3

 同じような山道をひたすら進むと、沢に行き着いた。もっとも、水の流れは大したことはないのだが、登りとなってる。そして、この沢を越えないと、前には進めないのだ。
 とはいうものの、沢に沿って鎖が付いてるので、その鎖を使えば、この沢は容易く越えることは出来そうだ。それに、越えなければならない沢は、大した沢でもなかった。
それ故、雄一郎は沢を五分位で後にすることが出来たのだった。
 沢を越えると、また、同じような山道が続いた。そして、その山道を十分程進むと、急に視界が開けた。草原に出たのだ。
 そこは、今までのように、鬱蒼とした木々は消え失せ、丈の低い草が辺りに拡がっていた。
 それ故、太陽が頭上に照りつけていたのだが、辺りは地上より涼しかった。それは、高度が上がったのと、涼しげな風が吹いている為であろう。
 そんな中に造られている登山道を雄一郎は引き続き進むことにした。
 すると、程なく少し向こうの方に、二人組の男を眼に留めた。その二人組は、既に頂上に立ち、後は下山するだけであろう。
 その二人組との距離は次第に縮まり、後一歩という所にまで来た。
〈挨拶をしなければ!〉
 山で擦れ違う人たちに挨拶をするのは、エチケットだと、雄一郎は高校時代の山岳部の先輩から、教えられていた。
そして、二人組との距離は今や僅かになった。
〈うまく、挨拶出来るだろうか?〉
 雄一郎は少し緊張した。
〈さあ! 挨拶するんだ! 気持ちよく!〉
 雄一郎は自らに言い聞かせた。
 そう雄一郎が自らに言い聞かせた時に、何と相手の男の方が、
「こんにちは!」 
 と、声を掛けて来たのだ。すがすがしい笑顔で!
 正に、その笑顔は満たされた笑顔のように、雄一郎には思えた。この山の頂点を極めた充足感に満ちた笑顔のように、雄一郎には見えた。
 そう思いながら、雄一郎は、
「こんにちは!」
 という言葉を返した。
 その言葉と共に、二人組は雄一郎の傍らを通り過ぎて行った。
 雄一郎はその時、立ち止り、振り返った。
 すると、二人組はザックを背負っては、軽快な足取りで、雄一郎から遠ざかって行く。
 その後姿を見て、雄一郎は妙にすがすがしさを感じた。それは、まるで大きな仕事をやり遂げた時に感じる充足感であるかのようであった。
 そして、雄一郎は程なくその場を後にし、頂上を目指して歩みを進めた。
 すると、十分程で頂上に立つことが出来た。
 頂上は畳み二十畳程の平地となっていて、既に七人程の先着者がいた。その者たちは、弁当を食べたり、雑談をしていたりした。
 雄一郎は改めて周囲を眺め回した。
 すると、正に辺りは自然の中で、人間が構築した人工物といえば、頂上を示す立て看板位なものであった。
 そして、この自然を全身で感じ取った雄一郎には、改めて満足感が込み上げて来た。正に満足感を得たい為に山に登るという気持ちを雄一郎はこの時、改めて実感したのだ。
 雄一郎は傍の岩の上に座り、弁当を食べ始めた。弁当といっても、梅干しのおにぎりと、ソーセージ、かまぼこ、卵焼きといった質素な中身であったが、腹が減っていたということもあり、とても美味しく食べられた。こんなに食事がおいしいと感じられたのは、久し振りではないかと思える位であった。
 それで、水筒を取り出しては、麦茶を飲んだ。これも、また、とても美味しく感じられた。
 それで、雄一郎は自ずから悦に入った表情を浮かべたのだが、すると、いつの間にやら、五十位の男が雄一郎の隣に座っては、
「どちらからですか?」
 と、雄一郎に声を掛けて来た。
 それで、雄一郎はとにかく、雄一郎が登って来たルートを説明した。
 すると、男は、男が登って来たルートを説明した。そのルートは、雄一郎が登って来たルートとは、別のものであった。
 そんな男は、
「山の空気は、いいものですね」
 と、いかにも感慨深げな表情で言った。
 そんな男の顔を雄一郎は改めて見入ってみた。
 すると、男の額には、深い皺が刻まれ、顎髭を蓄えていた。それは、正に山男といった容貌であった。
 それはともかく、雄一郎は、
「そうですね。空気が美味しいとは、正にこういったことを言うのですね」
 そう雄一郎が言うと、男は些か満足そうに肯いた。
 そして、眼を閉じたかと思うと二十秒程沈黙したが、やがて、
「あなたは、一人で来られたのですかね?」
「ええ。そうです」
 雄一郎は即座に答えた。
「成程。で、僕もあなた位の歳に、あなたのように一人で山登りをしたことがあってね。それで、あなたを見てると、その時の僕を思い出すんだよ」
 そう男は、いかにも昔のことを懐かしむかのように言った。
 そう男に言われ、雄一郎は何も言おうとはしなかった。そんな男を眼にして、何といえばよいのか、分からなかったからだ。
 だが、程なく、
「どちらの山に登られたのですかね?」
「富山の方の山さ。こう見えても、僕は生まれは東京なんだけど、父の仕事の関係で、小学校三年の時から、富山暮らしなんだよ。だから、富山の方の山に登ったんだよ。で、富山に行ったことはありますかね?」
「いいえ。一度もないですね」
 と、雄一郎は眉を顰めては言った。
「そうかい。で、富山は自然が豊かな所でね。それに、山は幾らでもあるんだよ。
 でも、僕は山は嫌いだった。僕が小学校四年の時に、仲良くしてもらった近所のおじさんが山で遭難してしまってね。還らぬ人となってしまったんだよ。それ以来、山は嫌いになったんだ。山は怖い所となったというわけさ。
 だから、その後、僕は山にはなるべき近付かないようにしてたんだよ」
 と、男は淡々とした口調で言った。
「ということは、子供の頃は、山登りは行なわなかったのですかね?」
「ああ。そうさ。富山は山国だから、僕の友達は、親に連れられて小学校の頃から、よく山登りをしたものさ。といっても、まだ子供だったから、高い山には登らないさ。まあ、ハイキングみたいなものだよ。
 そして、その時のことを僕に自慢げに話すんだよ。
 でも、僕は決して山には近付こうとはしなかった。山はやはり、怖いところだという思いが、僕を支配していたからね」
「近所の人が遭難したことが、頭から離れられなかったからですかね?」
「ああ。そうさ。その人は、古賀さんといって、三十の独身の人だった。そんな古賀さんは、将来の夢のことを僕に話してくれたものだった。
 三十五までは結婚して、子供は二人。そして、車を買い、家族で日本一周旅行をする。また、夫婦で世界旅行をするという風にね。
 僕は今でもその古賀さんが、古賀さんの夢を語ってくれた時のことを覚えてるんだよ。
 そんな古賀さんは、『賢治君は、大きくなったら、何になりたいんだ?』と、僕の夢を訊いて来たね。
 でも、僕はその問いに答えられなかったんだ。何故なら、特に将来何になりたいのかという夢を僕は持っていなかったからね。まあ、僕は冷めた子供だったのだろう。 
 でも、結局、僕は『高い山に登りたい』と言ったんだ。
 すると、古賀さんは笑ったな。僕が恐らく『歌手になりたい。野球の選手になりたい。パイロットになりたい』とか言うんじゃないかと思っていたんじゃないのかな。
 それはともかく、僕がそう言ったので、古賀さんは、
『じゃ、賢治君が大きくなったら、山に連れて行ってやるよ。それも、高い山にな。だから、それまで身体を鍛えておくんだよ』
 と言ったんだよ。
 その一ヶ月後、古賀さんはアルプスに登った。単独登山だった。
 そして、古賀さんは戻って来なかった。古賀さんはアルプスの山で遭難死してしまったんだよ」
 と、男は神妙な表情で、淡々とした口調で言った。そして、更に話を続けた。
「僕はショックだった。僕が古賀さんを死なせてしまったんじゃないかという気になってしまってね。僕が高い山に登りたいと言ったから、古賀さんはその一ヶ月に山に登ったんじゃないかと僕は思ったんだよ。
 それで、その時以来、僕は山には強い嫌悪感を抱くようになってしまったんだよ。それで、その時以来、山に登りたいなんて、思うことはなくなったんだよ」
 と、男は過去に思いを巡らすような表情を浮かべては、淡々とした口調で言った。
 そう男に言われ、雄一郎は、
「そのようなことがあったのですか」 
 と、神妙な表情を浮かべては、淡々とした口調で言った。そして、
「では、何故、僕と同じ位の年齢の時に、山に登る気になったのですかね?」
 と、雄一郎は興味有りげに言った。
 すると、男は眼を大きく見開き、それを訊かれるのを待ってましたと言わんばかりに、
「実は、僕はその時、悩んでいたんだよ」
「悩んでいたのですか……」
 と、呟くように言った。
 すると、男は、雄一郎を見やっては、
「ああ」
 と、いかにも満足そうな表情を浮かべては言った。
 だが、すぐに神妙な表情を浮かべては、
「すいませんね。妙な話をしてしまって」
 と、些か申し訳なさそうに言った。
 すると、雄一郎は些か笑みを浮かべては、
「そんなことないですよ。とても興味深い話ですよ。ですから、その先を続けてもらえないですかね」
 そう雄一郎に言われると、男は些か表情を和らげ、
「で、実はですね。その当時、僕は好きな女性がいたのですよ。結婚したい位のね。だが、その女性には、僕以外に好きな男がいたのですよ」
 そう男に言われ、雄一郎は思わず心の中で笑ってしまった。この山男のようにごつい男が、そのような繊細な神経を持ち合わせていたなんて、想像することは困難であったからだ。
 とはいうものの、雄一郎は男の話にはとても興味を持ったので、その先の話を一言も聞き漏らすまいと、耳を傾けようとした。
「僕は忘れはしない。それは、三十の時でね。その女性は、同じ会社の女性だった。礼子という名前でね。笑窪の可愛い女性だった。
 中途入社の女性でね。
 僕は礼子を一眼見るなり、一目惚れしてしまってね。
 年齢は僕より五歳年下の二十五歳だった。三十と二十五。言い年齢の組み合わせだと、内心、喜んでいたんだよ。
 で、僕は礼子の気を引きたかったものだから、何かときっかけを作っては、親しくなろうとした。
 もっとも、同じ会社の人間だから、会話を交わすのは当り前だけど、とりわけ、礼子とは何かにつけて話をするようにしては、礼子に僕の気持ちを分からせようとしたんだよ。。
 そんな僕のことに会社の同僚たちは気付いたのか、『山野は門田礼子に気があるぞ』という噂が広まってしまってね。
 まあ、僕の方ではそれは迷惑ではなかったんだが、礼子はどう思っていたかは分からないな。まあ、僕の方が先輩だったから、先輩の悪口を言うわけにはいかないからね。
 それはともかく、休日出勤があって、その時、たまたま僕は礼子と同じになったんだよ。つまり、その日、礼子も休日出勤というわけさ。
 それで、勤務が終わった後、僕は初めて礼子をデートに誘ったんだよ。
 デートといっても、都会のように、若者が好むような場所が特にあるわけでもなかったが、近くにボーリング場があってね。その当時、ボーリングが流行っていたんだ。それで、その時、僕は礼子をボーリングに誘ったんだよ。
 礼子としては、先輩の誘いを断るわけにはいかないと思ったのか、僕の誘いに応じたんだよ。
 で、ボーリングは三ゲームやったな。
 それから、ボーリング内にある喫茶店でコーヒーを飲んだんだよ。そして、その時、僕は礼子に『あなたが好きですから、交際してください』と言ったんだよ。
 すると、礼子は少し顔を赤くしては、少しの間、言葉を詰まらせ、その後、
『実は私、好きな人がいて、今、付き合ってるんです』
 と、僕から眼を逸らせては、いかにも言いにくそうに言ったんだ。
 そう言われ、僕はまるで脳天をハンマーで殴られたようなショックを受けたんだよ。
 で、その後、僕はその場を早々と後にしたんだ。礼子をその場に残してね。
 で、それが僕の初恋であり、初めての失恋だったというわけさ」
 と、男は淡々とした口調で言っては、「ゴホン!」と、咳をした。そして、更に話を続けた。
「で、結局、僕の礼子への思いは、正に片思いだった。
 だが、僕の痛手はなかなか治りそうもなかった。
 それで、僕はその時、山登りを決意したのだ。
 僕は小学生の時、山には決して登るまいと、決意した。僕の山登りへの思いが、古賀さんに死をもたらしてしまったと、僕は自覚していたからね。
 それ故、山は僕にとって、まるで別次元の存在であった。
 僕はいつも、僕が住んでる街から眼に出来る雪を抱いた山を見て、美しいものだと感じていた。
 しかし、それは僕にとって別次元のものであり、僕にとって、決して受け入れることの出来ない対象物であったのだ。僕と山は、まるで磁石の同じ極が反発するかのように、決して相いれることが出来ないものであったのだ。
 だが、失恋を経験し、僕は山を受け入れなければならないと思った。礼子に代わる新たな憧憬物として、山を僕は選んだのだよ。
 今まで僕は山に近付こうとはしなかった。
 しかし、それは、山の美しさを否定していたわけではない。山は、美しいものだと僕は自覚していた。
 しかし、古賀さんの死が引っ掛かり、山を避けていたに過ぎなかったのだ。
 しかし、いつまでも山を避け続けていれば、僕はいつまでも礼子に呪縛され続けなければならないと思ったんだよ。
 それ故、その呪縛を断ち切るのは、山の力を借りなければならないと、僕は思ったんだよ。それが、僕の三十の時のことだったんだよ」
 と、男は最後の方では、些か声を上擦らせては言った。そんな男は、かなり興奮してるかのようであった。
 だが、程なく男は笑みを浮かべては、
「どうでしたかね? 僕の話は?」
 と、雄一郎を見やっては言った。
 すると、雄一郎の口からは、
「いやぁ……、素適な話でしたよ」
 という言葉が自ずから発せられた。実際にも、そう思ったからだ。
すると、男はいかにも満足そうな表情を浮かべては、雄一郎に一礼しては、その場から去って行った。
男の姿が見えなくなると、雄一郎は今の男は、一体何だったのかと、思った。
男の言葉によると、男は雄一郎を見て、若かった頃の自分を思い出したという。それで、雄一郎の頃の男のことを話したとのことだが、では、雄一郎があの男の年齢になった頃、今の雄一郎のことを見知らぬ者に聞かせることが出来るだろうか? 今、雄一郎は将来どうすればよいのか分からず、山に登り、その答を見出そうとしていたなんて、見知らぬ者に語ることが出来るだろうか?
それは決して不可能ではないだろう。
肝心な点は、その答を見出せるかどうかだ。その答を見出せなければ、話にならないのではないのか?
それ故、雄一郎は下山までに、その答を見出さなければならないと、気を引き締めた。
そして、改めて、周囲に眼を向けてみると、頂上には、もう雄一郎を別にして、二人しか姿を見せてなかった。その二人は、雄一郎が先程の男と話をしていた時には、見られない登山者であった。
     

目次     次に進む