1 死体発見

 北海道を代表する原生花園といえば、小清水原生花園であろう。釧網本線とオホーツク海に挟まれたこの花園は、約八キロも続き、センダイハギ、エゾキスゲ、ヒオウギアヤメ、ハマナスなど、約五十種もの花が、六月の初から八月の下旬に掛けて咲き誇り、多くの観光客が訪れる。その期間に限って、小清水原生花園の浜小清水駅には快速電車も臨時停車する。
 その小清水原生花園に対して、サロマ湖畔にあるワッカ原生花園は、あまり知られていない。小清水原生花園は知っていても、ワッカ原生花園を知らない人は幾らでもいることだろう。
 しかし、スケールでは、小清水原生花園よりもワッカ原生花園の方が大きく、サロマ湖のオホーツク海側には二百から七百メートル程の砂嘴が二十キロも続き、そこにワッカ原生花園が開けている。正に、日本最大級の原生花園で、センダイハギ、ヒオウギアヤメ、ハマヒルガオ、ハマナスといった三百種以上の草花が五月から十月に掛けて咲き誇るのだ。
 正に、この原生花園を訪れる人が少ないのは、残念だ。
 しかし、その為に俗化されずに、原生花園本来の姿を保ち続けてるのかもしれない。
 それはともかく、ワッカ原生花園には散策路が整備されていて、観光馬車とかレンタルサイクルに乗って、原生花園の自然を思う存分に味わうことが出来る。正に、旅情に浸ることが出来るのだ。

 季節は七月に入り、ワッカ原生花園の花が百花繚乱する季節に入っていた。
 エゾスカシユリ、ヒオウギアヤメ、ムシャリンドウなどが咲き香っているが、殊にエゾスカシユリの大群落は、ワッカ原生花園ならではのスケールであった。
 散策路辺りに拡がっているエゾスカシユリのオレンジ色の大群落を見ていると、天国とはきっとこのような所ではないかと思ってしまう。
 それはともかく、今回初めてワッカ原生花園に名古屋からやって来た谷村和也、正子夫妻は、ごく平均的な夫婦であった。
 和也は会社勤めが二十年で課長職に就き、年収も平均的なものであった。また、子供は中学二年の娘と小学校六年の息子の二人で、住まいは郊外にある敷地四十坪、家は二十五坪の一戸建てであった。
 正に何もかもが平均的と思われる夫妻であった。
 そんな和也は、一足早い夏季休暇が取れたので、夫婦で二泊三日の北海道旅行にやって来たのだ。
 そんな谷村夫妻の趣味は、園芸であった。
 名古屋郊外にある谷村宅の小さな庭には、色とりどりの花が植えられ、それらの花を観賞するのが、愉しみだったのだ。
 そんな谷村夫妻であったから、初夏のワッカ原生花園を訪れたのは、正に自然の成り行きであったかのようであった。
 谷村夫妻は網走でレンタカーを借り、ワッカ原生花園の入口であるワッカネイチャーセンターの傍らにある駐車場にレンタカーを停め、早速レンタルサイクルを借り、原生花園散策に乗り出すことになった。
 散策路の入口からは、既にエゾスカシユリの大群落を眼にすることが出来、更に少し向こうの方に眼を向けると、サロマ湖の碧い湖面が否応なく眼についた。
 そして、二人はまるで童心に帰ったような思いを抱きながら、早速、散策路を軽快に自転車のペダルを漕ぎ始めた。
サロマ湖とオホーツク海を隔てている砂嘴の中に設けられているこの散策路は、ワッカネイチャーセンターから、約四、五キロ程続いている。
 もっとも、二人はその終点にまで行こうとは思ってはいなかった。四、五キロともなると、いくら自転車でも、かなりきついと思ったのだ。
 しかし、ワッカネイチャーセンターから少し進んだだけでも、ワッカ原生花園に咲き誇る花を充分に観賞出来た。そして、それは二人に大いに満足感をもたらしたのである。
 そんな二人は、散策路を少し進むと、自転車を傍らに停めては、散策路に降り立った。そして、オレンジ色のエゾスカシユリを間近で見ようとした。花好きの二人は、エゾスカシユリを間近で眼にしないと、我慢出来なかったのだ。
 二人はエゾスカシユリを間近で眼にしては、匂いを嗅いだ。また、そのオレンジ色の花弁を写真に撮った。
 そういう風にしていると、二人はまるで時が経つのを忘れてしまったかのようであった。
 しかし、いつまでも同じ場所に留まってるわけにはいかない。二人は出発してから、まだあまり進んでいないのだ。
 それで、二人は再び自転車に乗り、散策路を進み始めた。
 すると、向こうの方から観光馬車が近付いて来たので、二人はそれを避けようと思った。
 もっとも、それだけの理由ではないのだが、右折する道があったので、二人はその道に右折した。その道の両側にも、オレンジ色のエゾスカシユリや、深紅のハマナスを見ることが出来たので、二人は右折することに何ら躊躇いはなかったのである。
 二人はそういう風にして、その道を進んでいたのだが、程なく二人は自転車を停めた。何故なら、先程のように、花を間近で見たくなったからだ。
 それで、二人は先程のように、エゾスカシユリを間近で見ては匂いを嗅いだり、写真に撮ったりしていた。
 そういう風にして、二人はしばらくの間、愉しんでいたのだが、散策路から少し花園の中に入りたくなった。
 本来なら、散策路から花園の中に入り込むことは禁止されてるのだが、監視員は辺りにはいなかったし、また、辺りには人気がなかったことから、二人は悪戯心を起こしてしまったのだ。
 そんな二人は、まるで子供のように心を浮き浮きさせながら、花園の中に入って行った。
 とはいうものの、何しろ花好きの二人のことだ。花を踏み付けないように気を配ったことは、言うまでもないだろう。
 そんな風にして、二人は花に囲まれてご機嫌だったのだが、その時、正子はふと眉を顰めた。何故なら正子はとんでもないものを眼にしてしまったからだ。
 しかし、それは正子が思ったものなのかどうかは、まだ確定したわけではなかった。
 それで、正子は、
「あなた、ちょっと来て!」
 と言っては、それに近付いて行った。
 すると、正子の表情は、一層厳しくなった。何故なら、それはやはり、正子が思っていたものであったからだ。
 それは、女性であった。
 女性のミイラ化したような死体が、まるで布団に仰向け寝てるかのように横たわってたのだ。
 そして、それが人形でないことは、明らかであった。
 正子と共に、そのミイラ化した女性の死体を眼にした和也は、
「とんでもないものを見付けてしまったな」
 と、正子と同様、険しい表情で言った。
 そんな二人は、今や花園見物どころではなくなってしまった。
 それで、二人は疾風の如く、ワッカネイチャーセンターに戻り、事の次第を係員に話した。
 それで、係員は谷村夫妻と共に、その遺体の許に行き、それを確認すると、直ちに110番通報したのだ。
 それを受けて、所轄署の警官が四名、直ちにワッカ原生花園にやって来た。
 そして、女性の死を確認すると、女性を担架に載せては、その場を後にした。
 女性の遺体は網走市内の病院に運ばれ、解剖されたが、死後、かなりの月日を経過してる為に、死亡推定時刻は明らかにならなかった。また、死因も同様であった。ただ、身体に打撲を加えられたり、首を絞められたりしたような痕は見られなかった。
 そのことと、女性の傍らには睡眠薬の錠剤が入った小瓶置かれ、また、女性は寝床で寝てるかのような状態で横たわっていたことから、自殺である可能性もあった。
 とはいうものの、まだ自殺だと断定は出来ないというものだ。自殺に見せかけた殺人というものも、有り得るからだ。
 それ故、女性の身元を明らかにし、女性の事を調べてみる必要があるだろう。
 とはいうものの、女性の所持品には、女性の身元を明らかにする物は何もなかった。
 女性はセーターの上にコートを着ていたことから、女性が息絶えたのは、冬だと思われた。
 
 女性の死が、TVや新聞で報道されたことから、十人程の人が、網走署を訪れた。ワッカ原生花園で見付かった女性が、自らの娘か、あるいは、知人ではないかと思ったからだ。
 しかし、その誰もかれもが、渋面顔を浮かべては網走署を後にした。何故なら、その女性は、その者たちの娘や知人ではなかったからだ。
 もっとも、その女性が、その者たちの娘や知人であったのなら、その者たちはもっと悲愴な表情を浮かべたことであろう。
 それはともかく、網走署は、捜索願いが出されてる者の中に該当者がいるのではないかと思った。
 それで、その捜査を行なったのだが、しかし、成果を得られなかった。捜索願いが出されてる者の中で、女性の該当者と思われる女性はいなかったのだ。
 だが、女性の死が報道されて二日後に、網走署に興味深い電話が入った。
 電話を掛けたのは、釧路市内に住んでいる野沢明子という女性であった。
 明子は女性の捜査を担当してる網走署の山村正志警部(45)に、
―ワッカ原生花園で見付かった女性の身元はもう明らかになったのですかね?
「いいえ。まだなんですよ」
 と、山村は冴えない表情で言った。
―そうですか。で、その女性の年齢は二十代の半ば位で、身長は160センチ位なんですね?
「そうです」
―髪は肩に届く位伸びていて、痩せ形の身体付きだったのですね?
「そうです」
―眼鏡は掛けていなく、死後、四、五ヶ月位と推定されるのですね?
「そうです」
―女性は自殺なのか、他殺なのか、まだ分からないのですね?
「そうです」
―では、その女性の死顔の写真は残っていないのですかね?
「ないこともないのですが、生前の顔付は、その写真からは分からないですよ。もうミイラ化してますからね。ただ、亡くなられた時に身に付けていた衣服は分かりますが」
―そうですか。じゃ、その写真をとにかく私の家に送ってもらえないですかね。
「そりゃ、構わないですが、野沢さんはその女性に心当りあるのですかね?」
 山村は興味有りげに言った。
―ないことはないのですよ。
 と、明子は神妙な表情を浮かべては言った。
「その根拠とはどういうものですかね?」
―私は釧路市内でアパートを所有していて、賃貸ししてるのですよ。古いアパートですがね。
 で、その102号室に春川美紀さんという二十五歳の女性が、四ヶ月程前から行方不明になってるのですよ。
 で、ワッカ原生花園で遺体で見付かった女性は、その春川美紀さんではないかと私は思ったりしましてね。
「新聞なんかで記載されていた女性の特徴などから、そう思われたのですかね?」
―まあ、そういうわけです。
「で、春川さんの家族は警察に捜索願いを出していたのですかね?」
 山村はもし春川美紀の家族が捜索願いを出していれば、山村たちがそれを眼に留めない筈はないと思ったのだ。しかし、実際には春川美紀らしき女性は、眼に留まらなかったのである。
 すると、明子は、
―出していないと思います。
「出していない? それは何故ですかね?」
 山村は些か納得が出来ないように言った。
「それは、春川さんには、両親や兄弟姉妹がいないからですよ」
 と、明子はしんみりとした口調で言った。
―それは何故ですかね?」
 山村もしんみりとした口調で言った。
―複雑な事情があるそうで。つまり、春川さんが小さい時に、春川さんの両親は離婚し、春川さんはお母さん一人の手によって育てられたそうなんですよ。
 で、そのお母さんも春川さんが高校を卒業された頃、病死されたそうなんですよ。
「そういうわけですか。で、その春川さんが四ヶ月程前から行方不明になってるのですかね?」
―そうです。うちのアパートに住み始めてもう七年になるのですが、今までにこのようなことはなかったのですよ。
「つまり、家賃の支払いが滞ってるというわけですかね?」
―そうです。それで何度も部屋に行ったのですが、春川さんは部屋に戻ってないみたいなんですよ。マスターキーで中を見てみたのですが、ここしばらくの間、帰宅してないみたいなんですよ。
 で、春川さんの勤務先から問い合わせが入ったこともあるのですよ。ずっと無断欠勤してると。
 それで、私たちは春川さんが行方不明になってると思ってるのですが……。
 でも、訳あって姿を晦ませたのかもしれません。それに、私は親族ではないから、捜索願いは出しませんし、また、誰かが出してるのかもしれないと思ったりはしてました。
 それで、警察には未だ何も言わなかったのですが、でも、ワッカ原生花園での事件を見て、もしやと思い、電話してみたのですよ。
 そう明子に言われ、山村は〈成程〉と、小さく肯いた。釧路から電話をして来た野沢明子という女性には、ワッカ原生花園で見付かった女性の遺体の写真を見てもらう価値があると思ったのだ。
 それで、早速その写真を明子に送った。
 すると、その三日後に明子から連絡を受けた。明子は、
―やはり、ワッカ原生花園で見付かった女性は、春川さんである可能性は充分にあると思います。というのも、ミイラ化したといっても、やはり、生前の春川さんの面影がありますし、また、遺体が身に付けていた衣服に、私は見覚えがあるからですよ。
 と言っては、明子は小さく肯いた。
 すると、山村も小さく肯いた。何故なら、これによって捜査が一歩前進したと思ったからだ。
 しかし、そうだからといって、いかにしてそれを証明すればよいのか?
 それで、その思いを山村は言及した。
 すると、明子は言葉を詰まらせた。
 指紋採取は出来る状態ではなかったし、血液鑑定も無理であった。それ故、いかにして、あの女性が春川美紀であると証明すればよいか、山村は思いを巡らせたのだが、やがて、山村は、
「春川さんは歯医者で治療を受けたことはありますよね?」
 と、眼を輝かせては言った。
―そりゃ、あると思いますよ。二十の半ばですからね。
 ということになり、早速、春川美紀が歯の治療を受けたことがあるかどうかの捜査が行なわれた。
 すると、部屋の中にあった診察券から、歯の治療を受けていたことが分かった。それで、その歯医者から美紀の歯の治療痕と遺体で見付かった女性の治療痕と照合してみた結果、見事にそれは一致した。即ち、ワッカ原生花園でミイラ化して見付かった女性は、釧路市内に住んでいた春川美紀であることが明らかになったのだ!

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