2

 安子宅から日下部宅までは電車を使って凡そ一時間位であった。それ故、安子が安子宅を後にするのは、午後二時頃と思われた。
 そして、安子宅から最寄りの駅までは徒歩で十分位であったから、無論安子は徒歩で駅まで行くのであろう。これが、もし自転車で駅まで行くのなら、安子宅周辺で安子を国男の車に連れ込むことは不可能となる。
 それ故、そういったケースも想定しておかなければならない。
 それはともかく、国男たちの計画では、虎吉が午後一時四十五分頃から安子宅の近くで待機し、安子が現われるのを待つ。そして、安子が現われたのを見て、直ちに近くの路上で待機してる国男の携帯電話に連絡する。それを受けて、国男が運転する車が何気なく安子の背後から近付き、偶然を装って安子に熊男が声を掛け、安子を国男の車に乗せるというわけだ。
 そういったことを踏まえて、国男たちの計画はやがて実行されることになった。
 虎吉は安子宅から僅か三十メートル程しか離れていない物陰で今、身を潜めていた。これ位近くでないと、安子の動きを確実に把握出来ないからだ。
 そして、虎吉がこの場所で身を潜めて十五分が経過した。午後二時となったのだ。そして、その時間はそろそろ安子が安子宅を後にする時間だ。
 そう思っていた虎吉の眼がその時、輝いた。思っていた以上に早く安子が姿を現わしたからだ。そんな安子は虎吉がいる方向とは反対側に向かって歩み始めた。そして、それは当然のことであった。何しろ、虎吉は安子宅から見て、駅から遠い場所に位置してる物陰に身を潜めていたのだから。
 そんな虎吉は安子の姿を眼にすると、直ちに国男の携帯電話に電話した。そして、それと共に自らも国男の車に向かって歩みを進めた。
 程なく虎吉は国男の車に乗り込むことが出来、それと共に国男は安子に近付く為にスピードを上げた。あまり駅の近くにまで行ってしまうと、他の車が障害となってしまい、安子の許に近付けなくなってしまうかもしれないからだ。
 それで、国男はスピードを上げた。すると、そのことが功を奏してか、巧みに安子の傍らに国男は車をつけることが出来た。
 安子は安子の傍らに車が停まったのを受けて些か驚いたかのような表情を浮かべた。だが、その助手席に座ってる熊男を見て、些か表情を和らげた。
 そんな安子に熊男は、
「大林さんじゃないですか」
 と、いかにも偶然に安子と出会ったと言わんばかりの口調で言った。
 すると、安子は何も言わずに微かに笑った。
 そんな安子に、
「今からうちに行くんですよね?」
「ええ。そうですが」
「だったら送って行きますよ」
 熊男はいかにも愛想良い表情と口調で言った。
 だが、安子は、
「でも……」
 と、呟くように言っては、眉を顰めた。そんな安子はそのようなことをやってもらうわけにはいかないと言わんばかりに言った。
 そんな安子を何とか説き伏せて、熊男は安子を国男の車の後部座席に乗せることに成功した。そんな安子は両側を熊男と虎吉に挟まれるようにして、後部座席に乗り込んだ。そんな安子は、安子の両側に熊男と虎吉が乗り込んだのを何ら不審には思ってないかのようであった。
 そんな安子と熊男たちは他愛ない会話を交わしていたのだが、やがて安子の表情には困惑げな色が見られるようになった。何故なら、明らかに車は日下部宅は違う方向に向かい始めたからだ。
 それでも安子は何も言おうとはしなかった。それは正に日下部家の使用人であるという健気さが表れているかのようであった。
 しかし、車が二十三区を抜けた頃には遂に安子の戸惑いの言葉が発せられた。
「一体、どちらに行かれるのですか?」
 すると、熊男は、
「奥多摩ですよ」
 と言っては微笑した。
「奥多摩……。何故、そのような所に行くのですかね?」
 安子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「別荘ですよ。奥多摩に別荘があるんですよ」
 熊男は再び微笑を浮かべては言った。
「奥多摩の別荘ですか……。でも、私、旦那様からそのようなことは聞いてませんが……」
 安子は再び戸惑ったような表情を浮かべては言った。そんな安子は、安子を雇ってくれてるのは、熊男たちではなく、虎之助だと言わんばかりであった。
 そう安子に言われると、
「その暇がなかったんだよ。親父は今、奥多摩の別荘にいるんだが、大林さんにその旨を連絡出来なかったんだよ。何しろ、奥多摩行きは急に決まったことなんでね。
 で、僕たちは親父から親父がいる奥多摩の別荘に大林さんを連れて来てくれと言われましてね。それで、大林さんを迎えに来たというわけですよ」
 そう熊男が説明すると、安子は、
「そうですか……」
 と、納得したように言った。その安子の様を見ると、熊男の今の説明を信じたかのようであった。だが、
「だったら、何故最初からそう説明してくれなかったんですか? 何だか、偶然に私と出会ったかのようでしたが」
 と、安子は横目で熊男のことをちらっと眼にしては淡々とした口調で言った。 
 すると、熊男は些か顔を赤らめ、
「つい言いそびれてしまったのですよ」
 と、いかにも決まり悪そうに言った。熊男は安子にそう言われてしまって、確かに最初からそう言っておけばよかったと思ったのだ。そう言わなかったのは、ただ熊男たちの考えがそこまで及ばなかっただけなのだ。
 それはともかく、安子は奥多摩に行くなんて思いもしなかったのか、その後、口数は少なくなった。とはいうもの、奥多摩地方に入った頃、安子は、
「別荘は何処にあるのですか?」
 と、興味ありげに訊いた。
「奥多摩湖の方にあるんだよ」 
熊男はさりげなく言った。
 すると、安子は、
「そうですか……」
 と、些か納得したように言った。奥多摩湖の方なら別荘があってもおかしくないと思ったのであろう。だが、安子は、
「でも、旦那様から奥多摩湖の方に別荘があるなんて聞いたことはないのですが」
 と、眉を顰めて言った。
 すると、熊男は怪訝そうな表情を浮かべては、
「そうですか……。僕はてっきりそのことを話していたと思ってたのですがね」
 すると、この時点で国男が、
「大林さんは親父と結婚するんですかね?」
 と、ハンドルを捌きながら、そして、眼を前方に向けたまま言った。 すると、安子は、
「ええ」
 と、些か顔を赤らめては言った。そんな安子には、六十を超えた中年の女性とは思えないような純情さが見られた。
 すると、虎吉が、
「親父がプロポーズしたんですかね?」
「ええ。そうです」
 安子は、虎吉の方をちらっと見やっては言った。
 すると、国男は、
「で、やはり、大林さんは親父のプロポーズを受けるつもりですかね?」
 そう言った国男の表情はとても真剣なものであった。
 そう国男に訊かれると、安子は、
「ええ」
 と、些か顔を赤らめては気恥ずかしそうに言った。そんな安子に国男は、
「でも、一体どうして大林さんは親父と結婚する気になったのですかね? 親父は七十を過ぎてるんですよ」
 と、眉を顰めては訊いた。もっとも、国男たちは何故、安子が虎之助と結婚することを決めたのかは凡そ分かっていた。
 それは金だ。何しろ、虎之助は金持ちなのだ。その金しか虎之助と結婚しても意味はないのだ。だから、安子は虎之助と結婚しようとしてるのだ。しかし、その魂胆を安子に言わせてやろうと、国男は意地悪くそう訊いたのである。
 すると、安子は薄らと笑みを浮かべては、
「そりゃ、旦那様はとてもいい方ですし……。それに、私も五年前に主人に先立たれてしまい、また、子供もいませんので、とても寂しい思いをしてたのです。そんな折に旦那様からそのように言われれば、心は動きますよ」
 と、正に虎之助のプロポーズを受けるのは当然のことだと言わんばかりに言った。
 すると、虎吉は、
「それは嘘だ!」 
 と、声を荒げて言った。
 そう虎吉に言われ、安子の表情から笑みが消えた。そして、
「それ、どういうことですか?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「だから、あんたは親父の金が目当てなんだ! 親父の金を手にしたいから、親父を気を引き親父との結婚に漕ぎ着けたんだ。親父の性格がどうのこうのとか、あんたが寂しい思いをしてるなんてことは、出鱈目だ!」
 虎吉は、安子を見やっては、正に安子を非難するかのように声を荒げて言った。
 すると、安子は、
「まあ、何てことを!」 
 と、正に呆気に取られたような表情を浮かべては言った。安子は正に思ってもみないことを聞かされたと言わんばかりであった。
 そんな安子に、虎吉は、
「正に、図星だろ。それに、親父と結婚すれば、あんたは俺たちの義母になるわけじゃないか! しかし、俺たちはそんなことを認めないぞ!」
 と、正に虎之助と結婚しようとしてる安子のことを激しく非難するかのように言った。また、そうすることによって、安子が虎之助との結婚を諦めれば、それに越したことはないとも思っていた。というのは、いかに虎之助が安子と結婚しようとしても、安子がそれに応じなければ、虎吉たちは安子を殺さずに済むからだ。虎吉たちにとっても、その方がよいに決まってるのだ。それで、虎吉たちは奥多摩に向かう車の中で安子に罵詈雑言を浴びせ、虎之助との結婚を断念させてやろうとも思ってたのだ。それ故、虎吉の今の発言は作戦通りの発言であったのだ。
 そう虎吉に言われると、安子は怯むどころか、反撃に転じた。
「全く、あんたたちは旦那様の言ってた通りだわ」
 と険しい表情で言っては唇を歪めた。
「それはどういう意味だ?」
 虎吉は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「だから、碌でもない息子たちばかりだと、旦那様は言ってたけど、その通りだということよ。どうして旦那様のような方から、あんたたちのような息子が生まれたんでしょうかね」
 と、正に遣る方無いと言わんばかりに言った。
 そう安子に言われ、虎吉は、
「何だと!」
 と、安子に摑み掛かろうとせんばかりの様を見せた。
 そんな虎吉に、安子は、
「私があんたたちの母親になれば、今のような口のきき方をすれば、決して許さないからね。家から追い出してやるからね」
 と、虎吉を睨み付けるように言った。
 そんな虎吉と安子の遣り取りを耳にして、<こりゃどうにもならん>と国男は思った。即ち、虎吉の言葉を受けて、安子が虎之助との結婚を断念すれば、安子殺しは中断することになっていたのだが、それは無理だということを国男は理解したのだ。そして、安子は思っていた以上に厄介な女だということも分かった。こんな女はやはり当初の計画通り、殺すしかないであろう。
 それで、国男は虎吉に、
「虎吉、もうそのようなことを言わなくてもいいよ」
 と言った。すると、虎吉の口からは言葉が発せられなくなった。
 そして、四人の間に少しの間沈黙の時間が流れたが、やがて、安子が、
「一体何処に行くつもり?」
 と、車窓から流れ行く光景を眼にしながら言った。というのは、国男が運転する安子たち乗せた車は明らかに奥多摩湖とは違う方向に向かって進んでいたからだ。
 その安子の言葉に国男たちは何も答えようとはしなかった。そんな国男たちの様は明らかに不審であった。
 それで、安子は、
「何処に行くのよ!」
 と、声を荒げては言った。だが、やはり、国男たちは何も答えようとはしなかった。
 辺りは既に人気のない山の中の道に差し掛かっていた。そんな状況と、安子の問いに対する国男たちの沈黙は、正に安子に身の危険を感じさせるに十分なものになっていた。正に、安子はこの時点で初めて身の危険を感じたのである。
 それで、安子は、
「降ろして!」
 と、声を荒げて言った。
 すると、熊男が、
「こんな所で降りてどうするんですか。こんな所から人里まで歩いて戻るとなると、大変ですよ」
 と言っては、にやにやした。
「いいから、降ろしてよ!」
 安子はそんな熊男の言葉には耳を傾けようとはせず、ヒステリックに叫んだ。
「それは駄目ですよ。大林さんには別荘に来てもらわなければならないのですから」
 熊男は再びにやにやしながら言った。
 そんな熊男を払い除けるかのようにして、安子は車外に出ようとした。だが、熊男と虎吉がそんな安子の動きを封じた。そして、熊男は、
「静かにしろ!」
 と言っては、手拭いを安子の口にあてがっては猿轡を噛ました。更に、虎吉が今度はロープで安子の両手首を縛った。
 これによって、安子は言葉を発することが出来なくなり、また、腕も使えなくなった。
 そんな安子に熊男は、
「もう少しの間だけだから、静かにしてろ!」
 と、声を荒げては言った。
 車はどんどんと山の中に入って行き、辺りは正に山の中となっていた。そして、そんな中を五分位走ると、国男は車を停めた。
 すると、熊男と虎吉は安子の身体をロープでぐるぐる巻きにし、その端を熊男が握っては車外に出た。そして、国男が先頭となり、山林の中に少し入って行ってはやがてその時点でストップした。そして、この時点で国男が安子の口を封じていた猿轡を外した。
 すると、安子は、
「あんたたち、私をどうするつもりなの!」
 と、ヒステリックに叫んだ。
 すると、国男が、
「そのことが分らない程、あんたは馬鹿ではないだろ」 
 と言っては「クックックッ」とさもおかしそうに笑った。
「何故? 何故あんたたちは私を殺そうとするの? 私に何の恨みがあるの?」
 安子は正に納得が出来ないと言わんばかりに言った。
「だから、あんたの存在が俺たちにとって迷惑なんだよ。何しろ、親父はあんたと結婚するつもりだからな。そうなりゃ、親父の遺産が俺たちは半分減るというわけさ。更に、親父はあんたと海外旅行に行ったりして、親父の金を湯水のように使ってやると言いやがった。そんなことをされてしまえば、俺たちにとって迷惑極まりないというわけさ。何しろ、俺たちは今や、親父の金だけが頼りなんだ。だから、あんたが親父と結婚すれば、俺たちの首を絞めることになるんだよ」
 国男はまるで安子に言い聞かせるかのように言った。
 すると、安子は、
「分かったよ。私、旦那様とは結婚しないよ。そうすればいいのね」
 と、国男たちに訴えるように言った。
 すると、虎吉は、
「それ、本当か?」
 と、眼を白黒させては言った。
 すると、安子は、
「本当よ。もう二度と日下部宅にも来ないことにするよ。それでいいのね」
 と、虎吉たちの顔を順次見やっては言った。そんな安子は、こんな碌でも無い息子たちが集まっている日下部家で働くのはもう懲り懲りだと言わんばかりであった。
 そう安子に言われ、虎吉は、
「どうする?」
 と、国男を見やっては言った。そんな虎吉はその安子の言葉に対していかにするかは、長男の国男の意思に掛かっていると言わんばかりであった。
 すると、僅かな時間だが、国男はそれに関して思いを巡らすかのような表情を浮かべたが、やがて、
「やはり駄目だよ」
 と、いかにも深刻そうな表情を浮かべては言った。
「駄目ということは、やはり殺るのかい?」
 と、虎吉。
「ああ。そうだ。もし、俺たちがこいつを逃がしてみろ。こいつは俺たちのことを警察に言うに決まってるぜ! そのことを考えてみろ!」
 国男は虎吉に言い聞かせるかのように言った。
 すると、虎吉は、
「成程」
 と、いかにも納得したように言った。
「約束するよ! あんたたちのことは、警察は無論、誰にも言わないわ! 約束するよ!」
 安子は声高に、そして、国男たちに訴えるかのように言った。
「そんなことを信じろって言われても、そりゃ、土台無理さ。それに、時間を稼ぐ必要があるんだよ」
 と国男は自らに言い聞かせるように言っては大きく肯いた。
「時間を稼ぐ? それ、どういう意味だ?」
 その意味を虎吉と同様分からなかった熊男は、些か怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「だから、こいつが行方不明になれば、親父たちはその行方を探そうとするじゃないか。そして、その間は親父は結婚しようとは思わないというわけさ。俺の言ってることが分かるかい? つまりだな。こいつが親父と別れたら、親父は他の女を連れて来るかもしれないというわけさ。だが、こいつが行方不明となってれば、その間は親父は他の女とは結婚しようとはしないというわけさ。何しろ、親父は義理固いからな。
 そうやって、時間を稼げば、親父はもう結婚しようなんてことは考えなくなるよ。何しろ、親父はもう歳だからな。そうなりゃ、親父の金は全部俺たちのものになるというわけさ」
 と、国男は甚だ険しい表情を浮かべては、今度は熊男と虎吉に言い聞かせるように言った。そんな国男は矢は既に放たれ、もう後戻りは出来ないと言わんばかりであった。
 そう国男に言われ、熊男と虎吉は納得したように肯いた。
 即ち、矢はもう放たれたのだ! 正にもはや後戻りは出来ないのだ!
 三人はそう理解した。
 これによって、三人の行動は開始された。
 虎吉が携帯しているバッグからロープを取り出すと、虎吉が安子の首に掛けようとしたのだ。それで、安子はそんな虎吉から逃げようとした。
 だが、国男が安子を羽がい締めにし、そして、熊男が安子の足に組み付いた。
 これによって、安子の動きは完全に封じられた。
「馬鹿なことは止めなさい!」
 安子は力の限り叫んだ。
 だが、そんな安子の言葉に耳を貸す国男たちではなかった。
 程無く虎吉が安子の首にロープを巻きつけることに成功すると、三人はそのことを待ってましたと言わんばかりに安子の首を絞めてるロープを力の限り引っ張った。
 それによって、さ程時間を経ずに、安子は息絶えた。
 そんな安子の死体を三人は持参して来た大きなシャベルで穴を掘り埋めたのであった。
 

目次     次に進む