第四章 奇妙な仕事
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大河内龍雄は浜松町駅にまで戻ってはキオスクでスポーツ紙を買った。そして、再び、先程までいたビル内の休憩所のような所にやって来ては椅子に座り、早速、その新聞に眼を通し始めた。
確かに、そのスポーツ紙には求人欄があって、それらの求人は正に履歴書不要のものも少なからずあるように見受けられた。しかし、それは龍雄が一方的にそう思うだけであって、実際には履歴書が必要なのかもしれない。その辺は確認してみないことには何とも言えない。
とはいうもの、履歴書が不要な所を探さなければならないのは、言うまでもない。
それで、そのことを念頭に、龍雄は正に眼を皿にしては、求人欄をチェックしてみたのだが、すると、その求人が自ずから眼に留まった。というのは、<内勤スタッフ 日払い可 経験不問 委細面 高橋>と書かれていたからだ。そして、その連絡先は、携帯電話だった。
他の求人は風俗関係とか肉体労働とか新聞の拡張員とかいったように、その仕事内容が明示されているものが多かったので、一際その求人は龍雄の気を引いた。何しろ、昨日は生きていくには肉体労働も厭わないという心構えでいたのだが、実際にそれが可能なのかというと、龍雄には必ずしもそれは正解とは思えなかった。身体上は問題はないといえども、やはり泥に塗れて仕事をするのには龍雄は抵抗を感じてしまうのだ。出来ることなら、少しでも綺麗な仕事をしてみたいのだ。それ故、内勤スタッフという職種が龍雄の気を引いたのだ。
もっとも、龍雄は犯罪を犯し、警察のお尋ね者になってるわけではない。本来なら、堂々と履歴書を提出してもよいのだ。ただ、東京に来たことを妻に知られたくないだけなのだ。熊本のタクシー会社には辞表を郵送すればいいだけなのだから。
そう! 正にその通りなのだ。龍雄は履歴書を堂々と求人先に提出出来る身の上なのだ。妻を熊本に残し、東京に働き口を求めてるのだと、面接官に説明すればよいだけなのだから。
それに気付いた龍雄は、果してどうするべきか、思いを巡らせてみた。
即ち、履歴書を必要とする所に応募するか、あるいは、履歴書を不要とする所に応募するかということを。
そりゃ、履歴書を必要とする所の方が、堅実な求人先であることは間違いないであろう。しかし……。
この時、道代のことが龍雄の脳裏を過ぎった。
即ち、履歴書が必要の所は、採用するにあたって、妻のことを根掘り葉掘り問うて来るかもしれない。場合によっては、道代に連絡するかもしれない。
また、そうでなくても、入社してから道代のことを何ら話さない龍雄に不審感を抱き、信用の置けない男だという烙印を押され、解雇されるかもしれない。その可能性がないとは断言は出来ないであろう。
それ故、龍雄はやはり履歴書が不要の所に応募してみることにした。道代に東京に出て来たことを知られる位なら、その方がましだと龍雄は思ったのだ。
そんな龍雄は自ずから椅子から立ち上がると、その求人先に電話をする為に、近くの公衆電話に向かったのであった。
そして、公衆電話の許に来ると早速、その電話番号に電話してみた。
呼出音が五回鳴った後、電話は繋がった。
「もし、もし」
龍雄はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
すると、送受機からは、
―はい。
という若い男の声が聞こえた。
「高橋さんですか」
スポーツ紙にはそのように記されていたので、龍雄はまずそう言った。
―そうですが。
「あの……、僕は大河内と申す者ですが、Kスポーツを眼にして、電話してみたのですが」
龍雄は、恐る恐る言った。
―ありがとうございます。
男は、いかにも愛想良い表情と口調で言った。
「で、高橋さんが募集してる仕事とは一体どのようなものなのですかね?」
龍雄は、再びいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
すると、男は、
―では、応募の電話ですかね?
「そうですが」
―そうですか。といっても、その仕事内容に関しては、電話では説明し辛いのですよ。
そう男に言われ、熊男の表情は思わず歪んだ。何故なら、どうやら危ない仕事のようだからだ。龍雄はそう察知したのだ。
それで、龍雄は思わずその思いを言った。
すると、男は、
―とんでもない!
と、いかにも素っ頓狂な声を上げた。
そう男に言われ、龍雄は幾分か表情を和らげた。危ない仕事なら、いくら龍雄でもやるわけにはいかない。しかし、そうでなければ、やっても構わないと龍雄は思っていたからだ。
それで、龍雄は、
「では、一体どのような仕事なのですかね? 少し位話していただけませんかね? そうでないと、応募出来ませんので」
と、熱意を込めた口調で言った。
そう龍雄に言われ、男は、
―それもそうですね。
と、淡々とした口調で言った。そして、
―で、少し確認しておきたいのですが、あなたは身体は頑健ですかね?
「そりゃ、勿論です。この年になっても、身体は何処も悪くありません」
龍雄は、眼を輝かせては言った。
―そうですか。それを聞いて安心しました。何しろ、この仕事は身体が頑健でなければ、務まりませんからね。で、失礼ですが、お歳はいくつですかね?
「五十二です」
―五十二ですか……。
その男の口調には些か失望感が込められていた。龍雄にはそのように感じた。
それで、龍雄の表情は些か曇った。即ち、龍雄は年齢制限で撥ねられてしまうのではないかと思ったのだ。それで、思わず言葉を詰まらせてしまったのだが、すると男は、
―腕力には自信がありますかね?
そう問われ、龍雄の眼は輝いた。何故なら、今の男の言葉から、龍雄の年齢でもチャンスはあるかもしれないと思ったからだ。
それで、龍雄は眼を輝かせては、
「勿論、自信はあります!」
と、声を弾ませては言った。
―そうですか。それを聞いて安心しました。何しろ、この仕事は体力とか、腕力が必要となりますからね。
「ということは、道路工事なんかですかね」
龍雄は、眉を顰めて言った。というのは、龍雄は出来ることなら、道路工事のような3K(きつい、きたない、きけん)の仕事はやりたくはなかったからだ。それに、求人内容は内勤スタッフと書いてあったではないか。そう思うと、龍雄の表情は自ずから曇った。
そんな龍雄に男は、
―では、どういった仕事なのか、具体的に話しますね。
そう言われ、龍雄は固唾を呑んで男の次の言葉を待った。
すると、男は、
―実はですね。家庭内の揉め事に力を貸して欲しいのです。
「家庭内の揉め事ですか……」
龍雄は呟くように言った。
―そうです。家庭内の揉め事なんですよ。
男も呟くように言った。
だが、それだけでは、事の詳細を龍雄は推測することは出来なかった。それで、
「もう少し詳しく話してもらえないですかね」
と、いかにも興味ありげに言った。
―うちの親父が惚け老人になってしまいましてね。それで、手を焼いているのですよ。で、その親父がうちの金を勝手に滅茶苦茶に使ったりしましてね。それで、僕たちはとても困ってるのですよ。それで、その親父を見張ってもらう仕事なのですがね。
と、男はいかにも真剣な口調で言った。
「成程。そのような仕事ですか」
龍雄は些か表情を綻ばせては言った。そのような仕事であれば、龍雄でも十分に出来そうだったからだ。
そう龍雄に言われ、男は小さく肯き、そして、
―で、これから先のことは電話では話し辛いので話しません。で、あなたはこの仕事を引き受けてくれるのか、あるいは、引き受けてくれないのですかね?
と、まるで、龍雄に詰め寄るかのように言った。
すると、龍雄は思わず顔を赤らめ、
「あの……、状況は分かったのですが、もう少し詳しい内容を聞かせてもらえないですかね? 親父さんを見張るといっても、どうやって見張るのですかね?」
と、龍雄は神妙な表情を浮かべては言った。
すると、男は、
―ですから、それから先のことは電話では話せないのです。
と、きっぱりと言った。
そう男に言われ、龍雄の言葉は詰まった。何故なら、この仕事を引き受けるかどうか、迷ったからだ。ただ単に惚け親父の見張りと言われても、もし、法に触れるようなものであれば、無論、受けはしないであろう。しかし、そうでないのなら、やってみてもよいとは思った。いや、やるべきだ。何故なら、新聞にはこの高橋という男の求人案内が最初に眼に留まったものなのだから。
とはいうものの、この点だけは確認しておく必要があるであろう。
「法に触れる仕事ではないでしょうね」
龍雄は力を込めて言った。
すると、男は、
―そりゃ、当然法には触れませんよ!
と、力強い口調で言った。
そして、高橋が時給と仕事の期間の説明を終えた時点で龍雄は高橋と直に会って話を聞いてみることになったのである。