第四章 再会

     1

 貫太郎はといえば、衝撃的な事実を聞かされて、一週間程、塞ぎ込んでいた。まさか、勝浦の両親が、養親だったなんて、夢にも思ったことがなかったからだ。
 それ故、その事実を聞かされてから、一週間程の間は、正に魂の抜けた抜け殻のように、塞ぎ込んでいたのだ。また、その間は、学校もアルバイトも休んでしまったのだ。
 そういった状態で時を過ごしていたのだが、その間で貫太郎の中で芽生えて来た思いは、一度、仲宗根花江という女性に会って話をしたいということだ。その仲宗根花江という女性が、貫太郎の実母なら、会って話をする必要性は、当然あるだろう。
 別に、花江が貫太郎を捨てたのではない。貫太郎は何者かに誘拐されたというのが、真相のようだからだ。
 しかし、貫太郎は実のところ、その誘拐ということに関しては、全く思うことがないわけではなかった。
 それは、今まで誰にも話したことはないのだが、まだ物心つかない頃、貫太郎は泣きながら船に乗り、そして、汽車なんかに乗り、遠方の方に行ったような記憶が朧気ながらあるのだ。
 また、僅かな期間なのだが、見知らぬ子どもたちの集団の中で生活したような記憶もあるのだ。
 とはいうものの、その記憶を両親に話すことは、勇気のいることであった。
 何故そうだったのかは、貫太郎ははっきりと説明することは出来ない。しかし、敢えて言うのなら、動物は危険なものには、本能的に近寄ろうとはしない。
 そういった本能により、この朧気な記憶には触れようとはしなかったのかもしれない。
 しかし、もし貫太郎が元々西表島に住んでいて、そして、何者かに誘拐され、東京の孤児院に置き去りにされ、少しの間、孤児院で過ごし、その後、中上夫妻に養子として貰われたなら、貫太郎の朧気な記憶は、うまく説明出来るのだ。
 そう思うと、貫太郎は一層、その仲宗根花江という女性と一度会って話をしたいという思いが、貫太郎の胸中に大きく沸き上がって来たのだ!
 もっとも、貫太郎は一度、竹富島のコンドイビーチで、花江と出会って話をしている。
 しかし、このような偶然が起こり得るものだろうか?
 十八年も前に生き別れとなり、遠い地で暮らすようになり、何の音沙汰もなかった母子が、偶然再会したなんて、正にそれは神様が引き合せてくれたとしか、言いようがないと、貫太郎は痛感したのだ。
 それ故、貫太郎はその日、即ち、中上勝行と道子が、貫太郎に事の真相を話す為に、貫太郎の下宿先のアパートにやって来た一週間後の土曜日の夜、貫太郎の胸の内、即ち、花江に会ってもいいという思いを勝行に話した。
 すると、勝行はその貫太郎の思いを直ちに花江に伝えた。
 花江がいかに貫太郎が西表島にやって来るのを心待ちにしていたか、言うまでもないであろう。
 そして、二人の再会の場所は、東京ではなく、貫太郎が生まれた西表島ということが早々と決まったのである。
     
 貫太郎は翌月曜日になると、西表島に向かう機上の人となっていた。
 もっとも、西表島には飛行機では行けないから、石垣島まで行ってから、石垣島の離島ターミナルから船で西表島というわけだ。
 そして、そのコースで西表島を訪れてから、まだ一ヶ月も経っていないのに、貫太郎は再び西表島に向かったのである。

     2

 西表島に向かう連絡船に乗り、時折ライトブルーに煌めく海に眼をやりながら、貫太郎は花江とのことを思い出していた。
 花江は貫太郎を一眼見て、自らの息子で三歳の時に、生き別れした義人に違いないと直感したそうだが、正直言って、貫太郎は花江のことを自らの実母だなんて、微塵も思わなかった。それどころか、妙な婦人だと思い、まるで逃げるように花江の許を去ったのであった。
 そんな状況であったから、花江と再び対面しても、実母と看做せるのかというと、それは分からなかった。
 また、それはそれとして、花江は貫太郎との親子関係を回復し、貫太郎と共に暮らすことを望んでるとのことだが、その点に関して、貫太郎にはまだ結論は出なかった。花江と対面して、貫太郎が花江のことをどのように思うか、それを確認してみないと、何とも言えなかったのだ。
 そう思ってる内に、船はどんどんと進み、やがて、貫太郎は西表島の島影を眼にすることが出来た。そして、船はやがて西表島の玄関口である大原港に着いた。
 貫太郎はショルダーバッグを肩に掛け、連絡船から桟橋に足を踏み出した。そして、辺りに眼をやると、すぐに花江の姿を眼に出来た。
 すると、花江も貫太郎のことをすぐに眼に留めた。
 すると、花江はいかにも嬉しそうな表情を浮かべながら、貫太郎に近付いて来ては、貫太郎にほほ笑み掛け、
「よく来てくれたね」 
 と、いかにも嬉しそうに言った。
 すると、貫太郎は、
「ああ」
 と、ぎこちない口調で、また、面映ゆそうに言った。
「じゃ、行こうか」
 そう花江は言うと、港の駐車場に停めてある花江のライトバンへと案内した。
 そして、花江は、
「綺麗な車ではないけど、乗ってくれるかな」
 と花江に言われたが、貫太郎は、
「構わないさ」
 と言っては、早速助手席に乗った。
 そのライトバンの外見は、所処泥で汚れ、また、座席もお世辞にも綺麗とは言えなかった。勝浦の両親が乗っている乗用車とは、比較にならない代物であったが、貫太郎はそのようなことは、何ら気にならなかった。
 それはともかく、ライトバンは、やがて、出発した。
 そして、程なく、仲間川に掛かってる橋を通り過ぎた。
 すると、花江は、
「これは、仲間川という川よ」
 と、眼を前方に向けながら言った。
「知ってるよ」
「そう。でも、どうして知ってるの?」
「僕は西表島に来るのは、二回目なんだよ。先月、八重山諸島にやって来た時に、西表島にも来てるんだよ。石垣島発西表島行きの観光コースを利用したんだよ。その時に、仲間川のボート遊覧とか、由布島、星砂の浜なんかを見物したのさ」
 と、貫太郎は説明した。
「そうだったの」
 と、花江はいかにもそれを初めて耳にしたと言わんばかりに言った。
 しかし、それは嘘であった。花江は、花江の兄の和雄が、貫太郎が西表島行きの船に乗ったのを確認すると、和雄は貫太郎の後をつけ、貫太郎が仲間川遊覧ボートに乗り込むと、和雄も同じボートに乗り込み、貫太郎の姿を密かにビデオカメラに撮ったのだ。そして、花江はそのビデオを見て、貫太郎のことを一層義人に違いないと確信したのである。
 しかし、その経緯はまだ話せないと、花江は思い、嘘をついたのである。
 渋滞とは全く無縁の道を花江の家がある上原集落に向かいながら、花江は、
「義人君は、三歳の時に、行方不明になったのよ。そのことを知っている?」
「知ってるよ。勝浦の両親から聞いたから」
 貫太郎は淡々とした口調で言った。
「私や義人君のお父さん。それに、村人たちは、懸命に探したんだけど、あなたは遂に見付からなかった。
 でも、義人君はきっと何処かで生きているに違いないと思っていたのよ」
 と、花江は貫太郎に訴えるかのような口調で言った。
「その話も、勝浦の父親から聞いたよ。
 でも、おばさんたちは、僕が誰かに誘拐されたと思ってるのですよね?」
「そうよ。うちの家の周りには、危険な場所はないから、事故に遭ったという可能性は、全くないのよ。それに、その時は三歳だったから、一人で何処か遠くに行くという可能性もなかった。
 それ故、何者かに誘拐されたと看做したんだけど、その誘拐犯を見付け出すことは出来なかった」
 と、花江は十八年前に思いを巡らすかのように、また、いかにも悔しそうに言った。
 そう花江に言われ、
「もし僕がおばさんの息子の義人だと仮定しての話だけど、僕はその誘拐ということに関して、朧気な記憶があるんですよ」
 そう貫太郎が言うと、花江はいかにも好奇心を露にしては、
「その朧気な記憶というものを話してくれないかな」
「僕がまだ物心つかない頃のことなんだけど、僕は泣きながら、船のような物に乗せられた記憶があるんだよ。それに、汽車のようなものに乗って、遠くに行ったような記憶もあるんだよ。
 もっとも、その船のようなものが、何処から出て、何処に着いたなんてことは、全く分からないんだ。しかし、それは当然のことだろうけど。
 それ以外としても、僕は少しの間だけど、知らない子供たちと集団で暮らしたというような記憶もあるんだよ。
 でも、今、思ってみると、孤児院だったのかもしれないな」
 と、貫太郎は渋面顔を浮かべては、淡々とした口調で言った。
 花江の表情はといえば、貫太郎のものとは違って生き生きとしていた。というのは、今の貫太郎の説明からしても、今、花江の眼前いる若者が、花江の実子の義人だということを一層確信したからだ。
 そんな花江は、
「今の義人君の話を聞くと、やはり、何者かが義人君を誘拐したのは確実ね。つまり、義人君を、この西表島から連れ出し、東京の孤児院の前まで連れて行ったのよ」
 そう言い終えた花江の表情は、かなり険しいものであった。そんな花江は、義人を誘拐した誘拐犯に対して、強い怒りを露にしてるかのようであった。
「でも、一体誰がそんなことをしたのかな。また、何故そんなんことをしたのかな?」
 と、貫太郎は素朴な疑問を発した。
 そう言われると、花江の言葉は詰まった。何故なら、そんな暗くて陰鬱になりそうな話は、貫太郎と会ったばかりということもあり、今はしたくなかったからだ。
 それで、花江は、
「その話は後でしましょうね。
 それよりも、義人君の小学校からのことを聞きたいな」
 そう言われたので、貫太郎はそれを一通り話すことにした。
「僕は小学校から高校までは、千葉県の勝浦市という町で育ったんだよ。勝浦市って、知ってますか?」
「知らないわ。でも、先日、兄さんが訪れたらしいけど、海沿いの綺麗な港町だそうね」
「そうなんだよ。小学校の頃、父さんに連れられて、辺りの海に魚を釣りに行ったものさ。釣れたのは、クロダイとかアジだったな。
 そして、中学の頃は、剣道部に入って、よく他校の生徒と試合をしたものだよ。
 高校になると、本を読むのが好きになり、外国の古典文学をよく読んだものさ。 そして、大学は東京のS大。学費だけでなく、生活費も勝浦の両親に出してもらってるけど、それだけじゃ、遊ぶお金は足らないから、飲食店でのアルバイトをやってるんだ。そして、そのお金で旅行したりしてるんだよ。
 で、もう大学四年生だから、就職活動を行なってるんだ。希望は旅行会社なんだけど、まだ一社の内定も貰ってないんだよ」
 と、貫太郎は些か顔を赤らめては言った。
「そう……」
 と、花江は感慨深げに、そして、呟くように言った。
 貫太郎の今の説明は、貫太郎が今まで歩んで来た人生を、手短に話したのだが、それでも今の説明で、花江は花江の許から消え失せてから今に至るまでの貫太郎の人生の凡そが分かったような気がしたのだ。
 貫太郎が今に至るまでの貫太郎の凡そを話し終えた頃、花江が運転するライトバンの右手には小浜島の島影を眼にすることが出来るようになった。
 それで、
「義人君は、小浜島に行ったことはあるかな」
「ないな。由布島には行ったけど」
「由布島の印象はどう?」
「とてもいい所と思ったさ。植物園があり、花が一杯咲いていて。
 でも、三十分しかいることが出来なかったんだよ。何しろ、観光コースで行ったから」
「そう。でも、これからは好きなように行けるからね」
 と、花江は貫太郎が西表島に住むことが決まったかのように言った。
 だが、貫太郎はそんな花江に、何も言おうとはしなかった。
 それはともかく、貫太郎はこの時点で、貫太郎の父親のことを訊いてみることにした。今、貫太郎の眼前にいる女性は、どうやら貫太郎の実母らしいのだが、では、実父はどうなのかというと、今まで一度も実父の話が出たことはなかったのだ。
「訊きたいんだけど、僕のお父さんは、今、何処にいるの?」
 と、貫太郎は好奇心を露にしては言った。
 すると、花江の表情に、影が過ぎった。貫太郎にはそのように見えた。 
 花江は、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「死んでしまったわ……」
 と、呟くように言った。
 その花江の言葉を耳して、貫太郎の表情は、突如曇った。だが、貫太郎の口からは、
「死んだ……」
 という言葉が、発せられた。
「そうなのよ。義人君のお父さん名前は、玉城義男で、石垣島にある観光会社で働いていたのだけど、義人君が行方不明になって二年後に、癌で死んでしまったのよ」
 と、花江は神妙な表情を浮かべては言った。
 貫太郎は貫太郎が行方不明になって二年後に、癌で死んだという玉城義男という人物に対する気憶は、全くなかった。貫太郎の父親の記憶は、中上勝行しかなかったのだ。それ故、貫太郎は死んだと聞かされても、特に哀しいとは思わなかった。
 そんな貫太郎に、花江は、
「あなたのお父さんは、あなたにとても似てるのよ。だから、私は義人君を一眼見て、あなたが義人君だと、ぴんと来たのよ」
 花江にそう言われ、貫太郎は言葉を詰まらせた。貫太郎の実父だという玉城義男と貫太郎がとても似ていると聞かされたからだ。
 となると、貫太郎の実父と実母は、やはり、玉城義男と仲宗根花江ということになる。
 そう思うと、貫太郎は、それが事実だということは、凡そ理解していたのだが、その一方、貫太郎は、中上の父母が、貫太郎から遠ざかって行くような気がして、複雑な思いに捕われた。
 そんな貫太郎の口からは、
「僕に兄弟姉妹はいないのかい?」
 という言葉が、自ずから発せられた。
 すると、花江は、
「それがいないのよ。お父さんが早く死んでしまったからね」
 と、神妙な表情で言った。
「じゃ、おばさんは今、一人で生活してるの?」
 と、貫太郎が言うと、花江は、
「お母さんと、呼んでくれないかな」
 と、苦笑しながら言った。
 花江にそう言われると、貫太郎も苦笑し、
「じゃ、お母さんは一人で生活してるの?」
「そうよ。といっても、弟の家がすぐ近くにあり、毎日といっていい位、弟の家行ってるから、寂しくないよ。
 で、弟は、ダイビングショップを営んでいるの。仲宗根ダイビングショップという名前なんだけどね。
 で、そのダイビングショップは、元はといえば、兄が経営してたんだけど、訳あって、兄は勤め人になり、そのダイビングショップは弟が後を継いだのよ。
 この兄と弟が、私の兄弟なの」
 そう花江に言われて貫太郎は何と言っていのか、分からなかった。何故なら、今、花江が語った人物と、貫太郎は全く面識がなかったからだ。それ故、特に思うことがなかったのだ。
 そんな貫太郎は、
「で、母さんは、どうやって生計を立てているの?」
「弟のダイビングショップを手伝っているのよ。
 また、弟は民宿も経営してるんだけど、その民宿も手伝ってるの。それが、私の収入源ね」
「生活は楽なの?」
 貫太郎は言いにくそうに言った。
「そりゃ、お金持ちではないよ。
 でも、私一人なら、充分に生きていけるわ。それに後一人位家族が増えても平気よ」 
 と、貫太郎が家族に加わっても、何ら問題はないと言わんばかりに言った。
 そういった遣り取りを交してる内に、ライトバンの左手にはやがて、ピナイサ―ラの滝を見るに至った。
 それで、花江は、
「左手に見える滝の名前を知ってる?」
「知ってるよ。ピナイサ―ラの滝っていうんだろ」
「よく知ってるね」
「だから、先日西表島を訪れた時に、バスガイドから聞いたのさ」
「そう。じゃ、ピナイサ―ラという意味は分かる?」
「分からないな」
「老人のひげのように白く下がったものという意味なのよ」
 とかいった遣り取りを交してる内に、ライトバンはやがて、上原集落に入った。 すると、ダイビングショップとか民宿なんかが、ちらほらと散見され、ライトバンはやがて左に折れたかと思うと、程なく停まった。そして、その停まった前にある家が、花江宅であったのだ。
 敷地が150坪程で、家は古びた平屋建てで、建て坪は25坪程であった。
 貫太郎は花江と共にライトバンから降りると、
「この家が、義人君が生まれた家なのよ」
 そう言われ、貫太郎は改めて貫太郎が生まれた家という家に眼をやった。
 しかし、貫太郎の脳裏には、その家の記憶がなかった。無論、貫太郎がまだ物心つかない頃に何者かにこの家から誘拐されたのだから、それも致し方ないだろう。
 そんな貫太郎に、
「さあ! 中に入って!」
 その花江の言葉を受けて、貫太郎は貫太郎が生まれた家だというその家の中に入った。
 玄関に靴を脱ぎ、貫太郎が最初に入った部屋は、八畳の和室であった。そして、その和室の畳は、かなり古びたものであったが、壁際には、かなり値打ちがありそうな和ダンスが置いてあり、また、床の間には、中国の山水画のような掛軸が掛けてあった。
 それで、貫太郎は珍しげにその掛軸を見入っていたのだが、そんな貫太郎に花江は、
「ちょっと待っててね」
 と言っては、席を外し、少ししてから貫太郎の許に戻って来た。そんな花江は、アルバムを二つ手にしていた。
 そして、花江は貫太郎の前でそのアルバムをめくっては、
「このアルバムは、義人君が生まれてから、行方不明になるまでの写真が貼られているのよ」
 そう花江に言われたので、貫太郎は早速それに眼を通してみることにした。
 すると、貫太郎は、<なるほど>と、感心してしまった。何故なら、そのアルバムに貼られている二、三歳位の男の子の写真は、確かに貫太郎だと自らで確信してしまうものであったからだ。
 また、仲宗根家の家族のアルバムには、貫太郎が小さい頃の写真は、全くなかった。
 それで、貫太郎は中上の両親にそれに関して訊いてみたところ、中上の両親は、
「うっかりとして、ゴミに出してしまい、失くしてしまった」
と、説明した。
 貫太郎はその説明を信じていたのだが、今、改めて、その理由が分かった。即ち、貫太郎は三歳までは、この家で暮らしていたからだ!
 貫太郎は正に感慨深げな表情を浮かべながら、そのアルバムのページを捲っていたのだが、やがて、貫太郎の父親と思われる人物が、貫太郎のことを抱いている写真が、眼に留まった。
 それで、貫太郎は、
「この人が僕のお父さんなの?」
 と、その写真の人物を指で示した。
「そうよ。義人君に似てるでしょ」
 花江にそう言われ、貫太郎は改めて、貫太郎の実父という男性のことを眼にしてみたのだが、確かに似てると思った。花江にそう指摘されるまでに、そのように貫太郎は感じていたのだ。
 そんな貫太郎の実父である玉城義男という男性の写真を眼にして、今、貫太郎の眼前にいる中上花江という女性が、貫太郎の実母だと認めざるを得なかった。
 そんな貫太郎を眼にして、花江は満足そうな表情を浮かべた。今、花江の眼前にいる若者が、やっと花江のことを実母だと認めてくれたと思ったからだ。
 そんな花江は、
「義人君は、この家で生まれたのよ。助産婦さんに来てもらって、この家で生まれたのよ」
 すると、貫太郎は、
「ふーん」
 と、呟くように言った。
そして、貫太郎は、改めて周囲に眼をやった。
 しかし、貫太郎はやはり、この家に関する記憶がなかった。
 それで、その旨を話した。
 すると、花江は、
「仕方ないね。義人君はまだその頃、物心がついてなかったからね」
「そうだね。でも、僕が使っていたものは、何か残ってないの?」
「勿論、残ってるよ。私は今になっても、義人君が使っていた自動車の玩具とか積み木、それに、義人君が着ていた衣服を大切に保管してあるのよ。見てみる?」
「ああ」
「じゃ、こっちに来てくれないかな」
 花江はそう言うと、貫太郎を別の部屋に連れて行った。
 そこは六畳の和室で、その壁際には、和ダンスが二つ置かれていた。
 だが、花江はその和箪笥を開けずに、押入れを開け、その中に入っていた行李を取り出し、蓋を開けた。そして、
「この行李の中に、義人君が使っていた物が入ってるのよ」
 と言ったので、貫太郎は早速、その行李の中に入ってる物を手に取ってみることにした。
 花江が言ったように、行李の中には、確かに玩具とか、子供の衣服が入っていた。
 貫太郎はそれらを手に取って、その感触を確かめてみたのだが、貫太郎はそれらに対して、何ら気憶がなかった。しかし、それは仕方ないであろう。
 それ故、貫太郎はその思いを、花江に話した。
 すると、花江は、
「仕方ないね。小さい頃の記憶は、誰だってないからね」
 そう花江は言っては、
「で、義人君は一応、お父さんに挨拶をしてくれないかな」
 花江にそう言われ、貫太郎は戸惑ったような表情を浮かべた。何故なら、貫太郎の実父は、既に他界してる筈だからだ。
 それで、貫太郎は困惑したような表情を浮かべては、言葉を詰まらせたのだが、そんな貫太郎に、花江は、
「こっちに来てくれないかな」
 と言っては、貫太郎を別の部屋に連れて行った。
 そこは、南側に面した六畳の和室であったが、壁際には仏壇が置かれていた。
 その仏壇の前で花江は平伏せながら、貫太郎に、
「義人君も私と同じように、仏壇の前で頭を下げてくれないかな」
 そう言われたので、貫太郎は花江に倣った。
 すると、花江は、
「今、やっと義人が戻って来ました。きっと私の祈りが、神様に通じたのだと思います」
 と言っては、仏壇の前で改めて深々と頭を下げた。
 そんな花江を見て、貫太郎は神妙な表情を浮かべた。貫太郎の存在が、花江という実母にこんなに大切に思われてるのかと、ひしひしと感じたからだ。
 それはともかく、貫太郎は仏壇の前で、花江が頭を下げたように、頭を下げた。

     3

 亡き貫太郎の父親である玉城義男に挨拶を済ませた後、八畳間に戻った。
 そして、花江が淹れたお茶を飲みながら、少しの間、寛いでいたが、貫太郎は、
「もし、僕が何者かに誘拐されなかったとしたら、今、どんな人生を歩んでいたのかな」
 と、神妙な表情で、呟くように言った。
「小学校、中学校は、この西表島だったでしょうが、高校になれば、石垣島か沖縄本島の高校に行ったと思うな。そして、一人で下宿生活を送ったのではないかな」
 と、花江は感慨深そうに言った。
 実際に貫太郎が何者かに誘拐されなければ、そのような人生を歩んだに違いないのだ。だが、運命の嵐が貫太郎を襲い、貫太郎は違った人生を歩んでしまったのだ。
「西表島の子供たちは、今、お母さんが言ったようなパターンが多いのかな」
「そうだね」
「ふーん」
 貫太郎は今、改めて、何者かに誘拐されなければ、どんな子供時代を送ったか、思いを馳せてみた。
 貫太郎は釣りが好きだから、休みの日は、釣りばかりやっていたのではないかな。この辺りでは、どんな魚が釣れるのだろうか?
 また、辺りにはダイビングスポットが多いから、ダイビングに夢中になっていたかもしれない。
 となると、高校を卒業したら、ダイビングショップの従業員として働いているかも……。
 そういう風にして、想像を巡らすのは、貫太郎は愉しかった。
 それで、貫太郎は一人でにやにやしていたのだが、そんな貫太郎に、花江は、
「どうしたの?」
 と言ったので、貫太郎は先程まで貫太郎が心の中で思い巡らせていたことを花江に話した。
 すると、花江は、
「私もその義人君の思いに、賛成ね。義人君は、今、義人君が言ったような子供時代を過ごしたと思うよ。何故なら、私は西表島で、義人君が言ったような子供時代を過ごした人を幾らでも知ってるから」
 と言っては、小さく肯いた。
 すると、貫太郎は薄らと笑みを浮かべては、小さく肯いた。
 そんな貫太郎に、花江は、
「でも、義人君はまだ若いのよ。子供時代に西表島で出来なかったことは、今、やろうと思えば、出来るのよ」
 と、貫太郎に言い聞かせるかのように言った。
 そう言われても、貫太郎は何と言えばよいのか、分からなかった。それで、言葉を発そうとはしなかった。
 そんな貫太郎に花江は、
「義人君は、将来、何になりたいの?」
 と、興味有りげな表情を浮かべては言った。
「だから、以前も言ったように、旅行会社なんかで働きたいんだよ」
 と言っては、小さく肯いた。
「旅行会社か。お父さんも、旅行会社で働いていたのよ。それ故、やはり、血は受け継がれるものね。
 で、義人君はダイビングに夢中になったかもしれないという位だから、ダイビングは好きなの?」
「そりゃ、好きは好きなんだけど、まだ一度もやったことはないんだよ。でも、やってみたいとは思ってるよ」
 と、貫太郎はいかにも眼を輝かせては言った。
「そう。じゃ、今、西表島にいる間に、私の弟の次郎がダイビングショップを営んでいるから、次郎叔父さんに一度、ダイビングの手解きをやってもらおうかね」
 そう花江に言われて、貫太郎は、
「ああ」
 と、いかにも嬉しそうに言ったのだった。
 そんな貫太郎を眼にして、花江はいかにも嬉しそうな表情を浮かべた。何故なら花江、義男、そして、花江の親族たちが愛してる西表島のことを、貫太郎は
低抗なく、受け入れてくれると、実感したからだ。
 そして、そう言った遣り取りを交わしてると、やがて、夜となった。
 それで、貫太郎は花江と共に、夕食を食べることになった。夕食のメニューは、花江と義男が好きであった豚、こんにゃくなどの煮物とか、豆腐、もずく、更に貫太郎の為に特別に準備した伊勢エビ、更に、沖縄そばもついた。
 それらを、貫太郎はとても美味そうに食べていた。
 そんな貫太郎を眼にして、花江は、
「沖縄の味に、馴染めそう?」
 と、貫太郎をまじまじと見やっては言った。
「馴染めると思うよ。僕には合ってると思うよ」
「それを聞いて、お母さんはとても嬉しいな」
 と、花江はいかにも嬉しそうに言った。
 やがて、夕食を食べ終えた。そして、その後、貫太郎はとても充実した時を過ごせた。
 そして、しばらく、八畳間で寛ぐと、戸外に出ては、夜空を見上げた。
 すると、そこには、東京では見られない多くの星の輝きを眼にすることが出来た。空にはこんなに多くの星があるものなのかと、妙に感激したものだった。
 そんな風にして、その夜は過ごし、そして、翌朝は八時頃に起きた。
 すると、花江は台所で忙しそうに、朝食の準備をしていた。
 そんな花江に、貫太郎は、
「おはよう」
 と、声を掛けると、花江も、
「おはよう。よく、眠れた?」
「ぐっすりと眠れたよ」
「そうかい。じゃ、今日は朝食を食べた後、弟のダイビングショップに行こうよ。
 昨日、言ったように、私は弟のダイビングショップでアルバイトをしてるのよ。
 本当は昨日も仕事だったのだけど、休んだというわけ」
「そりゃ、悪かったな。僕の為に」
「そんなことないよ。義人君が遥々と東京から来たのだから。だから、休んで当然よ。
 それに、昨日はお客さんが少なかったらしいから、休んでもよかったというわけ」
 と、花江は説明した。
「で、そのダイビングショップは、元々兄さんが営んでいたんだろ?」
「そうよ」
「それなのに、どうして弟に変わったのかな」
 貫太郎は興味有りげに言った。
 そう貫太郎に言われると、花江の表情は、曇った。何故なら、その点は、あまり触れられたくない部分であったからだ。
 というのも、その理由は、複雑な事情があったからだ。
和雄が操縦していたボートの波が、月ヶ浜の浅瀬で遊んでいた金城勇一を襲い、勇一は溺死してしまったのだ。
 それ故、和雄は金城家の者に責められ、また、近所の者からも白い眼で見られたりしたのだ。
 その為に、和雄は商売がやりにくくなり、勤め人となったのである。
 しかし、その経緯を貫太郎に話すには、まだ早いというものだ。
 それで、
「少し事情があってね」
 と、言いにくそうに言った。
 すると、貫太郎は、
「そう……」
 と言っただけで、それ以上訊こうとはしなかった。
 
     4

 やがて、二人は次郎が営んでいるダイビングショップに向かった。そこは、花江宅から徒歩一分程の所であった。
 次郎のダイビングショップの中に入ると、花江より少し若い位のちょび髭を生やし、日焼けした人良さそうな男性に、花江は、
「おはよう」
 と、声を掛けた。
 すると、男性も、
「おはよう」
 と、言葉を返した。
 貫太郎はその男性を一眼見て、弟の次郎だと思った。花江に何となく似てるからだ。
 案の定、花江は、
「こちらが、私の弟よ」
 と、貫太郎に次郎を紹介した。
 それで、貫太郎は軽く会釈を返したのだが、次郎は既に貫太郎の説明を受けていたので、
「君が義人君か。随分と大きくなったな。叔父さんのことを覚えてるかい?」
 と、いかにも興味有りげに、貫太郎のことをまじまじと見やっては言った。
「覚えていないですね」
 と、貫太郎は小さく頭を振った。
「そりゃ、そうだろうな。
 でも、叔父さんは義人君を随分と抱っこしたりして、遊んでやったんだよ。それに、叔父さんと一緒に写ってる写真もあるんだよ」
「そうですか……」
 貫太郎は呟くように言った。
「後で、その写真を見せてあげるよ。
 で、義人君は積み木で遊ぶのが、とても好きだったんだよ」
「そうですか……。でも、そう言われても、小さい頃の記憶はまるでないのですよ」
 と、貫太郎は照れ臭そうに言った。
「そうか……。それもそうだろうな。
 でも、ひどいことをする奴がいたもんだ」
 と、次郎は渋面顔を浮かべた。次郎は花江から義人が何者かに連れ去られ、東京の孤児院の前に置き去りにされていた経緯を知っていたので、そのことを思い出し、渋面顔を浮かべたのだ。
 貫太郎は、次郎が何を言おうとしたのか、察知出来たので、貫太郎も渋面顔を浮かべた。
 そんな貫太郎を眼にすると、次郎は慌てて笑顔を繕い、
「義人君はダイビングに興味があるんだって」
「ありますよ。といってもまだ一度もやったことはないですが」
「そうか。じゃ、まず講習を受けなければならないな。そして、まずダイビングに関する知識を身につけないと。それからだな。
 でも、ダイビングではなくても、スノーケルなら講習を受けなくても大丈夫だよ。じゃ、スノーケルが出来る場所に案内してあげるよ」
 そう次郎に言われると、貫太郎は嬉しくて胸がわくわくした。
 そんな貫太郎を見て、花江は、
「今日のお客さんは、昼からだろ?」
 と、今日の予定表を見ながら言った。
「ああ。そうだよ。昼から大阪の人が五人来るよ。その五人を近くのサンゴのポイント連れて行くことになってるんだ」
「だったら、朝の内に、義人君を少しだけ、近くサンゴのポイントに連れて行ってやってくれないかな」
「いいよ。でも、義人君はそれでも構わないかい?」
「勿論、それで構わないですよ」
 と、貫太郎はいかにも嬉しそうに言った。
 まだ、五月といえども、五月の西表島の平均気温は、25度もある。それ故、ダイビングは無論、海水浴も出来るのだ。
 それはともかく、昼からの客が来るまでに、次郎は貫太郎をスノーケルポイントに連れて行くことにした。
 といっても、時間的な制約がある為に、次郎の頭の中では、貫太郎を何処のポイントに連れて行けばよいか、それに相応しいポイントを探し始めたが、そのポイントはすぐに決まった。何しろ、次郎は辺りの海は、熟知してるのだ。
 そんな次郎は、貫太郎に、
「義人君は泳げるのかい?」
「50メートル位は泳げるよ」
「50メートルか。それだけ泳げれば、大丈夫だよ。何しろ、足の届かない場所には、行かないからな。
 で、義人君は水着とかスノーケルは持って来たかい?」
「そりゃ、持って来なかったよ」
「だったら、店のものを貸してあげるから、ここで水着に着替えてくれるかい」 そう次郎に言われたので、貫太郎は奥にある更衣室で、早速水着に着替えた。更に、Tシャツを着ては、次郎の許に戻って来た。
 すると、次郎は、花江に、
「じゃ、後は頼むよ」
 と、声を掛け、近くの桟橋に繋留してある次郎の小型ボートに向かった。
 貫太郎はやがて、次郎の小型ボートに乗り込んだ。
 次郎は操縦席に腰を降ろすと、
「さあ! 出発だ!」
 と、貫太郎に声を掛け、ボートは快適なエンジン音と共に、ゆっくりと桟橋を離れた。
 そして、ボートは、次郎が目指すポイントに向かった。
 といっても、そのポイントに着くのに、然程時間は掛からなかった。次郎は、近くですぐに出来るスノーケルポイントを知っていたのだ。
 そのポイントに錨を降ろすと、次郎は、
「さあ! 早速始めよう。
 といっても、僕はこのボートで待機してるから、義人君一人でやってもらいたいんだよ」
 すると、貫太郎は、
「大丈夫ですよ。僕一人で」
 と、笑いながら言った。そして、
「で、この辺りは、僕の背が足りる位の深さなのですかね?」
「そうだよ。でも、サンゴを踏みつけないように、気をつけてね」
「分かりましたよ」
 そう言うと、貫太郎はシュノーケルを口にくわえては、ボートから早速海に乗り出した。
 海に冷たさは全くなかった。それどころか、とても気持ち良かった。
 マスク越しに海の中に眼をやると、テーブルサンゴとか枝サンゴが所処に見られた。また、それらの周囲には、色とりどりの熱帯魚を眼にすることが出来た。
 貫太郎はそれらの光景に、夢中に見惚れていたのだが、海にはこんなに素晴らしい世界があるのかと、改めて新しい知識を仕入れたような悦びを感じた。
 そんな状況だったので、貫太郎は息が続く限りに顔を海に浸し、そして、息が苦しくなれば、顔を海から上げるという動作を繰り返した。
 しかし、貫太郎はその動作を何度行なっても、止めようとはしなかった。貫太郎は海の中の世界にすっかり夢中になってしまったからだ。
 だが、その時、海の中から顔を上げた時に、次郎の貫太郎を呼ぶ声を耳にした。
 それで、マスクを外すと、ボートから身を乗り出し、貫太郎を見やってる次郎の姿を眼にした。
 そんな次郎は、
「そろそろ戻ろうよ。もう時間だから」
 それで、貫太郎は、貫太郎から十メートル程離れた所に待機していたボートに向かって泳いでは辿り着き、そして、ボートの梯子を使ってボートに上がった。
 そんな貫太郎に次郎は、
「愉しかったかい?」
「とても愉しかったよ。もう病みつきになってしまいそうだよ」
 と、貫太郎はいかにもまだまだやってみたいと言わんばかりに言った。
「そうかい。でも、今日は勘弁してくれよ。昼からお客さんが来ることになってるからな」
 と、次郎は苦笑しながら言った。
「分かってます。忙しいにもかかわらず、僕の為に時間を割いてくれた叔父さんに、感謝してますよ」
「そうかい。じゃ、出発するよ」
 と次郎は言ったかと思うと、次郎は操縦席に座り、ボートのエンジンを掛けた。 
 ボートは快適なエンジン音を鳴り響かせたかと思うと、ゆっくりと、ライトブルーに煌めく海の中を進み始めた。
 少し沖合に眼を向けると、リーフに波が当って白い水飛沫を上げ、砕け散っていた。
 やがて、ボートは桟橋に横付けになった。
 それで、次郎はボートを桟橋に繋ぎ留めると、貫太郎に、
「降りてくれるかい」
 それで、貫太郎はボートから桟橋に降り立った。
 やがて、次郎も、桟橋に降り立った。
 そんな次郎は、一仕事を終えたかのような充実感溢れる表情を見せていた。そして、貫太郎に、
「どう? 感想は?」
 と、改めて訊いた。
「そりゃ、病みつきになりそうですよ」
 すると、次郎は、
「そうかい」
 と、いかにも満足そうな表情を浮かべては言った。貫太郎はどうやら西表島の海やスノーケルのことを大いに気に入ってくれたみたいだからだ。

     5

 やがて、二人は桟橋近くにある仲宗根ダイビングショップに戻って来た。それは、午前11時頃のことであった。
 仲宗根ダイビングショップの中に入ると、店内で仕事をしていた花江は、二人を眼に留めると、
「どうだった?」
「義人君は、病みつきになってしまったそうだよ」
 すると、花江は表情を綻ばせては、
「それはよかった」
「でも、僕はやはり、スノーケルだけでは満足出来ないよ。やはり、ダイビングをやってみたいな」
「だから、ダイビングをやる前に、講習を受けて、ダイビングの知識を覚えないと駄目なんだよ」
 そういった遣り取りを交わしてる内に、やがて、正午になった。午後からは、大阪のお客さんが来ることになっていた。
それで、次郎はいつまでも貫太郎にかまってやれなくなり、お客さんを迎える準備を始めた。また、花江もそれを手伝うことになった。
 それで、貫太郎は店の従業員室で、花江が今朝作ってくれた弁当を食べることになった。弁当の中身は、幕の内弁当のようなものであった。
 弁当を食べ終えると、貫太郎は夜まで辺りをぶらぶらすることになった。
 といっても、辺りの見所と言えば、星砂の浜とか月ヶ浜位しか、見当たらなかった。観光ガイドで調べたところ、そのような具合だったのだ。
 もっとも、もう少し先に行くと、浦内川があり、浦内川の遊覧船で浦内川を遡上するコースや、その先にあるマリュウドの滝やカンピレ―の滝を見物する観光コースもあるのだが、今日は時間の関係上、それはやらないことにした。
 そういった状況下で、貫太郎は仲宗根ダイビングショップの自転車で、仲宗根ダイビングを後にした。
 そして、貫太郎が最初に訪れたのは、星砂の浜であった。
 貫太郎は西表島の星砂の浜を訪れるのは、今回で二回目だった。
 前回は、石垣島発の観光コースで星砂の浜を訪れたのだが、今回は自らの意思で訪れたというわけだ。
 とはいうものの、貫太郎は星砂の浜のことは、あまり印象には残っていなかった。由布島を訪れた時には、もっと由布島にいたいと思ったのだが、星砂の浜はそうではなかったのだ。
 しかし、何しろ、旅行好きの貫太郎のことだ。再び星砂の浜を訪れることは愉しかった。
 星砂の浜に着くと、以前のように、星砂を探し始めた。 
 すると、それはすぐに見付かった。
 それで、貫太郎は持参してきたビニール袋にそれを入れた。 
 また、時々、海に眼をやっては、波音にじっと聞き耳を立てたりした。
 そして、再び星砂を探すという動作を貫太郎は繰り返していた。
 そして、かなりの星砂を集め終えると、この辺で星砂集めを終えることにした。
 そして、日陰の手頃な場所に腰を降ろし、しばらく海を眼にしながら、休憩することにした。
 海を見たり、波音を耳にしながら、時の経つのも忘れ、貫太郎はしばらくぼんやりとしていたのだが、いつの間にやら貫太郎の傍らに、地元の人間と思われる六十の半ば位の男性が、やって来た。その男性は、くば笠を被り、白い開襟シャツと灰色のズボンをはいていた。
 その男性は、貫太郎にいきなり、
「遠方より来られたのですかね?」
 と、愛想良い表情で話し掛けて来た。
 それで、貫太郎は、
「ええ。まあ」
 と、曖昧な返事をした。
 すると、男性は、
「どちらから、来られたのですかね?」
「東京の方からです」
「東京ですか。それは、随分と遠い所から来られましたね」
「ええ」
 と、貫太郎は小さく肯いた。
「西表島に来られるのは、初めてですかね?」
「いいえ。二回目です」
「二回目ですか。で、西表島の印象は、どんなものですかね?」
 この男性は、話し好きなのか、次から次へと話し掛けて来る。
 貫太郎とて、見知らぬ人物との会話が嫌いではないので、この男性と話をしてみようと思った。
「そうですねぇ。結構素朴な島だと思いますね。石垣島のような華やかさは無いですが、静かでいい島だと思います。何となく伊豆大島に似てるような気がするのですが、伊豆大島は火山島なので、僕の勘違いかもしれないですがね」
「そうですか。僕は伊豆大島に行ったことはないので、伊豆大島と西表島が似てるかどうかなんてことは、分からないですね。
 で、僕は西表島で生まれ育ち、この歳になるまで、東京には行ったことはないのですよ」
 と、男性はくば笠の下にある日焼けした顔に白い歯を見せては、面映ゆそうに言った。
 そんな男性に、貫太郎は、
「西表島は、陸よりも、海の方が、魅力があるかもしれませんね。僕は今日も午前中にスノーケルをしたのですが、サンゴが見事で、すっかりと魅了されてしまいましたよ。今度来る時は、ダイビングをマスターしては、西表島の海をダイビングしたいですね」
 と、まるで夢多き少年のような表情を見せては言った。
「是非西表島の海で、ダイビングをやってください。西表島の海は、ダイビングポイントが一杯ありますからね。海の神様もきっとあなたを歓迎してくださいますよ」
 と、男性はにこにこしながら言った。
「海の神様ですか……」
 貫太郎は怪訝そうな表情を浮かべては言った。貫太郎は、男性の言葉の意味が分からなかったからだ。
「そうですよ。海の神様ですよ。
 ニライカナイ伝説というものを聞いたことはないですかね」
 男性は、貫太郎を見やっては、にこにこしながら言った。
「聞いたことはあるような気がしますが、詳しいことは分からないですね」
 と、貫太郎は眉を顰めた。
「遥か昔のことですが、沖縄の海の彼方には、神様の住むニライカナイという場所があったというものなんですよ。だから、我々沖縄の人間は、ずっと昔から、ニライカナイの神様に向かって祈り続けて来たのですよ」
 と、男性は今度は神妙な表情を浮かべては言った。
「そうですか。じゃ、今度、そのこと叔父さんに訊いてみますよ」
 と、貫太郎は次郎のことを思い出しながら言った。
 すると、男性は貫太郎のその言葉に興味を抱いたのか、
「あなたは、西表島に親戚がいるのですかね?」
 と、いかにも興味有りげに言った。
「まあ、そんな感じなんですよ」
 と、貫太郎は些か面映ゆそうに言った。
「そんな感じ、ですか。それ、どういうことですかね? よく分からないのですがね」
 と、男性は首を傾げた。
 そう男性に言われて、貫太郎は貫太郎の身の上を話そうかどうか、迷った。何故なら、常識的にみれば貫太郎の全く見知らぬこの男性に、貫太郎の身の上話をする必要はないと思ったからだ。
 それ故、貫太郎は少しの間、言葉を詰まらせたが、しかし、結局、話すことにした。
 というのは、この男性は、とても善人そうな感じだったからだ。そのような人物に、隠し事をする必要があるだろうか? また、貫太郎は今後、中上家の者と縁を切り、仲宗根家に戻るかもしれない。となると、いくら島は広いといえども、人口の少ない西表島の住人であるというこの男性に、貫太郎の身の上話が耳に入る可能性は、充分にある。となれば、隠す必要などないというわけだ。
 そう貫太郎は思い、貫太郎の身の上話を話し始めたのである。
「実はですね。僕はこの西表島の人間かもしれないのですよ」
 と、神妙な表情を浮かべては言った。
「西表島の人間? あなたは、東京の人間なのではないですかね?」
 男性は、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「それは、そうなんですが……。
 でも、色々と複雑な事情がありましてね」
 と、貫太郎は男性から眼を逸らせては、些か顔を赤くした。やはり、見知らぬ人物には、貫太郎の複雑な事情は話しにくかったのである。
「そりゃ、妙ですね。あなたは先程、西表島の人間かもしれないと言われました。それなのに、東京の人間だとも言われました。一体、どちらが本当なのですかね?」
 男性は改めて興味有りげな表情を見せては言った。
「ですから、僕は生まれたのは、西表島みたいなのですが、三歳の時から東京で育ったのですよ。そういう訳なんですよ」
 と、貫太郎は男性から眼を逸らせ、再び顔を赤くさせては言った。
「そういう訳なのですか。
 では、三歳の時に、ご家族揃って、東京に行かれたのですかね?」
 男性は、貫太郎のことを同郷人と知った為か、さも親しみを込めたような表情と口調で言った。
 すると、貫太郎は顔を赤らめたまま、
「それがですね。色々と複雑な事情がありましてね」
 と、いかにも言いにくそうに言った。
 すると、その男性は、その複雑な事情というものを貫太郎に訊くのはよくないと思ったのか、それに関して、それ以上、貫太郎に言及しようとはしなかった。
 そんな男性に、貫太郎は、
「おじさんは、このような話を聞いたことはありませんかね」
 と言っては、貫太郎はこの辺で、貫太郎が三歳の時に、何者かに誘拐されたのではないかという身の上話を訊いてみることにした。
「おじさんは、この西表島にずっと住み続けているのですかね?」
 貫太郎は男性を見やっては言った。
「そうですよ」
 と、淡々とした口調で言った。
「では、おじさんの家は、この辺なのですかね?」
「そうですよ。上原に住んでるのですよ。
 漁師をやってるのですが、妻が民宿もやってますね。その手伝いもやってますよ」
 と、男性は気さくな笑みを浮かべた。
「そうですか。で、僕のおじさんが、この近くでダイビングショップを営んでいましてね」
 そう貫太郎が言うと、男性は興味有りげな様を見せては、
「何というダイビングショップなんですかね?」
「仲宗根ダイビングショップですよ」
「仲宗根ダイビングショップですか。仲宗根ダイビングショップの仲宗根さんとは、僕は知人関係にありますよ」
 と、男性は再び気さくな笑みを浮かべては言った。
 だが、その笑みはすぐに消え、そして、
「でも、東京の方に、甥御さんがいるというような話は聞いたことはないですがね」
 と、男性は困惑したような表情を浮かべた。
 それで、貫太郎は渋面顔を浮かべたのだが、やがて、
「おじさんは、このような話を耳にしたことはないですかね」
 と言うと、男性は身を乗り出すような恰好をしては、
「それ、どんな話かな」
「その仲宗根ダイビングショップの近くにあった民家から、突如、三歳の子供が行方不明になったという話ですよ。もう十八年も前の話ですがね」
 と、貫太郎は神妙な表情を浮かべては言った。
 すると、男性は眼を大きく見開き、
「そりゃ、知ってますよ。何故なら僕もその行方不明になった子供探しに加わったですからね。
 で、その子供の名前は、確か義人とかいう名前だったと記憶してますね」
 と、十八年前に思いを巡らすかのような表情を浮かべては言った。そんな男性の双眸は、遥か向うにまで拡がる海を見据えているかのようだった。
 そんな男性に、貫太郎は、
「実は、僕がその義人なのですよ」
 貫太郎がそう言うと、男性はまるで呆気に取られたような表情を浮かべて、
「本当ですかね」 
 と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
 そんな男性に、貫太郎は、先日の八重山諸島旅行時に、竹富島のコンドイビーチで偶然に花江と出会ったことや、その花江の兄が、貫太郎を追っては勝浦までやって来ては、勝浦の両親に、貫太郎が実子なのかを聞き出し、そして、貫太郎は今になって、勝浦の両親が養親であったことを知り、花江に会う為に、こうやって西表島にまで来た経緯を話した。
 貫太郎がそう話してる間、男性は何ら言葉を発そうとはせずに、じっと耳を傾けていたが、貫太郎の話が一通り終わると、
「信じられませんねぇ」
 と、改めて信じられないと言わんばかりに言った。 
 すると、貫太郎はにやにやしながら、
「何が信じられないのですかね?」
「あなたが、花江さんと、竹富島のコンドイビーチで出会ったということですよ」
 と、男性は眼を丸くし、そして、声を些か震わせては言った。
「ですから、その点に関して、お母さんは、神様が僕と引き合せてくれたのだと言ってましたね」
 と、貫太郎はその花江の言葉を信じてるわけではないのだが、しかし、それは正に奇跡だと思っていた。それで、大層驚いたような表情を浮かべては言った。
 すると、男性は、
「なるほど。じゃ、花江さんは毎日、ニライカナイの神様に祈っていて、その祈りが通じたのかもしれないな」
 と、いかにも感慨深げに言った。
 すると、貫太郎はその男性の言葉に、笑みを浮かべたが、何ら言葉を発そうとはしなかった。
 すると、男性は、
「しかし、びっくりしたな。あなたが、義人君だなんて」
 と、依然として、いかにも驚いたかのように言った。
「僕もびっくりしてるのですよ。僕は今まで勝浦に住んでいる両親が、養親だったなんて、全く知らなかったのですから」
「じゃ、それは辛かったでしょうね」
 と、貫太郎に同情するかのように言った。
「そりゃ、大ショックでしたよ。一週間位は、魂の抜けた蛻の空のようになってましたよ」
 と、貫太郎は眉を顰めては言った。
「お気持ちは、充分に察せられますよ」
 と、再び貫太郎に同情するかのように言った。
 そう男性に言われると、貫太郎は眼を海に向け、そして、険しい表情を浮かべては、何も言おうとはしなかった。その貫太郎の表情は、あたかも今後の貫太郎の進路、即ち、実親の仲宗根花江の許に戻るのか、それとも、勝浦の中上家に留まるのか、激しく迷ってる胸中を物語ってるかのようであった。
 そして、二人の間に、沈黙の時間が訪れた。
 だが、辺りは静寂ではなかった。星砂の浜に押し寄せる波音が、規則正しく聞こえていたからだ。
 そして、二人の沈黙を破ったのは、貫太郎の方であった。
「でも、僕は何故、東京の孤児院に置き去りにされたのでしょうかね? また、一体誰が、そのようなことをやったのでしょうかね?」
 花江もそのことが分からないみたいだったので、この男性に、そのことを訊いても無駄とは思ったが、とにかくそう訊いてみた。
 すると、男性は、
「僕はそのことに関して、全然心当りないわけでもないんだがね」
 と、貫太郎から眼を逸らせては、殆ど真白になっているその薄い髪に右手を当てては、渋面顔で、そして、言いにくそうに言った。
 だが、貫太郎は、
「それは、どういったことなんですかね?」
 と、身を乗り出しては、いかにも好奇心を露にしては言った。
 だが、男性は渋面顔を浮かべたまま、言葉を詰まらせた。そんな男性は、そのことを貫太郎に話すことに、躊躇いを感じているかのようであった。
 だが、やがて、
「仲宗根家と仲の悪い家があってね。その家の者がやったのではないかと、僕は思ったりしたことがあってね」
 と、眼をキラリと光らせては言った。
「仲の悪い家? それ、どういった家なんですかね?」
 貫太郎は再び好奇心を露にしては言った。
 何しろ、今、この男性から、貫太郎の誘拐の真相を知ることが出来るかもしれないのだ。貫太郎が好奇心を露にした表情を浮かべるのは、当然のことといえよう。
「それはね。金城さんといって、仲宗根家や僕と同じく、西表島の上原集落に住んでいるんだよ。
 その金城家も、僕や仲宗根家と同様、民宿を営んでいるんだけど、その金城家の者のことを、お母さんや叔父さんから、聞いたことはあるかね?」
「全く、聞いたことはないですね」
 と、貫太郎は眉を顰めた。
「そうか。じゃ、僕からよりも、お母さんたちから聞いた方がいいな」
 と、男性が言うと、貫太郎は、
「お母さんたちは、僕の誘拐犯に関して、全く心当りないみたですよ。ですから、遠慮なく、話してくださいな」
 と、いかにも真剣な表情を浮かべては、男性に訴えるかのように言った。
 それで、男性は渋面顔を浮かべながらも、話し始めた。
「僕が聞いた話によると、話は戦時中にまで遡るんだが、あなたのお母さんの父親たちは、戦時中、その金城家の者たちと、元々沖縄本島の同じ村に住んでいたんだが、米軍の攻撃から逃れる為に、同村だということもあり同じガマに逃れていたんだよ。
 ところが、その時に、花江さんの父親が、金城家の三歳の子供が泣き喚くものだから、米軍に見付かってしまうという理由で、その子供を絞め殺してしまったんだよ。
 そのことをきっかけに、両家は仲違いするようになったらしいんだ」
 と、男性はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 その初めて耳にする貫太郎の知らない戦時中の出来事を聞かされて、貫太郎は何と言えば良いのか、分からなかった。それで、男性の話に何ら口を挟むことなく、ただ、耳を傾けようとするばかりであった。
「仲宗根家も金城家も、元は沖縄本島の人間だったのだが、戦後両家共、西表島に新天地を求めたんだよ。そして、両家共、この上原に居住するようになったんだよ。
 しかし、両家共、まさか、上原で同じになるなんて、思ってもみなかったようだ。即ち、両家が西表島の上原に居住するようなったのは、全くの偶然だったそうだよ」
 と、男性はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「ということは、その戦時中のことが尾を引いて、僕はその金城家の者に誘拐されたということですかね?」
 と、貫太郎はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。何しろ、自らの身に降り掛かった惨事だ。この惨事を引き起こした人物が分かれば、何らかの行動を起こさなければならないと、身を引き締めたのだ。
「そこまでは断言は出来ないさ。しかし、両家のいざこざはまだあるんだよ」
 と、男性は言いにくそうに言った。
「何ですかね? そのいざこざとは?」
 それで、男性は十九年前の金城勇一の事故のことを話した。
 そして、
「金城家の者は、和雄さんがわざとボートの波を勇一君にぶつけたと主張したんだよ。何しろ、仲宗根家と金城家は、犬猿の仲だから、和雄さんは浅瀬で遊んでいる勇一君を眼にし、わざとボートの波を勇一君にぶつけさせ、勇一君を溺死させたと主張したんだな」
 そう男性に言われ、貫太郎は厳しい表情を浮かべた。それは、先程の話と同様、貫太郎が初めて耳にする話で、また、衝撃的な内容だったからだ。
 それで、貫太郎は険しい表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな貫太郎に、男性は、
「で、あなたが行方不明になったのは、その勇一君の事故があってから、一年後のことなんだよ」
 と、眉を顰めては、呟くように言った。
 そのように言われて、貫太郎は険しい表情を浮かべたまま、言葉を発そうとはしなかった。だが、やがて、
「では、おじさんはその金城家の者が、やはり、僕を誘拐しては、東京の孤児院の前に置き去りにしたと言われるのですかね?」
 すると、男性は狼狽したような表情を浮かべては、
「だから、先程も言ったように、可能性はあるが、絶対にそうだとは断言出来ないというわけなんだよ。何しろ、証拠はないからね。
 でも、そのようなことをやる人間が他に誰がいるかというと、その金城家の者しか、思い当らないのではないかな。僕は昔から、ずっとそう思ってたんだよ。
 でも、証拠がないから、その思いを誰にも話さなかったんだよ」
 と言っては、眉を顰めた。
 そう男性に言われると、貫太郎は渋面顔を浮かべては、何も言おうとはしなかった。
 そん貫太郎に、男性は、
「でも、あなたは誘拐された時の記憶は、何もないのかな?」
「そりゃ、全然ないこともないのですよ。でも、三歳の時のことですから、確かな記憶はないのですよ。でも、船に乗ったり、汽車に乗ったりして、遠方の方に行ったような朧気な記憶はあるのですがね」
 と、貫太郎は神妙な表情を浮かべては言った。
「じゃ、その朧気な記憶は、事実だったんだよ。
 でも、誘拐犯に関して、何か記憶はないのかな?」
「それが、ないのですよ。何しろ、三歳の時の記憶ですからね」
 と、決まり悪そうに言った。
 だが、貫太郎は改めて、その誘拐犯に関して、何か記憶にないものかと、記憶を過去に遡らせてみた。
 だが、やはり、誘拐犯に関しての記憶は、何もなかった。
 それで、貫太郎は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせたのだが、そんな貫太郎に、その男性、即ち、黒川佐吉は、
「三歳の時に誘拐されたわけだから、きっと泣き喚いたと思うんだよ。それをあやす為に、犯人はお菓子なんかをあなたに与えたんじゃないかな」
 そう言われると、貫太郎は、
「そう言われてみれば、そんなこともあったみたいですね」
 と、眉を顰めた。
「そんなこととは、どんなことかな?」 
と、佐吉は好奇心を露にした。
「キャラメルですよ。僕が孤児院の前に置き去りにされていた時に、僕が身に付けていた衣服のポケットには、キャラメルが入っていたそうなんですよ。
 そして、僕の養親は、今でもそキャラメルの箱を大切に保管してるそうですよ。僕は先日、そのことを養親から初めて耳にしたのですよ。
 もっとも、そのことが、犯人探しに役に立つとは、思えないのですが」
 と言っては、貫太郎は首を傾げた。
 だが、佐吉は、
「それだよ! それ!」
 と、眼を輝かせては言った。
「それとは?」
 貫太郎は、佐吉の言葉の意味が分からなかったので、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「指紋だよ! 指紋!
 そのキャラメルの箱は、犯人があなたに持たせたに違いないですからね。だから、そのキャラメルの箱には、犯人の指紋が付いてる筈ですよ!」
 と、佐吉は再び眼を輝かせては言った。
「犯人の指紋、ですか。でも、もう十九年も前のことですよ。それなのに、今尚、犯人の指紋が付いてるかということですよ」
「そりゃそうかもしれないが……。しかし、万一ということもありますよ」
「そうですかね。でも、それによって、犯人が金城家の者と判明しても、今更、逮捕は出来ないと思うのですがね」
 と、貫太郎は戸惑ったような表情を浮かべた。
「そりゃ、そうですが……。
 でも、あなたは、犯人が誰か、知りたいですよね?」
「そりゃ、知りたいですが……」
 貫太郎は、呟くように言った。
「そうですよね。だから、そのキャラメルの箱を僕に貸してくれないかな。そして、そこに付いてる指紋と金城家の者との指紋が一致しないか、僕の知人に鑑定してもらいますよ。僕には、探偵の知り合いがいますからね。で、その箱には、あなたの養親の指紋が既に付いてるかもしれません。
 それ故、あなたの養親の指紋も一緒に送ってもらいたいのですよ」
「でも、どうやって、養親の指紋を採取するのですかね?」
「ガラスのコップなんかに付けてくださいな」
 そう佐吉に勧められ、貫太郎はつい了承してしまった。
 だが、
「でも、納得が出来ないことがあるのですがね」
 と、困惑したような表情で言った。
「それは、どんなことかな?」
「僕は東京の孤児院の前に置き去りにされてたみたいなんですがね。
 で、僕が西表島の実家から行方不明になったことは、当然、警察に伝えられていたと思うのですがね。
 となると、僕は東京の孤児院に置き去りにされていたといえども、その僕のことが西表島の警察に伝わり、それに関して、警察は捜査しなかったのでしょうかね? そうなれば、僕の身元が明らかにはなった可能性はあると思うのですがね」
 と、貫太郎はいかにも納得が出来ないように言った。
 すると、貫太郎は、
「なるほど。確かに、そう言われてみれば、そんな感じですね」
 と、貫太郎の言うことは、もっともなことだと言わんばかりに言った。
 そして、少しの間、言葉を発そうしなかったのだが、やがて、
「でも、その当時は今のように、警察の捜査も万全ではなかったのかもしれませんね。それ以外としても、その孤児院の人が、あなたのことを警察に届け出なかったということも、考えられますね」
 と、そういう理由ではないかと言わんばかりに言った。
 貫太郎としては、その佐吉の説明に納得したわけではなかったのだが、佐吉宅にそのキャラメルの箱を送ることを約束し、佐吉との会話をこの辺で終えることにした。

     6

 貫太郎が次に向かった場所は、浦内川であった。浦内川にただ行くだけなら、充分に時間があったので、貫太郎は浦内川に向かったのだ。
 もっとも、浦内川は、前回西表島を訪れた時に、観光バスの中から眼にしてはいるのだが、ただ、観光バスの中から見ただけなので、再び訪れてみることにしたのだ。
 そんな貫太郎はやがて浦内川に着き、浦内川に架かる浦内橋からしばらく佇んでいたが、しかし、今日は遊覧船で浦内川を下るわけでもないので、少し佇んだ後、帰途についたのであった。
 仲宗根ダイビングショップに戻ったのは、午後四時半頃であった。
 すると、店内には、アルバイトの田中加奈子という女性が、店番をしていた。
加奈子のことは、既に次郎から説明を受けていて、また、既に次郎から紹介されていたので、貫太郎は加奈子とは、既に顔見知りになっていた。
 それで、加奈子は、
「お帰りなさい」
 と、笑顔で貫太郎を迎えた。そして、
「仲宗根さんは、今、お客さんをダイビングスポットに案内してますよ。また、花江おばさんは、民宿のお客さんの夕食作りに忙しいのよ」
 と、貫太郎に説明した。
「そうかい」
 と、貫太郎は言ったが、そのことは既に分かっていた。
 すると、加奈子は、日焼けした肌に白い歯を見せては、
「今、お客さんはいないから、このお店でゆっくりとしていったら」
 そう加奈子言われ、貫太郎は、
「じゃ、そうしようかな」
 と言った。貫太郎はこれからの予定は何らなかったからだ。
 それで、取り敢えず、近くにあるソファに腰を降ろした。
 そんな貫太郎に、加奈子は、
「西表島のことを気に入ってくれましたか?」
 と、穏やかな表情で訊いた。
「気に入りましたよ」
 すると、加奈子は、
「そう……。でも、西表島には、華やかさがないから、若者が住むのには、物足りなかもしれないな」
 と、眉を顰めた。
「そうかな。ダイビング好きの若者なら、一年中いたって、退屈しないと思うな」
 と、率直な感想を述べた。
「そうかもしれないね。
 実は、私も西表島出身ではないのよ。鹿児島出身なのよ。
 でも、西表島の海に魅せられ、こうやって鹿児島から転居しては仲宗根さんのお店で働かせてもらってるのよ」
 と、加奈子は気さくな笑みを浮かべては言った。
「そうですか。で、単身で鹿児島からやって来られたのですかね?」
「そうよ。単身でやって来たのよ。
 と言っても、私は独身だから、単身が当たり前なんだけどね。私にとって、海が恋人みたいなものよ」
 と、加奈子は再び気さくな笑みを浮かべては言った。
 そんな加奈子に釣られ、貫太郎も気さくな笑みを浮かべたのだった。

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