第九章 仕事開始
1
大河内龍雄は、公衆電話からスポーツ紙で見た求人案内先に電話をし、高橋なる男とコンタクトを取った。そして、高橋と話をしてみた。
高橋から耳にしたその仕事は確かに妙なものであった。このような仕事を龍雄は今まで耳にしたことはなかった。何しろ、惚けた爺さんを監禁するような仕事で、八時間で一万二千くれ
るという。期間はそう長くないということだが、当面その仕事はやってみてよさそうだ。それで、龍雄は意を決して高橋に仕事の詳細を聞く為に高橋と会うことになったのだ。
高橋は今、龍雄が何処にいるのかと訊いて来たので、龍雄は浜松町駅にいると答えた。すると、高橋は、竹芝桟橋で話をしたいと言った。竹芝桟橋は、伊豆諸島に向かう船の発着港となっていて、浜松町駅の近くにある。だが、竹芝桟橋といっても広く、竹芝桟橋の何処で待ち合わせをしてよいのか分かりにくいというものだ。
それで、高橋は伊豆諸島に向かう船の切符売り場内の中程にあるソファに座って、胸には、赤いカーネーションの造花を付けているから、すぐに分かると言った。
龍雄は竹芝桟橋に来るのは初めてであったが、高橋から浜松町駅からの行き方の説明を聞いたので、特に迷うことなく着くことが出来た。そして、やがて、竹芝桟橋の切符売り場の入口の前に来た。そして、入口から中を見やったのだが、随分大きな待合室だと思った。
それはともかく、龍雄は待合室の中に入った。電話で話した限り、高橋という男は、三十前後と思われた。高橋の親父が惚けたというのだから、それ位の年齢であろう。
そう思いながら、龍雄は待合室中程にあるソファに近付いて行った。
すると、高橋はすぐに分かった。何しろ、今は船の出港時間となってないのか、辺りにはあまり人が見られなかった為に、胸に赤いカーネーションの造花を付けている男はすぐに眼についたのだ。その男が高橋という男なのだ。
高橋は龍雄が思っていた通り三十前後と思われる男であった。また、一眼見た限りでは優男のような印象を受けた。いわば、何となくひ弱なお坊ちゃんというような感じだ。そして、このような男なら話し易いという印象を龍雄は抱いた。得体の知れないような求人案内を出し、また、妙な仕事を依頼してくるような男だから、人相の悪いやくざのような男ではないかと、龍雄は些か警戒はしていたので、高橋本人を直に見て、龍雄は胸を撫で下ろさなかったと言えば、それは嘘となるだろう。
それはともかく、赤いカーネーションの造花を付けた男に龍雄はゆっくりとした足取りで近付いて行っては、
「高橋さんですか」
すると、高橋、即ち、日下部国男は、
「そうですが」
と、薄らと笑みを浮かべては言った。
すると、龍雄も薄らと笑みを浮かべ、
「僕が先程電話した大河内と申すものです」
「あなたが大河内さんですか。じゃ、こんな場所で話はしにくいので、外に行くことにしましょう」
そう言っては、国男は龍雄を待合室の外に連れ出し、やがて海が見える岸壁にやって来た。そして、近くにあったベンチに腰を下ろすと、早速国男は話し始めた。
「電話でも話したように、うちの親父は頭が惚けてしまいましてね。それで、手を焼いているのですよ」
と、いかにも困ったと言わんばかりに言った。
「そうですか。それはお困りですね」
と、龍雄はとにかく当たり障りのない言葉を発した。
すると、国男は小さく肯き、そして、
「で、早速仕事の説明に入りますが、うちの親父を少しの間、見張っていて欲しいのですよ」
「見張りですか。でも、見張るだけでは、親父さんは逃げたりしないのですかね?」
龍雄は眉を顰めて言った。
「ですから、親父の手足をロープで括り、親父の自由を奪います。だから、大丈夫ですよ」
と言っては国男は微笑した。そんな国男はまるで国男が申し出た仕事に対する龍雄の不安を解き解そうとしてるかのようであった。
「成程。それなら、見張りは容易く出来そうですね」
と、龍雄は言っては、小さく肯いた。
すると、国男も小さく肯き、そして、
「で、親父を伊豆にある別荘で逃げないように傍で見張ってもらうというのが大河内さんの仕事なんですよ。で、勤務時間は一日につき八時間。そして、大河内さんは当面、その伊豆の別荘に寝泊まりしてもらいます」
そう言っては、国男は小さく肯いた。
「成程。でも、僕は何処で飯を食べるのですかね?」
「それは心配要りません。僕たちがちゃんと手配しますから」
と、国男は龍雄を安心させるように言った。
すると、龍雄は小さく肯き、そして、
「で、見張るのは八時間でよいのですかね?」
そう言った龍雄は、龍雄が見張ってない時間に親父は逃げはしないのかと言わんばかりであった。
すると、国男は薄らと笑みを浮かべ、
「この見張りは三交代制なのですよ。つまり、大河内さん以外にも後、二人人を手配し、その二人でそれぞれ八時間ずつ見張ってもらう予定です」
と言っては小さく肯いた。
すると、龍雄も小さく肯いた。だが、怪訝そうな表情を浮かべては、
「でも、親父さんは惚けてしまってるのですよね。そういった場合は、介護職員でも雇ったらと思うのですがね」
すると、国男の表情から突如、笑みは消えた。そんな国男は余計なことは詮索するなと言わんばかりであった。
案の定、国男は、
「そのようなことには答えられません。そのようなことをあれこれと詮索するのなら、大河内さんを雇うことは出来ません」
と、眉を顰めては、渋面顔で言った。
すると、龍雄は忽ち笑顔を繕っては、
「すいません。余計なことをつい言ってしまって……」
と、いかにも申し訳なさそうに言った。
すると、国男は小さく肯き、そして、
「で、電話でも話したように、時給は千五百円。一日に八時間働いてもらい、期間は一週間位。その間、きちんと仕事を行なってくれれば、最後に後、十五万差し上げます。これが、この仕事の条件ですが」
国男は、龍雄の顔をまじまじと見やっては言った。そんな国男は、この仕事をこの男は果たしてきちんとやりこなせるかどうか、見定めているかのようだった。
そんな国男に、龍雄は、
「要するに、僕は一日の内の八時間、手足をロープで括られた親父さんが逃げないように伊豆の別荘で見張っていればよいのですね? それが、僕の仕事なのですね?」
「そうですよ。で、どうします? この仕事をやりますか? それとも、止めますかね?」
国男は、龍雄の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、龍雄は、
「やらせていただきます」
と、眼を大きく見開き輝かせては言った。そんな龍雄は正にこの仕事は龍雄に向いていると思ったのであった。
すると、国男は安堵したように肯いた。そんな国男はこの仕事の遂行者が見付かって、胸を撫で下ろしているかのようであった。