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 その情報を長野県警に寄せたのは、高柳慶介という五十八歳の男性で、S大医学部の教授であった。医学部の教授である為か恰幅の良さそうな紳士であると思われたのだが、高柳の表情はかなり窶れ、そんな高柳の様からすると、高柳は何か悩みでも抱えているかのようであった。
 そんな高柳の来訪の目的は、早川紀行の死に関してであった。
 そして、高柳の来訪の目的は、予想外のものであった。何故なら、早川の死は、既に自殺によるものという決定が下され、今や、早川の死に関する捜査は行なっていないのだ。そんな折に高柳の来訪である。それ故、高柳に応対することになった長島の表情に戸惑いの色が見られるのは至極当然のことであった。
 それはともかく、長島は高柳を奥の室へと通し、ソファに座るように促した。それで、高柳は畏まった表情を浮かべては腰を下ろした。
 そんな高柳に長島も、
「で、高柳さんは先日志賀高原の琵琶池の畔で亡くなった早川紀行さんの死に関して何か話したいことがあるとか」
 と、畏まった様を浮べては言った。
 すると、高柳は畏まった表情のまま、
「そうなんですよ」
 と、小さな声で言った。
それで、長島はとにかく、
「それ、どういうことですかね?」
 と、高柳の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、高柳は長島から眼を逸らせては、十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、長島を見やり、
「実はですね。僕と早川君は、医学生の時からの友人だったのですが、その医学生時代に早川君はとんでもないことを仕出かしてしまったのですよ。で、そのとんでもないこととは、早川君と僕の二人だけしか知らないことなのですよ。で、僕はもし早川君がこのような死に方をしなければ、このことを決して警察に話すようなことは行なわなかったでしょう。でも、僕は早川君の死が、そのとんでもないことに関係してると推理してるので、僕はそのことを警察に話さざるを得ないのですよ!」
 と、いかにも興奮気味に言った。
 その高柳の話に俄然興味を抱いた長島は、
「それ、どういったものですかね?」
 と、いかにも好奇心を露にして言った。
「それは、轢き逃げなんですよ」
 と、高柳は長島から眼を逸らせては、いかにも言いにくそうに言った。
「轢き逃げですか……」
 その高柳の言葉が思ってもみなかったものだった為に、長島はいかにも驚いたような表情と声で言った。
「そうです。轢き逃げです。早川君が二十二歳の時に、早川君は轢き逃げ事件を起こしてしまったのです。しかも、その時、早川君は酒を飲んでいたのです。酒を飲んで事故を起こしてしまったということが発覚すれば、退学処分になってしまうかもしれません。それを早川君は何としてでも避けたかったのですよ。何しろ、早川君は苦学して医学生になったのです。それなのに、ちょっとした気の緩みで将来を棒に振りたくなかったのです。それ故、早川君が轢いた婦人をそのままにしては、早川君はそのままに逃げてしまったのですよ」
 と、高柳は長島に言い聞かせるかのように言った。
そんな高柳に長島は、
「その話は間違いないのですかね? また、何故そのようなことを早川さんは高柳さんに話したのですかね?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 そう長島に言われ、高柳は小さく肯いた。そんな高柳は、長島がそう言うのはもっともだと言わんばかりであった。
「実は、僕もその車に乗っていたのですよ。つまり、早川君がその車を運転し、僕が助手席に座っていたというわけです。つまり、僕は早川君の共犯というわけなんですよ」
 と、高柳は長島から眼を逸らせては、いかにも言いにくそうに言った。
 そう高柳に言われ、長島は渋面顔を浮かべた。何故なら、今、長島の眼前にいる高柳なる医学部の教授は、轢き逃げの共犯者ということが、高柳の証言から明らかとなったからだ。とはいうものの、今更、その罪で高柳を逮捕することは出来ないだろう。何しろ、もう三十五年も昔のことなのだから。
それ故、長島の表情は些か険しくなった。とはいうものの、今、その思いを口にするのは野暮というものであろう。
それ故、その点には触れることもなく、引き続き長島は高柳の話に耳を傾けようとした。高柳はそんな長島に安心感を抱いたのか、引き続きその三十五年前の昔話を話し始めた。
「で、早川君に轢かれた婦人の死は、やはり新聞で報道されました。それで、僕たちは正にびくびくしてましたが、警察は僕たちの前に現われたものの、逮捕には至りませんでした。それ故、僕たちは徐々にこの不祥事は闇に葬れると思い始め、実際にもそうなったのですよ。ところが……」 
 と、言っては、高柳は一呼吸した。そんな高柳は、これから話すことが高柳たちの不幸の始まりとなったと言わんばかりであった。
「正に運命というのは皮肉なものであるということが、このケースにも当て嵌まるということが証明されたような出来事が発生したのです。
 というのは、何と三十五年前に早川君の車に轢き逃げによって死亡した婦人の息子と思われる人物を、早川君が診察することになってしまったのですよ」
 と、高柳はいかにも険しい表情を浮かべては言った。
 すると、そんな高柳に長島は、
「ちょっと待ってくださいよ」
 そう長島に言われ、高柳の言葉は詰まった。そんな高柳は、いかにも表情を畏まらせては、次の長島の言葉を待った。そんな高柳に、長島は、
「何故、早川さんは、その患者が早川さんが轢き逃げした婦人の息子だと分かったのですかね?」
「早川君は早川君が轢き逃げした婦人の姓名を知ってました。というのは、その婦人の姓名は新聞で掲載されたからです。また、姓名だけでなく、婦人の住所も凡そ掲載されてたので、早川君はその婦人が何処の誰なのかを知っていたというわけです。
 で、何故、早川君がその男性患者が、その婦人の息子だと知ったかというと、その男性患者の保険所に記載されている住所だけでなく、その男性は自らの母が轢き逃げで死亡してることを早川君の診察を受けてる時に話したのですよ。それで、そのことを知ったというわけですよ」
 と、高柳は正に長島に言い聞かせるかのように言った。
 すると、長島は、
「なる程」 
 と言っては、小さく肯いた。その高柳の説明は、長島が納得が出来る説明であったからだ。
 とはいうものの、まだ、何故そのことが早川の死に関係あるのか、まだ、分からなかったが、しかし、今までの高柳の話からすると、その婦人の息子が早川に復讐したというストーリーが自ずから浮かんでは来るだろう。それで、その思いを長島は高柳に話してみた。
 すると、高柳は、
「正にその通りなんですよ」
 と、流石に警察だと言わんばかりに言った。
 すると、そんな高柳に長島は、
「ちょっと待ってくださいよ」
 そう長島に言われると、高柳は表情を改め、長島の次の言葉を待った。そんな高柳に、
「早川さんの轢き逃げは露見しなかったのですよね? それなのに、婦人の息子は、何故早川さんがその婦人の轢き逃げ犯だと知っていたのですかね?」
 長島はいかにも納得が出来ないように言った。
「知ってはいなかったと思います。容疑者の一人として看做していただけだと思います。それ故、轢き逃げのことを話し、早川君の反応を見ようとしたのかもしれませんね」
「なる程。それで、早川さんはびびってしまたというわけですか?」
「そうです。で、早川君はその人物、即ち、岸田さんの圧力には気になってはいたものの、そうだからといって、それは致命的なものには至りませんでした。何しろ、今になってみれば、岸田花代さんを轢き逃げしたのが、早川君だと証明するのは甚だ困難だと思われますからね。
そのことを認識した岸田さんは、早川君を殺したというわけですよ」
 そのように高柳に言われ、長島は渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせた。確かに、その可能性は有り得ると思ったからだ。
 とはいうものの、証拠がないと、今の高柳の推理は正に絵に描いた餅に等しい。そう思った長島はその旨を話した。
 すると、高柳は、
「それが証拠はあるのですよ」
 と言っては、いかにも険しい表情を浮かべた。
「ほう……。それはどんなものですかね?」
 長島はいかにも興味有りげに言った。
 そんな長島に、高柳は、
「実はですね。僕は早川君から相談を受けていたのですよ」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「相談? どんな相談ですかね?」
 長島はいかにも興味有りげに言った。
「ですから、岸田さんから言い掛かりをつけられてるというものです」
 高柳は神妙な表情を浮かべては言った。そして、
「ええ。そうです。言い掛かりです。早川君が轢き逃げ事件を起こしたのは、もう三十五年も昔の話ですから、今更そのことを裏付けようとしても、それは無理というものでしょう。でも、岸田さんは、岸田さんの母を轢き逃げしたのは早川君であったということを何らかの手段で突き止めたのだと思います。それで、早川君はそんな岸田さんに言い掛かりをつけられていたのではないかと思います。
 もっとも、どんな言い掛かりなのかは早川君は詳細には話してはくれませんでした。
 でも、僕の察するところでは、早川君は脅されていたのではないかと思います。つまり、轢き逃げ事件のことを公にされたくなければ、口止め料と慰謝料を払えという具合に。
 そして、その脅しは早川君を大いに悩ませたと思います。何しろ、早川君は妻子ある身の上で、またK病院の内科部長をしてますからね。それ故、早川君が学生の時にそのような事件を起こしていたことが公になってしまえば、早川君が今まで蓄積して来た社会的信用を一気に喪失してしまうことになり兼ねません。更に、職を失い、早川君一家は路頭に迷ってしまうことになってしまうことになり兼ねません。
 それで、早川君はそんな岸田さんの要求に屈してしまったのではないでしょうか。
 それで、志賀高原に琵琶池の畔、あるいは、その周辺で岸田と会い、岸田が要求した金を払おうとしたのかもしれないということですよ」
 と、高柳はまるで長島に言い聞かせるかのように言った。そして、更に話を続けた。
「で、早川君は岸田さんの要求通りに口止め料と慰謝料を払う為に志賀高原に行ったのです。でも、早川君は元々岸田さんに対して金を払う気なんかまるでなかったのです。そして、岸田さんの要求に応じた振りをして志賀高原に行ったものの、そこで岸田さんを亡き者にしようと目論んだのかもしれないということですよ。何しろ、勤務医である早川君が岸田さんを死に至らしめる毒薬を入手することはさ程困難ではないですからね」
 と言っては、高柳は力強く肯いた。そんな高柳は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
 そして、高柳は更に話を続けた。
「で、早川君は岸田さんを亡き者にしようとして、青酸を持参して来たのだが、その青酸が岸田さんを死に至らしめる為に使われたのではなく、何故か早川君を死に至らしめてしまったというわけです」
 と、高柳は力強く肯いた。そんな高柳は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
 そんな高柳は更に話を続けた。
「で、後一つの可能性は、元々岸田さんは早川君を殺すことしか考えてなかったというケースですよ。
 つまり、岸田さんは自らの母親を轢き逃げし、死に至らしめた早川君のことをどうしても許せなかった。それで、金で解決する振りを装っては、殺したということですよ」
 と、高柳は力強い口調で言っては、肯いた。そんな高柳はその可能性も十分にあると言わんばかりであった。
 すると、長島は、
「ちょっと待ってくださいよ」
 と、その高柳の推理にクレームをつけた。
 それで、高柳の言葉は詰まった。そんな高柳は、次の長島の言葉を待った。
 そんな高柳に長島は、
「岸田さんを死に至らしめた青酸を早川さんが手に入れることは可能だと思いますが、岸田さんは手に入れられるのですかね?」
 と、渋面顔で言った。
 すると、高柳も渋面顔を浮かべては、
「僕は岸田さんがどういった仕事をしてる人物なのかはまるで分からないです。
 でも、今はインターネットなんかでも青酸を売買しようと思えば、決して不可能ではありません。また、自らでメッキ工場なんかに忍び込んでは手に入れたのかもしれません。
 僕が何を言いたいのかというと、要するに日頃青酸に全く縁がない人でも、手に入れることが出来ないということでもないということですよ」
 と、正に長島に言い聞かせるかのように言った。
 そう高柳に言われ、長島は、
「なる程」
 と、いかにも納得したように肯いた。確かにその可能性は有り得ると思ったからだ。
 それで、長島は、
「じゃ、一度その岸田さんのことを捜査してみますよ。で、岸田さんは何処に住んでるのですかね?」
「長野市内のK町三丁目ですね。でも、これは三十五年前のことであり、今も絶対にそこに住んでるかどうかは、僕では何とも言えません。
 でも、最近になって、岸田さんは早川君の診察を受けたのは間違いのないことですから、岸田君が勤務していた病院を当たってみれば、岸田さんが今、何処に住んでるのかは明らかになりますよ」
 そう高柳に言われ、長島は早速岸田幹男という男を見付け出し、岸田から話を聴いてみることになったのであった。

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