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岸田幹男の連絡先は容易く分かった。早川が勤務していたK病院で使用した健康保険証から、それが明らかになったのだ。
それで、長島は早速岸田に会って、岸田と話をしてみることにした。
千曲川の近くにある岸田宅は、敷地が七十程で、住まいは古びた三十坪程の木造住宅であった。
そんな岸田宅に、長島は制服姿で訪れた。
すると、そんな長島の来訪に、岸田は些か驚いたような表情を浮かべた。そんな岸田は制服姿の警官が、一体何の用があるのかと言わんばかりであった。
そんな岸田に、長島は警察手帳を見せては、改めて自己紹介し、そして、
「岸田さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
と、岸田の顔を見やっては、落ち着いた表情と口調で言った。
すると、岸田は特に表情の変化を見せないで、
「それ、どういったことですかね?」
そんな岸田に、長島は神妙な表情を浮かべては、
「随分昔のことを話題にしますが、岸田さんのお母さんは三十五年前に轢き逃げに遭い、死亡されたとか」
そう長島が言うと、岸田の表情は一気に強張った。そんな岸田は、正に触れられたくないことに言及されたと言わんばかりであった。
そんな岸田に、長島は、
「もうその事件のことは時効になってしまったので、もし、今になってその犯人が明るみになっても、その犯人を法律では裁くことは出来ません。
で、もし、今になって、お母さんを轢き逃げした犯人が誰なのか分かれば、岸田さんならどうしますかね?」
と、岸田の顔をまじまじと見やっては、興味有りげに言った。
すると、岸田は表情を綻ばせては、
「随分妙な質問をするのですね。一体、どういった風の吹き回しですか」
すると、長島は、
「では、最近になって、岸田さんはK病院で診察を受けられましたね」
そう長島が言うと、岸田の表情からは笑みが消えた。そんな岸田は、まるで訊かれたくないことを訊かれてしまったと言わんばかりであった。
そんな岸田に長島は、
「一体、何処が悪かったのですかね?」
と訊いた。
実のところ、長島は岸田はK病院で診察を受けたものの、特に悪いところがなかったということを既にK病院の医師から確認していた。
となると、高柳の推理、即ち、岸田が意図的に早川に近付いたという推理は、一層現実味を帯びて来た。即ち、岸田は、自らが早川の轢き逃げで死んでしまった岸田花代の息子であるという無言の圧力を早川にかける為に、K病院の早川に会いに行ったという推理は一層現実味を帯びたのだ。
それはともかく、そう長島に言われ、岸田は、
「時々、胸の動悸がしましてね。心臓が悪いんじゃないかと思い、診察を受けたのですよ」
「そういうわけでしたか。で、岸田さんを診察したのは早川医師だったのですが、早川医師には以前、診てもらったことはおありですかね?」
そう長島が訊くと、岸田は、
「いいえ」
と、即座に首を振った。
「そうですか。で、岸田さんは元々早川医師のことをご存知だったのではないですかね?」
と、長島が言うと、正に岸田は妙なことを訊くんだなと言わんばかりの表情を浮かべた。案の定、岸田は、
「妙なことを言われるのですね」
と、怪訝そうな表情を浮かべた。
すると、長島は、
「そのような話を耳にしたことがありましてね」
「誰がそんなことを言ってたのですかね?」
岸田は怪訝そうな表情を浮かべたまま言った。
「早川医師の知人がそう言ってたのですよ。もっとも、そうだとは断言はしてませんがね。
それはそれとして、岸田さんはそのK病院の早川医師が、先日志賀高原の琵琶池の畔で変死体で発見されたのをご存知ですかね?」
そう長島が言うと、岸田の言葉は詰まった。そんな岸田はかなり表情を強張らせた。
そんな岸田に長島は同じ問いを繰り返した。
すると、岸田は、
「いいえ。今、そのことを初めて知りました」
と言っては、いかにも驚いたような表情を浮かべた。
そんな岸田に、長島は、
「新聞にその記事は記載されたのですが、岸田さんは新聞をご覧になられなかったのですかね?」
と、岸田の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、岸田は、
「僕は新聞を購読してませんでしてね。それで、新聞は読んでないのですよ」
と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「そうですか。で、早川さんの死は青酸死なんですが、まだ、自殺したのか、あるいは、他殺なのか、分かってないのですよ」
「それで、長島さんが捜査されてるというわけですか」
と言っては、岸田は小さく肯いた。
「まあ、そういうことですよ」
と、長島も小さく肯いた。
そんな長島に、
「で、長島さんはその早川さんの死に関して、何か僕に話があるんですかね? それで、僕の家にやって来られたというわけなんですかね?」
そう言った岸田の表情は、かなり真剣なものであった。
そんな岸田に、
「まあ、そういうわけですよ」
と、長島は言っては、小さく肯いた。
すると、岸田は、
「その早川さんの死に関して、長島さんは僕に何の話があるのですかね? 早川さんの死に僕がどう関係してるというのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないような表情を浮かべては言った。もし、岸田が早川の死に関係してるのに、このような表情を浮かべたとしたのなら、岸田は大した役者と言うことになるだろう。
それはともかく、そんな岸田に、長島は、
「その問いに答える前に、岸田さんは十月四日の午後四時から六時頃に掛けて、何処で何をしてましたかね?」
と、早川の死亡推定時刻の岸田のアリバイを確認してみた。
すると、岸田の表情は忽ち強張った。
そんな岸田の表情の変化を長島は見逃さなかった。
岸田はその長島の問いに、強張った表情を浮かべては、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
それで、長島は同じ問いを繰り返した。
すると、岸田は、
「その頃は、軽井沢の方に行っていたのですよ」
と、渋面顔で言った。
「軽井沢ですか……。何故、そのような所に行っていたのですかね?」
長島は興味有りげに言った。
すると、岸田は、
「それがですね。妙な手紙を僕は受け取りましてね」
「妙な手紙ですか。それ、どういった手紙ですかね?」
長島は再び興味有りげに言った。
すると、岸田は眼を大きく見開き、
「僕のお母さんを轢き逃げした人物が誰なのかを話してあげるから、十月四日の午後四時頃、軽井沢の鬼押出し園の駐車場にまで来るようにという手紙ですよ」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「ほう……。そのような手紙を受取ったのですか……」
と、長島はいかにも驚いたような表情を浮かべた。正に、そのような手紙を受取ったのは、ノンフィクションの世界というよりも、フィクションの世界での出来事のように思えたからだ。
それはともかく、
「で、その手紙を受取った為に、岸田さんはのこのこと軽井沢の鬼押出し園にまで行ったのですかね?」
と、長島は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、岸田は、
「そうなんですよ」
と、小さな声で、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
すると、長島は、
「でも、それは妙ではないですかね? 何処の誰だか分からないような相手から受取った手紙の為に、わざわざ鬼押出し園まで行きますかね? そんなことは常識的ではないと思うのですがね?」
そう言った長島の表情には、幾分か厳しさが見られた。そんな長島の胸中には、下手な嘘をついても無駄だぞという思いも存在していた。
即ち、その手紙を受取り、鬼押出し園にまで行ったという岸田の説明は嘘で、岸田は何らかの手段で早川を呼び出し、何処かで殺害しては、志賀高原の琵琶池の畔に遺棄したのだ。何故琵琶池に遺棄したのかというと、それは深く考えるまでもない。岸田の母親が轢き逃げに遭ったのは、軽井沢であったからだ。それ故、早川の死に場所を軽井沢方面にしたわけだ。
そう長島に指摘されると、岸田は長島から眼を逸らせ、言葉を詰まらせてしまった。
それで、長島は同じ言葉を繰り返した。
すると、岸田は長島を見やっては、
「実はですね。長島さんには、先程嘘をついてしまいましてね」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
「嘘? それ、どんな嘘ですかね?」
長島は、岸田の顔をまじまじと見やっては、いかにも興味有りげに言った。
「早川医師に関することです」
岸田は長島から眼を逸らせては、再び決まり悪そうに言った。
「早川医師に関することですか。どんな嘘をついていたというのですかね?」
長島はいかにも興味ありげに言った。
すると、岸田は長島から眼を逸らせては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、長島を見やっては、決まり悪そうな表情を浮かべては話し始めた。
「ですから、先程長島さんは、僕に早川医師に今まで診察を受けたことはないと言いましたが、その辺に関することなんですよ」
「ほう……。では、今まで岸田さんは早川さんの診察を受けたことがあるのですかね?」
「いや。そうじゃないんです」
と言っては、岸田は頭を振った。
「じゃ、何処が嘘なんですかね?」
長島は興味有りげに言った。
「ですから、僕はただ単に偶然に早川医師の診察を受けたわけではないのですよ」
と、岸田は眉を顰めた。
「偶然に診察を受けたわけではない? それ、どういうことですかね?」
長島は長島の推理では、岸田は早川に心理的な圧力をかける為に早川の許に現われたということになっていたが、その推理は岸田に何ら話すことなく、いかにも納得が出来ないように言った。
すると、岸田は、
「実はですね。僕が早川医師の診察を受けたのは、妙な手紙を受取ったからなんですよ」
と、再び眉を顰めては言った。
「妙な手紙? それ、どんなものですかね?」
長島は興味有りげに言った。
「僕の母が轢き逃げされた事件に関して、早川医師が重大な情報を入手しているから、僕が早川医師の診察を受けるようにという手紙ですよ。もっとも、今の時点では決して僕の母の轢き逃げに関して、早川医師の前でそのことを言及してはならないというような手紙ですよ」
と言っては、岸田は小さく肯いた。そんな岸田は、果してそのような話を長島が信じてくれるだろうかと言わんばかりであった。
案の定、長島は、
「本当にそのような手紙を受取ったのですかね?」
と、いかにも信じられないような表情を浮かべては言った。
「本当ですよ。今もその手紙を持ってますから、後でお見せしますよ。もっとも、その手紙はワープロで書かれてましたがね」
「ワープロですか。それでも構わないですから、後で見せてもらいましょうかね」
と言っては、長島は小さく肯いた。そして、
「でも、岸田さんはその手紙の言う通りにあっさりと行動したのですかね? その手紙の内容がてんで出鱈目であったと疑ってはみなかったのですかね?」
と、怪訝そうな表情を浮かべた。
すると、岸田は、
「そこなんですがね。その手紙には、正に轢き逃げ犯しか知らないような事実も記されていたのですよ」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「轢き逃げ犯しか知らないような事実ですか。それ、どんなものですかね?」
長島は眼を大きく見開き、いかにも興味有りげに言った。
「轢き逃げ犯が乗っていた車は、シルバーの1500CCのカローラで、被害に遭った時刻は、午後四時三十分頃だというものですよ」
と、岸田はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
すると、長島は、
「何故、それが犯人しか知らない事実なんですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
「母さんの事件は勿論新聞に掲載されました。でも、母さんを轢き逃げした車のこととか、被害に遭った時刻のことまでは、新聞には出なかったのですよ」
「ということは、その手紙には、あてずっぽうのことが書かれていただけではないのですかね?」
と、長島はその可能性は十分にあると言わんばかりに言った。
すると、岸田は、
「ところが、そうではないのですよ」
と言っては、小さく肯いた。
「そうではない? それ、どういうことですかね?」
長島は、些か納得が出来ないように言った。
「母さんを轢いた車はシルバーのカローラだということは、既に警察が突き止めていたのですよ。そして、その事実を僕に知らせてくれたのですよ。もっとも、その事実は部外者は知ることは出来ませんでした。何しろ、その事実は公にはなりませんでしたからね。また、母さんの死亡推定時刻も然りなんですよ」
と、岸田は正に長島に言い聞かせるかのように言った。すると、長島は、
「なる程。そういうことですか」
と、いかにも納得したように肯いた。
「それで、僕はわざわざ敢えて鬼押出し園の駐車場にまで行ったのですよ」
と、まるで長島を説得するかのように言った。
すると、そんな岸田に長島は、
「で、その結果はどのようなものになったのですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
すると、岸田は、
「それがですね」
と言っては、長島から眼を逸らした。そんな岸田の表情は、正にその結果が思わしくなかったと言わんばかりであった。
案の定、岸田は、
「それがですね。やはり、僕はペテンにかけられてしまったというわけですよ」
と、長島から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「つまり、約束の時間に岸田さんを手紙で呼び出した人物は、現われなかったというわけですね?」
「正にその通りだったのですよ。約束の時間を一時間半も過ぎて僕はその人物のことを待っていたにもかかわらず、その人物は現われなかったのですよ。念の為に二時間も待ってみたのですが、やはり現われませんでした。
こうなってしまえば、僕はペテンにかけられてしまったと看做さざるを得ないでしょう」
と、岸田はいかにも決まり悪そうに言った。
「その人物に何か急用が出来てしまい、来れなくなったということはないのですかね?」
「無論、僕もそう思ってもみました。でも、後日、その人物からの連絡はまるでなかったのです。僕はその人物の連絡先を知りませんが、その人物は僕の連絡先を知っています。それ故、もし急用が出来て来れなくなってしまったのであれば、その旨を僕に知らせることは出来るのです。でも、そうではなかったのです。それ故、僕はペテンにかけられたと看做さざるを得ないのですよ」
と、岸田は長島を見やっては、いかにも決まり悪そうに言った。
そう岸田に言われ、長島の胸中は複雑であった。というのは、その岸田の説明をあっさり信じていいのかどうか、即断することが出来なかったからだ。
何しろ、長島が岸田から話を聴くことになったのは、早川の友人であった高柳慶介が岸田への疑惑を話したからだ。それで、早川の死亡推定時刻のことを確認したのだ。
すると、岸田は妙な説明をしたのである。
その岸田の説明は、正にフィクション的であり、現実の世界でそのような出来事が起こり得るのかと、疑念を抱かせるに十分なものであったのだ。
それ故、長島の胸中が複雑であるというのも、十分に理解出来るというものであろう。
そんな長島の胸中を察したのか、岸田は、
「これは本当のことなんですよ! 信じてくださいよ!」
と、正に長島に訴えるように言った。
岸田は既に、早川の死に関して、長島が岸田に疑いの眼を向けてるということを察知してる為か、正に長島に訴えるかのようであった。
「では、何故その人物は、岸田さんお連絡先を知っていたのですかね?」
「それも分からないのですよ」
岸田の状況はそんな具合であったが、長島としては、今の時点では、岸田が果して白なのか、黒なのか、断定することは出来なかった。
とはいうものの、長島に死をもたらしたのは、青酸であることは間違いない。それ故、岸田と青酸の関わりを捜査しておく必要はあるだろう。
それで、長島は、
「岸田さんは今は仕事をされてないのでしたね?」
そう長島が言うと、岸田は決まり悪そうな表情を浮かべては、
「ええ」
「では、岸田さんはインターネットをやられてますかね?」
「ええ」
と、岸田は呟くように言った。そんな岸田は何故そのようなことを訊くのかと言わんばかりであった。
岸田がインターネットをやってることは確認出来たものの、そうだからといって、今の時点では岸田のパソコンの捜査令状は出ないというものだ。
それで、この辺で一旦、岸田に対しての事情聴取を終え、岸田宅を後にすることにした。