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長島はこの時点で、一度高柳慶介という人物のことを少し調べてみようと思った。というのも、今までは高柳の証言ばかり信じて捜査を進めていたが、もし、高柳の証言が嘘であったのなら、そこに嘘をつかなければならない何かが潜んでるからだ。そして、その何かが早川の事件と関係してる可能性は十分にあるからだ。
そんな高柳は、今はS大の医学部教授をしていた。そんな高柳は一見、私生活でも、仕事でも何の問題を抱えていないように思われた。
だが、一度の高柳のことを知ってる者から話を聞いてみることにした。
「K病院の岸田さんと高柳さんが親しかったのは、よく知ってますよ」
そう言ったのは、S大で高柳と共に教授として働いている皆川富士夫という男であった。
そんな皆川は、三十五年前に発生した岸田花代の事件で、早川が警察から話を聴かれたことも覚えていたのだ。
それで、その点に関して、長島は皆川から話を聞いてみることにした。
すると、皆川は、
「何故そのことを僕が覚えてるかというと、その時の警官が僕にも話を聴いたからなんですよ」
と、些か渋面顔を浮かべては言った。そんな皆川は、その話に関しては、あまり言及したくないと言わんばかりであった。
そんな皆川に、
「皆川さんにも話を聴いた?」
と、長島は興味有りげに言った。
「そうです。その警官の名前までは忘れましたが、その警官は軽井沢の白糸の滝近くで発生した轢き逃げ事件を捜査してるんだが、その容疑者の一人として早川さんの名前が浮かんでるが、早川さんとはどういった人間なのか、嘘をついたりするような人間なのかとかいうようなことを聴かれたことを覚えていますよ」
と、皆川は渋面顔のまま言った。
すると、長島は、
「なる程」
と言っては、
「で、その問いに対して、皆川さんは何と答えたのですかね?」
と、興味有りげに言った。すると、皆川は、
「ですから、早川さんは誠実なん人間で、嘘をつくような人じゃないですよとかいうような、当たり障りのないことを言っておきましたがね」
と言っては、小さく肯いた。
そんな皆川に、
「で、そのように警察に聴かれたことを、皆川さんは早川さんに話しましたかね?」
「そりゃ、勿論話しましたよ」
と言っては、皆川は小さく肯いた。
そんな皆川に、
「で、早川さんは何と言いましたかね?」
長島は興味有りげに言った。
「早川さんは、警察に疑われてしまって、随分迷惑してるんだよと、苦笑いしてましたね。
何でも、早川さんによると、その岸田さんという人が轢き逃げに遭った頃、早川さんは軽井沢の旅館に宿泊してたそうです。そして、轢き逃げした車が、シルバーのカローラであったということが、警察の捜査で明らかになっていて、早川さんもその車で軽井沢に来ていたことが、警察の捜査で明らかになった為に、早川さんも警察から話を聴かれたとのことです。
でも、それは偶然の一致で、早川さんは勿論、そのような轢き逃げ事件には関係していないと、笑いながら言ってましたね」
と、皆川は真剣な表情を浮べながらも、淡々とした口調で言った。
そう皆川に言われると、長島は正に早川はその轢き逃げ事件には関係してないと思わざるを得なかった。
だが、その早川の話が嘘であったことは、既に明らかになっていた。
というのは、その時、早川と共に軽井沢に行き、早川のカローラの助手席に乗車していた高柳が、岸田花代を轢き逃げにしたのは、早川であるということを認めたからだ。
とはいうものの、その高柳の証言を、皆川に今は話す必要はないであろう。
そう判断した長島は、
「で、その時に、早川さんは高柳慶介さんと軽井沢に行っていたことをご存知ですかね?」
「確かそのようなことを、早川さんは言ってましたね」
と言っては、皆川は小さく肯いた。
「で、早川さんは、その高柳さんに関して何か言及してなかったですかね?」
「高柳さんのことですか……。特に何も言ってなかったですがね」
と、皆川は呟くように言った。
「そうですか。で、早川さんは高柳さんと共に軽井沢に行ったということですから、高柳さんとは仲が良かったということですかね?」
「そうでしたね。まあ、二人は親友といった間柄ではなかったですかね」
「そうですか。で、高柳さんは今、S大の教授をしてますが、その高柳さんに関して何か最近変化はないですかね? 変化といっても、仕事上のことでも、また、私生活上のことでも構わないですが、どんな些細なことでも構わないですから、何か気付いたことはありませんかね?」
と、長島は皆川の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、皆川は、
「ありますね」
と、長島の言葉に、即座にそう言った。
すると、長島は眼を大きく見開き、
「ほう……。それはどういったことですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
すると、皆川は、
「高柳さんは来年のうちの大学の医学部長の選挙に出るという噂が流れてますね」
「医学部長の選挙ですか」
「そうです。来年は今の学部長が退職しますからね。それで、新たな学部長をうちの学部の関係者の選挙で選ぶことになるんですが、高柳さんも立候補するらしいですね。そういった話が今、出ていますね」
「そういうわけですか……」
長島は呟くように言った。
だが、そう高柳に言われ、長島の脳裡に些か腑に落ちない思いも流れてしまった。
というのは、高柳は早川の事件で、早川の轢き逃げ事件を告白した人物だ。早川の事件は言わば、高柳も共犯者なのだ。にもかかわらず、そのような事件を敢えて警察に告白しようとするだろうか?
何しろ、高柳は今、非常に大切な時期の渦中にいるのだ。何しろ、来年は自らが医学部長の選挙に立候補しようとしてる最中にあるのだ。そんな時期に、敢えて、古傷を警察に告白したりするだろうか? このような時期には、敢えて自らのスキャンダルを隠蔽しようという思いが働くのが、常識というものではないだろうか?
更に、高柳の親友であった早川が、先日志賀高原で変死した。その早川の死は、来年のS大の医学部長の選挙に関係してるということは有り得ないのだろうか?
そう思うと、長島の表情は、自ずから険しいものに変貌せざるを得なかった。何だか、早川の事件は、当初思ってもみなかったような方向に進んで行きそうな予感がしたからだ。
そう思った長島は、
「で、十月五日に、志賀高原の琵琶池の畔で、早川さんの遺体が発見されたのをご存知ですかね?」
「勿論、知ってますよ」
と、皆川は神妙な表情を浮べて言った。
「で、我々は今、その早川さんの死を捜査してるのですが、早川さんは自殺したのか、あるいは、殺されたのかというようなことに、まだ結論が出てないのですよ」
と、長島は渋面顔で言った。
「……」
「それに関して、皆川さんはどう思いますかね?」
と、長島は訊いてみた。
すると、皆川は、
「自殺はないと思いますね」
と、渋面顔で言った。
「何故そう思われるのですかね?」
長島はとにかくそう訊いた。
「何故って、早川さんはK病院の内科部長をやってましたからね。にもかかわらず、自殺するなんてことは有り得ないと思いますね。
そりゃ、外科医や産婦人科医のように手術に失敗し、その患者や、患者の遺族から訴えられるというようなことをやられてしまえば、心労が重なり自殺というケースも有り得ないとは思いますが、早川さんは内科医でしたから、手術は行なわないですからね。ですから、仕事上でのトラブルがあったというようなことは耳にしたことはありません。それ故、自殺はないと思いますね」
と、皆川は些か表情を険しくさせては言った。
「じゃ、殺されたのでしょうかね?」
長島も些か表情を険しくさせては言った。
そう長島に言われると、皆川は言葉を詰まらせた。そんな皆川はそういった長島に何と答えればよいか、分からないかのようであった。
案の定、皆川は、
「分からないですね」
と言っては、小さく頭を振った。
そして、この辺で長島は皆川に対する聞き込みを終えることにした。
皆川に聞き込みを行なって、ある程度の成果を得られたと長島は思った。というのは、来年、S大医学部長選に高柳が立候補するという話があるということだ。高柳としては、医学部長に君臨するということは、正に高柳の人生で最大の栄冠を勝ち取るということであろう。
そんな高柳にとって重要な時期に、学生時代より親友であった早川が変死したということが、偶然であろうか?
ただ、単にその事実だけが存在してるのなら、長島はそう看做したかもしれない。
だが、高柳は長島にとんでもない証言を行なったのだ。
その証言とは、何と三十五年前に早川は何と轢き逃げ事件を起こしてるというものであった。そして、早川の事件を起こした車には、何と高柳も同乗していたということを打ち明けたのである!
この告白は、正に衝撃的なものといえるだろう。何しろ、既に時効となってるとはいえども、まだ闇に葬られていた轢き逃げ事件の真相が明らかになったのだから。
もっとも、そう高柳が証言しただけで、その裏が取れたわけではない。事件を起こした早川は既に死亡し、また、その証言を裏付ける物証は今となっては入手することは不可能なのだから。
にもかかわらず、何故高柳は今になって、そのような証言を行なったのだろうか? 高柳が轢き逃げ犯の車に同乗していたことが明るみになったとしたら、高柳にとって学部長のポストはこの時点で高柳から去ったのも同然ではないか! にもかかわらずである。
この事実を目の当りにして、やはり、長島は腑に落ちないものを感じた。高柳の証言には、まだ明らかになっていない何かが隠されているのではないのか?
では、その隠されている何かとは、何なのか?
その点に関して、長島は頭を働かせた。
すると、自ずからあることが脳裡に浮かんで来た。
それは、高柳が早川の死に関係してるのではないかということだ。
そう長島が思ったその時である。
正に、とんでもない情報が長島に寄せられたのである。
その情報を長島にもたらしたのは、岸田や高柳とは何ら関係のない長野市内に住んでいる三上和夫という二十五歳のフリーターであった。
三上は、
「実は僕はとんでもない場面を眼にしてしまったのですよ」
と、早川の死に関して重要な証言があると言い、署にまでやって来た三上はいかにも緊張した面持ちで言った。
「とんでもない場面ですか。それ、どういったものですかね?」
長島は真剣な表情を浮かべては言った。
「実はですね。僕は十月五日の午前二時頃、志賀高原の琵琶池の近くにいたのですよ」
そう三上が言うと、長島は一層真剣な表情を浮かべた。今の三上の言葉から、これから三上が話すことが、早川の事件の真相を明らかにするものではないかという予感が長島の脳裡を過ぎったからだ。
それで、三上は引き続き、真剣な表情を浮べながら、三上の話に耳を傾けようとした。
「で、何故僕がそんな時間に琵琶池の近くにいたかというと、何しろ僕はお金がありませんでしてね。ですから、少しでも節約する為に、折角志賀高原に来たといえども、野宿せざるを得なかったのですよ。
もっとも、野宿といっても、車の中ですから、野宿とはいえないかもしれませんが、でも、志賀高原という場所とか、また、十月という季節柄、車の中には隙間風が入って来たりしてなかなか寝付かれなかったので、少し車を走らせたのですよ。
で、蓮池の方から林の中の細い道を走り、琵琶池の畔にまで来た時に、僕は『あれ?』と思いました。というのは、琵琶池の案内版がある辺りに一台の車が停まっていたからです。何しろ、その時は午前二時でしたからね。こんな時間に一体誰がこのような場所に用があるのかと思ったというわけですよ。
で、僕はアベックかなと思ったりしたので、僕の車のライトに照らされたその車の中をさっと見やったのですが、車の中には誰もいませんでした」
と、三上はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。そんな三上は、今、自らがとても重要な証言をしているということを大いに自覚してるかのようであった。
そんな三上は、三上に何か言いたそうな長島に、言葉を発する時間を与えず、更に話を続けた。
「で、僕はその車には恐らくアベックが乗ってるんだろうと思い、好奇心も働き、どんなアベックなのか眼にしてやろうと思い、少し離れた所に車を停めては、僕だけがその車が停めてある場所に戻ろうとしました。
ところが、僕がその車の場所に行き着くまでに、その車は発進したというわけですよ」
と、三上は興奮の為か、声を上擦らせながら言った。
そんな三上に、長島は、
「で、その車には、アベックが乗っていたのですかね?」
そう長島が言うと、三上は、
「いいえ」
と、渋面顔で頭を振った。
そう三上が言うと、長島は言葉を詰まらせた。そんな長島に、三上は、
「その車に乗っていたのは、五十代の後半位と思える男性だったのですよ」
と、渋面顔で言った。そんな三上は、正にその結果が意外なものであったと言わんばかりであった。
そう三上に言われると、思わず長島の表情は強張った。というのは、五十代の後半の男性と言われて、真っ先に思い出したのが、高柳慶介であったからだ。早川の死に関係してそうな人物として、今の時点では岸田幹男と、高柳慶介が浮かんでるが、岸田はまだ四十の前半であり、また、岸田は童顔であった為に、五十代後半には見られないだろうからだ。
「で、その男性は眼鏡を掛けてましたかね?」
高柳は眼鏡を掛けていたので、長島はそう訊いた。
すると、三上は、
「掛けてましたよ。黒縁の眼鏡を」
そう三上に言われ、長島の表情は一層強張った。高柳は正に黒縁の眼鏡を掛けていたからだ。
それで、長島は、
「で、その男性の感じはどんなものでしたかね? 例えば、インテリ風であったとか、労働者風であったという具合なんですが」
そう長島が言うと、三上は、
「とてもインテリ風でしたね。あるいは、紳士的であったとでも言いましょうか。僕は何故、あのような男性が、深夜の琵琶池に用があるのかと思ったというわけですよ」
と、いかにも戸惑ったような表情を浮かべては言った。
そう三上に言われ、三上が眼にしたその男性は、一層高柳である可能性が高いと思った。それで、その男性が乗車していた車の車種を訊いてみた。
すると、三上は、
「あれは、トヨタのプリウスですよ。色は白でしたね。僕の家の近くに、あれと同じ車に乗車してる人がいるので、まず間違いないですね」
と、険しい表情を浮べながらも、かなり自信有りげな表情と口調で言った。
長島はまだ高柳がどんな車に乗ってるのか、調べてなかった。また、その必要がなかったからだ。だが、この時点でそれを調べなければないことが確定した。
「で、その人物の写真があれば、三上さんはその人物だと証言出来ますかね?」
そう長島が言うと、
「絶対に出来ると断言は出来ません。何しろ、その男性は僕の知り合いではありませんからね」
と言うに留まった。
そんな三上に、長島は、
「で、三上さんはその男性が、十月五日に琵琶池の畔で死体で発見された早川さんの事件に関係してると思い、こうやって署にまで来られては証言してくださったのですね?」
そう長島が言うと、三上は些か表情を和らげ、
「正にその通りなんですよ」
と言っては、小さく肯いた。そして、三上は、
「で、僕はその早川さんの遺体が発見された日時と場所から、僕が眼にした人物が早川さんの死に関係してると確信しました。
とはいうものの、僕の眼にしたことが、早川さんの事件に大きな影響を与えるかと思うと、なかなか警察にこうやって証言していいのかどうかと躊躇いを感じ、決断が出来なかったのですよ」
と、長島から眼を逸らせ、決まり悪そうな表情を浮かべた。
そんな三上に、長島は、
「よくぞ、証言してくれました」
と、三上の労を労った。
そして、この辺で三上との話を終え、直ちに高柳がどんな車に乗ってるのかの捜査が行なわれた。
すると、それは長島が予想していた通り、白のプリウスであった。この時点で、高柳が早川の死に関係してることが確定したみたいなものだ。
それで、早速、高柳を署に任意出頭させ、高柳から話を聴こうと思ったが、念の為にS大から高柳の写真を入手し、その写真を三上に見てもらった。
すると、三上は、
「確かに、この男性は僕が眼にした男性とよく似てると思います」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。