1
志賀高原といえばスキーであろう。二十を超えるスキー場がロープウェイやゴンドラ、リフトで連絡され、日本一の規模を誇っている。
だが、雪がない季節の志賀高原も魅力一杯だ。春の新緑の中のハイキングや夏の避暑、秋の紅葉巡りと、正に魅力に尽きないというものだ。
さて、西口治と明子夫妻はこの度、二泊三日の予定で、志賀高原と妙高高原周辺の旅行にやって来た。そんな二人の移動手段は、軽井沢駅前で借りたレンタカーであった。
そして、そのレンタカーで昨日は白糸の滝とか鬼押出し見物を行ない、そして、昨夜は高天原にあるホテルに泊まった。そして、今日は高天原にあるリフトに乗り、その後、志賀高原周辺の主だった湖沼を見物しようと思っていたのだが、今日は生憎の雨であった。それで、高天原のリフトには乗ることが出来なかった。また、雨と強風の為に蓮池と高天原を結ぶロープウェイも運休となってしまった。それで、西口夫妻は大いにがっかりした。そして、今、西口夫妻はロープウェイ乗り場前にある駐車場にいたのだが、そんな二人の眼前には虹が掛かっていた。西口夫妻は今までにこんな豪壮な虹を見たことはなかった。これは、正に不幸中の幸といえるだろう。リフトとロープウェイには乗れなかったものの、晴天ならこのような虹を見ることは出来なかったからだ。
それはともかく、今、雨が降ってるといえども、西口夫妻の足は車だから、この辺りの湖沼、即ち、琵琶池とか丸池位は見ることは出来るだろう。
琵琶池は志賀高原では二番目に大きい池で、その形が琵琶に似てるから、その名前が付けられていた。そして、琵琶池の周囲には遊歩道が設けられ、絶好の散策コースとなってるらしいが、今は雨の為にその散策コースを歩くことは出来ないと治は思った。
それはともかく、蓮池から林の中を縫うような細い道を少し走ると、程なく琵琶池が見えるようになった。そして、やがて琵琶池の案内板を眼にするに至った。
それで、西口夫妻はその案内板を背景にセルフタイマーを使って記念撮影をした。そして、その場所から少しの間、琵琶池の光景を見やっていたが、雨もかなり小降りとなっていたので、その場所から伸びている遊歩道を少し歩いてみることにした。今、その遊歩道には人気は全く見られず、また、紅葉が見事であったので、折角ここまで来たのだから、歩かないでいられなくなったのだ。
そんな西口夫妻は、その神秘的な琵琶池を眼にしながら傘を手に歩き始めたのだが、歩き始めて二十メートル程進んだ時に、遊歩道と琵琶池に挟まれた草むらにとんでもないものを眼にしてしまった。
それは、人間の死体であった。五十を過ぎた位の男性の死体がうつ伏せになって横たわってるのを眼にしてしまったのだ。
それは、正に人間の死体であり、人形ではなかった。何故なら、顔が少し捻じ曲がっていた為に、西口夫妻はその男性の顔を眼にしてしまったのだ。そして、その顔は正に人間のものであり、絶対に人形ではなかったのである。
とはいうものの、慎重な性格の西口夫妻は、それが間違いなく人間なのか確かめてみることにした。
西口夫妻は正に恐る恐るそれに近付き、その手に直に触れてみた。
すると、その手には体温はなかった。そして、間違いなく人間であることを確認した。それを受けて、直ちに携帯電話で110番通報したのである。
西口夫妻からの電話を受けて、志賀高原警察官駐在所の上田巡査と大熊巡査が直ちに現場に急行し、そして、男性の死を確認した。
男性は五十の後半位で、黒のジャンパーと黄土色のズボン姿であった。そんな男性は何となく知的な面立ちをしていた。
それはともかく、男性はやがて駆けつけた救急隊員によって、長野市内のK病院に運ばれて行った。そして、念の為に解剖が行なわれることとなった。
すると、やがて、死因が明らかとなった。男性の死因は青酸死であったことが早々と明らかとなったのである。
その結果を受けて、長野県警の長島警部(50)は、渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせた。というのは、長島は男の死を事故死として処理しようと思っていたからだ。即ち、男性は琵琶池に面した遊歩道を歩いている時に、心臓発作なんかで死んでしまったとして処理しようと思っていたのだ。そして、男性の死因がそのような結果となることを期待していたのだが、あっさりとその期待は裏切られてしまった。
即ち、男性の死が青酸死であるということは、殺しである可能性も有り得る。
それ故、場合によっては長野県警捜査一課の出番となるかもしれないという状況になって来たのだ。
だが、少しでも面倒な事件を増やしたくないと思っていた長島は、そうならないようにと思いながらも、とにかく男性の身元確認の捜査から始めることとなった。
すると、男性の身元は早々と明らかになった。何故なら、男性の上着のポケットに免許証が入っていたからだ。
それによると、男性の姓名は早川紀行という五十八歳で、住所は長野市M町××となっていた。そして、電話番号帳から早川宅の電話番号も分かったので、長島は直ちに早川宅に電話をしてみた。
すると、早川の妻と思われる女性が電話に出た。それで、長島は、
「そちらに早川紀行さんはいますか?」
と訊いてみた。
すると、その女性、即ち、紀行の妻の真澄は、
―それは、主人ですが、今、主人とは連絡が取れないのですよ。
と、いかにも落ち込んだような声で言った。
そんな真澄の声を耳にし、長島は琵琶池の畔で見付かった男性は、やはり、早川紀行であることは間違いないと思った。
それで、長島はその旨を話した。
そんな長島の話に、真澄は何ら言葉を挟むことなく耳を傾けていたが、長島の話が一通り終わると、
―それ、本当ですか?
と、いかにも信じられないような口調で言った。
「ええ。間違いありません。何しろ、免許証が上着のポケットに入っていて、その仏さんはその免許証の人物、つまり、早川紀行さんに間違いありませんでしたから」
そう長島に言われ、真澄は直ちに早川の遺体が安置されてるという長野市内のK病院に向かうこととなった。
そして、真澄はやがてK病院に着き、そして、その遺体と対面したが、その遺体はやはり、夫の紀行に間違いなかった。
それで、真澄はいかにも深刻そうな表情を浮かべ、程なく涙を浮かべた。
そんな真澄に長島は紀行の死因が青酸死であることを説明した。
真澄はといえば、そのように長島に言われても、何ら言葉を発そうとはしなかった。
それで、長島は、
「で、奥さんはそれに関してどう思われますかね?」
と、いかにも言いにくそうに言った。そんな長島は、まだ紀行の死に対する悲しみが癒えないのに、早々と捜査に取り掛かって申し訳ないと言わんばかりであった。
「どう思われますかとは?」
「ですから、ご主人は、自分で青酸を飲んで亡くなられたのか、あるいは、何者かに飲まされたのかというようなことですよ」
と、長島は真澄に言い聞かせるかのように言った。
すると、真澄は、
「はっきりとしたことは分かりませんが、自分で飲んだのかもしれませんね」
と、いかにも神妙な表情を浮べては言った。
「ということは、ご主人は自殺されたということですかね?」
長島は眉を顰めて言った。
すると、真澄は渋面顔を浮かべては、
「その可能性はあるかもしれません」
と言っては、小さく肯いた。
すると、長島は眉を顰めたまま、
「何故そう思われるのですかね?」
と、興味有りげに言った。
「主人は何か悩みを抱えていたみたいでしてね。で、その悩みがどのようなものなのかははっきりと言いませんでしたが、その悩みの為に寝てる時にうなされることもあったのですよ。で、最近も随分鬱状態の日々が続いていましてね。それで、私はいつかこうなるんじゃないかと思ったりしたこともありました」
と、真澄は神妙な表情を浮かべては言った。
そう真澄に言われ、紀行の死は自殺で決まりと思った。それで、長島は些か安堵した。というのは、今、長野県警の未解決の殺人事件を三件抱えていた為に、これ以上、厄介な事件を増やしたくなかったからだ。
それはともかく、紀行が自殺に用いた青酸をどうやって入手したのだろうか? その点を明らかにしておかないと、紀行の死をあっさりと自殺として処理出来ないというものだ。
それで、長島は真澄に青酸の入手経路に関して訊いてみた。
すると、真澄は、
「それは容易いことですわ。何しろ、主人は勤務医をしてましたから」
「そういうわけですか」
と言っては、長島は不謹慎にも笑みを浮かべてしまった。勤務医なら青酸を容易く入手出来るだろうからだ。そして、今の真澄の証言により、紀行の死は自殺で決まりだ。そう長島は確信した。
後は、いかにして紀行が死に場所として選んだ琵琶池に行ったのか、また、紀行の悩みというものを明らかにし、調書に記す位であろう。
もっとも、いかにして紀行が死に場所として選んだ琵琶池に行ったかということは、特に深く考えるまでもないであろう。何故なら、琵琶池近くの蓮池へは、バスで行けるからだ。そして、蓮池から琵琶池までは徒歩で十分も掛からない位なのだ。
紀行が抱えていた悩みというものも、特に深く捜査する必要もないであろう。妻の真澄が紀行が何か悩みを抱えていて、その悩みの原因なるものによって紀行が死亡したといえども、その悩みを解明しなければならないという道理はないというものだ。
何しろ、先述したように、長野県警はここしばらくの間で未解決の殺人事件を数件抱えていた。それ故、面倒な事件をこれ以上増やしたくなかったのだ。
そういった思いも働き、早川紀行の事件は自殺で処理されることとなったのだが、ところがとんでもない情報が寄せられた為に、そうはいかなくなってしまったのである。