2

 八木守男は、公衆電話ボックスから出ると、僅かではあるが、表情を綻ばせた。というのは、どうやら仕事が見付かりそうだからだ。
 守男はスポーツ紙で求人案内を見てみたところ、守男に相応しそうな求人案内を眼に留めた。それで、その求人先に電話してみたところ、妙な仕事内容の説明を受けた。
 その妙な仕事とは、惚けた老人の見張りだ。その高橋という男の話だと、高橋の親父が最近惚け始め、見張りが必要となった。だが、家族の者だけでは十分に見張りが出来ない。それで、その見張りをアルバイトにやってもらうという塩梅だ。
 そういった仕事なら、守男でも十分に出来ると思った。何しろ、守男は一億の借金を抱え、その借金を踏み倒し、とんずらして来た男だ。そんな男は、正に社会から身を隠すようにして生きて行かなければならないのだ。そんな守男だから、人眼に着くような仕事は出来ないのだ。それ故、惚けた老人の見張りをするというような仕事は、正に守男が求めていたような仕事だというわけだ。こんな仕事なら、長期間続けたいものだ。
 それ故、守男はその仕事をやってみたいと高橋に言った。そして、それによって、守男は直に高橋と会って、話をすることが決まったのであった。
 そんな守男に高橋は今、何処から電話をしてるのだと訊いて来た。それで、守男は上野の公衆電話ボックスだと答えた。すると、高橋は上野公園の西郷さんの銅像の前で待ち合わせをしたいが、その場所は分かるかと訊いて来た。それで、守男は分かると答えた。
 それによって、守男と高橋の待ち合わせ場所は決まった。そして、待ち合わせ時間も決まった。それは、午前十一時であった。
 今はまだ午前九時を過ぎた頃だったので、高橋との待ち合わせ時間まではまだかなり時間があった。それで、守男は上野駅構内に行っては、売店でパンと牛乳を買っては腹拵えをした。そして、上野公園にまで戻っては手頃なベンチに座っては十一時まで時間潰しを行なうことにした。午前十一時まではまだ一時間程あったが、守男はその一時間がとても長く感じられたのであった。
 それはともかく、待ち合わせ時間の十分前には、守男は西郷さんの銅像の前に来ていた。他に何もすることはないのだから、それは当然のことかもしれない。
 とはいうものの、この場所は守男にとって、嫌な場所でもあった。何故なら、守男は昨夜この場所で夜を明かしたのだが、その時に乞食に狙われ、危うく守男の全財産が入った財布を盗まれるところだったのだ。だが、その財布を守男はパンツの中に入れておいた。それで、難を逃がれたのである。その守男の慎重さがなかったら、今頃守男も乞食になっていたかもしれないというわけだ。
 それはともかく、高橋という男は、電話で話してみた結果、三十前後位の年齢と、守男には思われた。しかし、それは当然のことであろう。何しろ、高橋は惚けた親父がいるとのことだ。それなら、三十位であっても妙ではないというわけだ。
 やがて、十一時となった。そろそろ高橋が姿を見せる頃だ。
 そう守男が思った時に、高橋と思われる男が姿を見せた。高橋は胸に赤いカーネーションの造花をつけているという。そして、それが高橋の目印とのことだ。
 そう守男が思った時に高橋が姿を見せた。その三十にもなってない位の男は胸に赤いカーネーションの造花を付けているから、その男は高橋に違いない。そう確信した守男は、高橋に近付いて行っては、愛想良い表情と口調で、
「高橋さんですか?」
 すると、高橋、即ち、日下部熊男は、薄らと笑みを浮かべては、
「ああ」
 すると、守男は愛想良い表情を浮かべたまま、
「僕が先程電話した森内です」
 と、公衆電話で高橋と話した時に用いた名前を語った。
「あなたが森内さんですか。じゃ、もう少し人気がない所に行っては話をしましょう」
 と言っては、熊男は守男を人気のないベンチまで連れて行くことにした。何しろ、西郷さんの銅像の辺りは、人が引っ切り無く通るのだ。
 熊男は守男に何ら話し掛けようとはせず、ただ黙々と歩みを進め、やがて人気のないベンチにまでやって来た。すると、熊男は、
「じゃ、ここで話をしましょう」
 と言っては、ベンチに腰を下ろした。それで、守男も腰を下ろした。
 そんな守男は実のところ、心の中では安堵していた。というのは、このような妙な仕事を依頼する者はやくざのような者ではないかと思っていたからだ。それで、高橋と会うまでは、甚だ緊張していたのだ。だが、高橋と会ってみて、その守男の緊張は一気に吹き飛んでしまった。というのは、高橋はやくざとは程遠い容貌を持ち合わせた男であったからだ。やくざというより、フリーター、あるいは、プータローとかいった表現が似合うような男であったからだ。もっとも、人は見掛けで決め付けるわけにはいかない。とはいうものの、その外見は守男の緊張を追い払うに十分なものであったのだ。
 それはともかく、熊男は、
「電話でも話したように、森内さんにやってもらいたい仕事は、うちの惚け親父の見張りなんですよ」
 と、眉を顰めては言った。
「何が何だか分からない位惚けてしまってるんですかね?」
 守男はとにかくそう訊いた。
「いや。そこまでは行ってないのですがね。でも、一人にしておくと、何をするか分からない危ない存在なんですよ。ですから、常に誰かが見張ってなければならないのですよ。でも、身内だけじゃ、とても無理なんです。それで、アルバイトを雇うというわけですよ」
 と、熊男は守男の顔をちらちらと見やっては、まるで守男に言い聞かせるかのように言った。
「そういうわけですか。そういった仕事なら、喜んでやらせてもらいますよ」
 すると、熊男は小さく肯き、そして、
「で、親父を見張ってもらう場所は伊豆です。伊豆に別荘がありましてね。そこで、森内さんに見張ってもらうわけです。で、親父の手足はロープで括っておきますから、親父の自由は奪われます。それ故、楽な仕事ですよ」
 そう言っては、熊男は小さく肯いた。熊男は守男を見て、何となくカッコよさそうな男だが、相当に生活の疲れを感じさせるような面立ちをしてるので、こういった男には金さえ摑ませれば何とでも自由に操れるだろうと読んだ。それ故、この森内で熊男たちにカモは決まりだと思った。それで、そうなるように会話を進めようとした。
 そう熊男に言われ、守男は、
「伊豆の別荘ですか……」
 と、呟くように言った。
 すると、熊男は、
「不満ですか?」
 と、眉を顰めては言った。
「いいえ。不満ではないですよ」
 守男は薄らと笑みを浮かべては言った。正に伊豆なら、守男の潜伏先にぴったりだと思ったからだ。まさか福岡の債権者は守男が伊豆の別荘で惚け老人の見張りの仕事をするなんて、夢にも思わないだろうと守男は思ったのだ。そう思うと、守男は思わず笑みを浮かべてしまったのである。
 そんな守男に熊男は、
「で、森内さんは一日に八時間働いてもらいます。時給は電話でも説明した通り千五百円です」
 そう言われ、守男は思わず眉を顰めた。欲を言えば、もう少し欲しかったのである。
 そんな守男の胸の内を熊男は見抜いたのか、
「時給千五百円と言っても、伊豆の別荘に寝泊まりしてもらうわけですから、食事は我々が用意するわけです。無論、食費はいただきませんよ」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。
 すると、守男も薄らと笑みを浮かべた。というのは、正に食事代といえども馬鹿にはならないからだ。何しろ、今や食事代も払えない位、守男の懐具合はよくないのだ。それ故、食事代を出してもらうことは、守男にとって十分にありがたかったのである。
 それで、守男は薄らと笑みを浮かべたのだが、そんな守男の笑みを熊男は好意的な笑みと受け取った。それで、熊男は改めて笑みを浮かべた。そして、
「この仕事が無事に完了すれば、後十五万差し上げますよ。こんな条件のよい仕事はないと思うんですがね」
 と、にこにこしては言った。
 すると、守男は思わず、
「正に僕もそう思いますよ」
 と、熊男に相槌を打つかのように言った。
 そんな守男に、熊男は、
「で、親父は三人で見張ってもらうことになってます。つまり、三交代制で見張ってもらうことになるのです。つまり、森内さんのようなアルバイトを僕は後二人雇うことになるのです」
「つまり、その別荘には、僕のような者が三人が寝泊まりするわけですかね?」
「その通りです」
 熊男は、小さく肯いた。
 すると、守男は眉を顰めた。守男としては、その素性の秘密を守る為に、出来るだけ知り合いを増やしたくなかった。つまり、雇い主以外の知り合いは不要だと思っていたのだ。とはいうものの、贅沢は言えないだろう。
 そう思った守男は、
「で、その仕事はどれ位の期間、行なうのですかね?」
 と、甚だ興味有り気な表情を浮かべては言った。電話では、その説明を聞いてなかったのだ。
 そう守男に訊かれ、熊男は、
「一週間位を予定してます」
 と、淡々とした口調で言った。
 そう熊男に言われ、守男は眉を顰めた。何故なら、もっと長く、この仕事をやってみたいと思っていたからだ。それで、思わず、
「僅か一週間ですかね?」
 と、些か不満そうに言った。
 すると、熊男は些か顔を赤らめ、
「まあ、それ位を予定してるんです。もっとも、長引くかもしれませんがね」
 と、言うに留まった。
 実際には、一週間どころか、二、三日位で虎之助を片付けるつもりであったのだが、二、三日だと言うと、この仕事を引き受ける者がいなくなるかもしれない。それで、そのように誤魔化したのだ。
 守男としては、本当はもっと長期間、この仕事をやりたかったのだが、あまり我儘を言うと、採用を拒否されてしまうかもしれない。それで、やむを得ず、高橋の言い分に応じることになったのだ。

目次     次に進む