1 事件発生

 旧天北線は、稚内と紋別を結んでいたが、昭和55年に廃線となった。しかし、今はその線路上がサイクリングロードとして整備され、森林の中を貫いたり、湖が見えたりして、観光客に人気がある。
 しかし、難点もある。それは、ヒグマだ。辺りがヒグマの生息地であり、時々、ヒグマが目撃されたり、また、糞が見られたりする。
 そういった情報がある時は、サイクリングロードは閉鎖されてしまう。 
 それ故、このサイクリングロードを走るには、些か勇気が必要となるだろう。
 しかし、サイクリング好きの田上正明(43)は、東京からの旅行者であり、昨夜はクッチャロ湖畔のホテルに泊まり、今日はクッチャロ湖沿いのサイクリングロードを自転車で走る予定になっていた。
 このサイクリングロードに時々クマの目撃情報があるのは分かっていたが、しかし、そういったスリルがあるからこそ、サイクリングは面白いと思っていた田上は、サイクリングロードを走るのに躊躇いはなかった。
 予定通り、ホテルで自転車を借りると、サイクリングに乗り出した。午前九時のことだった。
 しかし、田上のサイクリングは早々と中止に追い込まれてしまった。というのは、何とサイクリングロードでクマを見たという情報が寄せられ、観光課の職員がサイクリングロードの入口にやって来ては、掲示板にサイクリングロード使用禁止と記した。
 そして、その場にやって来た田上を眼にすると、サイクリングを中止するように言ったのだ。
 これには、田上は大いに失望した。今回の北海道旅行で、サイクリングが一番の楽しみであったからだ。しかし、クマが出たとなれば、やむを得ないだろう。
 しかし、田上は、
「クマはどの辺りに出たのですかね?」 
と、その四十位の職員に訊いた。
「ここから、一キロ程のところですよ」
 と、渋面顔で言った。
「ここから一キロ程のところですか。で、被害が出たのですかね?」
「いいえ。幸、被害は出なかったです」
 それを聞いて、田上は、〈やれやれ〉と思ったが、
「クマに出会った人は、どうやってクマから逃げおおせたのですかね?」
 と、興味有りげに訊いた。
「その辺は詳しくは分からないです」
 と、職員は決まり悪そうに言った。
 そう言われると、田上はこの辺りでホテルに戻ることにした。サイクリングが出来ないとなれば、今日一日の旅程を変更しなければならないからだ。
 
 それはともかく、田上が職員と話をして一時間後のことだ。役場内は、今、些か慌しい雰囲気に包まれていた。
 というのは、クッチャロ湖近くの入口から一キロ程行ったところで、自転車が不自然な恰好で放置されてるという情報が、役場に入ったからだ。その情報を役場にもたらしたのは、札幌からの旅行者であった沢口浩二(33)であった。沢口は、サイクリングロード上にクマが出たという情報を知らずに、しばらくサイクリングをやっていたところ、その自転車を発見し、事の深刻さを察知し、慌てて戻ったとのことだ。
 沢口は、
「あれはクマに襲われたように見えましたね」  
 役場の野上係長に、興奮気味に言った。
「自転車はどんな倒れ方をしてたのですかね?」
「ですから、捩れたような感じでサイクリングロード上に放置されていたのですよ」
 と、興奮を隠し切れない沢口は、眼を大きく見開き、声を震わせながら言った。
「人の持ち物は辺りに見当たらなかったですかね?」
「そのようなものは、なかったですね」
 そう沢口は言ったものの、沢口だけでなく、猟友会のメンバーも加えて、その自転車が放置されていたという現場に行ってみることにした。
 そして、やがて、その現場に着いた。それは、正午頃のことであったが、やはり、サイクリングロード上に一台の自転車が放置されていた。
 その様を見て、やはり、その自転車の主に一大事が発生したことが、十分に察せられた。
 つまり、クマに襲われ、逃れられなかったという説明がもっともらしい説明のように思われた。
 しかし、とにかく、その自転車の持ち主が誰なのかを調べてみることにした。
 すると、程なく、その自転車の持ち主が誰なのかが明らかになった。
 それは、犬飼四郎という東京都に住んでいる45歳の男性であったことが明らかとなったのだ。犬飼は、その日、クッチャロ湖畔にある丸西自転車というレンタルサイクル店で自転車を借り、旧天北線のサイクリングロードでサイクリングをしていた時に、忽然と姿を消してしまったと思われたのだ。
 そして、その原因はやはりクマに襲われたと看做すのが、もっともらしかった。というのも、その日の午前十時頃、サイクリングロードでクマを目撃したという情報が、役場に寄せられていたからだ。
 そのことから、犬飼はそのクマの被害に遭ってしまったというわけだ。
 しかし、まだそうだと決まったわけではない。
 それで、犬飼が借りた自転車が発見されたサイクリングロード周辺を警察官とか役場の係員、更に猟友会のメンバーを加えた総勢十名が、徹底的に捜査してみることにした。
 すると、早くも成果を得ることが出来た。
 というのは、自転車が発見されたサイクリングロードから一メートル程の藪の中から、ショルダーバッグが発見され、その中に入っていた免許証などから、やはり、そのバッグは、犬飼四郎のものであったことが明らかになったのだ。
 そして、そのバックは、かなり深い傷がついていた。その傷は、正にクマの引っ掻き傷と思われた。
 これによって、やはり、犬飼がクマに襲われたという推理は、推理ではなく、事実であったことが確実となった。
 後は、犬飼の遺体を発見するだけだ。 
そして、その捜査は、総勢二十人で三日間掛かって行なわれたが、しかし、結局、成果を得ることはできなかった。
 犬飼の遺留品と思われるものは、自転車の近くで発見されたショルダーバック以外としては、犬飼のものと思われる白いハンカチがショルダーバッグの近くに落ちてはいたが、それ以外は何も発見されなかったのだ。犬飼の肉片、あるいは、衣服の切れ端のようなものは、まるで発見されなかったのだ。
 しかし、犬飼が借りた自転車がサイクリングロードに放置されていたことと、犬飼のショルダーバッグが近くに落ちていて、しかも、犬飼が行方不明になって三日経っても、犬飼の消息が分からないことから、犬飼の死は確実となった。遺体が見付からないというのは、山の奥深くまでクマによって運ばれて行ったからであろう。
 それで、犬飼はクマに襲われ、死亡したということで、犬飼の失踪を処理することになった。
 それで、東京にいる犬飼の家族に犬飼の死を知らせることになった。
 すると、犬飼は今、台東区内のアパートで一人暮らしであることが分かった。そんな犬飼の出身は静岡だという。それで、静岡の両親に電話を掛けて、犬飼の母親に犬飼の死を知らせた。 
 すると、母親の犬飼通子は、
―それ、本当ですか?
 と、いかにも信じられないような口調で言った。
「本当です。といっても、まだ犬飼さんの遺体は見付かってないのですよ」
 と、犬飼の死を捜査している坂本警部(45)は、いかにも申し訳なさそうに言った。
―ということは、四郎はまだクマに襲われ、死亡したと決まったわけではないのですね?
「そりゃ、100パーセント、確実というわけではありません。
 しかし、現場の状況から見て、その可能性は高いのですが……」
 と、坂本は、いかにも言いにくそうに言った。
 すると、通子は少しの間、言葉を詰まらせたのだが、やがて、
―四郎は、クッチャロ湖畔で、サイクリングをしていたのですか。
 そう通子に言われたので、坂本は、
「そうです」
 と言っては、小さく肯いた。
 すると、通子は、
―信じられないですね。
 と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
 すると、今の通子の言葉に興味を持った坂本は、
「信じられない? それ、どういう意味ですかね?」
 と、眼を大きく見開き、興味有りげに言った。
―四郎には、サイクリングという趣味はなかったのですよ。四郎がサイクリングをするなんて、聞いたことがなかったのです。それで、何となく、妙だと思ったのですよ。
 と、通子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「でも、クッチャロ湖の畔には、サイクリングロードが整備されていますので、サイクリングをやってみようと思ったのではないでしょうか」
 と、坂本は再び言いにくそうに言った。
―そうでしょうかね。それに、クッチャロ湖って、北海道のどの辺りなんですか?
「北東の方です。オホーツク海に面した地方なんですが」
―オホーツク海?
 そう言っては、通子は再び怪訝そうな表情を浮かべた。そして、
―信じられませんね。
「信じられない? それ、どういうことですかね?」
―四郎は旅行好きではなかったので、今まで北海道には一度も行ったことがないのですよ。そんな四郎が、オホーツク海に面したクッチャロ湖という湖の畔でサイクリングをやるということ自体が、何となく違和感を持ってしまったので……。
 そう言われて、坂本の言葉は詰まってしまった。
 そんな坂本に、通子は、
―本当に四郎が死んだのでしょうか?
 と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
「それ、どういうことですかね?」
―ですから、別人ということはなかったのですかね?
「それはないと思います。自転車の近くに犬飼さんのものと思われるショルダーバッグが落ちていて、そのバッグの中に入っていた免許証から、四郎さんだということが明らかになったので。
で、人違いというのなら、一度四郎さんに電話してみてもらえないですかね」
 そう坂本に言われたので、通子は直ちに四郎の携帯電話に電話してみたが、やはり、電話は繋がらなかった。
 これによって、やはり、犬飼四郎の死は決まったみたいなものだった。

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