5 容疑者浮上

 すると、その夜、田川は海野と会って話をすることが出来た。 
 私服姿の田川を見て、海野は怪訝そうな表情を浮かべた。そんな海野は、まるで田川のことを何をしに来たと言わんばかりであった。
 そんな海野に、田川はまず警察手帳を見せた。
 すると、海野の表情は、一瞬青褪めたように見えた。そんな海野に、田川はまず自己紹介してから、
「海野さんに聴きたいことがあるのですがね」 
 と、海野の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、海野は、
「何ですかね?」
 と、素っ気無く言った。
「海野さんは、二ヶ月前まで、『山海魚』で働いていましたね」
「ああ。そうだが」
 田川の問いに、海野はさして関心がなさそうに言った。
 すると、田川は小さく肯き、
「で、先日、その『山海魚』で働いていた犬飼四郎さんの遺体が、奥多摩の山中で発見されましてね」
「……」
「で、犬飼さんの死は、殺しによるものということが、司法解剖の結果、明らかになったのですよ」
 と言っては、田川は唇を歪めた。
「……」
「で、我々はそんな犬飼さんの事件を捜査してるのですよ」 
 と、田川は言っては小さく肯いた。
 そう田川が言っても、海野は何も言おうとはしなかった。そんな海野は、固唾を呑んで次の田川の言葉を待ってるかのようであった。
 そんな海野に、田川は、
「で、海野さんは、犬飼さんの死に心当りありませんかね?」
 と言っては、海野の顔をまじまじと見やった。
 すると、海野は、
「特にないですね」
 と、素っ気無く言った。
「そうですかね? 海野さんは、犬飼さんと仲が悪かったと聞いてるのですがね」
 と言っては、田川は唇を歪めた。
 すると、海野は、
「犬飼君は性格が悪かったですからね。ですから、犬飼君と仲が悪かった人物は幾らでもいたのではないですかね」
「それは誰ですかね?」
 そう田川に言われると、海野の言葉は詰まった。そんな海野は、それに関して、具体的には分からないと言わんばかりであった。
 案の定、海野は、
「そこまでは分からないですが……」
 と、言葉を濁した。
 そんな海野に、田川は、
「実は、犬飼さんの死に関して妙なことがありましてね」
 と言っては、クッチャロ湖畔のサイクリングロードの件を話した。
 海野は、そんな田川の話に、何ら言葉を挟むことなく、黙って耳を傾けていたが、田川の話が一通り終わっても、言葉を発そうとはしなかった。
そんな海野に、田川は、
「今、言ったこと、どう思いますかね?」
 と言っては、眉を顰めた。
「どう思うかって、そんなこと、分からないですよ」
 と、そのようなこと、海野には関係ないと言わんばかりに言った。
「そうですかね? これはどういうことかと言いますと、つまり、犬飼さんはそのサイクリングロードで、クマに襲われ死亡したと思わせる偽装工作が行なわれたと思ってるのですよ」
 と言っては、田川は小さく肯いた。
すると、海野は、
「ほう……。そういうことですか……」
 と、さして関心がなさそうに言った。そんな海野は、そのことが何か海野に関係があるのかと言わんばかりであった。
 そんな海野に、田川は、
「で、海野さんは、確か旭川出身だったですね」
 そう田川が言うと、海野は言葉を詰まらせた。
 そんな海野に、
「海野さんは、クッチャロ湖の方に度々足を運んでるのではないですかね」
 そう田川が言うと、海野は、
「いいや。僕はそのようなところに行ったことはないですね」
 と、田川の言葉を即座に否定した。
 そう言われてしまうと、田川は返す言葉がなかった。
 しかし、
「では、海野さんは二ヶ月前に『山海魚』を辞められましたね。それは何故ですかね? また、引越しもされましたね。何故ですかね?」
「そりゃ、そろそろ別の店で働いてみようと思いましてね。ただ、それだけですよ。また、引越したのは、新たな仕事先に近い場所だったからですよ」
「でも、海野さんが『山海魚』を辞められたのは、犬飼さんが死んでから少し経った頃ですね」
「それは、単なる偶然ですよ」
「では、海野さんには、恋人がいたとか」
 そう田川が言うと、海野の言葉は詰まった。そんな海野は、正にその問いは、思ってもみなかった問いだと言わんばかりであった。
 そして、海野はなかなか言葉を返そうとはしなかったので、田川は同じ問いを繰り返した。
 すると、海野は、
「刑事さんは、何故そのようなことを訊くのですかね?」 
 と、些か納得が出来ないように言った。
 すると、田川は、
「その問いに答える前に、今の僕の問いに答えてもらえないですかね?」
 と、再び海野の顔をまじまじと見やった。
 すると、海野は、
「そのようなことに答える義務があるのですかね?」 
 と、些か不貞腐れたような表情を浮かべた。
「答える義務はありますよ」 
 と、田川は海野に言い聞かせるかのように言った。
「それは、何故ですかね?」
 海野は些か納得が出来ないように言った。
「それは、海野さんが、犬飼さん殺しの犯人として疑われているからですよ」
 と、田川は正に海野に言い聞かせるかのように言った。
「僕が犬飼さん殺しの犯人として疑われている? それ、何故ですかね?」
 そう言った海野の表情には、笑みが見られた。そんな海野は、正にそれはおかしくて堪らないと言わんばかりであった。
「ですから、犬飼さんは、海野さんから借りたお金を返そうとはしなかったし、更に海野さんの恋人を犬飼さんにレイプされたからですよ。海野さんの恋人をレイプされた為に、それが怒りの爆発となり、海野さんは犬飼さんを殺しては、犬飼さんの死体を奥多摩の山中に捨てたのですよ。そして、クッチャロ湖畔のサイクリングロードで犬飼さんがクマに襲われて死亡したという偽装工作を海野さんは行なったのですよ。既に、海野さんの筆跡と、犬飼さんに化けたと思われる海野さんが、稚内のホテルの宿泊カードに遺した筆跡から、クッチャロ湖畔のサイクリングロードでの偽装工作は海野さんが行なったことがばれています。
 こうなってしまえば、もはや言い逃がれは出来ませんね」
 そう言っては、田川は海野を睨めつけた。そんな田川は、もはや下手な誤魔化しは出来ないぞと、海野を諌めてるかのようであった。
 そんな田川の話に黙って耳を傾けていた海野は、田川の話が一通り終わると、もう誤魔化せないと悟ったのか、
「刑事さんの言ったことは、半分は当たってますが、半分は外れてますよ」
 と、いかにも開き直ったかのような表情と口調で言った。
「半分は当たってるが、半分は外れてる? それ、どういうことなんだ?」
 と、田川は些か納得が出来ないように言った。田川は、今の田川の説明により、事件は解決したと思っていたのだが、今の海野の言葉は、その田川の思いに水をさすものだったからだ。
 それで、田川は渋面顔を浮かべては、
「それ、どういう意味かな?」
 と、いかにも納得が出来ないように言った。
 すると、海野は田川から眼を逸らせ、二十秒程、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ですから、僕が稚内のホテルに行っては、犬飼さんに成りすましたということですよ」 
と、いかにも決まり悪そうに言った。そんな海野は、正にいかにも決まり悪そうであった。
 しかし、田川は些か満足したように小さく肯いた。これによって、捜査は一歩前進したと実感したからだ。
 それで、
「それで?」 
 と、海野の次の言葉を待った。
 すると、海野は田川から眼を逸らせ、言葉を詰まらせた。そんな海野は、これ以上話したくないくないと言わんばかりであった。
 そんな海野に、田川は、
「犬飼さんに成りすまし、クッチャロ湖畔のレンタルサイクル店でレンタルサイクルを借りたのは、あんたなんだろ?」 
 と、海野を睨みつけるかのように言った。そんな田川は、この際、何もかもを話したらどうだと言わんばかりであった。
 すると、海野はちらちらと田川を見やっては、
「違いますよ」
 と、いかにも言いにくそうに言った。
「違う? それ、どういうことなんだ?」
 と、田川はいかにも納得が出来ないように言った。その海野の言葉は、正に田川にとって意外だと言わんばかりであった。
「ですから、それは、僕ではないのですよ」
 と、海野は些か顔を赤らめては、いかにも言いにくそうに言った。
「僕ではない? そんな馬鹿な! 君は稚内のホテルで犬飼さんに成りすましたことを認めたではないか!」 
 と、田川は吐き捨てるかのように言った。そんな田川は、正に下手な嘘はつくなと言わんばかりであった。
 そんな田川に、海野は、
「ですから、それは僕ではないのですよ」
 と、些か強い口調で言った。 
 そんな海野を見て、
「じゃ、それは誰なんだ?」
 と、とにかく海野の説明を聞いてみることにした。
 すると、海野は、
「後一日だけ時間を貸してください! そうすれば、明らかに出来ます」
 と、いかにも真剣な口調で言ったので、その海野の言葉を信じ、明日の今頃、再び海野宅を訪れ、海野から話を聴くことになった。
 しかし、この田川の甘い判断が、重大なミスであっと明らかになっても、それは後の祭りであった。

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