第二章 東京

     1

 八重山諸島旅行から戻って来てからは、貫太郎には再び学生生活が待っていた。
 といっても、貫太郎は四年生なので、今は就職活動の真っただ中という状況なのだが、今、日本には不況の嵐が吹き荒れ、大学は卒業したものの、就職出来ない学生はごろごろいた。
 四年生になっても、まだ就職の決まっていない貫太郎は、その仲間入りを果たす可能性は、充分にあった。
 それ故、少しは焦っていたのだが、そうだからといって、希望会社に就職出来る可能性は、極めて低いと言わざるを得なかった。何しろ、貫太郎は既に五社も書類選考で不合格となったからだ。
 もし、就職出来なければ、アルバイトをしながら、旅を続けようと貫太郎は思っていたりしていたが、次の土曜と日曜に、勝浦に戻って、両親に石垣島で買った石垣島での土産を渡そうと思った。

     2

 貫太郎が生まれ育った町は、千葉県勝浦市であり、勝浦といえば、海中公園とか、海水浴で知られているが、港町であり、勝浦漁港も漁港として有名だ。
 そんな町で貫太郎は育ち、そして、大学生になってから、上京したというわけだ。
 勝浦は、東京の近くにある為に、貫太郎は大学生になってからも、頻繁に実家帰りをしていた。そして、今日もまだゴールデンウィークにもならないというのに、実家帰りをしたというわけだ。
 貫太郎は両親、即ち、中上勝行(54)と道子(50)に対面すると、
「これ、土産だよ」
 と言っては、石垣島で買ったミンサ―織りのハンカチと、アダン葉ぞうりを勝行と道子に渡した。
 すると、勝行と道子は、
「ありがとう」
 と、人良さそうな顔立ちに薄らと笑みを浮かべながら、それを受け取った。
 元来、ミンサ―織は、女性から男性に渡すものだが、貫太郎にはまだそのよう知識はなかったし、また、道子も然りだった。
 そして、貫太郎は勝行と道子に、八重山諸島での観光旅行の思い出を逐一話していた。
 そんな貫太郎の話を、勝行と道子は、とても嬉しそうな表情を浮かべては、耳を傾けていた。勝行も道子も、一人息子である貫太郎の話を聞くのが、とても好きであったのだ。
 貫太郎は一通り、八重山諸島旅行のことを話すと、湯呑み茶碗を口にもって行っては、お茶を少し飲んだ。そして、一息つくと、少し眼を輝かせては、
「そう。そう。少し言い忘れたことがあるんだ」
 と、声を弾ませては言った。
「言い忘れたこと? 何だい、それ?」
 勝行は興味有りげな表情を浮かべては言った。
「うん。それがね。竹富島のコンドイビーチという浜で、奇妙な婦人と出会ったんだよ」
 と、貫太郎はあの奇妙な婦人のことを思い出しながら言った。
「奇妙な婦人?」
 道子は興味有りげに言った。
「うん。とても奇妙な婦人だったんだよ。その婦人は僕のことを自分の子供だと勘違いしたのだから」
 と、貫太郎はいかにもおかしそうに言った。
 すると、どうだ! 道子だけではなく、勝行までもが、突如強張った表情を浮かべたのだ。二人の表情からは笑みは突如消え、正に深刻な話を聞かされたかのように強張った表情を浮かべたのだ。 
 貫太郎は、そんな二人の表情の変化に気付いたが、しかし、特に気にすることなく、話を続けた。
「その婦人は、僕のことを『義人君! 義人君!』と言うんだよ。正に僕のことをその義人という自らの息子と信じて疑わないんだよ。全く、困ったものだったよ」
 と貫太郎は言っては、苦笑した。
 だが、勝行も道子も、そんな貫太郎に、強張った表情を浮かべては、言葉を挟もうとはしなかったので、貫太郎は更に話を続けた。
「でも、その婦人は、僕の年齢を言い当てたのには驚いたな。僕が二十一歳だということをぴったりと言い当てたからな。でも、僕の外見を見れば、それ位の年齢だということは分かるからね。だから、まぐれ当たりさ」  
 と貫太郎は言っては、再び苦笑した。
 貫太郎がそう言った後、三人の間で、しばらく沈黙の時間が流れた。というのは、貫太郎の愉しい筈の思い出話に、勝行と道子は、強張った表情を浮かべては、何ら言葉を発そうとはしないからだ。そんな二人の様を眼にして、貫太郎の言葉は詰まってしまったのだ。
 そして、その沈黙の時間は、四十秒程続いたのだが、やがて、道子が、
「で、その婦人は、他にあんたのことを何か言っていた?」
 と、神妙な表情で言った。
「何かとは?」
「だから、その婦人は、お前の年齢を言い当てたんだよね。それ以外に、他人が知らないお前の秘密のようなものを知っていたのかということだよ」
 と、道子はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 すると、貫太郎は、
「そうだな……」 
 と、言葉を濁した後、
「そう言えば、僕がびっくりするようなことも言い当てたな」
 と、声高に言っては、いかにも真剣味を帯びた表情を浮かべた。
「それは、どういうことなの?」
 道子も、いかにも真剣味を帯びた表情を浮かべては言った。。
「うん。それは、僕の右足首にある痣のことを知っていたということだよ。ほら!僕の右足首には、小さい時から、痣のようなものがあるじゃないか。その痣のことを、その婦人は知っていたんだよ。これには、僕はとてもびっくりしてしまったな」
 と、貫太郎はいかにも驚いたと言わんばかりに言った。
 貫太郎がそう言うと、勝行と道子は、とても険しい表情を見せた。その二人の表情は、とても尋常のものとは思えなかった。
 それで、貫太郎は、
「どうしたの? そんな顔して?」
 と、思わず訊いてしまった。
 その貫太郎の言葉に、勝行も道子も、すぐに言葉を発そうとはしなかったが、やがて、勝行が、
「その婦人と会ったのは、竹富島のコンドイビーチという所だったのかい?」
「そうだよ」
「で、その人は、地元の人だったのかい? それとも、観光客だったのかい?」
「僕の勘では、地元の人だったと思うな。その人の服装なんかから、そう思ったんだよ」
「じゃ、その婦人の年齢は、どれ位だったの?」
「お母さんと同じ位ではなかったかな。つまり、五十歳位だと思ったな」
「その婦人は、貫太郎のことを自らの息子と勘違いしたんだね?」
「そうだと思うな。その婦人には、義人という息子がいたんだけど、小さい頃、病死とか行方不明になったりしてしまったんじゃないのかな。それで、僕のことが、その義人と似ていたから、僕のことを義人と勘違いしたんじゃないのかな。
 僕はその婦人のことをいい加減に鬱とおしくなったので、逃げるようにして、コンドイビーチを後にしたんだよ」
 と、貫太郎はいかにもその婦人が迷惑だったと言わんばかりに言った。
「で、その婦人は、何処に住んでいる誰なのか、明らかにしたのかな?」
 勝行は殊勝な表情で言った。
「そこまでは言わなかったよ」
 と、貫太郎が言うと、勝行は席を立ってしまった。
 すると、道子も勝行の後を追うようにしては、席を立ってしまった。
 それで、貫太郎は一人でリビングでTVを見ては時を過ごし、翌朝東京に戻ることにした。その頃には、コンドイビーチで出会った婦人のことなど、すっかりと忘れてしまったのだった。
     
 東京に向かう列車に乗りながら、貫太郎はあの奇妙な婦人のことを両親に話した時に見せた両親の様のことを思い出していた。何故、勝行も道子も、あんなに強張った様を見せたのだろうか?
 貫太郎は、ただ単に竹富島に行った時の話を、話のねたとして、軽い気持ちであの奇妙な婦人のことを話しただけなのに、それにしても、あの勝行と道子の容貌の変化は尋常ではなかった。
 一体何故、勝行と道子は、あんな強張った表情の変化を見せたのだろうか? その理由を貫太郎は、分からなかった。
 また、貫太郎はあの奇妙な婦人のことを、何となく気にならないこともなかった。何故なら、あの婦人は、貫太郎の右足首の痣のことを知っていたからだ。年齢を言い当てる位は、別に不思議ではなかったのだが、貫太郎にとって、全くの他人であったあの婦人が、貫太郎の右足首の痣のことを知ってる筈はないのだ! これは、一体どういうことなのか?
 あの婦人は、
「その傷は、三歳の時の大火傷によるもので、医者に一生取れないと言われた」と言ったが、それは、あの婦人の子供である義人という人物に対する説明で、貫太郎に対する説明ではないのだ。
 となると、偶然の一致か?
 しかし、そんな偶然が起こり得るのだるか?
 車窓に流れ行く風景を眼にしながら、貫太郎は正に奇妙な偶然が起こったものだと、渋面顔を浮かべていたのだが、やがて、そのことは、貫太郎の脳裏から消えて行ったのだった……。

     3

 東京の下宿に戻って来た翌日から、貫太郎の学生生活は再会した。
 といっても、学校にいる時間は大体午後三時頃までであり、夕方から夜遅くまで、貫太郎は飲食店でアルバイトをしていた。
 そのアルバイト代が、貫太郎の旅行代金となってたのだが、四年生ということもあり、会社訪問も行なっていたので、貫太郎は正に忙しい日々を送っていたのだった。

 その日、即ち、ゴールデンウィークが終わって少し経った頃、貫太郎はいつも、下宿先のアパートを留守にしているのだが、その日はいつも受けている講義が休講となってしまい、また、アルバイトの時間はまだだったので、貫太郎は一旦下宿先のアパートに戻ることにした。
 下宿先のアパートは、大学から徒歩十分程のところにあったので、下宿先のアパートに戻るのは、容易いことであった。
 貫太郎は、貫太郎の部屋の前まで来ると、財布から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで開けようとしたのだが、
「あれ……」  
 と、呟き、首を傾げた。何故なら、鍵は開いていたからだ。
<こんな筈ではなかったのだが……>
 貫太郎は再び首を傾げ、玄関扉を開けようとした。貫太郎は今朝もちゃんと鍵を掛けたと思っていたのだが……。
 しかし、開いていたということは、鍵を掛け忘れたということだろう。
 そう思いながら、ドアを開け、中に入り、部屋に入ったのだが、すると、貫太郎は大層驚いてしまった。何故なら、六畳の洋間(部屋は、六畳の洋間と小さなキッチンとの1DKだった)に、何と見知らぬ人物が上がり込んでは、貫太郎の物入れを物色していたからだ。
「泥棒!」
 貫太郎は、そう叫ぼうとしたのだが、その時、曲者はさっと振り返った。
 すると、貫太郎は驚愕の表情を浮かべた。何故なら、その曲者はお多福、あるいは、八重山諸島の豊年祭でミルクが被るような面を被っていたからだ。
 その面は、ユーモラスなので、笑いを誘いそうだったのだが、そんな面を被った曲者が貫太郎の部屋に侵入し、何やら物色していたので、それは、貫太郎を驚愕させるのに十分であり、また、貫太郎は身の危険を感じたので、思わず後退りした。
 だが、その曲者は貫太郎の姿を眼に留めると、玄関扉に向かって突進し、貫太郎を払い退けると、忽ち貫太郎の部屋から去って行った。貫太郎は、ただ茫然とした表情を浮かべ、激しく胸を高鳴らせては、その場に立ち竦んだのだった……。

     4

 やがて、気が落ち着いて来ると、貫太郎はすぐに携帯電話で、110番通報した。
 すると、直ちに警官が貫太郎の部屋に来るという返答を受けた。
 それで、貫太郎は部屋が散らかった状態のままで、警官の到着を待つことにした。
 すると、その十分後に、制服姿の警官が姿を見せた。その警官は、がっしりとした身体付きで、三十位であった。 
 その警官は黒川と名乗ってから、
「空巣の被害に遭われたとか」
「ええ。そうです」
 と言っては、貫太郎は部屋の中を手で示した。
 それで、黒川は、
「何か盗まれたものはないですかね?」
 と、部屋の中をさっと見回しては言った。
 そう黒川に言われ、貫太郎は小さな机の引出しの中にある封筒の中を確認してみた。
 その封筒の中に入った二十万が、この部屋の中にある現金だったが、その二十万は盗まれてなかった。また、キャシュカードも無事だった。 
 それで、貫太郎はその旨を黒川に説明した。
 すると、黒川は、
「どうも、空巣の狙いは、お金ではなさそうですね」
 と言っては、眉を顰めた。
「お金ではない?」
 と、貫太郎も眉を顰めた。
「そうです。その二十万入りの封筒は、机の一番上の引出しの中に入っていたのですね?」
「そうです」
「そんな分かり易い場所に入っていたにもかかわらず、空巣がそれを見落とす筈はないですよ」
 と言っては、黒川は小さく肯いた。
「なるほど。そう言われてみれば、確かにそうですね」
 と言っては、貫太郎も小さく肯いた。
「それに、言いにくいことですが、このアパートはかなり古いアパートですね」
「そうです」
「となると、家賃もそれ程高くないですね」
「そうです。僕は学生ですから、家賃の安いアパートを選んで入居したのです」
 と、貫太郎は些か顔を赤らめては言った。
「そうですよね。となると、言いにくいことですが、僕が空巣だったら、このアパートを狙わないですよ。このアパートの住人はお金を持ってないと、看做しますからね」
 と、黒川は渋面顔で言った。
「確かに、刑事さんの言われる通りですよ」 
 と貫太郎は言っては、小さく肯いた。
「そうですよね。それ故、空巣の狙いは、別にあったと思うんですよ。それに関して、何か心当りありませんかね?」
 と、黒川は興味有りげな表情を浮かべては言った。
 黒川にそう言われ、貫太郎は少し思いを巡らせてみたが、やがて、
「全く心当りありませんね」
 と、渋面顔で言った。
「そうですか……」
 と、黒川も渋面顔で言った。
 そして、二人の間で少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、貫太郎は、
「それに、妙なことがありましてね」
 と、言い忘れたことがあったので、そう言った。
「何ですかね、妙なこととは?」
 黒川は再び興味有りげに言った。
「その曲者は仮面を被っていたのですよ」
「仮面ですか……」
「そうです。仮面です。お多福のような仮面です。ちょっと待ってくださいね」
 と言っては、先日行った八重山諸島の観光ガイドを持って来ては、頁を捲り、そして、
「ほら! こんな感じの面です」 
 と言っては、西表島で行なわれる豊年祭の時のミルクが被る面を指差しては言った。
 すると、黒川は言葉を詰まらせた。黒川は曲者がまさかそのような奇妙な面を被ぶっていたとは、思ってもみなかったからだ。
 それで、
「僕はそのような面を被った空巣というものを耳にしたことはないですね」
 と、困惑したような表情を浮かべては言った。
「……」
「それ故、今回の空巣は、何か特別なものを感じますね。特別な意図を持って、中上さんの部屋を狙ったと思いますね」
 と言っては、小さく肯いた。
「……」
「それ故、その点に関して、何か心当りありませんかね?」
 と、黒川は興味有りげに言った。
 だが、貫太郎はそれに関してまるで心当りなかったので、その旨を黒川に言った。
 すると、黒川は、
「そうですか」 
 と、些か残念そうに言った。そして、
「で、中上さんは、空巣に入られたといえども、特に被害はなかったということなので、警察としても、これ以上捜査は行ないません。でも、後で何か気付いたことがあれば、遠慮なく話してください」
 と言っては、黒川は貫太郎の部屋から去って行った。
 黒川が去って行った後、貫太郎は八重山諸島の観光ガイドに乗っているミルクの面を見てみたが、改めて、あの曲者が被っていた面に似ていると思った。ということは、あの空巣は、八重山諸島の者なのだろうか?
 しかし、貫太郎は八重山諸島に知人はいないし、況してや、八重山諸島の者に空巣に入られるような覚えもない。八重山諸島には、先日初めて訪れただけなのだから。
 そう思うと、貫太郎は何故あの空巣が貫太郎の部屋に入ったのか、皆目分からなかった。また、たとえ二十万といえども、盗まれなくて、幸だったと思ったのである。

     5

 一方、今、西表島北部の上原集落に住んでいる仲宗根花江(50)という女性は、今、落ち着かない様で、卓上電話を見詰めていた。即ち、花江は、電話が掛かって来るのを、今か今かと待ち侘びていたのだ。
 その十五分後、電話の呼出音が鳴った。
 それで、花江は、飛び付くように、送受器を取った。
「もしもし」
 花江は眼を爛々と輝かせては言った。
―僕だよ。
 そう言ったのは、花江が待ち侘びていた花江の兄の和雄の声であった。
「どうだった?」
 花江は眼を爛々と輝かせたまま言った。
―それが、駄目だったよ。
 その和雄の声を聞くや否や、花江の眼は輝きを失い、落胆したような表情を浮かべた。
 実のところ、貫太郎の下宿先のマンションに、八重山諸島地方で行なわれる豊年祭の時のミルク(弥勒)が被る仮面を被って空巣を行なったのは、和雄だったのだ。 
 では、和雄は何故そのようなことをしたのだろうか?
 それは、花江に頼まれたからだ。
 花江は偶然に竹富島のコンドイビーチで出会った中上貫太郎のことを、三歳の時に行方不明になった自らの息子の義人だと信じて疑がわなかった。
 それ故、兄の和雄に、貫太郎の部屋を探らせ、その証拠を摑んでくれと、頼んだのだ。
 その花江の依頼を受け、和雄は違法だとは分かっていたが、花江の依頼を断り切れず、貫太郎の下宿先のアパートに無断侵入したのだ。
 では、何故和雄は、貫太郎のアパートの所在地のことを知っていたのか?
 それは、実のとことろ、花江は貫太郎より先に竹富島から石垣島に戻り、そして、和雄を呼び寄せ、貫太郎が竹富島から戻って来た後を尾行させ、貫太郎の宿泊先のホテルを突き止めさせた。
 後は、そのホテルで働いていた知人に頼み、貫太郎の住所を知ることは、容易いことであった。そのようにして、貫太郎の下宿先のアパートのことを知ったのであった。
 また、和雄は、その翌日、貫太郎が西表島の仲間川遊覧ボート乗船時も、貫太郎と共に乗り込み、そして、貫太郎をビデオカメラに撮った。即ち、貫太郎は仲間川遊覧ボートに乗船していた時に、中年の男性が、貫太郎のことをビデオカメラに撮ってるのではないかと勘繰っていたが、その勘は当っていて、撮っていたのは、和雄だったというわけだ。
 そして、そのビデオカメラに撮られた貫太郎を見て、花江は一層、貫太郎のことを自らの息子の義人だ確信したのだ。何故なら、貫太郎は花江の夫の義男に、とても似ていたからだ!
 では、花江の息子の義人が、三歳の時に行方不明になったという経緯を記しておくことにする。
 その当時、花江は嫁ぎ先の玉城義男宅で、晩ご飯に食べるゴーヤーチャンプルーとか豆腐のチャンプルーを作っていたのだが、義人はといえば、庭で遊んでいた。
 晩ご飯はやがて出来たので、庭で遊んでいた義人を呼ぶ為に、花江は庭に出たのだが、義人の姿は何処にも見えなかった。
 それで、花江は辺りを懸命に探してみたのだが、義人の姿は何処にも見えない。 
 それで、大騒ぎになり、観光会社で働いていた義男は早目に仕事を終えては駆けつけ、深夜まで義人を探したのだが、やはり義人は見付からなかった。
 とはいうものの、義人は何者かに誘拐されたという説が有力となった。何故なら、玉城宅周辺には危険な場所はなかったから、義人が事故に遭ったという可能性は、考えられなかったからだ。
 となると、誘拐されたという可能性が高いというわけだが、身代金目当の誘拐ではなかった。そのような要求は、玉城家に来なかったからだ。
 しかし、金目当てではない誘拐というものもあるだろう。
 花江たちや警察もその可能性が高いと看做していたのだが、今となっては、義人の行方は分からなかった。しかし、義人はきっとどこかで生きていると思っていたのだった。
 それ故、先日、義人と思われる青年と偶然竹富島のコンドイビーチで出会ったことは、花江は神様が二人を引き合わせてくれたと思ったのであった。それ故、花江の執念で義人の住所を突き止め、そして、和雄に義人の素性を調査してもらったというわけである。 
 因みに、花江の夫の義男は、義人が行方不明になった一年後に、肺癌で亡くなってしまった。それで、花江は、一人ぼっちになってしまったのだ。
 それで、花江は、旧姓に戻ったのだが、花江は毎日、義男の遺影に「義人はいつかきっと戻って来るよ」と、語り掛けていた。
 即ち、花江は義人との再会を待ち侘びていたのだ。
「何の証拠も見付からなかったの?」
―ああ。そうだ。
 といっても、僕が部屋の中を探していた時に、何と義人君が戻って来たんだよ。それで、充分に探せなかったんだ。
 それを聞いて、花江の眼は再び輝いた。何故なら、あの若者が義人であるという証拠がなかったわけではないからだ。
 それで、花江は、眼を輝かせたのだが、そんな花江は、
「こうなったら、市役所の係員に事情を説明し、戸籍を見せてもらうのよ。それが一番よ! もし、あの青年が中上家の実子でなければ、その旨が書いてある筈だから」
 それで、和雄は、貫太郎の本籍があるという千葉県勝浦市にまで行くことになってしまった。
 因みに、何故和雄が貫太郎の本籍地が千葉県勝浦市であることを知っていたというと、貫太郎の部屋に無断侵入した時に、貫太郎の手帳に記してあったのを眼にし、それで、知ったのである。

     6

 和雄は勝浦市の職員に、事情を説明し、貫太郎の戸籍を見せてくれるように依頼したのだが、対応に当たった四十位の女性係員は、
「そう言われてもねぇ」
 と、和雄の申し出に難色を示した。
「じゃ、確認してもらいたいことがあるのですよ」
 と、和雄は食い下がった。
 すると、女性係員は、
「どんなことですかね?」
 と言ったが、その表情は、明らかに和雄のことを迷惑がってるようであった。
「中上貫太郎さんは、両親の実子なのかどか、確認してもらいたいのですよ」
 そう和雄に言われると、女性係員は強張った表情を浮かべた。そんな女性係員の表情は、「そのようなプライベートのことを他言出来ない」と言わんばかりであった。案の定、
「そのようなプライベートのことは、教えることは出来ません!」
 と、和雄を突き放すかのように言った。
「そう言わずに、何とか教えてくださいよ」
 と、和雄は懸命に食い下がった。
「何度言われても、駄目ですよ。これは規則ですからね」
 と、女性係員はきっぱりと言った。
 だが、和雄は、
「その中上貫太郎という人物は、僕の妹の実子かもしれないのですよ。ですから、どうしても確認したいのですよ」
 と、いかにも真剣な表情と口調で言った。
「……」
「先程も言ったように、妹の子供は、三歳の時に、人攫いに遭ったかのよに、突如、行方不明になったのですよ。
 そして、妹は先日、偶然に竹富島でその青年と偶然に出会い、実子の義人だと直感したのですよ。その年齢と容貌だけではなく、右足首の痣が、それを如実に示していたのですよ!
 それで、僕はその青年が中上家の実子なのかどうか、どうしても確認したいのですよ! その為に、遥々西表島からやって来たのですよ!」
 と、和雄は正に係員に訴えるかのように言った。
 そう言った和雄の熱意に動かされたのか、女性係員は、
「そう言われてもねぇ。私の口からは、何とも言えないのですよ」
 あまりにも和雄が真剣に言うものだから、女性係員はとにかく、戸籍を調べてみることにした。
 すると、係員は強張ったような表情を浮かべた。
 だが、和雄の許に戻ると、
「やはり、プライベートのことは、話すことは出来ません」
 と、いかにも言いにくそうに言った。
 すると、和雄は、
「じゃ、どうすればいいのですかね?」
 と、女性係員に再び訴えるかのように言った。
 すると、女性係員は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「分かりません」
 そんな女性係員を見て、和雄は、
「分かりましたよ」
 と、いかにも落胆したような表情で言った。
 だが、そんな和雄の表情には、僅かではあるが、明るいものが見られた。というのは、もし、貫太郎が中上家の実子なら、係員は隠さずにそう言えばいいのだから。しかし、そうではなかった。となると、ひょっとしてという可能性も遺されてるというわけだ。
 それ故、和雄の表情の中には、明るいものも見られたというわけだ。
 そんな和雄は、こうなったら、中上家の者に直に確認してみようと思った。それしか、もう遺された手段はなかったのである!
 それで、和雄は西表島にいる花江に電話をして、和雄の思いを伝えた。
 すると、花江は、
「よい知らせが入ることを期待してるよ」
 と、声を弾ませては言ったのだった。

     7

 勝浦市に来るのは、和雄は初めてであった。それ故、辺り土地勘はなかった。
 それで、まず図書館に行っては、貫太郎の実家を確認し、それをコピーした。貫太郎の実家の住所は、貫太郎の部屋に無断侵入した時に、手帳にメモしてあったので、それを控えていたのだ。
 そして、その住宅地図を頼りに、何とか中上宅に着くことが出来た。それは、その日の午後六時頃のことであった。
 和雄は恐る恐る玄関扉のブザーを押した。
 すると、二、三十秒程で玄関扉が開き、五十位の婦人が姿を見せた。その婦人は、正に花江と同じ位の年齢であった。
 そんな婦人に、和雄は、
「初めまして。僕は仲宗根和雄と思します」
 と言っては、面映ゆそうに頭を下げた。
 すると、その婦人、中上道子は、何ら言葉を発そうとはしなかった。そして、警戒したような視線を和雄に向けた。 
 そんな道子に、和雄は、
「実は、僕は息子さんの中上貫太郎君のことで、お伺いしたいことがありまして、こうしてやってやって来たのです」 
 と、殊勝な表情を浮かべては言った。
 すると道子は、
「貫太郎のことですか……」 
 と、呟くように言った。
「ええ。そうです。僕はそのことで、西表島からやって来たのですよ」 
 そう和雄が言うと、道子は呆気に取られたような表情を浮かべた。
 確かに、この仲宗根和雄という男性は、何処となく東京周辺の人間ではないような面立ちをしているとは思ったが、しかし、まさか遥々西表島からやって来たなんて、想像だにしてなかったのだ。
 そんな道子は、
「西表島って、沖縄よりまだ南の方にある西表島のことですか?」
 と、半信半疑の表情を浮かべては言った。
 だが、その道子の表情は、すぐに真剣なものへと変貌した。何故なら、遥々西表島からやって来たという理由を、道子は察することが出来なかったということと、また、何か重大な話があるのではないかとも思ったからだ。
 そんな道子に、和雄は、
「あの……、奥さんは何故僕が、遥々西表島からやって来たのか、その理由をお分かりですかね?」
 と、正に道子が疑問に思ってることを言った。
 それで、道子は、
「分からないですね」
 と、首を傾げた。
「では、単刀直入に訊きますが、貫太郎君は奥さん夫婦の実子なのですかね?」 
 そう言った和雄の表情と口調は、正に真剣なものであった。また、その和雄の表情は、その和雄の問いに対する道子の返答如何によって、今後の和雄の運命が決せられると言わんばかりであった。
 道子はといえば、その和雄の問いに、忽ち気険しい表情を浮かべた。そして、程なく道子の表情は茹で蛸のように真っ赤になり、そして、道子は頭に血が上ってしまったかのように、我を忘れ、言葉を発することが出来なくなってしまったかのようであった。
 そんな道子を見て、和雄の表情は、一層険しいものへと変貌した。
 というのも、意外にも、花江の主張、即ち、中上貫太郎なる人物は、花江の息子の義人であるかもしれないと、今の道子を見て、そう直感したからだ。
 花江は、竹富島のコンドイビーチで偶然出会った中上貫太郎という青年を、三歳の時に行方不明になってしまった自らの息子である玉城義人であると主張した。
 花江は、それは女の直感だと和雄に説明した。また、貫太郎は花江の夫だった義男に似ているし、また、右足首の痣からも、義人に違いないと、花江は主張した。
 しかし、世の中、似てる人はいくらでもいるし、また、右足首の痣も、偶然ということも、有り得るだろう。
 しかし、和雄は花江からしきりに依頼され、やむを得ず、遥々西表島から千葉県の勝浦市までやって来たのだが、それでも、和雄は貫太郎が義人である可能性は、少ないと思っていた。だが、今の道子を見て、<もしや……>という思いが、和雄の脳裏を過ぎったのだ。
 和雄の問いに対して、道子は強張った表情を浮かべては、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
 それで、和雄は、
「どうされたのですかね?」
 と道子のことを気遣うかのように言った。
 すると、道子は、我に返ったかのような表情を浮かべては、
「何を話していたのですかね?」
「ですから、貫太郎君が中上家の実子なのかと、僕はお訊きしてるのですよ」
 と、和雄は今度は恐る恐る言った。
 すると、道子は今度は冷静な表情を見せては、
「仲宗根さんとやら、どうしてそのようなことを訊かれるのですかね?」
 と、和雄の顔を見据えては、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「先日、貫太郎君は石垣島とか竹富島に行かれましたね?」
 どうして、仲宗根和雄という男性が、その事実を知ってるのか、道子には理解出来なかったが、道子はとにかく、
「ええ」
 と言っては、小さく肯いた。
 すると、和雄も小さく肯き、そして、
「で、竹富島のコンドイビーチというビーチで、実は僕の妹の花江が、偶然に貫太郎君と出会い、花江は三歳の時に突如行方不明となった自らの息子である義人に違いないと思ったのですよ。
 その理由は、義人は今、生きていれば二十一歳で、また、貫太郎君は花江の夫の義男によく似ていたことから、女の直感として、貫太郎君は義人に違いないと察したわけですよ。
 で、義人は三歳の時に、大火傷をして、右足首に一生消えない火傷の痕が残ってるのですが、貫太郎君の右足首を見せてもらったところ、その火傷の痣と思われるものがあったのですよ!
 これのことから、花江は貫太郎君のことを自らの息子である義人だと、信じて疑わないのですよ。
 とはいうものの、僕は、
『貫太郎君には、ご両親がいるだろ』
 と言ったのですが、花江は、
『養子かもしれないでしょ』
 と言うのですよ。
 それで、僕は花江の思いの真偽を確かめる為に、こうして遥々西表島からやって来たというわけですよ」
 と、和雄はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 そう和雄に言われると、道子は強張ったような表情を浮かべては、言葉を発しようとはしなかった。
 そんな道子を見て、和雄はやはり、花江の主張は当たっていたのではないかという思いを強くした。もし、貫太郎が今、和雄の眼前にいる婦人の実子なら、婦人は和雄の言葉を即座に否定すればよいのだから!
 しかし、実際にはそうではないのだ!
 となると、やはり、花江の勘は当たっていたのではないのか。
 そう思った和雄に、道子は、
「どうして、仲宗根さんは、貫太郎の実家がここだと分かったのですかね?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、和雄の表情は、忽ち真っ赤になった。何故なら、まさかいくら何でも、貫太郎のアパートの部屋に無断侵入して、貫太郎の手帳を盗み見して知ったとは言えないからだ。
 それで、
「貫太郎君が泊まっていたホテルのことを知りましてね。それで、その貫太郎君の宿泊名簿から貫太郎君の現住所を知り、それを元に興信所で調べてもらったのですよ」
 と、和雄は顔を赤らめたまま言った。
 すると、道子はその説明に納得したのか、それに関して、それ以上言及しようとはせずに、
「仲宗根さんは、時間の都合はよろしいのですかね?」
 と訊いて来た。
「大丈夫ですよ。でも、一応、明日、西表島に帰ろうと思ってますが。それまでに返答をいただければいいですから。 
 もっとも、今夜は勝浦に泊まろうと思ってるのですが、ホテルをまだ確保してないので、それは気掛かりなのですが」
「そうですか。では、もう少し待ってくださいね。もう少ししたら、主人が戻ってまいりますから」
「そうですか」
 と、和雄は些か表情を和らげては言った。
 道子と話をすればするほど、花江の思いは当っていたような感触を強めたからだ。今の時点で、貫太郎のことを婦人の実子だと断言しないということは、実子ではなく、養子であったという可能性は、充分にあるというわけだ。
「で、花江さんには、貫太郎と同じ位の年齢の息子さんがおられたのですね?」
「そうです」
「どうしてその息子さんは、三歳の時に、花江さんの許からいなくなったのですかね?」
 道子はいかにも興味有りげに言った。
「それは、謎なのですよ」
 和雄は困惑したように言った。
「謎……」
「そうです。謎なのですよ。
 その当時、花江は西表島の北方にある上原という集落に住んでいたのですが、少し義人から眼を話した隙に姿が見当らなくなってしまったのですよ。
 それで、五十人程の村人が懸命に探したのですが、遂に見付からなかったのですよ。辺りに危険な場所は無かったですから、事故に遭ったという可能性は、ないのですよ。無論、交通事故でもありません。無論、義人の遺体は見付かっていません!
 それで、我々は何者かに誘拐されたのではないかと看做していたのですが、しかし、身代金要求はありません。
 そういった状況なのですが、花江は義人はきっと何処かで生きてるに違いないと、いつも言ってました。そして、先日、竹富島で義人と思われる青年と出会ったのです。それが、貫太郎君だったというわけですよ。花江は正に神様が合わせてくれたと言ってましたね」
 と、和雄は正に感慨深げな表情を浮かべては言った。
 そう和雄に言われ、道子は、
「そうでしたか……」 
 と、呟くように言った時に、
「ただいま」
 という声と共に、一人の男性が部屋の中に入って来た。その男性は、道子の夫の勝行であった。
 勝行は、リビングに上がり込んでいる見知らぬ男性を眼にして、眉を顰めたが、軽く頭を下げた。
 それで、和雄も軽く頭を下げた。
 道子は、
「あなた、ちょっと」
 と言っては、勝行を別の部屋に連れて行き、そして、少しの間、何やら話し込んでるようであった。
 そして、やがて、二人は和雄の前に姿を見せた。そして、勝行が、
「遥々西表島から来られたとか」
 と、殊勝な表情を浮かべては言った。
 すると、和雄は、
「ええ」
 と、小さな声で言った。
「では、早速本題に入りますが、仲宗根さんの妹の花江さんは、うちの息子の貫太郎を、花江さんの息子ではないかと言われ、その真偽を確かめる為に、遥々とこの勝浦に来られたとか」
「正にそうなんですよ」
 と、和雄はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「そうですか……」
 と言っては、勝行は大きく息をつき、そして、
「では、結論から申しますと、その花江さんの思いは、ひょっとして当たってるかもしれません」
 その勝行の言葉を聞いて、和雄の表情は、一気に綻んだ。正に苦労して、ここまで来た甲斐があった! 正に花江に最高の土産が出来た! そう思うと、和雄の表情には、嬉しさが込み上げて来た。
 そんな和雄は、
「ということは、貫太郎君は中上さん夫婦の実子ではなかったということですかね?」
 と、努めて平静を装い、落ち着いた口調で言った。
 すると、勝行は意を決したような表情を浮かべては、
「実はそうなんですよ」
 と、和雄から眼を逸らせては、いかにも言いにくそうに言った。 
 すると、今度は和雄が意を決したような表情を浮かべた。何故なら、これから勝行が発する言葉によって、義人が失踪した原因が分かるかもしれないと思ったからだ。
「ということは、いかにして貫太郎君は中上さんたちの養子となったのですかね?」
「実はですね。僕たち夫婦には子供が出来ませんでしてね。実際には欲しくて堪らなかったのですがね。
 で、どうしようかと、家内と二人で考えていたところ、養子を貰おうということになったのですよ。
 といっても、親戚といった身内には、養子になれそうな子供はいなかったので、東京都内の孤児院なんかを回りましてね。すると、貫太郎のことが、眼に留まったのですよ」
 と、勝行は、正に神妙な表情を浮かべては言った。
「そういう訳だったのですか……」
 と、和雄はいかにも感慨深げな表情を浮かべては言った。
 そして、その後、三人の間で少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、和雄は、
「しかし、どうして貫太郎君は、東京の孤児院にいたのでしょうかね?」
 と、些か納得が出来ないように言った。
「それがですね。貫太郎はその孤児院の前に置き去りにされてたそうですよ。今から十八年前の四月のことだったようです」
 と、勝行は遥か昔に思いを巡らすかのような表情と口調で言った。
「十八年前の四月ですか……」
 と、和雄は呟くように言っては、しかし、力強く肯いた。何故なら、義人が行方不明になったのも、十八年前の四月だったからだ。
 それで、和雄はその旨を勝行に話した。
 すると、勝行は、
「そうですか……」 
 と、呟くように言った。そして、和雄から眼を逸らした。そんな勝行は、既に貫太郎のことを花江の息子の義人だと認めてるかのようであった。
「では、何故貫太郎君は東京の孤児院の前に置き去りにされていたのでしょうかね?」
 和雄は、些か納得が出来ないように言った。
「さあ……、そこまでは分からないですね。僕たちだけではなく、孤児院もそのことは分からないのですよ。
 もっとも、孤児院の係員は、貫太郎のことを経済的理由なんかで育てられなくなったから、置き去りにしたのではないかとか言ってましたがね」
 と、勝行は殊勝な表情を浮かべては言った。
「そうですか。で、貫太郎君は自らの両親のことを何ら覚えていなかったのですかね?」
「そうみたいですよ。何しろ、まだ物心つかない頃の貫太郎でしたからね。ですから、貫太郎は今でも僕たちのことを実の親だと思ってるのですよ」
 と、勝行は和雄から眼を逸らせては、些か言いにくそうに言った。
 それを聞いて、和雄は勝行から眼を逸らせては、決まり悪そうな表情を浮かべた。何故なら、貫太郎に真相を話せば、貫太郎は大いなるショックを受けると思ったからだ。
 そして、三人の間で、再び沈黙の時間が流れたが、やがて、勝行は、
「でも、僕たちはいずれ、貫太郎に本当のことを話さなければならない時が来ると思っていたのですが、遂にその時が来たということですかね」
 と、和雄から眼を逸らし、神妙な表情を浮かべては、小さく肯いた。
すると、和雄も勝行と同じような表情を浮かべては、小さく肯いた。
 その勝行の言葉を耳にして、和雄は改めて勝浦にまで来てよかったと思った。
 とはいうものの、今まで中上夫婦の子供として育って来た貫太郎が、花江の許に戻って来るのかという疑問が和雄の脳裏を捕えた。
 それで、和雄は渋面顔を浮かべたのだが、すると、勝行も、
「でも、僕たちの子供として育てて来た貫太郎が、花江さんの許に戻るかというと……。また、僕たちも貫太郎を手放したくないという思いもありますので……」
 と、渋面顔で、言いにくそうに言った。
 すると、和雄は、
「気持ちは十分に察せられます」
 そう和雄が言った後、三人の間でまたしても沈黙の時間が流れたが、やがて、勝行は、
「どうしましょうかね」 
 と、重苦しい口調で言った。
「さて、どうしましょうかね」 
 と、和雄も困惑したように言った。
 即ち、中上貫太郎という青年は、三歳の時から中上夫婦の実子同然に育てられて来たのだ。そんな貫太郎に、
「貫太郎君は実は西表島に住んでいる仲宗根花江という人の息子の義人という人物なんだよ」
 と、説明しても、すんなりと花江の許に戻るかということだ。
 だが、和雄は花江のこと思い出し、
「僕の妹の花江は、必ず貫太郎君を花江の許に戻そうとすると思いますね」
 と、眉を顰めては言った。
「そうでしょうね。遥々西表島から勝浦にまで中上さんを寄越しては、真相を確かめようとされたのですからね。
でも、貫太郎の意思は無視出来ないですよ」 
 と、勝行は神妙な表情を浮かべては言った。
「そうですね。つまり、貫太郎君次弟ということですか」
 と、和雄は眉を顰めた。
 とかいった遣り取りを交わしながら、やがて、三人の会話は終わった。そして、その夜は、和雄は中上宅に泊まることになった。
 また、今夜入手した情報は、無論その夜、和雄の口から花江に伝えられた。花江がいかに喜んだかは言うまでもないだろう。

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