第八章 遺された者
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時間は少し前に戻るが、今、大河内道代は、とても苛立っていた。というのは、午後九時になっても、龍雄はまだ帰宅しないからだ。もっとも、タクシーの運転手をやってる龍雄の勤務時間は決まってるわけでもないので、深夜に帰宅することもあった。だが、そういった時は必ず道代にその旨を話したのだ。だが、今日はそのようなことは道代は聞いてなかったし、また、電話連絡も入ってなかったのだ。
とはいうものの、最近の龍雄と道代の夫婦仲はとても冷え込んでいるので、龍雄が何時に帰宅しようが、そのようなことは道代は無頓着でよい筈であった。しかし、今日の道代はそのような気になれなかったのだ。
というのは、今日は給料日だったからだ。そして、龍雄が受け取る給料は今の道代の唯一の収入源でもあったのだ。それ故、今日はいつもと違って、龍雄の帰宅に無関心ではいられなかったのだ。
やがて、午後十時となった。だが、まだ龍雄は姿を見せてなかった。もし、龍雄が携帯電話を持っていれば、とっくにその携帯電話に電話してることであろう。しかし、龍雄は経費節約の為に携帯電話を持ってなかったのだ。それ故、道代は龍雄と連絡を取れないのだ。
それで、道代は正に苛立ちながら、龍雄の帰宅を待っていたのだが、午後十一時を過ぎても龍雄は帰宅しなかった。
そして、やがて、午前零時になった。だが、龍雄は依然として、帰宅しなかった。そして、その時になって、今日は何かいつもと勝手が違うという思いが道代の脳裏を過ぎった。しかし、道代はその時はまだ、まさか龍雄が道代を捨てて、東京へと雲隠れしたなんて想像だにしなかったのだ。
翌日、道代は午前七時に目覚めた。だが、龍雄の姿は依然として見られなかった。しかし、そのことは凡そ分かっていた。何しろ、道代は昨夜は深い眠りにつけなかったのだ。それ故、龍雄が帰宅すれば、それが道代に分かった筈だからだ。しかし、道代はその気配を感じなかったのだ。
道代は龍雄と結婚して以来、このようなことは初めてであった。即ち、龍雄は道代に無断で帰宅しなかったということは、今までになかったというわけだ。道代との仲が冷え冷えとなってからも、そのような具合であったのだ。そして、それは正に律儀な龍雄の性格を物語っていたのだ。
そんな具合であったから、今の道代の表情は相当強張っていた。龍雄に何かあったのではないかと思ったからだ。
もっとも、今の道代にとって、龍雄の存在は影が薄いものであった。たとえ、龍雄が交通事故で息絶えたと警察から連絡が入ったとしても、道代は涙一つ流さないのではないだろうか。
そんな道代が何故そんなに龍雄のことが気になるのは、前述したように今の道代の収入源は龍雄の給料だけであったからだ。それ故、昨日が給料日の龍雄が今日になっても帰宅しない事実を目の当たりにして、道代が落ち着いた気分でいられないのは、当然のことなのだ。
それで、道代はとにかく九時になれば、龍雄が勤務してるタクシー会社に電話してみることにした。
やがて九時になった。無論、龍雄はまだ帰宅してなかった。それで、道代は龍雄のタクシー会社に電話した。
電話が繋がると、道代は早速、龍雄が昨夜帰宅しなかったことを話した。
すると、その田中という係員は、
―昨日は、大河内さんは出社しなかったんですがね。
そう田中に言われ、道代は呆気に取られたような表情を浮かべた。何故ならそのようなことは、正に想像だにしてなかったからだ。龍雄はてっきり昨日は勤務先のタクシー会社でいつも通り仕事をしていたと思っていたからだ。それ故、今の田中の言葉は道代を大いに驚かせたのである。
それで、道代は言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな道代に田中は、
―ご主人は何故、無断欠勤されたのですかね?
と、眉を顰めて言った。
「無断欠勤ですか……」
道代も眉を顰めては言った。道代はてっきり、龍雄は会社に連絡をしていたと思ってたからだ。それ故、今の田中の言葉は一層道代を驚かせた。
―ええ。そうです。会社に連絡することなく休んだのですよ。そういったことをされたんじゃ困るんですがね。
と、田中は横柄な口調でいった。そんな田中は、そのようなことを何度もするのなら、会社を辞めてもらいますよと言わんばかりであった。
そんな田中の思いを道代が察知したのかどうかは分からないが、道代は、
「申し訳ありません」
と、殊勝な表情を浮かべては謝った。そして、
「で、主人は昨夜は家にも戻って来なかったのですよ」
―そうですか……。
田中は呟くように言った。そんな田中に、道代は、
「何故、昨夜主人が戻って来なかったか、分からないですかね?」
と、些か真剣な表情を浮かべては言った。
ー分からないですね。
田中は素っ気無く言った。
それで、道代は言葉を詰まらせていると、田中は、
―ご主人は今日も出勤してないのですよ。
と、些か怒ったような口調で言った。
そんな田中に道代は、
「そうですか……」
と、呟くように言うしかなかった。
そんな道代に、田中は、
―とにかく、ご主人が戻って来たら、会社に連絡するように言ってくださいね。
そう言っては、田中はさっさと電話を切ってしまった。
田中との電話を終え、道代はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、首を傾げた。正に、今、道代は不可解な出来事に直面してしまったからだ。何しろ、道代の夫である龍雄が、道代にも勤務先にも何も言わずに忽然と姿を消してしまったのだから。その事実は道代に戸惑いをもたらすのに十分なものであった。
もっとも、前述したように、龍雄との仲は既に冷え冷えになっていた為に、今すぐにでも龍雄が死んだとしても、道代は悲しみの涙一つ流すことはないであろう。しかし、道代は龍雄の金が必要であったのだ。龍雄が稼ぐ金しか、今の道代には当てがなかったのである。それ故、道代は龍雄の失踪が気になったのだ。
もし、龍雄のキャシュカードの暗証番号を道代が知っていれば、道代は勝手に龍雄のキャッシュカードを使って、龍雄の銀行口座から金を下ろしたことであろう。しかし、龍雄は何としてでも、龍雄のキャッシュカードの暗証番号を道代に教えなかったし、また、通帳と印鑑も何処かに隠して、その隠し場所を道代に話そうとはしなかったのである。
それはともかく、道代はひょっとして龍雄は交通事故にでも遭って、病院にでもいるのではないかと思ってみた。それで、警察に電話して、状況を話してみた。
だが、今の時点で龍雄と思われる者が交通事故に遭ったという情報は警察に入ってないということであった。
その警察からの返答を受け、道代は改めて龍雄に対する怒りが湧き上がって来た。交通事故に遭ったのではないとすると、龍雄は自らの意思で帰宅もせずに、また、会社も無断欠勤したということになるからだ。
そんな龍雄の態度を見て、道代は改めて龍雄に対する怒りが湧き上がって来たのだ。そして、龍雄が戻って来たら、嘗てない位の罵詈雑言を浴びせてやろうと決意した。
だが、そんな道代は、龍雄が道代を捨て、東京へと新天地を求めたなんてことは、まだ夢にも思わなかったのである。