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 岡山からの通報を受け、近くを警邏中であった江川正嗣巡査(28)が直ちに現場に急行した。
 そして、江川のパトカーが現場に着くのに、十分も掛からなかった。
岡山は、江川が運転するパトカーが現場に着くと、パトカーから降車した江川に小走りで駆け寄っては、
「お巡りさん、こっちです!」
 と、強張った表情で言った。
 岡山の案内の許に、江川は直ちに男性の許に駆け付けたが、そうだからといって、男性が生き返るわけはなかった。男性は先程のように、確かに白砂の上で息絶えていたのだ。
 そんな男性の様を一目見て、江川は、<殺しだな>と、思った。
 そう! 男性は自らの意志で息絶えたのではなく、何者かによって、息の根を止められたのである。
 だが、司法解剖してみないことには、断言は出来ないであろう。
 そう江川が思ってると、やがて、救急車が到着した。そして、疾風の如く担架を持って救急隊員がやって来たかと思うと、男性を担架に載せては現場を去って行ったのだ。
 すると、多々戸浜はいつも通りの多々戸浜へと戻った。そうかといっても、岡山は今日はサーフインをする気にはなれなかった。先程の男性の死顔が頭にこびりついて離れなかったからだ。
また、海に入れば、先程の男性が岡山を海の中に引きずり込むのではないかという不安が過ぎったのである。それで、岡山は今日はサーフインを止め、下田市内観光でもしようかと思ったのであった。

 それはさておき、多々戸浜で岡山によって発見された男性は、下田市内のN病院で直ちに司法解剖された。
 すると、死因が明らかになった。 
 それは心臓を鋭利な刃物で刺されたことによるショック死であった。また、背中からも刺されていたことから、殺しと静岡県警は断定した。
 また、死亡推定時刻も明らかとなった。
 それは、昨日の午後九時から十時の間であった。
 だが、男性が多々戸浜で殺されたのか、あるいは、別の場所で殺されて、多々戸浜に運ばれ遺棄されたのかどうかということは、まだ明らかにはならなかった。
 また、男性の身元もまだ明らかにはなっていなかった。
 だが、男性の身元は、その日の夕方に明らかになった。
 というのは、男性は岡山と同じく、多々戸浜近くのペンションに宿泊していたサーファーだったからだ。
 その男性の姓名は、尾藤治という三十歳の東京都町田市在住の男性であったのだ。尾藤の職業はまだ分かってはいなかったが、尾藤は仲間と共に多々戸浜にサーフインに来ていたとのことだ。その尾藤の他殺体が、七月二日の早朝、多々戸浜で岡山によって発見されたというわけだ。
 そして、尾藤の身元を証明した尾藤と共にサーフインに来ていたという崎山正次(30)と秋山秋夫(30)から、尾藤の事件を捜査を受け持つことになった静岡県警の中村誠一警部(50)は、早速話を聴くことになった。
 尾藤たちが宿泊していた多々戸浜近くにある「ブルースカイ」という瀟洒なペンションに姿を見せた中村に対して、崎山と秋山は、言葉を発そうとはしなかった。ただ、いかにも強張ったような表情を浮かべていただけであった。
 そんな二人に、中村は改めて尾藤が今朝、多々戸浜で他殺体で発見されたという経緯を説明し、
「尾藤さんの死に、何か心当たりありますかね?」
 と、いかにも真剣な表情で言った。
 すると、崎山も秋山も黙って頭を振った。
 そんな二人に、
「尾藤さんの死亡推定時刻は、昨日の午後九時から十時頃の間なんですがね。その頃、尾藤さんは何処で何をしていたのでしょうかね?」 
 と、中村は怪訝そうな表情を浮かべては言った。そんな中村は、崎山と秋山が尾藤の死に対して、特に情報を持っていないのは、信じられないと言わんばかりであった。
 すると、そんな中村に、崎山は、
「昨日は僕たちはとても疲れていたのですよ。それで、三人とも、午後八時半頃には床に入ったのですよ。それで、午後九時から十時頃にかけて、尾藤君がどうしていたのかということが分からないのですよ」
 と、いかにも困惑したような表情を浮かべては言った。
 そう崎山に言われ、中村は思わず言葉を詰まらせてしまった。それは、正に中村が思ってもみなかった崎山の言葉であったからだ。
 そんな中村に、崎山は、
「で、今朝、眼が覚めてみると、尾藤君はいなかったのですよ」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 それで、中村は、
「秋山さんも、同じですかね?」
 すると、秋山は、
「ええ」
 と、小さな声で肯いた。
 この二人の証言が事実なら、尾藤は昨夜、「ブルースカイ」を一人で抜け出し、災難に見舞われたことになる。
 それで、中村はその旨を二人に話した。
 すると、崎山も秋山も、口を揃えて、
「そうなりますね」 
 と、いかにも渋面顔を浮かべては言った。
 それで、中村はこの時点で、崎山達が今回多々戸浜に来ることになった経緯を訊いた。
 すると、崎山は、
「僕たちはサーフイン愛好家でしてね。それで、サーフインをする為に二泊三日の予定で多々戸浜にやって来たのですよ」
 と、淡々とした口調で言った。
 そんな崎山に尾藤たちの職業を訊いた。
 すると、崎山と秋山の言葉は詰まった。そんな崎山たちの様を見れば、何か言いたくないようなことがあるのかもしれなかった。
 だが、程なく崎山は言葉を発した。
「僕たちはフリーターなんですよ」
 と、眼を大きく見開いては言った。
「フリーターですか。では、尾藤さんは今、どんなアルバイトをやっていたのですかね?」
「尾藤君は今、特にアルバイトをやっていなかったみたいですよ」
「ほう……。そういうわけですか。じゃ、毎日、好きなことをやって暮していたのでしょうかね?」
 と、中村は崎山と秋山の顔を交互に見やっては言った。
 すると、崎山は、
「まあ、そんな感じですね」
「では、崎山さんたちも、尾藤さんと同じようなものですかね?」 
 と、中村は再び崎山と秋山の顔を交互に見やっては言った。
 すると、崎山は、
「まあ、そんな感じですね」
 と、何となく決まり悪そうに言った。 
 そう崎山に言われ、中村は眉を顰めた。フリーターで、今は特にアルバイトをしていない尾藤が、何故心臓と背中の二箇所も刺され、殺されなければならなかったのか、その理由が分からなかったからだ。
 尾藤の検死を行なった医師によると、犯人は明らかに尾藤の命を狙ったのだという。つまり、確実の尾藤の命を狙ったというわけだ。それ故、犯人は渾身の力を込めて、尾藤に刃を向けたのである。その結果、尾藤は呆気なくショック死したのである。
 それ故、犯人は行きずりの者ではないと、中村は看做していた。何故なら、行きずりの者なら、最初から尾藤に致命的な結果をもたらしはしないというのが、中村の考えだったからだ。また、尾藤とて、抵抗の痕がある筈なのだ。だが、それは皆目、尾藤には見られないのである。 
 従って、犯人は行きずりの者ではなく、確実の尾藤の命を狙ったのである。中村たち捜査陣は、そのように看做していたのだ。 
 それで、中村は、その思いを崎山と秋山に話した。
 すると、秋山は、
「そう言われても……」
 と、困惑したような表情を浮かべては言った。そんな崎山は、そのように中村に言われても、何と言えばよいのか、分からないと言わんばかりであった。
 また、秋山の様も然りであった。
 それで、中村は、
「では、尾藤さんは誰かに恨まれてはいなかったのですかね?」
 と、眼を大きく見開いては言った。中村は、今までの崎山と秋山の二人から聞いた話から、尾藤殺しの犯人は、尾藤を恨んでる者に違いないと思ったからだ。
 そう中村に言われると、崎山と秋山の表情は、さっと蒼褪めた。そんな二人の様からして、その中村の問いに対して、何か思うことがあるかのようだ。
 だが、二人はなかなか言葉を発そうとはしないので、中村は、
「どんな些細なことでも構わないですから、遠慮なく話してくださいな」
 と、いかにも穏やかな表情と口調で言った。
 すると、崎山は、
「尾藤君を恨んでる人が、いるかもしれないですね」
 と、いかにも決まり悪そうな表情で言った。
 そう崎山に言われると、中村は、
「それ、どういった人ですかね?」
 と、いかにも興味有りげに言った。
 すると、崎山は渋面顔を浮かべては、
「二年程前のことですがね。多々戸浜で尾藤君はサーフインをやってたのですよ。で、その時に、尾藤君は事故を起こしてしまったのですよ」
「事故ですか。それ、どんなものですかね?」
 中村は興味有りげに言った。
「衝突事故ですよ。尾藤君のサーフボードが、近くにいたサーファーの眼を直撃してしまい、その結果、そのサーファーは両眼を失明してしまったのですよ。その結果、そのサーファーは自殺してしまったのですよ。そういった事故があったのですよ」
 と、崎山はいかにも決まり悪そうに言った。
 そう崎山に言われ、中村は言葉を詰まらせてしまった。中村は何と言えばよいか、分からなかったからだ。
 だが、やがて、中村は、
「じゃ、誰が尾藤君を恨んでるのですかね?」
「そのサーファーの父親ですよ。父親は、尾藤君のことを恨んでると思いますよ。
 そもそも、尾藤君はそのサーファーが波に乗ろうとしてるのに、そのサーファーの前に来て波乗りをやったのですよ。サーフインには、前乗り禁止というルールがあるのですが、尾藤君はそのルールを破ったのですよ。
 しかし、尾藤君はそのことを頑なに否定し、運が悪かったで自らの非を絶対に認めようとはしなかったのです。もっとも、尾藤君は保険に入っていたので、保険から慰謝料は支払われましたが、刑事的には何ら罪に問われることはなかったのです。でも、そのサーファーの父親は、尾藤君のこと強く恨んでると思うのですよ」
 と、崎山は中村に言い聞かせるかのように言った。
「尾藤君は前乗りをやらなかったと主張したのですか?」
「そうです」
「では、誰が前乗りをしたと主張したのですかね?」
「そりゃ、被害に遭ったサーファーですよ」
「どちらの言い分が正しいのですかね?」
「そりゃ、被害に遭ったサーファーでしょう。前乗りをしなければ、尾藤君のサーフボードがそのサーファーの顔面に当たるという可能性は小さいと思われますからね」
 そう崎山に言われ、中村は、
「なる程」
 と言っては、小さく肯いた。そのサーファーの父親なら、確かに尾藤に強い恨みを抱いていても、不思議ではないと思ったからだ。それ故、法で尾藤を裁けないのなら、自らの手でという思いが働き、その思いを実行したのかもしれない。これが、今回の事件の真相であるのかもしれない。
 それで、中村は、
「で、その父親は、何という姓名なのですかね?」
 と、興味有りげに言った。
「長田正道という人物です」
 と、崎山は渋面顔で言った。そんな崎山は、その名前を口にはしたくないと言わんばかりであった。
「長田正道さんですか。何歳位の人ですかね?」
「今は、五十三歳位ではないですかね?」
「自殺した息子は、何という名前ですかね?」
「正さんでしたね」
 と、崎山は神妙な表情で言った。
 それで、中村は崎山から長田正道の連絡先を聞き、早速、長田正道から話を聴いてみることにした。

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