第十章 再び衝撃
1
その日は、アルバイトが休みだったということもあり、午後六時には、下宿先のマンションに戻っていた。
そんな貫太郎は、最近は就職の為、会社訪問を行なっていなかった。
それは、既に本命だった会社が不採用という結果に終わってしまったということもあるが、それよりも、このまま中上家に留まるか、あるいは、仲宗根家の人間になるか、まだ、決断を下せないでいたことが、理由だった。
こんな状況だから、就職活動も中断せざるを得なかったのだ。
そして、貫太郎は今、部屋の中の畳に大の字になって寝転がり、溜息をついていた。
すると、その時、電話の呼出音が鳴った。
<誰かな>
そう思いながら、貫太郎は呼出音が六回なった後、送受器を手にし、
「もしもし」
すると、
―義人君ですか?
と、聞き覚えのある声がした。
そして、その声が誰の声であったか、すぐに思い出した。それは、貫太郎の叔父の仲宗根次郎だった。
それで、貫太郎は懐かしさを感じ、
「そうですよ」
と、弾んだ声で言った。
その貫太郎の弾んだ声を耳にし、次郎の声も弾むのではないかと思ったが、そんな貫太郎の表情は、程なく怪訝そうなものに変わった。というのは、次郎がなかなか言葉を発そうとはしなかったからだ。
それで、貫太郎は、
「もしもし」
と、次郎に呼び掛けた。
すると、次郎は、
―元気にしてるかな。
と言ったが、その次郎の声は、何となく重苦しいものであった。
貫太郎はそう感じたが、
「元気ですよ!」
と、再び弾んだ声で言った。
すると、次郎は、
―そうか……。
と、呟くように言った。そして、その声は、やはり、何となく沈んだ声に貫太郎には思えた。
それで、貫太郎は、
「どうしたのですかね、叔父さん。何となく元気がないみたいですが」
と、笑顔を見せては言った。
そんな貫太郎の声を聞いても、次郎はなかなか言葉を発そうとはしなかった。そんな次郎は、この前に西表島で貫太郎をスノーケルに連れて行った時の次郎とは思えなかった。
それで、
「どうしたのですかね? 今日の叔父さん、何だか変ですよ」
と、笑みを浮かべながら言った。
すると、次郎は、
―言いにくいことなんだけどね。
と、前置きしてから、
―実はね。母さんが死んだんだよ。
と、重苦しい口調で呟くように言った。
そんな次郎の言葉を聞いても、貫太郎は特にぴんと来なかった。次郎が言った「母さん」という言葉が、誰のことを指してるのか、分からなかったからだ。
それで、貫太郎は言葉を詰まらせてしまったが、そんな貫太郎に、次郎は、
―つまり、姉さんが死んだんだよ。義人君のお母さんが死んだんだよ。
と、重苦しい口調で言った。
それを聞いて、貫太郎は思わず言葉を失った。そのような事態は、まるで想像したことはなかったからだ。それで貫太郎は次郎が冗談を言ったのではないかと思った。
とはいうものの、その言葉は貫太郎の口から出ようとはしなかった。
そんな貫太郎に次郎は、
―嘘じゃないんだよ。今朝、姉さんの遺体が、大原港に浮かんでるのが、見付かったんだよ……。
と、再び重苦しい口調で言った。
すると、貫太郎の表情は、忽ち蒼白と化し、そして頭が真白になってしまった。
だが、貫太郎は、
「嘘でしょ?」
と言った。
―いや。嘘じゃないんだ。本当なんだよ。うっ……。
と、次郎の嗚咽する声が聞こえた。
そんな次郎に、貫太郎は何と言えばよいのか、分からなかった。また、どうすればよいのか、分からなかった。
だが、貫太郎は何故か絶望的という気持ちはならなかった。
というのは、たとえ花江が実母といえども、花江と過ごした期間は僅かであった。それ故、花江に対する愛情は、まだ芽生えたばかりであったということが、影響してるのだろう。
とはいうものの、やはり、花江の死を聞いて、衝撃的な哀しみが襲ったというのは、間違いないだろう。
そんな貫太郎は、頭に血が上ってしまい、なかなか言葉を発することが出来なかった。
そして、二人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、貫太郎は、
「何故母さんは死んだの?」
と、呟くように言った。
―それが……、それが……、まだ、はっきりと分かってないんだ。
と、次郎は重苦しい口調で言った。
「事故だったの?」
貫太郎は、そのケースしか考えられなかったので、そう言った。
―それが……、それが……、まだ、何とも言えないんだよ。
「何とも言えない? それ、どういうことなの?」
貫太郎はいかにも納得が出来ないように言った。
貫太郎は花江が殺されたなんてことは、まるで思いつかなかった。それ故、事故死しか考えられなかったのだ。それなのに、まだ分からないとは、どういうことなのか?
それで、貫太郎はその思いを言った。
しかし、次郎は、「何とも言えない」を繰り返すばかりであった。
だが、花江が死んだともなれば、貫太郎は西表島に行かなければならないだろう。何しろ、花江が貫太郎の実母であることは、もはや間違いない事実なのだから。
それ故、貫太郎は明日、西表島に行くと次郎に言い、そして、貫太郎は翌日、直ちに西表島に向かったのであった。
2
那覇空港を離陸した飛行機は、ぐんぐんと高度を上げて行った。
すると、貫太郎の眼下には、まるで精巧なミニチュアのような那覇市街の光景を眼にすることが出来た。だが、程なくそれは貫太郎の視界から消えて行った。
貫太郎はシートに深く腰を降ろすと、貫太郎の表情は、忽ち苦渋に満ちたものに変貌した。
しかし、それは当然だろう。実母の花江が、何故か死んでしまったのだから。
とはいうものの、この先、真っ暗という絶望的な気持ちに沈んでるかと言うと、必ずしもそうではなかった。
というのは、先述したように、たとえ実母といえども、貫太郎は物心ついてから、花江と一緒に過ごして来たわけではなかったからだ。貫太郎の実母は、中上道子であって、中上花江ではなかったのだ。
そんな事情の為に、貫太郎はそのような思いを抱いたのだろう。
やがて、貫太郎は、眼を開け、眼下の海に眼をやった。
それは正に紺青色で、その色は、貫太郎が前回西表島を訪れた時と、何ら変わっていなかった。
しかし、前回の西表島行きと今回では、事情がまるで異なっていた。前回は花江に会う為に西表島を訪れようとしてたのだが、今回は、花江の葬式の為に訪れようとしてるのだから。
そんな貫太郎は、貫太郎は西表島にとって、疫病神ではないかと思ってみた。
というのは、西表島に居住していた貫太郎の身近な人間が、立て続けに二人も変死したからだ。黒川佐吉と中上花江という二人が……。
黒川は、恐らく星砂の浜で貫太郎のことを話さなければ(貫太郎は、黒川を殺したのは、金城家の者だと思っていた)殺されずに済んだと思っていたし、また、花江とて、次郎がなかなか花江の死の真相を話さなかったことから、花江も金城家の者に殺されたのかもしれない。貫太郎は、そのように思ったのだ。
即ち、キャラメルの箱に金城家の者の指紋が付いていた為に、黒川も花江も金城家の者を責めたのだ。そして、その報復として、二人は殺されたのだ。貫太郎はそう看做していたのだ。
それ故、貫太郎は貫太郎さえ花江の前に現われなければ、西表島で静かで平和な暮らしを営んでいた二人に死をもたらすという非劇は発生しなかったのではないのかという思いに捕われてしまったのだ。
そう思ってる内に、やがて、飛行機は石垣空港に着陸した。
貫太郎は今回で石垣空港を訪れるのは、三回目であった。それで、東京から遥か遠方にあるにもかかわらず、かなり身近なものに感じていた。
それはともかく、空港の前に待機していたバスに乗車し、離島ターミナルに向かった。無論、西表島に行く為だ。
そして、やがて、離島ターミナルに着き、西表島行きの連絡船の切符を買った。うまい具合に、大原港ではなく、上原港行きの切符を買うことが出来た。
前回は大原港で花江が貫太郎を待っていてくれたのだが、今回は誰も貫太郎を待っていてはくれなかった。
だが、前回とは違って上原港なので、歩いて花江宅に行くことが出来るだろう。
やがて、貫太郎は花江宅に着いた。すると、喪服に身を包んだ男女が数十人程見られた。
貫太郎はその中に次郎の姿を見出した。
それで、貫太郎は次郎の許に歩み寄った。
すると、喪服姿の次郎は、
「よく来てくれたね」
と、重苦しい表情と口調で言った。
「そりゃ、母さんが死んだのだから、当然ですよ」
と、溌剌とした口調で言った。が、その表情は、次郎と同じようなものであった。
そして、そんな貫太郎の口からは、
「母さんは何故死んだの?」
という言葉が自ずから発せられた。貫太郎は、一刻も早く、花江の死の真相を知りたかったのだ。
「それがだな。まだ、はっきりと分かってないんだよ」
と、次郎は貫太郎から眼を逸らせ、言いにくそうに言った。
「まだ分からないって、そんな……。
母さんは自殺はしないよ。となると、大原港にうっかりと落ちて水死したって言うのかい? それも有り得ないと思うんだよ」
と、貫太郎は些か興奮気味に言った。
そう言った貫太郎に、辺りに姿を見せていた者は、眼を向けていた。どうやら、それらの者は、貫太郎のことを三歳の時に行方不明になった花江の息子の義人だということ気付いたいたいだった。
そんな貫太郎に、次郎は、
「とにかく、姉さんの姿を一目見てやってくれないか」
と言い、それで、貫太郎は次郎と共に、家の中に入って行った。
花江の柩は、貫太郎が花江宅に初めて入った時に最初に入った八畳間に置かれていた。
その柩の中を貫太郎は覗くようにして見てみた。
すると、そこには生前には見られなかったような綺麗な化粧が施された物言わぬ花江の姿が横たわっていた。
そんな花江は、まるで気持ち良く眠っているみたいだった。今にも「義人君!」と、貫太郎に声を掛けて来そうであった。
この時点で、貫太郎は改めて、花江を失った悲しみが込み上げて来ただ、柩の前に跪いては、泣くばかりであった。
そんな貫太郎を見て、次郎も眼頭にハンカチを当てては、涙を拭っていた。
やがて、貫太郎は泣くのを止め次郎に、
「母さんは殺されたんだ!」
と、甲高い声で言った。
その貫太郎の言葉に、次郎の表情は、さっと蒼褪めた。そんな次郎は、貫太郎から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。
また、いつの間にか、部屋の中に姿を見せていた貫太郎の知らない喪服姿の五人の様も、次郎と同じようなものであった。
そんな者たちに、貫太郎は自らの思い、即ち、キャラメルの箱に関する思いを話し、そして、花江を殺したのは、金城家の者ではないかという貫太郎の推理を話した。
すると、貫太郎と全く面識のない四十半ば位の男、即ち、八重山署の末吉が、
「その推理は、間違ってると思いますよ」
と、沈痛な表情の中にも、幾分か穏やかな表情を見せながら、穏やかな口調で言った。
その末吉の言葉を耳にし、貫太郎は呆気に取られたような表情を浮かべた。何故なら、貫太郎は花江が死んだ理由は、これしかないと思っていたので、今の末吉の言葉は、予想だにしないものだったからだ。
そんな貫太郎に、末吉は、貫太郎が黒川に送ったキャラメルの箱には、金城家の者の指紋は付いていなかったという経緯を話した。
すると、貫太郎は啞然とした表情を浮かべた。
貫太郎は、黒川も花江も、金城家の者に殺されたと推理してたのだが、今の末吉の説明から、その推理は、謝った推理だったと察知したからだ。
それで、貫太郎は思わず言葉を失ってしまった。
だが、貫太郎はやがて、
「では、どうして母さんは死んだのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
末吉は末吉がまだ警官だという旨を貫太郎に説明してなかったのだが、貫太郎は末吉のことを頼り甲斐のありそうな人物だと思ったようであった。
すると、末吉は、
「ですから、仲宗根さんが言われたように、変死の疑いがありまして、まだ、今の時点では何とも申すことが出来ないのですよ」
「では、変死だとしたら、具体的にどういったケースが有り得るのですかね?」
貫太郎は眼をギラギラさせては言った。
「そうですねぇ。言いにくいことですが、殺されたという可能性も有り得ると思ってますよ」
と、末吉は渋面顔を浮かべた。
「やはり、そうですか」
貫太郎も薄々とその可能性はあると思っていたが、この男がそう言うからには、その可能性は十分に有り得るだろう。
しかし、何故殺されなければならなかったのか?
この西表島の抜けるような青空。煌めくような海。この豊かな西表島の自然の化身とも思えるような花江が、何故何者かに殺されなければならなかったのか? 貫太郎にはその理由が皆目見当がつかなかった。
それで、
「母さんが、殺されたなんて、信じることが出来ません!」
と、甲高い声で言った。
「ですから、まだそうだと確定したわけではないのですよ。捜査はまだ始まったばかりなんですから!」
と、末吉は貫太郎を宥めるかのように言った。
そんな末吉に、貫太郎は、
「あなたは、どういった方なんですかね」
「これは、失礼しました。僕は八重山署の末吉と申す者です」
と言っては、軽く頭を下げた。
そんな二人の遣り取りを、次郎はただ険しい表情を浮かべては、耳を傾けてるばかりであった。
「母さんが死ぬ少し前に、黒川さんが亡くなりましたが、黒川さんは何故亡くなったのですかね? その理由は明らかになったのですかね?」
貫太郎は末吉をまじまじと見やっては言った。
「まだ完全には明らかにはなってはいませんが、いずれ明らかに出来ると思ってますよ」
「では、黒川さんは何者かに殺されたと思われてるのですかね?」
「今の時点では、はっきりとは申し上げられませんが、その可能性は十分にありますね」
と、末吉は貫太郎から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
「では、母さんの死は、黒川さんの死に関係してるのですかね?」
すると、末吉は、
「黒川さんの事件の捜査は、ある程度進んでるのですが、花江さんの死に関しては、まだ捜査は始まったばかりなのですよ。
ですから、まだ何とも言えないのですが、花江さんのことをよく知ってる人の話からすると、自殺は有り得ないとのことです。また、大原港に落ちて水死するということも有り得ない。
となると、何者かに殺されたという可能性も出て来るというわけですよ。
花江さんも黒川さんと同様、港内に遺体で浮かんでいました。また、死因は水死です。
もっとも、黒川さんは上原港内で花江さんは大原港内ですが、その殺しの手口として、二人の死は関係してる可能性はあるかもしれないですね」
と、眉を顰めた。
「ということは、黒川さんを殺した犯人が、母さんを殺したかもしれないのですかね?」
と、貫太郎は険しい表情を浮かべては言った。そんな貫太郎は、まだ姿を見せていない殺人鬼に怒りを露にしてるかのようであった。
「そりゃ、断言は出来ませんが、可能性としてはあるかもしれないですね」
と、末吉は決まり悪そうに言った。
とかいった遣り取りを交してる内に、やがて、葬式となった。
その時、貫太郎は会葬者たちの前で、自らが花江の実子の義人であることを説明した。
そして、正に悲愴感漂う葬式となった。
誰もが、何故あんな純朴で誠実な人が、あのような死を迎えなければならなかったのかと、悲嘆に暮れたのだ。
そんな状況を目の当たりにして、花江はやはり殺されたのだと思った。
もっとも、何故殺されたのかは分からないが、しかし、犯人が見付かれば、貫太郎の手で八つ裂きにしてやりたいと強く感じたのであった。
3
やがて、葬式が終わり、花江の遺体は荼毘に付され、その遺骨は、花江の夫が眠る墓地に埋葬された。
貫太郎はといえば、花江がいなくなった花江宅の八畳間に腰を降ろし、膝を抱え、途方に暮れていた。
<一体、自分はこれからどうすればよいのだろうか?>
正直言って、貫太郎の気持ちは花江に傾いていた。即ち、これから、仲宗根家の人間として生きて行こうという気持ちに傾いていたのだ。
その矢先に、花江の死だ。それ故、貫太郎はこれからどうすればよいのかと、途方に暮れざるを得なかったのだ。
中上家の両親が、本当の実親でないことを知ったからには、今や中上家の人間として生きて行くことに、貫太郎は何となく蟠りを感じてしまっていた。
花江のいなくなった、今や我が家といって差し支えのない八畳間に、貫太郎は一人、ぼんやりと、正に物音一つしない部屋で、静寂の中に身を浸していた。正に、静寂の中で、時の流れに身を任せていたのだ。
だが、その時、玄関のブザーが鳴った。午後八時のことであった。
それで、貫太郎は我に返り、
「誰ですか?」
「僕だよ」
そう言ったのは、叔父の次郎であった。
それで、貫太郎は玄関扉の鍵を開け、玄関扉を開けた。
すると、そこには疲れ切ったような次郎がいた。
そんな次郎は、
「入っていいかい?」
と、貫太郎に訊いた。
「どうぞ」
貫太郎にそう言われると、次郎は貫太郎と共に、貫太郎が先程までいた八畳間に入った。
すると、次郎は、
「本当に大変なことになってしまったな」
と、悲嘆に暮れた表情で言った。
次郎にそう言われ、貫太郎は返す言葉がなかった。
だが、貫太郎の思いも次郎と同じであった。貫太郎の表情も、次郎と同じようなものだったからだ。
そんな貫太郎に、次郎は、
「義人君は、これからどうするんだ?」
と、悲痛な表情を浮かべながら、貫太郎の胸の内を探るかのように言った。
「どうするって?」
「だから、その……、西表島に残り、中上家を継ぐか、それとも、その……、今の状態を続けるのかということだよ」
と、次郎は貫太郎を見やりながら、言いにくそうに言った。
すると、貫太郎は、
「それが、どうすればよいのか、分からないのですよ」
と、いかにも言いにくそうに言った。
「そうかい。それもそうかもしれないな」
と、言っては、次郎は小さく肯いた。
そんな次郎は、その後、貫太郎から眼を逸らせ、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
それで、貫太郎は、
「もし、母さんを殺した犯人が見付かれば、僕の手で殺してやりたいんだ!」
と、険しい表情で言った。
「それを聞いて、姉さんも天国できっと喜んでるよ」
と、次郎は薄らと笑みを浮かべては言った。
次郎にそう言われ、貫太郎は無性に哀しくなって来た。
それで、眼に涙が滲んで来たのだが、そんな貫太郎に、次郎は突如、
「みんな、僕が悪いんだ! 僕の所為なんだ!」
と、甲高い声で言ったかと思うと、両手で髪を掻き毟りながら、嗚咽を漏らし始めた。
すると、貫太郎は納得が出来ないような表情を浮かべた。今の次郎の言葉の意味が分からなかったからだ。
それで、
「それ、どういうことですかね? 僕は今の叔父さんの言ったことが分からないのですが」
次郎は、そんな貫太郎の言葉を耳にしても、しばらく嗚咽を続けていたのだが、やがて、
「実は……、実は……、言いにくいことなんだが、僕が……、僕が……、姉さんを殺してしまったのかもしれないんだ……」
と、顔を上げ、真っ赤になった眼を貫太郎に向けては、いかにも申し訳なさそうに言った。
それを聞いて、貫太郎は怪訝そうな表情を浮かべたが、眼を大きく見開いた。何故なら、今の次郎の言葉は思ってもみないものだったからだ。
それで、次の次郎の言葉を待った。
すると、次郎は、
「実は……、実は……、僕は義人君だけでなく、皆に隠してることがあるんだよ」
と、悲愴感漂う表情で、言いにくそうに言った。
「僕だけではなく、皆に隠してる? それ、一体どんなことですかね?」
貫太郎はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「うん。それは……」
と、次郎はこの期に及んでも、あからさまに躊躇うような仕草を見せた。それは、その秘密を告白することには、今尚、強い抵抗があるかのようであった。
だが、程なく顔を貫太郎に向け、意を決したような表情を浮かべては、
「つまり、僕が姉さんだけでなく、黒川さんも殺してしまったかもしれないということなんだよ……」
と、呟くように言っては、いかにも悲愴な表情で頭を抱え込んだ。
だが、貫太郎は次郎の言いたいことがまるで分からなかったので、
「それ、どういうことなんですかね? 詳しく話してくださいよ」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、次郎は頭を抱え込んでいた両手を元の位置に戻し、そして、貫太郎を見やっては、
「義人君は四ヶ月前に、僕のダイビングショップのお客さんだった武井晴夫という男性が、バラス島のダイビングポイントで事故死したという話を聞いたことがあるかい?」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
貫太郎は今までそれに関する話は耳にしたことはなかったので、そう言った。
すると、次郎は、
「そうかい。じゃ、そのことをまず説明するよ。
実は先程も言ったように、四ヶ月前に、僕のダイビングショップのお客で、武井晴夫という東京の男性が、バラス島のダイビングポイントで事故死したんだよ。そして、その武井さんの死体は、潮に流されてしまい、遂に見付からなかったんだ。そういった事故が四ヶ月前に起こったんだよ。
しかし、それは飽くまで世間に通ってる話で、実際にはそうではなかったんだよ」
と、貫太郎から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうに言った。
次郎にそう言われても、貫太郎は生気の無い表情を浮かべるだけで、何ら言葉を発そうとはしなかった。また、何と言っていいのか、分からなかったのだ。
そんな貫太郎に、次郎は更に話を続けた。
「つまり、実際はそうではなかったということなんだよ。つまり、武井さんは事故死してはいなかったということなんだよ」
次郎にそう言われると、貫太郎は険しい表情を浮かべた。今の次郎の言葉の背後に、犯罪の臭い嗅ぎ取ったからだ。
それ故、貫太郎はこのような打ち明け話をする次郎に対して、何となく警戒心が沸き上がった。
それ故、引き続き、険しい表情を浮かべては、次の次郎の言葉を待った。
そんな貫太郎に、次郎は、
「そんな畏まった様を見せなくていいよ。僕は何ら義人君には迷惑になるようなことはやらないからさ。
しかし、真実を話さなければならない義務があると思ってるんだ。だから、とにかく引き続き、僕の話に耳を傾けて欲しいんだよ。
で、その武井さんは、世間では死んだことになってるんだが、実際には死んでないんだよ。武井さんが事故に遭った時は、武井さんと武井さんの奥さんと僕しかいなかったからね。つまり、僕と武井さんの奥さんが、武井さんが死んだということにすれば、世間では武井さんが死んだということに出来るんだよ。
で、どうしてそんなことをしたんだと思う?」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「よく分からないですね」
と言っては、貫太郎は小さく頭を振った。
「そうかい。じゃ、それを説明するよ。
実は、保険金を騙し盗る為なんだよ。武井さんがダイビング中に事故死したということにすれば、保険金を騙し盗ることが出来るからね」
と、次郎は貫太郎から眼を逸らせは、いかにも言いにくそうに言った。
そう言われても、貫太郎はピンと来なかった。それは、何故そのことが、花江や黒川の死に関係してるのか、分からなったからだ。
しかし、次郎が貫太郎に、とんでもない秘密を打ち明けたということは、十分理解していた。
それで、貫太郎は固唾を呑んで、次の次郎の言葉を待った。
そんな貫太郎に、次郎は更に話を続けた。
「で、義人君は何故、そのことが姉さんたちの死に関係してるのか、分かるかい?」
と、次郎は神妙な表情を浮かべては言った。
「分からないですね」
貫太郎も神妙な表情を浮かべては、頭を振った。
そんな貫太郎に、次郎は、
「そりゃ、そうだろうな。そんなことが、分かる筈はないからな」
と渋面顔で言っては、肯いた。そして、
「その理由はね。僕がさいころ博打をして、借金を作ってしまったことが、事の始まりだったんだよ」
と、貫太郎から眼を逸らせて、淡々とした口調で言った。
「さいころ博打、ですか……」
貫太郎は呟くように言った。
「ああ。そうだ。僕はさいころ博打で、二千万もの借金を作ってしまったんだよ。やくざみたいな連中にな。で、僕はその二千万をどうしても返すことが出来なかったんだよ。それで、その保険金詐欺事件に協力しなければならなくなってしまったんだ」
と、次郎は貫太郎から眼を逸らせては、いかにも言いにくそうに言った。そんな次郎は、さいころ博打に手を出してしまったことを大いに後悔してるかのようであった。
またしても、次郎のとんでもない告白を耳にし、貫太郎はそんな次郎に、警戒心を抱いてしまった。
そんな貫太郎に、次郎は、
「僕が悪かったんだ! 奴らの甘い言葉に誘われてしまい、墓穴を掘ってしまったんだ!」
と、さも悔しそうに言った。
そして、次郎は両手で顔面を覆い、啜り泣きを始めた。
それで、二人の間にしばらくの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、貫太郎は、
「叔父さんは、何処でさいころ博打をやったんですか?」
「石垣島の飲み屋の奥の部屋なんだ。詳しいことは、言えないんだけどね」
と、次郎は貫太郎から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
「じゃ、誰に誘われたのですかね?」
「それも言えないんだよ」
と、今度は貫太郎を見やっては、決まり悪そうに言った。
それで、貫太郎は言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな貫太郎に、次郎は、
「奴等は武井さんの事件だけでは、僕のことを許してくれなかったんだよ。また、同じことをやってくれと言って来たんだよ」
と言っては、次郎は両手で膝を抱え込んだ。
そんな次郎は、とてつもなく悩んでるかのようであった。そして、その悩みは、まるで花江を失った哀しみよりも、大きいと思えるかのようであった。
それで、二人の間に、再び沈黙の時間が流れたのだが、やがて、貫太郎は、
「でも、どうしてそのことが、黒川さんや母さんの死に関係してるというのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
すると、次郎は我に返ったかのような表情を浮かべては、
「黒川さんは恐らく、僕の電話を盗み聞きしたのではないかな。黒川さんは勘が鋭い人だったから、僕の電話を盗み聞きし、そして、僕たちの秘密を嗅ぎ取ったのではないかな」
次郎はあの日、即ち、黒川が次郎に武井の住所のことなどを何だかんだと訊いて来た時のことを思い出しては言った。何しろ、あの時、奴等と武井に関して他人に聞かれればやばいような事を話していたのだから。
そして、黒川はその後、すぐに東京に行ったのだ。
では、何故黒川は東京に行ったのか?
それに関して、次郎は武井のことを調べに行ったのではないか。そして、武井の死の秘密を嗅ぎつけ、奴らのことをゆすったりしたのではないのか? その結果が、黒川の死であったのだ。次郎は、黒川の死に関して、そのように推理していたのだ。
それで、次郎は、その推理を貫太郎に話した。
すると、貫太郎はそんな黒川のことが信じられなかった。以前、貫太郎と話した黒川のことを思い出すと、黒川はそのようなことをやるような人物には思えなかったのだ。
それで、貫太郎はその思いを次郎に話した。
すると、次郎は貫太郎から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。そんな次郎は、まだ若い貫太郎に対して、人の暗部を話したくないと言わんばかりであった。
次郎が貫太郎から眼を逸らせては、何も言おうとはしないので、貫太郎は、
「じゃ、母さんの死は、それにどう関係してると言うんですか?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
「それは……、それは……、僕が悪いんだ!」
と、いかにも自らのことを責めるかのように、声を荒げては言った。
「よく分からないですよ。それだけでは……」
貫太郎は渋面顔で言った。
すると、次郎はまたしても、両手で髪を掻き毟りながら、
「僕が姉さんのことを奴等に話してしまったんだよ。姉さんが、武井さんの保険金詐欺のことを知ってるみたいだと……」
「……」
「姉さんは黒川さんと同じく、僕と奴等との電話を盗み聞きしてしまったみたいなんだよ。
それで、僕に『あんたは何てことをやってしまったの!』と、僕のことを強く攻めたんだよ。
それで、僕はつい姉さんに反感を持ってしまい、それで、姉さんのことを奴等に話してしまったんだよ。だから、姉さんは、奴等に殺されてしまったんだ!」
と、次郎は声を荒げては、いかにも悔しそうに言った。
そんな次郎の思い掛けない告白を耳にし、貫太郎は強張った表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。実際にも、貫太郎は何と言えばよいのか、分からなかったからだ。
とはいうものの、花江の死は、偶然にもたらされたのではなく、やはり、殺された動機というものが、存在していたということを、朧気ながら感じた。
そんな貫太郎に、次郎は、
「僕が悪いんだ! 何もかも、僕が悪いんだよ!」
と、いかにも悔しそうな表情を浮かべては、自らに何度も罵りの言葉を浴びせた。
そんな次郎に、貫太郎は、
「でも、そのやくざみたいな連中が、母さんを殺したという証拠はあるのですかね?」
それは、正に貫太郎の素朴な問いであった。
すると、次郎は貫太郎に眼を向け、
「そりゃ、確証はないさ。
でも、奴等以外に、誰が姉さんを殺すと言うんだい? 僕は今までずっと姉さんと一緒に暮らし、仕事をして来たんだ。
それで、姉さんのことは、何でも分かってるんだが、姉さんを亡き者にしようと思った者は、誰もいないさ。奴等以外にはな」
と、今度は花江を殺したと思われる連中に、怒りの言葉を浴びせるかのように言った。
「じゃ、その奴等って、一体どんな連中なんですか?」
と、貫太郎は些か苛立ったかのように言った。
「だから、やくざのような連中さ。
事の成り行きを最初から説明すると、石垣でさいころ博打に誘われ、そして、さいころ博打をやり、二千万もの借金を作ってしまったんだ。
といっても、五百万は何とか返せたんだが、残りに千五百万はどうしても返せなかったんだ。
それで、僕は僕の借主から、保険金詐欺に協力しろと言われ、引き受けてしまったんだよ。
そして、そんな僕の下にやって来たのが、武井夫婦だったんだよ。そして、その武井夫婦もとても妙だったんだ」
「どう妙だったんですかね?」
貫太郎は好奇心を露にしては言った。
「それが、奥さんが日本人ではないみたいだったんだよ。発音がおかしかったからね。
また、夫婦といっても、余所余所しい感じで、いわば、形だけの夫婦みたいだったんだよ」
と、次郎は渋面顔で言った。そして、
「で、僕の勘では、二人は金目的だけの為に、夫婦になり済ましてるかのようだったんだよ。
そんな二人だから、保険金詐欺事件の当事者となっても、何らおかしくはないというわけさ」
と、次郎は妙に納得したような表情と口調で言った。
「要するに、叔父さんは、さいころ博打に負けてしまった為に、保険金詐欺事件に協力をしてしまったのですね?」
と、貫太郎は淡々とした口調で言った。そんな貫太郎は、別にそんな次郎のことを非難してるようには見えなかった。
そう貫太郎に言われると、次郎は、
「そうなんだよ。ダイビングで武井さんは事故死しなかった。僕たちは僕のボートでバラス島沖のポイントに行っただけで、ダイビングなんて、やらなかったんだよ」
と、幾分か、表情を和らげては言った。そんな次郎は、貫太郎が、次郎が言いたいことを理解してくれたようで、幾分か安堵したかのようであった。
しかし、次郎の表情は、すぐに険しいものへと変貌し、
「何もかも、僕が悪いんだ!」
と、俯き、自らを非難するかのように言った。
そんな次郎に、貫太郎は、
「で、奴等とは誰なんですか?」
と、眼をギラギラさせては言った。何故なら、その奴等が花江を殺したに違いなく、それ故、その奴等のことを知りたかったのだ。
すると、次郎は貫太郎から眼を逸らせては、
「それは、今は言えない……」
と、呟くように言った。
「どうして、言えないのですか?」
貫太郎は不満そうな表情と口調で言った。
「僕がそのことを義人君に言えば、義人君は奴らから危害を加えられるかもしれないからさ。黒川さんのようにな」
と、次郎は些か不安そうに言った。
そう言われると、貫太郎は険しい表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。貫太郎が危害を加えられるかもしれないと言われ、動揺したのだ。
だが、
「ひょっとして、中国なんかのマフィアなんかが、関係してるのではないですかね?」
と、言っては、唇を噛み締めた。
「中国マフィア?」
「そうです。つまり、武井さんは戸籍を売ったんですよ。妻となった女性を日本に入国させる為に、偽装結婚したというわけですよ。そういった事件を手引きしてる中国人マフィアのことをTVで特集してたのを見ていたことがあるのですよ」
と、貫太郎は渋面顔で言った。
すると、次郎は、
「なるほど。そういうこともあるかもしれないな」
と言うに留まった。
「で、叔父さんは再び保険金詐欺に協力しろと言われたのですかね?」
貫太郎は不安そうに言った。
「そうなんだよ。最近、そう迫られたんだよ。でも、僕は断った。
すると、それからすぐに姉さんが死んだんだよ。
それで、僕は奴等に姉さんのことを問い詰めたんだが、奴等はあっさりと否定したんだ。
だが、姉さんだけでなく、黒川さんを殺したのも、奴等に違いないんだ! 奴等は、そういった人間なんだ!」
と、次郎は、その奴等に怒りをぶつけるかのように言った。
「じゃ、奴等のこと警察に言えばいいじゃないですか!」
貫太郎は何故そうしないのかと言わんばかりに言った。
すると、次郎は、
「それは……」
と、貫太郎から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
そんな次郎を眼にして、貫太郎は眉を顰めた。
そんな貫太郎に、次郎は、
「もしそのことを僕が警察に言えば、僕が武井さんの保険金詐欺に関与したことを話さなければならない。そんなことをすれば、僕は逮捕されてしまうし、また、僕のダイビングショップは店を続けられなくなってしまう」
と、俯きながら、渋面顔で言った。
すると、貫太郎も次郎と同じような表情を浮かべたが、そんな貫太郎に、次郎は、
「分かってくれよ! 僕のこの思いを! 僕は何としてでも、僕の店を続けて行きたいんだ! だから、分かってくれよ!」
と、正に悲愴感漂う表情で、貫太郎に訴えるかのように言った。
すると、貫太郎は、
「叔父さんの気持ちは、よく分かりますよ」
と、険しい表情ではあるが、肯いては言った。
すると、次郎は、
「そうかい。分かってくれたか……」
と、険しい表情の中にも、幾分か嬉しそう色を見せては言った。
そして、二人の間で、少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、次郎は、
「その代わりに……」
と、呟くように言った。だが、そんな次郎の表情の中には、何となく決意の色を窺うことが出来た。
「その代わりに、何ですかね?」
貫太郎は次郎の眼を見据えては言った。
「その代わりに、僕が仇を討ってやるさ!」
その次郎の言葉を耳にし、貫太郎は驚いたような表情を浮かべては、
「仇を討つって、それ、どういう意味なですかね?」
「詳しくは聞かないでくれ。
それで、義人君には、頼みがあるんだよ」
「頼み? それ、どういったものですかね?」
貫太郎は眼を大きく見開いては言った。
「僕にもしものことがあっても、僕が今、言ったことは、警察に話さないでもらいたいんだよ」
次郎は、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「もしものことって、それ、どういう意味なんですかね? それに、何故警察に話してはいけないんですかね?」
「だから、今、言った通り、僕は僕の店を守りたいし、逮捕されたくないからね」
と言っては、にやっとした。そして、
「じゃ、そろそろ帰るからね」
と言っては、次郎は貫太郎に背を向けては、貫太郎の許から去って行った。
そんな次郎に、貫太郎は声を掛けようとしたのだが、そんな貫太郎に、次郎は声を掛けさせる隙を与えず、貫太郎の許から去って行ったのだった。
次郎が去って行った後、部屋の中は、再び静けさに包まれ始めた。
すると、貫太郎にどっと疲れが押し寄せて来て、貫太郎は畳の上にそのまま寝転がり、朝まで目覚めるこはなかったのだった。