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 東京都内のとある街に事務所を構えていた花田弁護士の事務所を中村が訪ねたのは、その日の午後五時頃のことであった。事前に電話連絡してあったので、花田は事務所で中村のことを待っていた。
 花田は五十位で、銀縁の眼鏡を掛け、何となくごつい感じであった。
 そんな花田に、中村は来訪の旨を改めて説明した。
 花田は、そんな中村の話に特に言葉を挟まずに耳を傾けていたが、中村の説明が一通り終わると、
「その海部さんというのは、海部茂樹さんのことですね」
 と、些か険しい表情を浮かべては言った。
「海部茂樹さんとは、どのような人なんですかね?」
 中村は興味有りげに言った。
「尾藤さんの友人ですよ」
「尾藤さんの友人ですか。それなのに、何故、海部さんの父親は、尾藤さんのことを恨んでいたのですかね?」
 中村はさりげなく訊いた。
「ですから、去年の五月に尾藤さんは海部さんたちと、沖縄にダイビングに行ったのですよ。で、その時に、尾藤さんは海部さんとバディを組んでダイビングをしていたのですよ。
 で、バディというのは、ペアと同じようなもので、つまり、どちらかがアクシデントに見舞われれば、助ける為に共に行動するというものなのですよ。
 で、尾藤さんはその時、スペアガンを使って、魚を撃っていたのですよ。スペアガンとは、水中銃ですが、場所によっては、規制の対象になっていて、尾藤さんたちがその時使っていた場所も規制の対象になっていたのですよ。
 そういった状況だったので、まあ、地元の人たちには隠れてこそこそやっていたわけですが、その時、尾藤さんたちの行為を地元の漁業関係者が見付けましてね。それで、尾藤さんたちを捕まえようとしたのですが、その時、アクシデントが起こったのですよ」
 と、花田は些か渋面顔を浮かべては言った。
「アクシデント、ですか。それはどういうものですかね?」
 中村は興味有りげに言った。
「海部さんのマスクとスノーケルが海部さんから外れてしまい、海部さんが溺れてしまったのですよ」
 と、花田はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「ほう……。そういうことがあったのですが。で、それが、どう尾藤さんが関係してるというのですかね?」
 中村は興味有りげに言った。
「それがですね。海部さんのそのアクシデントは、どうも時間稼ぎであったようなのですよ」
「時間稼ぎ? それは、どうことですかね?」
 中村は些か納得が出来ないように言った。確かに、今の花田の言葉の意味が、中村には理解出来なかったからだ。
「つまり、尾藤さんたちの違法行為を見付けた漁業関係者の追跡をかわす為に、意図的に海部さんを溺れさせ、漁業関係者が海部さんを助けさせてる隙に、尾藤さんたちが逃げる時間を稼いだというわけですよ」
 と、花田はいかにも神妙な表情を浮かべた。
 そう花田に言われ、中村は、
「なる程」
 と、小さく肯いた。花田が言わんとしてることが何となく分かったような気がしたからだ。
 だが、まだまだ分からないことは、色々とある。
 それで、中村は、
「尾藤さんたちは、逃げることが出来たのですかね?」
「そうですよ。尾藤さんたちを摘発することは出来なかったのですよ。にもかかわらず、海部さんは事故死してしまったのですよ」
 と、花田はいかにも渋面顔を浮かべては言った。
「事故死ですか」
「そうです。スノーケルが口から外れてしまい、また、マスクも顔から外れてしまったので、うまくそれらを元に戻すことが出来ずに、溺死してしまったのですよ」
 と、花田はいかにも決まり悪そうに言った。
「そういうわけですか……。でも、何故そのことが、海部さんの父親が、尾藤さんのことを強く恨んでることになるのですかね?」 
 中村は些か納得が出来ないように言った。
「それがですね。妙なことを証言した人物がいるのですよ」
 と、花田は眉を顰めた。
「妙な証言ですか。それは、どういうものですかね?」
 中村は些か興味有りげに言った。
「その証言をしたのは、漁業関係者の額田という人物なんですがね。で、額田さんが言うには、海部さんのマスクとスノーケルを無理矢理外したと思われる人物を眼にしたというのですよ」
 と、花田はいかにも渋面顔を浮かべては言った。
「無理矢理、ですか」
 中村もいかにも渋面顔を浮かべては言った。そんな中村は、正に今の言葉に大いなる不審点を嗅ぎ取ったと言わんばかりであった。
「ええ。そうです。つまり、海部さんは自らの意思で、スノーケルとマスクを外したのではなく、誰かに無理矢理外されてしまい、その結果、溺死してしまったというわけですよ」
 と、花田は再びいかにも渋面顔を浮かべては言った。
 そう花田に言われ、思わず中村は言葉を失った。今の花田の言葉は、正に中村の言葉を奪うのに十分なものであったからだ。
 そんな中村に花田は、
「僕が言ったことが何を意味してるか、分かりますかね?」
 と、中村の顔を覗き込むように言った。
 すると、中村は小さく頭を振った。
 すると、それはもっとものことだと言わんばかりに花田は小さく肯くと、
「つまりですね。尾藤さんが意図的に海部さんのマスクとスノーケルを外し、その結果、海部さんは溺死してしまったというわけですよ」
 と、いかにも険しい表情をしては肯いた。
 そんな花田に、
「その証拠はあるのですかね?」
 と、中村は眉を顰めては言った。
「証拠はありません。でも、我々の調査では、その時、尾藤さんが身に付けていたダイビングスーツが、額田さんが眼にした海部さんのマスクとスノーケルを外した人物が身に付けていたものと一致してるのですよ。でも、尾藤さんは頑なにそれを否定しました。それで、そのことを立証することは出来なかったのですよ」
 と、花田はいかにも決まり悪そうに言った。
「もし、そのことを立証できれば、尾藤は殺人罪となるわけですね」
「そうです。でも、その証拠はないので、尾藤は何ら罪に問われることはなかったのです。また、尾藤はスペアガンを使用した罪でも問うことは出来なかったのですよ。そのようなことはやってなかったで、逃げおおせたわけですよ」
「でも、実際はスペアガンの使用していたのですね?」
「そうに決まってます。何しろ、海部さんの死体の傍らには、スペアガンが落ちていたのですからね。海部さんたちと共にダイビングをしていた尾藤さんが使っていないわけはないというわけですよ。ところが、尾藤は海部さんの溺れさせ、そのことを額田さんたちの眼を釘付けにさせてる間にスペアガンを何処かに隠し、巧みに逃げおおせたというわけですよ」
 と、花田は正に中村に言い聞かせるかのように言った。
 そんな花田に、
「つまり、海部さんの父親はそのことを知った為に、尾藤に強い恨みを持ったというわけですね?」
「正にその通りですよ」
 と、花田は些か満足そうに肯いた。そんな花田は、正に花田の思いを中村が理解してくれたと言わんばかりであった。
「正に、尾藤とは、とんでもない男というわけですか」
「そうです。尾藤は、正にとんでもない男なんですよ。海部さんを生贄にしては、自らの身を守ろうとするような男なんですよ。
 多々戸浜での件も故意にサーファーの頭をめがけてサーフボードを動かしたのかもしれないですね。
 そんな男だから、殺されても当然だと思いますよ」
 と、花田はまるで尾藤の死は、自業自得だと言わんばかりに言った。
 とはいうものの、花田は尾藤を殺したのが、長田正道だとか、海部茂樹の父親である定吉だとまでは言及しなかった。花田は心の中では、尾藤を殺したのは、その二人の内のどちらかではないかと思ってるのかもしれなかったが、決して中村にはその胸の内を言及はしなかったのである。
 そして、この辺で、中村は長田正道の事故で、長田正道から相談を受けたという花田弁護士への聞き込みを終えたのである。

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