プロローグ

 阿蘇は草原がよく似あう。殊に新緑が眩くなり始めた五月に訪れれば、その眩さを一層実感出来るであろう。
 だが、阿蘇の草原が人為的なものであることは案外知られてないのではないか。
 そもそも、今、阿蘇の草原がある辺りを自然に放置しておくと、やがて森林と化す。それを、人間が野焼きするなどして、森林になることを阻止してるのだ。
 即ち、阿蘇の草原の美しさは人によって作られたのだ!
 もっとも、阿蘇を特色付けてるのは、無論草原だけではない。
 阿蘇といえば、正に火口だ。あの中岳の噴火口を見れば自然の驚異を感じずにはいられないであろう。噴火口は周囲700メートルあり、また、その底までは150メートル、噴火口から噴出すマグマは千度だ。
 更に阿蘇のカルデラは東西18キロメートル、南北24キロメートル、その周囲は128キロメートルもある。正に阿蘇のカルデラは世界最大級なのだ。そして、そんな阿蘇には年間一千万人もの観光客が訪れるという。
 正に阿蘇は九州のみならず、日本を代表する観光地なのだ。
 因みに阿蘇のカルデラは一万年前には湖であった。それが、地殻変動などによって立野周辺に断層が出来、湖に溜まっていた水がカルデラの外に流出してしまったのだ。
 だが、もし立野周辺に断層が出来なければ、今は阿蘇のカルデラは阿蘇湖として留まり、中岳周辺は阿蘇湖の島となっていたかもしれないのだ。
 それはともかく、阿蘇を五月に訪れれば、自ずからミヤマキリシマの群落に眼を奪われることであろう。
 ミヤマキリシマといえば、霧島とか雲仙でも見られるが、阿蘇のミヤマキリシマも正に見る者の眼を奪う。殊に中岳の火口近くで見られるミヤマキリシマは素晴らしい。正にその可憐なピンクの花はその豪壮な中岳の火口と共に観光地としての阿蘇を特色づけているのだ。
 さて、熊本市に住んでいる住倉良治(53)は毎年五月の二十日過ぎには必ず阿蘇を訪れていた。阿蘇の緑眩い草原と可憐な花を咲かすミヤマキリシマを見るのが正に良治の愉しみであったのだ。
 そして、今年も例年通り国道57号線を右に折れ、阿蘇登山道路で草千里を通り過ぎ、中岳火口近くの駐車場に車を停め、中岳の噴火口見物を行なった。
 そして、次に地獄温泉に行こうと思い、元来た道を少し走った後、左折した。そして、車を地獄温泉へと向けた。
 だが、少しして良治は車を路肩に停めた。何故なら草原に咲き誇るミヤマキリシマの群落が見事だったからだ。
 中岳火口に向かうロープウェイ乗り場がある駐車場近くで見られるミヤマキリシマの群落も見事だが、その辺りは車の往来が頻繁にある為に人目を気にしなければならない。
 それに対して、この道は阿蘇登山道路といっても、車の往来は阿蘇駅と中岳火口を結ぶ登山道路とは違ってかなり少ない。それ故、人目を気にせずにミヤマキリシマ、そして、辺りの草原を観賞出来るというものだ。
 それで、良治は妻の春子(50)と共に車から降り、道路脇に降り立った。
 すると、五月の爽やかな草原のそよ風が直に肌に触れた。
 それで、良治は思わず、
「気持ちいい!」
 と、口走ってしまった。そして、大きく伸びをした。
 そんな良治を見て、春子は微笑した。
 そして、五十を過ぎているにもかかわらず、まるで少女に戻ったかのような気持ちとなり、春子は草原の中に踏み出してしまった。
 そして、道路から七、八メートル程草原の中に入ったその時、春子の顔は正に強張った。その春子の様はとても尋常ではなかった。
 だが、良治は春子の方に眼を向けてるわけではなかった。良治も春子と同様、まるで少年時代に戻ったかのような気持ちで辺りのミヤマキリシマの群落に眼を奪われていたのだ。
 だが、そんな良治は突如発せられた「あなた!」という春子の只ならぬ悲鳴のような声を耳にし、我に還った。そして、春子の方を見やった。そんな春子は良治から十メートル程離れた所にいた。
 そんな春子に良治は、
「どうしたんだ!」
 と、甲高い声で言った。そんな良治の表情にはつい先程まで浮かべていた笑みはまるで見られなかった。
 そんな良治に春子は、
「人が死んでるの!」
 と、正に引き攣った表情を浮かべては言った。
 良治はそう春子に言われても、すぐに言葉を返すことは出来なかった。何故なら、聞き違いではないかと思ったからだ。 
 だが、春子は再び同じ言葉を発した。
 それで、良治は、
「それ、本当か?」
 と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
 そして、良治はとにかく春子の許に早足で行った。
 そんな良治の眼には自ずからそれが眼に入った。
 それは、正に春子が言ったように、人間の死体であった。良治より少し年下と思える位の男がそこに横たわっていたのだ。そんな男が息を吹き返さないのは明らかであった。また、その男は良治と同様、サラリーマン風であった。それ故、何故男がこのような場所で息絶えなければならなかったのかという疑問が良治の脳裏を捕らえた。
 それで、良治はぼんやりとした表情でその男を見やっていたのだが、そんな良治に春子は、
「警察に知らせなきゃならないよ」
 と、引き攣った表情で言った。
 すると、良治は我に還ったような表情を浮かべては、
「ああ」
 と、呟くような声で言っては車の中のバッグに仕舞ってあった携帯電話で直ちに110番通報したのであった。

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