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 男が去って行った後、雄一郎はその場で少しじっとしていた。これから山を降りなければならない為に、もう少し鋭気を養っておこうと思ったからだ。
 だが、登り程、きつくはないだろう。とはいうものの、太股とか足首が少し痛いので、まだしばらく休憩した方が、無難だろう。
 そう思いながら、まだしばらく、この静寂の中で身体を休めようと思っていたのだが、その五分後、ざわざわとした話し声が聞こえたと思ったら、四人の若者が頂上へとやって来た。
 その四人の若者とは、件の若者だ。
 中腹で雄一郎が手頃な岩の上に腰を降ろし、休憩していた時にやって来ては、ラジカセを鳴らし、雄一郎を不快にさせた若者たちだ。
 その事実を目の当たりにして、雄一郎は嫌な奴等がやって来たものだと、眉を顰めた。
 そして、また、この頂上でも、ラジカセを鳴らそうとしてるのではないかと、その行動を注視していたのだが、写真撮影などをしては、はしゃぎ回ってるものの、ラジカセを鳴らそうとはしなかった。
 雄一郎はそんな若者たちを見て、雄一郎も若者たちの頃の自分に思いを馳せてみた。あの男が雄一郎を見て、雄一郎の年齢だった頃に思いを馳せたように、雄一郎もあの若者たちを見て、あの若者たちの年齢位の雄一郎自身のことを思い出してみたというわけだ。
 しかし、そうだからといって、特に鮮明な記憶があったわけではなかった。あの若者たちの年齢となると、二十一、二歳の頃であろうが、その頃は雄一郎は大学生であった。
 とはいうものの、クラブにもゼミにも入らず、また、特にアルバイトに精を出していたわけでもなかった。また、勉学にも然りである。 
 それ故、その頃、どのようなことをしていたのかと思いを馳せても、特に鮮明な記憶がない為に、すぐに思い出せないのだ。
 とはいうものの、一つだけ、鮮明に覚えている出来事があった。
 それは、二十一の時に大阪に行った時のことであった。
 雄一郎は東京出身ということもあり、その時まで、一度も大阪に行ったことはなかった。水の都、商人の街などと呼ばれている大阪がどんな街なのか、この眼で確かめ、それを学生時代の思い出としようと雄一郎は思ったのであった。
 もっとも、学生時代の思い出として、海外に行くことが当り前のような今の学生から見れば、笑われてしまいそうなことかもしれないが、これも、雄一郎の憶病な性格の為かもしれない。雄一郎は海外という物騒な所に足を運ぶのは苦手だったのだ。
 それはともかく、雄一郎はまず大阪駅から難波に行っては、難波界隈を歩いた。
 そして、その日は、難波の某ホテルに泊まったのだが、その時の出来事である。
 ホテルといっても、ビジネスホテルのようなもので、部屋はシングルルームでベッドとユニットバスがあるだけのものであった。
 そして、雄一郎が泊まった部屋は、確か六階だったと記憶していた。
 そして、窓を開けてみると、雄一郎は驚いてしまった。というのは、そのホテルは、中庭を囲むような構造で建てられていたからだ。
 中庭といっても、小さなものであったが、それでも、窓を開けると、中庭を隔てて、他の部屋が窓から見えるというわけだ。もっとも、窓といっても、下部が蝶番となっていて、上部が扇子のように開くといった構造であった。
 それはともかく、夜の九時頃になって、雄一郎は部屋の明かりを消し、窓を開けて、窓から外を眼にしてみた。
 すると、夜空は見えたのだが、他の部屋の明かりの為に星は見ることは出来なかった。
 そして、雄一郎は周囲を見回してみたのだが、すると、二階の部屋の一つの窓が上部に開かれていて、そこから部屋の中の様子を見ることが出来た。二階の部屋の宿泊者としては、まさか上の方から覗かれてるということなど、夢にも思っていないことだろう。というのも、その部屋には若い女性が下着姿で、ベッドの上であおむけになっては、足をばたばたさせては、運動のようなことをやっていたからだ。
 その女性はなかなか可愛い女性だったので、雄一郎はまるで固唾を呑むようにしては、その光景に眼にしていた。
 それで、雄一郎はもっと具に見ようとし、更に窓を開け、身を乗り出すような恰好を取った。すると、その時に不運にも、その女性と視線が合ってしまったのだ。
 それで、雄一郎は思わず顔を引っ込め、窓を閉めた。
 そして、ベッドの上に寝転がっては、大きく息をついた。
 正に、嫌な場面を眼にされてしまったというものだ。正に、雄一郎は恥ずかしさで胸が一杯であった。
 それはともかく、学生時代の記憶を振り返ってみても、このようなことしか思い出せないのだから、雄一郎の学生時代が、いかに平凡であったかということであろう。
 それ故、今、学生時代を振り返ってみると、もう少し色んなんことをやっておけばよかったと、後悔することもしばしばであった。
 しかし、それも雄一郎の優柔不断で憶病という性質を如実に現しているのかもしれない。そんな雄一郎だから、この先どうすればよいかを見出す為に、山に登ろうとしたのかもしれない。
 しかし、そんな雄一郎だからといって、自らを責めてもどうにもならないだろう。
 それはともかく、四人組は写真を撮り終えると、雄一郎の近くに座った。
 そして、少しの間、ビールを飲んでいたのだが、やがて、一人の黒いジャケットを着た男が雄一郎の傍らに来ては、
「一緒にビールを飲みませんか」
 と言って来た。
 その頃には、いつの間にやら、頂上には、雄一郎とその四人組の姿しか、見られなくなっていた。
 だが、雄一郎はその男の言葉に答えようとはしなかった。
 すると、その男は、
「僕たち、缶ビールを一杯持って来たのです。僕たちだけでは飲み切れないから、是非、飲んでもらいたいのですよ」
 と、愛想良い表情で言った。
 そう言われ、雄一郎は些か表情を綻ばせては、
「じゃ、お言葉に甘えてみようかな」
 と言っては、男が差し出した小さな缶ビールを手にした。実のところ、雄一郎も、今、ビールを飲みたかったのだ。
 それと共に、雄一郎はこの男たちに、妙に新鮮さを感じた。雄一郎なら、見知らぬ者に、たとえこういった場所でも、ビールを勧めたりはしないだろう。だが、この男はそうした。
 それは、正に雄一郎にはないものであった。それ故、雄一郎はこの男たちに、妙に新鮮さを感じたのであった。
 それはともかく、男は雄一郎に、
「山の中腹でもお会いしましたね」
「ああ。そうだったな」
「一人で来られたのですか?」
 赤いジャケットを着た女性が言った。
「そうだよ」
 雄一郎は見れば分かるじゃないかと心の中で思いながらも、愛想良い声でそう言った。
 そんな雄一郎は、
「君たちは学生なのかな?」
 と、訊いてみた。
「いや。そうではないです。私たちは、会社の同僚なのですよ」
 今度は、黄色のジャケットを着た女性が言った。
「そうでしたか。僕はてっきり、あなたちのことを学生だと思っていましたよ」
 と、雄一郎は意外だと言わんばかりに言った。
「そりゃ、間違えられても不思議ではないですよ。僕たち、皆、二十二なのですから」
 と、黒のジャケットを着た男が言った。そして、
「僕たち、休暇を利用して、こうして山登りをしてるんですよ。山の空気は、すがすがしくて、いいですね」
 そう男に言われ、雄一郎は些か困惑したような表情を浮かべてしまった。というのも、この男は、妙なことを言ったからだ。
 中腹で会った頃は、ラジカセの音で、心地よい休息の一時を妨害されてしまった。
 それ故、この男たちには、甚だ不快な思いを抱いた。
 だが、この山頂では、山はすがすがしくて、いいですねと言う。
 その言葉は、自然の素晴らしさを理解出来る言葉だと雄一郎は解した。
 となると、何故山にやって来ては、ラジカセを鳴らすなんていう暴挙に出たのかと、雄一郎は疑問に思ったのだ。
 正に、それは雄一郎にとって不可解であった。
 それ故、雄一郎はこの男たちのことをもう少し探ってやろうとした。
「君たちは、山登りを時々するのかね?」
「僕は、今回が初めてなんですよ」
 と、緑のジャケットを着た男が言った。
「私もよ」
「僕も」
「私も」
 結局、この四人組は、皆、山登りは初めてだったのだ。
 すると、この四人組は何故山に登ろうとしたのか? その疑問が雄一郎の脳裏に沸き上がって来た。
 もっとも、この陽気そうな性質からすると、雄一郎のように、右に進むか、左に進むかなどという難解な問題を解決する為に山に登ろうとしたわけではないだろうが、それ故、今の問いは四人組にとってくだらないと思うかもしれないが、雄一郎はとにかく、こう訊いた。
「君たち、山に登った目的というものがあるのかね?」
 と、雄一郎は些か興味有りげな表情で言った。
 すると、
「私たち、健康の為よ」
 と、二人の女性は、声を揃えて言った。
「僕は、この人たちに付き合わされたんだよ。心細いからといってね」
 緑のジャケットを着た男は言った。
「僕は山に登りたかった。ただ、それだけさ」
 最後に、黒のジャケットを着た男は言った。
 その言葉は、何だか抽象的な言葉であった。それ故、雄一郎はその言葉に興味を抱いた。それで、
「それは、どういうことかな?」
 と、興味有りげに言った。
「話せば、長くなるんですよ。もっとも、手短に話しますが、それでいいですかね?」
 と、黒のジャケットを着た男は言った。
「構わないさ」
 と、雄一郎は淡々とした口調で言った。
 すると、黒のジャケットの男は眉を顰めながら、
「僕は、日頃の不満が溜まっていたのですよ。周りを見れば、くそっればかりいやがる。
 えっ? くそったれって、誰のことかって?
 だから、周りの人間さ。会社の上司、同僚、お客さん、それに、両親さ。それに、こうなったら、道を歩いてる人も、皆、くそったれに見えて来るさ!」
 そう言っては、缶ビールを口にもって行っては、ぐっと飲み込んだ。
「いいぞ! 真ちゃん! その調子!」
 赤のジャケットを来た女性は、黒のジャケットを来た男を煽てるかのように言った。
「こうなれば、TVに出てる奴らも、くそったれに見えてくりゃ!」
 男は威勢よく言った。
 すると、
「真ちゃん。もう少し、他の者に分かるように説明してくれないかな」
 緑のジャケットを来た男が言った。
「あっ! そうだったな! つまり、僕の周りにいる者は、自分の利益になることしか考えていないんだ。
 上司は僕にノルマをこなせと怒鳴りつけるが、それは、上司の部署の成績を上げ、上司が更に昇進したいから他ならないんだ。同僚とて、自らが昇進したい為に、他人を蹴落としてまで成績を上げようとしてる。
 他人を蹴落として、出世することが、そんなに美徳とされるのだろうか?
 俺はそうは思わない。
 しかし、そんな心持ちでは、正に落ち零れてしまう。
 そんな社会が僕は嫌になって来たんだ! だから、何もかもが、くそったれに見えて来るんだよ!」
 と、男は荒い口調で捲くし立てた。 
 そんな男に、緑のジャケットを着た男が、
「今度は、お客さん、両親、TVの芸人が何故くそったれなのか、説明してよ」
「お客さんの態度は、でかい。ただ、それだけさ。お前の商品を買ってやるから、ありがたく思えと言わんばかりの態度がでかいんだよ。これが、くそったれ以外の何だって言うんだ。
 次に、両親は勉強しろとばかり、言いやがった。
 勉強しろって言われたかって、馬鹿な両親から優秀な子供が生まれるわけがないじゃないか! これが、くそったれ以外に何と言えばいいんだ?
 それに、TVの芸人は、馬鹿なことばかり言っては、金儲けしやがる。こんな番組見てたら、こっちが馬鹿になりそうだ。
 だから、くそったれさ!
 つまり、俺の周りにいる奴等は、皆くそったれさ! ここにいる三人の仲間を除いてな」
 と、黒のジャケットを着た男は、些か顔を紅潮させては、いかにも力強い口調で言った。
「いいぞ! 真ちゃん!」
 と、赤のジャケットの女性は、歓声を上げた。
「素敵!」
 と、黄色のジャケット女性は、黒のジャケットの男を称賛するかのように言った。
 そして、三人はそんな男に拍手をした。
 すると、雄一郎はそれに釣られ、拍手をしてしまった。もっとも、その言葉の中身は支離滅裂なものに思えたのだが。
 それで、雄一郎は、
「ねぇ。君。でも、今の話では、肝心のこの山に登った目的が説明されてないと思うんだけど」
 と、眉を顰めては言った。
 すると、男は眼を大きく見開き、
「あっ! そうでしたね。すいませんね。で、これからが本番なんですよ」
 と言ったかと思うと、
「ビール、もう一杯!」
 と、赤のジャケットの女性に言うと、女性はザックから素早く135CCの缶ビールを取り出しては、黒のジャケットの男に渡した。
 男はその缶を素早く開けると、勢いよく半分程飲み終えては、
「俺は、くそったれどもに我慢出来なかった。
 それで、俺がくそったれと思っていないこの三人と共に山登りを決意したのさ!」
 と、力強い口調で言った。
 すると、赤のジャケットを来た女性が、
「真ちゃん、それでは、説明になってないよ」
「そうだな。要するに、山に登れば、くそったれの奴らのことを忘れられる今の一時だけでも、くそったれのことを忘れられる。それが、僕に快感を与えるというわけですよ。
 これが、僕が山に登った理由なんですよ」 
 と、男は雄一郎に言い聞かせるかのように言った。
 すると、雄一郎は、
「それで、いいですよ」
 と言った。確かに、男が言わんとしてることは、凡そ理解出来たような気がしたからだ。
 そんな雄一郎に、赤いジャケットを着た女性が、
「ビール、もう一本、どうですかね?」
そう言われ、雄一郎は、
「じゃ、お言葉に甘えますか」
 と、些か嬉しそうに言った。実のところ、雄一郎はもう一本飲みたいと思っていたのが本音であったのだ。
 それはともかく、雄一郎は赤いジャケットを着た女性からビールを受け取ると、早速飲んでみた。そして、135Cだということもあり、あっという間に、飲み終えてしまった。
 すると、今の黒いジャケットを着た男の話が俄かに雄一郎の脳裏に蘇って来た。  
 人は正に外見では判断出来ないというものだ。まさか、この人がこのようなことを考えてるのかと、?然とさせられるのも、度々というわけだ。そして、この若者たちの場合も、そのケースに当て嵌まるというものだ。
 この若者たちは、中腹でラジカセを鳴らし、雄一郎の怒りを買った。それ故、この若者たちには、雄一郎は嫌悪感しか持ってなかった。正に、雄一郎にとって、全く別次元の人間であった。
 だが、今の話を聞くと、別次元の人間どころか、かなり身近な存在に感じられたのだ。
 となると、何故、この若者たちは、先程、あのような場所でラジカセを鳴らしたのか? その行為は、今の男の言葉とは反するものに雄一郎には思えた。
 それで、雄一郎は、
「ラジカセは鳴らさないのかい?」
 と、訊いてみた。
 雄一郎にそう言われ、ラジカセを鳴らそうとするのなら、この男たちはやはり、雄一郎とは別次元の人間となるだろう。
 それ故、雄一郎はその点を確かめたかったのだ。
 すると、黒のジャケットを着た男は、
「ラジカセですか。あんなもの、聞きたくないな。うるさいだけですよ」
 と、吐き捨てるかのように言った。
 そう言われ、雄一郎は安堵したような表情を浮かべた。やはり、この男は、雄一郎と別次元の人間ではなかったのだ。それどころか、身近な存在だったのだ。
 そう思うと、雄一郎は新たな仲間を手にしたような感じがした。
 だが、
「でも、何故、先程は鳴らしていたのかな?」
 すると、黒のジャケットを着た男は、赤のジャケットを着た女性を見やっては、
「こいつが鳴らしたいと言ったのさ!」
 と、眉を顰めては言った。
「だって、私、あの歌を気に入ってるのよ」
 女か……。そりゃ、仕方ないな。雄一郎はそう思っては、眉を顰めた。
 何しろ、女性の感性は男とは別で、雄一郎は女性の心理はよく分からないと思っていた。そして、女性の意図でラジカセを鳴らしたのなら、それは問題外だと雄一郎は看做したのだ。とはいうものの、黒のジャケットを着た男だけでも、雄一郎と身近な存在であったということが分かっただけでも、雄一郎は些か満足したのだ。
 それで、雄一郎は、
「じゃ、僕はこの辺で失礼しますよ」
 と、言った。
「なんだ。もう帰るのですか? 私たちと一緒に帰りましょうよ」
 と、赤いジャケットを着た女性は言っては、甘えるような微笑を浮かべた。
 雄一郎はその微笑を見て、すぐに視線を逸らせてしまった。
 女の微笑? それは、男にとって、危険だ。
 雄一郎は小説などで、女性のことを研究していた。
 その結果、女性は男を破滅に導かせる危険を孕んだ生きものであるということだ。女によって、人生を狂わされてしまった男がどれほどいることだろう。
 それ故、雄一郎はその微笑を無視しようとした。そして、
「急いでますので」
 と言っては、腰を上げたのであった。

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