表情には正に満面に笑みが拡がった。そして熊男は早速それらの下着を手に取ってはその肌触りを愉しんだ。そして、その興奮は、ブラウスやスカートを触っていた時とは比較にならない位、激しいものであった。正に、熊男は時が経つのを忘れたかのように、その感触を愉しんでいた。そんな熊男は、その時みどりが連れを連れて部屋に戻って来たことに気付くことはなかった。
そして、熊男はみどりが「キャー」という悲鳴を上げたのを耳にして、やっと我に還ったのだ。
熊男はみどりの悲鳴を耳にし、振り返った。
すると、そこにはみどりと男がいた。
それで、熊男の眼は自ずからその男へと移った。すると、熊男は見覚えのある顔だと思った。そしてその男が誰であるかはすぐに思い出した。その男は何とD大の西洋史の講義の時にみどりの隣に座った男だったのだ。
それはともかく、みどりの部屋に無断侵入したことに対して、熊男はいかなる言い訳も通用しなかった。
そして、これによって熊男は住居侵入の罪で逮捕され、また、D大を退学処分となってしまったのである。