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 志高湖は、別府から国道210号線を湯布院に向かって車で走れば、凡そ三十分程で着く。その途中、鶴見岳ロープウェイ乗場を通り過ぎ、やがて、左折すると、程なく志高湖というわけだ。
 志高湖は阿蘇くじゅう国立公園に指定されてるだけあって、流石に風光明媚なスポットだ。面積はさ程大きくないとはいえ、辺りはリゾート的雰囲気に包まれ、ボート遊びも出来る。また、周辺には散策路も整備され、志高湖に程近い所にある神楽女湖まで散策路が伸びている。
 そして、五月ともなれば、辺りは新緑が美しく、正に別府方面にまで観光でやって来れば、是非訪れてみたいスポットである。
 とはいうものの、今日は平日ということもあってか、赤松豊が志高湖を訪れた時には、辺りに人は誰もいないという塩梅であった。
 もっとも、まだ朝の九時前で、しかも、今日はどんよりと曇り、視界がよくないということも影響してるといえるだろう。
 そんな赤松は、東京からの旅行者で、今回の旅行は一人旅であった。
 もっとも、赤松は一人旅が好きで、都合がつけば、日本の色んな所に旅をするというわけだ。そんな赤松の職業は、塾の講師であった。
 それはともかく、赤松は志高湖近くの駐車場に車を停め、志高湖へと向かった。
 といっても、志高湖は赤松のすぐ眼前であったので、すぐそれが志高湖であるということを赤松は理解したのだが、しかし、そんな赤松の表情は、晴れ晴れとしたものではなかった。というのは、ガスの為に、志高湖の全容を眼にすることが出来なかったのだ。
 そんな志高湖には桟橋があって、ボートが繋留されてはいたが、今は水位がとても下がっていて、志高湖でのボート遊びは出来ないと察知した。
 また、赤松が観光ガイドの写真で見た志高湖とは、何となく印象が違うと思った。というのも、その写真は晴天の時に撮られたものであるのに対して、今はガスが掛かる曇天ということもあるだろう。
 とはいうものの、正に高原の中の小さな湖で、やはり来てよかったと、赤松は心の中で思っていた。
 そんな赤松はまだしばらくの間、正に今はひっそりと静まり返ってる志高湖の光景に眼をやりながら、そろそろ戻ろうかと思ったその時である。
 赤松は頭部に鈍い痛みを感じたかと思うと、そのまま意識を失ってしまったのである。

 そんな赤松は、
「もしもし」
 と耳元で囁くような声を耳にした。
 その声は、夢の中で聞こえたのか、また、現実で聞こえたのか、赤松にはよく分からなかった。 
だが、赤松は、眼を見開いた。
 すると、赤松の知らないような場所にいるような気がした。
 そんな赤松は再び、
「もしもし」
 という声を耳にした。
 それで、赤松は思わず、その声の主の方に眼を向けた。
 すると、そこには、赤松の知らない男性と女性がいた。
 その男女は、六十を越えた位の年齢であり、また、穏やかな感じであったので、その男女は赤松に警戒心を抱かせはしなかった。
 ということもあり、赤松は上半身を起こした。
 すると、辺りの風景が赤松の眼に飛び込んで来た。そして、その光景は、何となく見たことのあるようなものであった。
 そして、程なく赤松は事の次第を思い出した。
 そう! 赤松は今朝、九時前に志高湖にやって来ては、志高湖見物をしていて、そろそろ戻ろうかと思っていた時に、頭部に鈍い痛みを感じ、そして、そのまま意識を失ってしまったのだ。
 そう思っていた赤松に、その穏やかそうな男性が、いかにも赤松を心配そうに見やっていた。
 それで、赤松は、
「大丈夫ですよ」
 と、はっきりとした表情と口調で言った。
 すると、男性は、
「そうですか」
 と、いかにも安心したように言った。
 そんな男性に、赤松は事の次第を話した。
 そんな赤松の話に、男性は何も言わずにじっと耳を傾けていたが、赤松の話が一通り終わると、
「それはとんでもない目に遭いましたね」
 と、眉を顰めた。
 そう男性に言われると、赤松は小さく肯いた。正にその通りだったからだ。
 そんな赤松に、男性は、
「でも、このことは警察に言った方がいいですよ」 
と、いかにも心配したような表情で言った。
 赤松は男性にそう言われなくても、そのようにするつもりであった。
 因みに、赤松が意識を失っていた時間は、三十分程であった。
 無論、その間に、赤松に一撃を加えた曲者の姿が辺りに見られる筈もなく、また、誰が赤松に一撃を加えたのか、赤松はそれに関して皆目分からなかったのだ。

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