5
山頂を背に、雄一郎は黙々と山を降り始めた。
そして、山頂から十分程経つと、やがて、草原に入った。
その頃は、太陽は雲に隠れ、曇っていた。
その為か、かなり気持ち良さを感じた。山頂でビールをご馳走になったといえども、今は初夏であえる。十分も山道を進めば、汗が噴き出して来るというものであろう。
雄一郎はもう一枚、着替えのシャツを持っていたといえども、今、この場所で着替えをするのには、時期尚早だと思った。この一枚のシャツは下山した時の為に、温存しておかなければならないのだ。
それで、この場所で着替えることなく、雄一郎は歩みを進めることにした。
そして、程なく樹林帯に入った。
だが、雄一郎は休むことなく、歩みを進めた。それに、何しろ、下りである。登り程、しんどくはないのだ。
だが、往きに休憩した岩場にまで来ると、さすがにこの辺で一休みすることにした。
そして、少し経つと、中年の婦人の二人組がやって来た。その二人組は、いかにもくたびれたという感じだった。
雄一郎の姿を眼にすると、二人の内の一人が近付いて来ては、
「山頂までは、まだ大分ありますかね?」
と、いかにもくたびれたという表情で言った。
「後、三十分程ありますかね」
雄一郎がそう言うと、婦人たちは?然とした表情を浮かべた。その表情は、正に未だそんなにあるのかと言わんばかりであった。
そんな婦人たちに、
「それに、これからはきついですよ。沢を登らなければなりませんからね。鎖は付いてるのですが、なかなか手強いですよ」
と、雄一郎は説明した。
すると、婦人たちは、
「どうしよう」
と言っては、迷ってるようであった。
そして、雄一郎の傍らにあった岩の上に腰を降ろした。
雄一郎は腕時計を見た。
すると、二時半だった。
雄一郎の足で今から頂上に登るとしても、躊躇いを感じるであろう。
それに、この中年の婦人たちでは、止めた方がよいかもしれないと、雄一郎は思った。
すると、婦人の方から、
「私たちで、今から山頂まで登るのは、きついでしょうかね?」
と、訊いて来た。
それで、雄一郎は即座に、
「少し時間が足らないと思いますね」
雄一郎はこの婦人たちがここまで来て頂上に達せられないのは気の毒だとは思ったが、このような場合、同情することが事故に繋がってしまうということを雄一郎は分かっていた。それで、雄一郎はそう言ったのだ。
すると、婦人たちは、
「やはり、そうですか。じゃ、引き返そうか? そうしましょうか」
といった会話を婦人たちは交した。
雄一郎はこの婦人たちの計画は無謀だと思った。頂上まで登ろうとすれば、もっと早い時間に出発しなけれならないのだ。
そう思った雄一郎は、
「何時頃から、登り始めたのですかね?」
と訊いてみた。
「十一時頃だったかしら」
ピンク色の帽子を被った五十位の婦人、即ち丹羽文子が言った。
十一時か……。となると、ここまで来るのに、三時間半もか掛かったことになる。
しかし、それは幾ら女の足としても、遅過ぎるというものではないのか?
それで、雄一郎はその思いを話してみた。
すると、丹羽文子は、
「私たち、歩くのがとても遅いのですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
すると、黄色の帽子を被った婦人が、
「身体の調子が悪くないこともないのでね」
と、渋面顔で言った。
そう言われたので、雄一郎は、
「そうですか……」
と、呟くように言った。雄一郎としては、この婦人たちの事情がどうであれ、そのようなことは関係ないのだ。ただ、当り障りのない返答をしておいたまでだ。
すると、文子は、
「私たち、実はね」
と言っては、雄一郎を見詰めた。
その文子の表情は、些か真剣味のあるものであった。今までの表情とは打って変わって、とても真剣味のあるものだったのだ。
そんな婦人を見て、雄一郎の表情は、堅くなった。何だか、今から話そうとしてる婦人の言葉が、只ならぬもののように雄一郎は思えたからだ。
そんな雄一郎に文子は更に話を続けた。
「私たち、実はね。帰るつもりはないのよ」
「はあ?」
そう言われ、雄一郎は思わず?然とした表情を浮かべた。婦人の言葉が、正に思ってもみなかったものだからだ。
それで、雄一郎は思わず、
「それ、どういうことですかね?」
と、いかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
「フッフッフッ……。知りたい?」
黄色の帽子を被った婦人は、悪戯っぽい表情を浮かべては言った。
雄一郎はそれを知りたいわけではなかった。この婦人たちは、雄一郎にとって、何ら関係のない人物なのだから。
そう思った雄一郎は、何と答えたらよいのか分からず、渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせたのだが、すると、文子が、
「いいわ。教えてあげる。私たち、実はね。山から下りるつもりがないのよ」
そう言われ、雄一郎は再び、
「はぁ?」
と、呟くように言っては、?然とした表情を浮かべた。やはり、この婦人の言ったことの意味が理解出来なかったからだ。
それで、
「それ、どういう意味なんですかね?」
と、思わず訊いてしまった。
「だから、私たち、山から下りるつもりはないのよ。ねぇ、酒巻さん」
と、文子は言った。
「ええ。そうなのよ」
酒巻敏子は言った。
「ということは、この山でキャンプをするつもりなんですかね?」
と、雄一郎は怪訝そうな表情を浮かべては言った。というのも、婦人たちの持ち物は、手提げのバッグだけであったからだ。そのことからして、婦人たちがキャンプする用具を持ち合わせていないことは歴然としていたのだ。
すると、丹羽文子は、
「フッフッフッ……」
と、笑った。そして、
「どうしようかな。酒巻さん」
「そうねぇ。どうしようかな」
そう言い合ったが、雄一郎はその婦人たちの会話の意味が分からなかった。
だが、程なく、酒巻敏子がバッグから小瓶を取り出しては雄一郎に見せ、
「この小瓶の中に何が入ってるか分かる?」
そう言っては、その小瓶を雄一郎に見せた。
それで、雄一郎はそれに眼をやったが、すると、白い粉のようなものが入っていた。
それで、
「何かの薬ですか?」
「そうよ。何の薬なのか分かる?」
丹羽文子が言った。
「さあ、分からないですね」
と言っては、雄一郎は首を傾げた。
「私たち、この薬を飲んで楽になるのよ」
酒巻敏子は言った。
そう言われても、まだ雄一郎はそれが何の薬か分からなかった。
それで、怪訝そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせたが、しかし、その時、雄一郎の脳裏に閃いた。
そう! この薬は、睡眠薬だ! 先程、この婦人たちは、山を下りる気がないと言った。それは、この睡眠薬を飲んで、この山で死のうとしてるのだ!
そう察知した雄一郎は、
「睡眠薬ですか……」
と、淡々とした口調で言った。
すると、丹羽文子は、
「大当たり!」
と、甲高い声で言った。そして、
「で、この薬をどうしようと思ってるか分かる?」
そう言った婦人の問いに対して、雄一郎がどう答えるか、いかにも好奇心を露にしたような表情を浮かべては言った。
だが、雄一郎は、
「そのようなことを言われても……」
と、言葉を濁した。
しかし、それは雄一郎の本心ではなかった。雄一郎はこの婦人たちが、その睡眠薬を飲んで自殺しようとしてることに気付いていた。しかし、そう言うことに、雄一郎は気が退けたのだ。
そんな雄一郎に、文子は、
「私たち、今晩、この薬を飲んで、休むのよ」
と、今度はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「どうして、そのようなことをするのですか?」
雄一郎は訊いた。雄一郎は何故この婦人たちが自殺しようとしてるのか、とても興味を感じたのであった。
すると、文子が、
「私たち、いつも馬鹿にされてるのよ。私たちは、馬鹿な女性じゃない! そのことを見せてやるのよ!」
と、ヒステリックに言った。
そんな女性たちを眼にして、雄一郎は、
「まあ、落ち着いてくださいよ。もう少し僕に分かるように話してもらえませんかね」
と、婦人の興奮を鎮めるかのように言った。
すると、文子は、
「主人よ! 主人! そうね、酒巻さん!」
「そうよ。あの分からず屋の主人よ!」
敏子は、文子に相槌を打つかのように言った。
「ご主人ですか。あなたたちのご主人が、あなたたちを馬鹿にするのですかね?」
「そうなのよ。主人は分からず屋なのよ!」
「ですから、もう少し分かり易く話してもらえないですかね?」
雄一郎はまるでカウンセラーが患者からの相談を受けるかのような調子で言った。
すると、敏子は、
「主人は私のことを無視するのよ。そりゃ、私たちの間には子供はいなかったけど、結婚して二十年、仲睦ましくやって来たわ。
しかし、それは私が勝手にそう思っていたに過ぎなかったのよ。
主人にはね。女がいたのよ。二十歳も年下の女がね。
まるで、私たちの子供みたいな年齢の娘なのよ。
私、もう頭に来たわ! 主人ったら、別れてくれと言って来たわ! でも、誰が別れてやるもんですか!」
と、捲くし立てた。
次いで、文子が話し出した。
「私とこはね。借金よ。主人ったら、株だの、先物取引だの、やたらに投機に凝り始めて、多額の借金をこしらえてしまったの。
家邸はすっかり取り上げられてしまって、今は六畳二間のアパート暮らし。
仕方なく、私はパート勤めを始めたんだけど、でも、もう限界。借金は自転車操業といった感じで、どんどん増えて行く。主人に別れてくれと言っても、別れてくれないのよ。それどころか、借金の返済を私にも押しつけてくるのよ。
息子は不良グループに入っては事件を起こし、逮捕されてしまったの。
もう私、死にたいのよ! 死んで、楽になりたいのよ!
ここまで来るのに、三時間も掛かったと言うのは、死に場所を探したからなのよ!」
と、文子はヒステリックに言った。
やはり、関わりを持たなければよかった……。
雄一郎はこの婦人たちと話をし始めた時に、そう思ったこともあった。
しかし、雄一郎が人が良い為か、ずるずると話を聞かされてしまった結果、このような話を耳にしなければならなくなったのだ!
そう後悔しても、後の祭りというものだ!
さて、雄一郎はこれからどうすればよいのか? この婦人たちの自殺を止めるべきなのか? そうでないのか?
雄一郎はそう思ったが、そんな雄一郎の口からは、
「やっぱり、死ぬのは、よくないですよ」
という言葉が自ずから発せられた。更に、
「生きてて、いいことがあるかもしれませんよ」
と、付け加えた。
すると、敏子が、
「あんたなんかに、何が分かるのよ!」
と、ヒステリックに言った。
「そうよ! そうよ!」
と、文子が相槌を打った。
そんな婦人たちに、雄一郎は、
「とにかく、僕と山を下りませんか」
と、婦人たちの血の気を和らげるかのように言った。
そう雄一郎が言うと、婦人たちは渋面顔を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、文子が、
「そうしましょうか、酒巻さん」
と、敏子の顔を見やっては言った。
すると、敏子は、
「そうね。そうしましょうか」
と、文子に相槌を打つかのように言った。そして、
「今日は計画を止めましょう」
と言い、その敏子の言葉に、文子からは異論は出なかった。
そして、結局、この二人の婦人は雄一郎と共に、山から下りることになった。