第三章 衝撃
1
貫太郎が中上夫婦の実子でないと貫太郎に言わなければならない日は、すぐに到来した。というのは、花江が今すぐにでも東京に来ては、貫太郎に真相を話すと言っては、きかなかったからだ。
それを受けて、中上夫婦は、花江の口からよりも、自らの口から真相を貫太郎に話したいと思った。
それで、中上夫婦は、和雄が西表島に戻ったその日、即ち、和雄に貫太郎が中上夫婦の実子でないと告げたその翌日に、貫太郎にそのことを話すことになったのである。
その日は土曜日だということもあり、勝行は道子と共に東京まで行っては、貫太郎の下宿先のアパートを訪ねた。
そんな二人に、貫太郎は、
「お父さんとお母さんが、二人揃ってここに来るなんて、どういった風の吹き回しかな」
と、おどけたような表情と口調で言った。
「それがだな」
勝行は貫太郎から眼を逸らせては、神妙な表情を浮かべては言った。
すると、貫太郎は苦笑しては、
「どうしたんだい? そんな畏まった表情を浮かべては」
そう貫太郎に言われて、勝行は貫太郎から眼を逸らせては、なかなか本題に切り出そうとはしなかった。また、道子の表情も、いかにも決まり悪そうであった。
そんな二人の様を眼にしては、貫太郎は再び苦笑し、
「お父さんと、お母さんは、今日は何だか変だよ」
と、勝行と道子を交互に見やっては言った。
すると、勝行は貫太郎を見やっては、
「貫太郎は先日、石垣島の方に旅行に行った時に、竹富島のコンドイビーチで、奇妙な婦人と出会ったとかいうような話をしていたよな」
そう勝行に言われ、貫太郎はその婦人のことを思い出した。実のところ、貫太郎はその婦人のことを、もうすっかりと忘れてしまっていたのだ。
「そういえば、そのような婦人と会ったよ」
と、貫太郎は些か笑みを浮かべながら言った。
「そうだったような。
で、その婦人のことを貫太郎はどう思ってるのかな」
勝行は貫太郎を見やりながら、言いにくそうに言った。
「どう思ってるとは?」
貫太郎は眉を顰めた。
「だから、その婦人は、貫太郎のことを自らの息子である義人ではないかと主張したんだろ? それに対して、貫太郎はどう思ってるかということなんだよ」
勝行は今度は貫太郎の眼をしっかりと見据えては言った。
すると、貫太郎は妙なことを言うんだなと言わんばかりの表情を浮かべては、
「どう思うって、そんなの分かり切ったことだよ。その婦人は、息子を失った悲しみなんかで頭が変になってるのさ」
そう貫太郎が言うと、勝行は貫太郎から眼を逸らせ、少し咳払いをした後、再び貫太郎に眼を向け、
「実はな。昨日、うちに西表島からわざわざ仲宗根和雄という五十位の男性が訪ねて来てね。で、仲宗根さんは、何故うちを訪ねて来たのか、貫太郎は分かるかい?」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
そう勝行に言われても、貫太郎はそれが分からなかった。何故なら、西表島は中上家とは何ら縁の無い土地だと思っていたからだ。
それで、
「全く分からないよ」
と、頭を振った。
「そうかい。
で、その中上さんが訪ねて来たのは、貫太郎が先日、石垣島とか竹富島に行ったことが、関係してるんだよ」
と、勝行は眉を顰めた。
そう勝行に言われても、貫太郎は言葉を発することが出来なかった。何故なら、何と言ってよいのか、分からなかったからだ。
それで、勝行は、
「僕がこう言っても、僕が何を言いたいのか、分からないかい?」
「分からないな」
と、貫太郎は渋面顔で言った。そして、首を傾げた。
「そうかい。
実はな。その仲宗根さんという人は、貫太郎が先日、竹富島で出会った貫太郎のことを義人だと主張した婦人の兄なんだよ」
と、勝行は貫太郎を見やりながら、穏やかな表情と口調で言った。
そう言われても、貫太郎は何と言えばよいのか、分からなかった。
だが、勝行と道子が、わざわざ勝浦から東京の下宿まで訪ねて来ては、畏まった表情で、このような話をするなんて、何か只ならぬ意図があるのかもしれない。
そう思うと、貫太郎も自ずから畏まった表情を浮かべるに至った。そして、畏まった表情を浮かべながら、次の勝行の言葉を待った。
すると、勝行は、
「仲宗根さんが何故うちを訪ねて来たのか、分かるかな」
と、貫太郎を見据えては言った。
「分からないな」
貫太郎は勝行の言葉に、間髪を入れずに答えた。実際にも、分からなかったからだ。
「そうかい。そうだろうな」
と、勝行は貫太郎から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
勝行たちは、正に貫太郎のことを実子同然に育てて来たのだ。それ故、貫太郎とて、勝行と道子のことを、何ら血の繋がりのない養親とは、思ったことはないだろう。
それ故、その事実を告げることは、勝行と勝行にとって、辛いことであったが、いつかはそれを貫太郎に告げる時が来ると、思っていた。そして、遂にその時が来たのだと、勝行は自らに言い聞かせては、意を決したような表情を浮かべては、
「貫太郎が竹富島で出会ったその婦人は、貫太郎のことを、自らの息子の義人に違いないと言ったんだろ?」
「…………」
「実はな。その婦人の言葉は、真実かもしれないんだよ」
と、勝行は貫太郎から眼を逸らせては、渋面顔を浮かべ、いかにも言いにくそうに言った。また、道子も、勝行と同じような表情を浮かべていた。
その勝行の言葉を耳にし、貫太郎の表情は、忽ち真っ青になった。そして、脳天をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
貫太郎は正に頭に血が上ってしまい、また、頭の中が空白になってしまい、何ら言葉を発することが出来なかった。
そんな貫太郎を眼にして、
「貫太郎には辛いかもしれないが、その婦人の言葉は、真実かもしれないんだよ」
と、勝行は貫太郎を見据えながら、再び言いにくそうに言った。
だが、貫太郎は依然として、強張った表情を浮かべては、言葉を発することは出来なかった。
そんな貫太郎に、勝行は、
「貫太郎の顔は、お父さんにもお母さんにも似てないよな。そのことを貫太郎は疑問に思ったことはないのかな」
「…………」
「もし、貫太郎がお父さんとお母さんの実子なら、貫太郎の顔はお父さんかお母さんに似てる筈だよな。あるいは、うちの親戚の誰かに似てる筈だよな。しかし、実際にはそうではないんだよ」
勝行は、貫太郎を見据えてはいかにも決まり悪そうに言った。
すると、貫太郎は、
「わっ!」
と、大声を上げたかと思うと、突如、大声で泣き始めた。貫太郎は、無性に哀しくなって来たのだ。
そんな貫太郎を眼にして、勝行も道子も思わず眼頭にハンカチを当てた。
だが、勝行は歯を食いしばって話を続けようとした。何故なら、事の真相はいつか必ず貫太郎に話さなければならないことだったからだ。
「貫太郎よ。実はな。貫太郎は三歳の頃に、僕とお母さんが、養子にもらったんだよ。
でも、本当のお父さんとお母さんは、何処の誰だか、分かっていないんだよ。何故なら、貫太郎は孤児院の前に置き去りにされていたのだから」
勝行がそう言うと、貫太郎は泣き声を強めた。それは、貫太郎が大きくなってから、今までに見せたことのない激しい泣き声であった。
そんな貫太郎を眼にして、勝行は貫太郎から眼を逸らせ、いたたまれないような表情を浮かべた。いつかは言わなければならないことであったが、今の貫太郎の様を眼にすると、永久に言わずに済むのなら、その方がよかったと思ったからだ。
貫太郎はしばらくの間、泣き続けていたが、その泣き声が小さくなって行った頃、勝行は貫太郎への告白を再び続けた。
「一昨日、うちを訪ねて来た仲宗根さんの話だと、貫太郎の本当の母親と思われる人物は、貫太郎が竹富島のコンドイビーチで偶然に出会った女性、即ち、仲宗根花江という人物かもしれないんだ。
で、仲宗根さんの話だと、花江さんの息子の義人という人物は、三歳の時に突如、行方不明になったらしいんだ。
何故行方不明になったのか、その理由は分かっていないそうなんだが、何故か突如、西表島の自宅から行方不明になったそうなんだよ。
しかし、花江さんは、義人君は何処かできっと生きているに違いないと、信じていたそうなんだよ。
そして、竹富島のコンドイビーチで貫太郎と出会ったのは、神様が引き合わせてくれたのだと思ったそうなんだよ」
と、勝行が言い終えた頃には、貫太郎は既に泣くのを止め、まるで聞き耳を立てるかのように、勝行の話にじっと耳を傾けていた。
「で、花江さんは、花江さんが記憶している三歳までの義人君ことや、貫太郎が花江さんの夫に似てることなどから、貫太郎のことを自らの息子の義人であると直感し、また、貫太郎の右足首に残っている痣のことから、貫太郎が義人だと確信したそうだよ。
それで、貫太郎が泊まった石垣島のホテルの宿泊名簿なんかから、貫太郎の連絡先を突き止め、そして、昨日、花江さんの兄の和雄さんが、西表島から遥々うちにやって来られたというわけさ。
そして、和雄さんの口から、花江さんの主張を僕たちに話し、そして、貫太郎のことを僕たちの実子なのか、確認しに来たのだよ。
それで、僕たちはいつかこういった日が来ると思っていたこともあり、和雄さんに貫太郎が僕たちの実子ではないということを話し、そして、それを貫太郎にもこうやって話したということだよ」
と、勝行は渋面顔を浮かべては、淡々とした口調で言った。
だが、貫太郎は依然として言葉を発そうとはしなかった。
そして、少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、貫太郎は、
「ショックだな」
と、いかにも沈痛した表情を浮かべては言った。
すると、勝行が、
「お父さんとお母さんは、このことを貫太郎に言わず死んでいこうと思ったことも何度もあるんだよ。
だから、あの仲宗根和雄という人が、うちに来なければ、まだこの事実を貫太郎に話してないと思うよ。
もっとも、貫太郎は就職の時に戸籍が必要となり、その時に戸籍を見なければならなくなるかもしれない。そうなれば、自ずから知るかもしれないがね」
「……」
「でも、竹富島で、貫太郎の母親と思われる女性と、偶然に出会ったということは、運命とは実に不思議なものと思ったよ」
と、勝行は感慨深そうに言った。
すると、貫太郎は、
「でも、その竹富島で出会ったあの婦人が、僕の本当のお母さんだということは、本当なの?」
と、虚ろな表情を浮かべては言った。
「そりゃ、僕たちも絶対にそうだと断言は出来ないさ。だから、正式に親子鑑定をしてもらわなければならないと思うよ。今は科学的に親子かどうか確認出来るそうだからな」
と、勝行は殊勝な表情を浮かべては言った。
そう言った勝行に、貫太郎は勝行から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。
そんな貫太郎に、勝行は更に話を続けた。
「で、その花江さんという女性は、貫太郎に何としてでも、戻ってもらいたいそうなんだよ。
といっても、貫太郎は正式に中上家の養子になってるわけだから、三歳の時に生き別れになった母親が今になって現われたといえども、必ずしも花江さんの許に戻らなければならなくてもいいと思うよ。
とはいうものの、貫太郎がどうしても花江さんの許に戻りたいのなら、中上家と離縁したっていいんだよ。
で、お父さんたちとしては、中上家に残ってもらいたいのだが、貫太郎が花江さんの許に戻りたいというのなら、止めることは出来ないと思ってるんだよ。
それで、仲宗根さんと相談した結果、貫太郎の意志に任せるということになったんだよ」
と、勝行はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
そう勝行に言われると、貫太郎も神妙な表情を浮かべては、近くにあったティッシュを手にしては、鼻をかんだ。
そして、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「そんなことを急に言われても、分からないよ。でも、やはり、ショックだよ」
と、いかにも気落ちしたように言った。
「それも、そうだろう。貫太郎の胸中は十分に察せられるよ。だから、今すぐでなくてもいいから、それに関してしばらく考えてみてくれないかな」
と、勝行は穏やかな表情と口調で言った。
「分かったよ」
と、貫太郎は言っては軽く肯いたが、貫太郎はそんな勝行のことを、今まで感じたことのないような思い、つまり、妙に他人見えたのであった……。
一方、和雄からの電話を受けた花江は、狂喜していた。コンドイビーチで義人と再会したのは、正に神様が引き合せてくれたのだと、改めて神様に祈りを捧げたのであった……。
2
話は十九年前に遡る。
その頃、西表島はまだ観光地として開発の手が伸びておらず、今以上に素朴でのどかな島であった。
しかし、近年のダイビングブームの波は、西表島にまで押し寄せ、西表島の上原周辺には、数こそ少ないものの、ダイビングショップを営む者も現われた。
そのダイビングショップの中の一つである仲宗根ダイビングショップの主は、仲宗根花江の兄の仲宗根和雄であった。和雄は、辺りのダイビングポイントに、ダイビングのお客さんを案内する仕事を始めたのだ。
そして、仲宗根ダイビングショップが開業して一年目の頃、和雄は五人の客を仲宗根ダイビングショップのボートに乗せて、ダイビングポイントに向かっていた。
その五人の客というのは、東京からの若い男女たちであったが、その中の一人の女性が、
「月ヶ浜を見たいのよ」
と、甘えるような口調で言った。
「月ヶ浜なら、昨日行ったじゃないか」
日焼けした肌が似会う男性が、笑いながら言った。
「だから、海の方から見たいのよ」
と、女性はそよ風に颯爽とロングヘアを靡かせながら、軽快な口調で言った。
そんな二人の遣り取りを聞いて、和雄は、
「そんなことは、容易いことですよ」
と、言っては、ボートの舵を月ヶ浜の方に向けた。
そして、ボートは徐々に弓なりに弧を描く月ヶ浜に近付いて行った。
そして、月ヶ浜に後少しという所にまで来たのだが、すると、一人の男性が、
「もっとボートを浜に近付けてくれないかな」
と、笑いながら言った。というのは、この男性は、今、浅瀬で子供が水遊びをしてるのだが、その子供にボートが立てる横波をぶつけさせ、子供を驚かせてやろうという悪戯心が沸き起こったのだ。
和雄はといえば、その男性と同じく、子供が浅瀬で水遊びをしてるのを眼に捕えていた。
それ故、ボートをもう少し浜の方に寄せれば、子供はボートが立てる横波をもろに受けるということを充分に理解していたのだが、客の言うことを断ると、心証を悪くしてしまい、それは商売に差し支えが出ると思った。
それで、その男性の要求通り、ボートを一気に波打ち際に近付けたのだ。
すると、ボートの立てる横波が、どんどんと浜に向かって行った。
そして、その横波は、程なくその子供を直撃した。
すると、子供はその波を避けることが出来なかった。そして、その波に揉まれてしまったのだ。
すると、浜の方から、小用を足す為に、息子の許を離れていた母親の金城正子が、その様を眼にしてしまった。
本来なら、まだ三歳になったばかりの子供を浜に残したまま、子供の許を離れるということは、好ましいことではなかったのだが、子供があまりにも愉しげにしていたので、つい正子は子供をそのままにしてしまっては、子供の許を離れてしまったのだ。
そして、小用を足して子供の許に戻ろうとしたのだが、すると、ダイビングボートが激しい波を立てながら、ぐんぐんと波打ち際に近付いて来ては、子供から十メートルも離れていないと思われる位の所を通り過ぎたかと思うと、ボートが立てた波はあっという間に、子供を直撃し、その結果、子供の姿はあっという間に見えなくなってしまったのだ。
その場面を眼にした正子は、正に引き攣った表情を浮かべては、子供の許に疾風の如く駆けつけたのは、言うまでもないだろう。
だが、その時に、正子にアクシデントが発生してしまったのだ。
というのは、正子は余りにも必死に走り出した為に、その前にあった流木に気付かずに、その流木に蹴躓いてしまい、足首を捻挫してしまったのだ。そして、その痛みの為に、立ち上がれなくなってしまったのだ。
そんな正子の眼は、無論、海に向けられていた。
だが、その正子の眼が見渡せる限り、子供の姿は見当たらなかった。
正子は力の限り、子供の名前を呼び、そして、子供の許に駆け付けようとしたのだが、足首の痛みは尋常ではなかった。骨折したのかもしれなかった。
また、辺りには今、誰の姿も見られず、それ故、正子の声を聞き付ける者は、誰もいなかった。
しかし、正子は力を振り絞って、両手を足代わりにしては、波打際に向かって進み始めた。
しかし、正子の眼は、依然として、子供の姿を捕えることは、出来なかった。
3
子供の遺体が見付かったのは、その三時間後であった。子供の遺体が、波打ち際の浅瀬で、その小さな身体を波に翻弄されてるのを、正子を眼にした観光客が、正子から事の次第を聞き、そして、直ちに110番通報し、現場に駆け付けた警官が、子供の遺体を見付けたのである。
子供の死因は、無論溺死であったのだが、子供の遺体の前で泣き崩れていた正子が言った言葉は、こうである!
「仲宗根よ! 仲宗根の野郎が悪いのよ!」
と正子は、髪を振り乱しては言った。
「仲宗根?」
若手の知念巡査は、眉を顰めては言った。
「そうです。この近くで観光客相手にダイビングショップを営んでいる仲宗根和雄です! あいつのボートが、勇一のすぐ近くを通って行ったのです! 勇一は、そのボートが立てた波に直撃され、波に攫われてしまったのです!」
正に、正子は怒りに満ちた表情で言った。
「でも、そんな理不尽なことを仲宗根という人は、やったのですかね?」
知念は、半信半疑の表情で言った。
「それが、やったのですよ! その行為は、正に殺人です!」
正子は、怒り狂った眼をギラギラさせ、正に激しい口調で言った。
「そうですか。
でも、どうして金城さんは、子供の許を離れたのですかね?」
そう知念に言われると、正子の言葉は詰まった。そう言われると、正子は心苦しいのだ。
それで、正子は言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな正子に、知念は、
「金城さんにも過失がないとは言えませんね。何しろ、子供を一人で波打ち際に放ったらかしたのですから」
そう知念に言われると、正子は知念から眼を逸らせ、悔しそうな表情を浮かべた。
だが、知念の方に眼を向けては、
「でも、仲宗根のボートが、勇一の近くを通らなければ、勇一が死ななかったことは、間違いありません!」
正子は眼をギラギラさせながら、声を張り上げた。
「それは、もっともなことです。それ故、仲宗根さんから、話を聴いてみますよ」
と、知念が言うと、正子は険しい表情を浮かべながらも、些か納得したような様を見せた。
だが、冷たくなって、今や息をしなくなった勇一を抱き抱えながら、声の限り、亡き叫んだ。そんな正子の様を、知念を始めとする勇一の事故に関わった警官や村人たちは、いかにも神妙な表情を浮かべたのであった。
4
話は少し前に戻るが、仲宗根のボートに乗り合わせている仲宗根とダイビング客たちは、月ヶ浜を通り過ぎると、今日の目的地であるダイビングポイントに向かっていた。
和雄に、もっと波打ち際にボートを向けてくれと言った男性は、ボートが立てた横波が子供を直撃したのを眼にして、腹を抱えては笑いこけた。
しかし、和雄はといえば、眼を子供の方に向けようとはしなかった。ボートが立てた波を受けた子供がどうなったか、確認してみる勇気がなかったのだ。
しかし、ボートを波打ち際にもっと寄せてくれと言った男性が大笑いしたのを眼にして、ボートが立てた波は、子供を直撃したに違いない。
そう思うと、和雄は強張った表情を浮かべてしまった。
しかし、その和雄の心情をお客に気付かれてはならないと思い、すぐに笑顔をを浮かべたのであった。
今日のダイビングの仕事を終え、お客たちを無事に宿に送り届けると、和雄は仲宗根ダイビングショップに戻り、寛いでたのだが、そんな和雄の許を八重山署の知念が訪れたのは、午後五時頃のことであった。
知念は制服姿であったので、知念が警官であるということが、和雄にはすぐに分かった。
しかし、和雄は何故警官がやって来たのか、その理由が分からなかった。
そんな和雄に、知念は、
「仲宗根さんは、今日の午後二時頃、仲宗根さんのボートに乗って、月ヶ浜の近くを通り過ぎましたね」
和雄はと言えば、それを否定することは出来ないと思ったので、
「ええ……」
と、呟くように言った。
「かなり波打ち際をボートは通りましたかね?」
「かなりというより、結構といった方が、適切ですね。というのも、もっと波打ち際にボートを寄せようと思えば、可能でしたからね」
と、和雄はそれが何か問題なのかと言わんばかりに言った。
「そうですか。で、いつも、そんな波打ち際を通るのですかね?」
知念は渋面顔で言った。
「いや。あんなことは、滅多にしませんね」
と、和雄も渋面顔で言った。
「どうして、今日に限って、そのようなことをやったのですかね?」
知念は、些か納得が出来ないように言った。
「お客さんに、もっと浜の近くに行ってくれないかと、言われましてね。そのリクエストに僕は答えたのですよ」
と、仲宗根は眉を顰めた。
「そういう訳だったのですか。でも、もっと注意してもらいたかったですね」
と、知念は不満そうに言った。そして、和雄から眼を逸らせた。
そんな知念を眼にして、和雄は、
「それは、どういうことですかね?」
と、怪訝そうに言った。
「事故ですよ。事故が発生したのですよ!」
と、知念は唇を歪めた。
「事故?」
「そうです。
実は仲宗根さんのボートが通過した近くで、三歳の子供が、水遊びをやってましてね。
ところが、その子供が、仲宗根さんのボートが立てた波をもろに受けてしましまい、その結果、波に浚われてしまい、溺死してしまったのですよ!」
と、知念は和雄をまじまじと見やっては、和雄を非難するかのように言った。
その知念の言葉を耳にし、和雄は返す言葉がなかった。何故なら、和雄が恐れていたことが、現実に起こってしまったみたいだからだ。
それ故、和雄は、強張った表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかったのだが、そんな和雄に対して、知念は、
「仲宗根さんは、波打ち際で子供が遊んでるのに、気付かなかったのですかね?」
と、和雄を再び非難するかのように言った。
「それが、気付かなかったのですよ」
と、和雄は知念から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうに言った。
即ち、和雄は嘘をついたのだ。子供のことを知っていたと証言すれば、和雄の責任が問われると思ったのだ。
「それは、困りますね。もっと注意してもらわないと」
「すいません」
和雄は、まるで 先生に叱られた子供のように、頭を下げ、いかにも決まり悪そうに言った。
そんな和雄に対して、知念はまだしばらくの間、何だかんだと、苦言を呈したが、その後、この件で和雄の刑事上の責任を問うことはむずかしいだろうと言い、やがて、和雄の許を去って行った。
和雄は、そんな知念の後姿を見送りながら、些か安堵したような表情を浮かべた。というのは、どうやら和雄は刑事的な責任を逃れられそうだからだ。それ故和雄は、子供が浅瀬で遊んでいたことを知ってたとは、口が裂けても言うまいと、思ったのだ。
だが、和雄は後日、和雄が操縦していたボートの波を受けて死亡した子供が、金城明夫、正子夫妻の勇一だと知り、これはまずいことになったと思った。何故なら、金城家と仲宗根家は、親の代から仲が悪かったからだ。
というのは、仲宗根家も金城家も、元々沖縄本島の人間だったのだが、また、両家は、沖縄本島の同じ村の出身だったのだ。
そして、両家共、沖縄戦を経験するに至ったのだが、米軍が沖縄本島に上陸し、米軍に追い詰められた時に、同村ということもあって、両家は中部方面の同じガマ(洞窟)に逃げ込み、そして、身を潜めては、難を逃がれていたのだが、そのガマの住人たちに、米軍が接近したという情報がもたらされた。
すると、ガマに逃げ込んだ三十人余りの住人たちの中で、リーダー格であった仲宗根和雄の父親の仲宗根高雄は、皆にこう言った。
「泣き止まぬ赤子は、殺すしかない!」
泣き止まぬ赤子を殺せという言葉は、本土出身の日本兵は、時々口にしたらしいが、まさか、沖縄の民間人が、そのような言葉を発するとは、その場に居合わせていた住民たちの誰もは、夢にも思ってないことであった。
今、このガマには、四人の赤子が身を潜めていたのだが、その中で、金城武次郎の子供の武志(二歳)が、まるで狂ったように、泣き続けていたのだ。その武志の存在が、仲宗根高雄は、正に目障りだったのだ。
その高雄の言葉を耳にし、武志の母親の佳代は、武志を抱きしめては、絶対に武志を話すまいという身振りを見せた。
だが、高雄はそんな佳代から、武志を取り上げては、一気に武志の首にロープを巻き付けては、絞め殺してしまったのだ!
武志は、佳代の手から、高雄の手に渡った時は、狂ったように泣き叫んだが、その泣き声はすぐに止まった。何故なら、高雄は渾身の力を込めて、武志の首をロープで絞めたので、武志はあっという間に、息を引き取ったからだ。
武志が息絶えたのを確認すると、高雄は残忍そうではあるが、しかし、いかにも満足したような表情を浮かべた。これで、ガマに身を潜めている住人たちの存在が、米軍に気付かれないと思ったからだ。
だが、武志をあっさりと高雄に殺されてしまった金城武次郎、佳代夫妻は、
「この人殺しめ!」
と、鬼のような形相を浮かべては、高雄を罵った。
「仕方ないじゃないか! 武志にあのように泣かれると、俺たちのことが、米兵に気付かれてしまうんだ!
そうなってしまえば、俺たちは皆、殺されてしまうんだぞ!」
鬼畜米英と、米軍のことを日本兵から吹き込まれていたその当時ガマに身を潜めていた民間人の誰もかれもが、米兵に見付かってしまえば、殺されてしまうと、信じていたのだ。
それ故、武志を殺されてしまった金城夫妻以外の者は、高雄の行為を面と向かって非難しようとはしなかったのだ。
そんな具合であったから、金城夫妻の高雄に対する罵りの言葉は、しばらくの間、続いたのだが、大きなトラブルには進展しなかった。
そして、武志が殺されてから三日後に、高雄たちは、そのガマから出ることになった。何故なら、このガマはいずれ米兵に見付かると、察したからだ。
そして、金城夫妻とその縁者は、仲宗根家の者たちと、別行動を取ることになった。そして、仲宗根家の者も金城家の者も、米軍から生き延び、終戦を迎えたのであった。
だが、その仲宗根家と金城家の者が、戦後、二十五年経った頃、何故か西表島で再会したのである。仲宗根家の者も、金城家の者も、西表島に新天地を求めたのだ。
もっとも、仲宗根高雄も金城武次郎も、かなり高齢になり、余命も長くないという状況だった。
そんな金城武次郎は、息子の明夫に、仲宗根高雄が戦時中に行なった明夫の兄の武志殺しの件を、耳に胼胝が出来る位、話し聞かせた。
それ故、明夫、そして、その妻の正子までもが、上原集落でダイビングを営んでいる仲宗根高雄の息子の和雄たちのことをとても憎んでいたのだ。
そんな状況下に、今回の事故が起こったのだ。それ故、和雄は<これはまずいことになったぞ>と、表情を強張らせたのだ。
案の定、勇一の葬儀が終わった頃には、金城明夫、正子夫妻は、和雄の行為に対する怒りを抑えることが出来なかった。明夫たちは、和雄がわざとボートを武志に向けたと、看做したのだ。
何しろ、戦時中のことがあるので、金城明夫は、仲宗根宅に行っては、度々高雄に喧嘩を吹っ掛けていた。また、和雄に対しても、何かと嫌がらせをしたのだ。
それ故、和雄も金城明夫のことをとても嫌っていたのだ。それ故、その子供である勇一に嫌がらせをする為に、ボートを勇一の近くに向けたと、明夫たちは看做したのである。
それ故、明夫と正子は、和雄宅に出向いては、
「あんたは、わざと勇一の近くを通ったのね。勇一に波をぶつける為に!」
と、和雄に罵声を浴びせた。
「いや。そうじゃないんだ! 知らなかったんだ!」
和雄は何度も懸命に弁解した。
「嘘をつくな! あんたの親父は、戦時中に俺の兄さんを殺したんだ! だから、俺たちがあんたの親父やあんたに何度も文句を言ったので、あんたはその仕返しとして、勇一にあんたのボートの波をぶつけたんだ! だから、勇一は死んだんだ!」
と、明夫は激しく和雄を非難した。
「そうじゃないんだ! 僕は勇一君が波打ち際の浅瀬で遊んでることを知らなかったんだ! 本当なんだよ!」
と、和雄は懸命に弁解した。
「そんな嘘をつくな!」
「嘘じゃないよ! 本当に知らなかったんだ!
それに、もし僕が波打ち際の浅瀬で子供が遊んでいたことを知っていたとしてもだよ。どうして、その子供が勇一君だと分かるんだい? 遠くの方からどうして、その子供の顔まで分かるというんだい? そんなことは、不可能だよ」
と言っては、和雄は小さく肯いた。
実際にも、和雄は確かに波打ち際の浅瀬で、子供が遊んでいたのは知っていたのだが、その子供が勇一だったということまでは、分からなかったのだ。
そう和雄に言われ、明夫も正子も、言葉を詰まらせてしまった。確かにそう言われてみれば、そうだとも思ったからだ。
そんな二人の様を眼にして、和雄は幾分か表情を和らげた。二人が、和雄の説明に納得したのではないかと思ったからだ。
しかし、その和雄の思いは、あっさりと裏切られてしまった。何故なら、明夫は、
「双眼鏡を持っていたんだろ。それで、勇一だと確認したんだ!」
と言っては、唇を歪め、和雄に対して、改めて敵愾心を露にしたのだ。
すると、和雄は狼狽した表情を見せながらも、
「違うよ! そんなことは、やってないよ!」
と、激しく頭を振った。
確かに、和雄はそのようなことはやってないのだが、ボートには確かに双眼鏡はあったのだ。
だが、明夫と正子は、そんな和雄の弁解を信じようとはしなかった。
「嘘をつくな! あんたは、勇一と知っていたからこそ、ボートを勇一に近付けたんだ!」
「そうじゃない! 分かってくれよ!」
そういった遣り取りの堂々巡りであった。
しかし、そうだからといって、子供の仇討ちとして、和雄を殺すわけにはいかなかった。しかし、和雄がわざとボートを勇一に向けたと信じて疑わない金城夫妻の怒りは、収まりそうもなかった。
また、和雄は結局、刑事的な責任は何ら問われなかった。そのことも、金城夫妻の怒りに拍車を掛けた。
そこで、二人は何かよい手段はないものかと、考えを巡らせた。
それが、和雄の妹である仲宗根花江の息子の義人の誘拐であったのだ。
本来なら、和雄の子供を誘拐しなければならないのだが、和雄は独身だったので、和雄には子供はいなかった。
それで、二人は花江の子供の義人に眼を付けたのだ。
義人はその頃、三歳で、可愛い盛りであった。
それ故、義人を誘拐してしまえば、花江も明夫と正子と同じ思いをするに違いない。
また、花江の父は、明夫の兄を殺している。それ故、花江の息子の義人を誘拐することに、明夫と正子は、何ら躊躇いはなかったのだ。
もっとも、誘拐しても、殺すということまでは、考えていなかった。何故なら、二人は殺人ということまでは、手を染めたくはなかったのだ。
また、誘拐作戦は、子供が亡くなってから一年後に行なわれることになった。何故なら、勇一が亡くなってすぐに実行すれば、金城夫妻が怪しまれる可能性がある。金城夫妻は、それを避けたかったのだ。
そして、その二人の作戦は、あっさりと成功したのだ。
即ち、義人を東京の某孤児院の前に放置したのは、金城明夫と正子であったのだ!