第五章 疑惑

     1

 その夜、貫太郎は一人で花江宅に泊まることになった。
 しかし、それは、予め、花江から言われていたことであった。
 花江がいない花江宅で、貫太郎は一人で夜を過ごすことになったのだが、今、この家が、貫太郎の本当の家なのかと思うと、貫太郎は何だかとても親しみを感じてしまった。
 そんな貫太郎は、この家にやって来て初めて花江に連れられて入った八畳間の畳の上に大の字になって寝転がっては、大きく息をついた。
 そして、これからの貫太郎のことを、改めて思案した。中上家に残るか? それとも、中上家と縁を切り、仲宗根家に戻るかという具合に。
 正直言って、今の貫太郎の心境は、この仲宗根家に戻ってもいいという思いが徐々に膨らみつつあった。何故なら、元はといえば、貫太郎は仲宗根家の人間なのだし、更に、花江や次郎と接してみた結果、とても親しみを感じることが出来たからだ。
 即ち、これから仲宗根家の者として、充分に暮らして行けるという自信を貫太郎は徐々に持ち始めたというわけだ。
 となると、就職は、この八重山諸島周辺でするということか? 
 そう思うと、貫太郎は自ずから将来の貫太郎のことに関して、思いを巡らさずるを得なくなったのだ。
 そして、そのことは、貫太郎に妙に活力を与えた。何故なら、この八重山諸島を舞台に観光の仕事を出来たら、それは、貫太郎にとって、願ったり叶ったりではないかと思ったからだ。
 そう思うと、貫太郎は一人でにやにやしたのだ。
 そして、その貫太郎の一人笑いはまだしばらくの間、続いたのだが、そんな貫太郎の表情が、ふと曇った。何故なら、中上の両親のことを思い出したからだ。
 実子ではないのに、まるで実子のように貫太郎のことを思い育ててくれた。そんな中上の両親のことを思うと、貫太郎の表情は、自ずから曇らざるを得なかったのだ。
 そういう風にして、その夜は過ぎ、そして、翌朝の十時頃、花江は戻って来た。
 花江は、貫太郎の顔を見ると、いかにも嬉しそうな表情を浮かべた。そして、
「ごめんね。一人にさせて」
 と、快活な口調で言った。
「構わないさ。子供じゃないのだから」
 貫太郎は笑みを見せては言った。
「今日は一時間位しか、この家にいることが出来ないの。今日はお客さんが十人程泊まることになってるから、その準備で何かと忙しいのよ」
 と、花江は決まり悪そうに言った。
「構わないよ。忙しいに越したことがないじゃないか。商売繁盛で」
「それもそうだけど。で、昨日はあれから何処に行ったの?」
 と、花江が訊いたので、貫太郎は思い出した。昨日のあの黒川という男性との会話の事を、花江に話さなければならないということを!
 それで、星砂の浜と浦内川に行ったことを話し、そして、
「星砂の浜で、六十半ば位の見知らぬ男性と、妙な話をしたんだよ」
 と、眼を大きく見開いては言った。
「妙な話? それ、どんな話?」
 花江は興味有りげに言った。
「最初は、その男性と、何だかんだと他愛ない話をしていたんだが、やがて、僕の身の上話にまで、話が及んだんだよ。
 で、その男性は、黒川佐吉さんというんだが、黒川さんは、僕が誘拐された時のことを覚えていただけでなく、母さんたちと一緒に僕を探したらしいんだよ。それで、僕のことをよく知ってるらしいんだ」 
と、貫太郎は些か興奮気味に言った。
「黒川佐吉さんか。黒川佐吉さんのことなら、私もよく知ってるよ」
 と言っては、花江は小さく肯いた。
「そうかい。で、黒川さんは、僕を誘拐した犯人に心当りあるらしいんだ」
 と言っては、貫太郎は黒川から聞いた金城家の者が犯人である推理を話した。
 そんな貫太郎の話に、花江は些か険しい表情を浮かべながら、じっと耳を傾けていたのだが、貫太郎の話が一通り終わっても、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
 それで、貫太郎は、
「この話、どう思う?」
 そう貫太郎に言われ、花江は、
「そりゃ、私も金城家の者は疑っていたわ。何しろ、仲宗根家と金城家は、先代から、仲が悪かったからね。
 でも、兄さんが金城家の子供を故意に溺死させたと因縁をつけてから、一年位はトラブルは起こらなかったから、金城家の者に、面と向かって犯人呼ばわり出来なかったのよ」
 と、渋面顔で言った。
「つまり、有力な証拠がなかったというわけか」
「そうなのよ。それに、そういった状況だったから、警察も金城家の者を本腰を入れて捜査しなかったのよ」
 と、花江は貫太郎から眼を逸らせては、決まり悪そうに言った。
 だが、貫太郎に眼を向けては、
「でも、金城家の者に、今更、義人君の誘拐犯だったのかとは言えないわ。有力な証拠が見付かれば、話は別なんだけど」
 と、花江は渋面顔で言った。
 それで、貫太郎はキャラメルの箱に関する話をした。
 すると、花江は、
「十八年前のことなのに、未だに指紋が残ってるの?」
 と、些か納得が出来ないように言った。
「僕には分からないな。でも、黒川さんは調べてみると言ってたな。何でも、探偵に知り合いがいるらしいんだ。その知り合いに調べてもらうとか言ってたな」
 と、貫太郎が言うと、花江は、
「そう……」
 と、言うに留まった。  
 そして、二人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、花江は、
「でも、金城家の者なら、やはりやりそうだわ」
 と、険しい表情で言った。
「つまり、母さんも僕を誘拐した犯人は、金城家の者だと思ったというわけかい」
「そうね。確かに黒川さんが言ったように、あんなことをする者は、この辺では、金城家の者以外にはいそうもないね。
要するに、義人君が誘拐される一年前に金城家の子供の勇一君が死んだ。勇一君は三歳だった。つまり、義人君が誘拐された年齢と同じ可愛い盛りよ。
 それ故、金城家の者は、義人君を誘拐しては、仲宗根家の者を金城家の者と同じ思いをさせてやろうとしたのよ。金城家の者は、兄さんがわざと勇一君にボートの波をぶつけたと信じて疑わなかったからね。
 それ故、勇一君の事故のほとぼりが冷めた頃、即ち、一年後に義人君を誘拐したのよ! そうに違いないわ!」
 と、花江は険しい表情を浮かべては言った。
 花江にそう言われ、貫太郎も同感だった。黒川から耳にした話や、今の花江の話から、貫太郎を誘拐したのは、金城家の者に違いないと思ったのだ。
 それ故、貫太郎は、
「僕もそう思うよ」
 と、渋面顔で言った。 
 そう貫太郎に言われ、花江は一層険しい表情を浮かべた。そして、唇を噛み締め、握り拳に力を入れた。
 そんな花江を眼にして、貫太郎は、
「でも、母さん。まだ証拠もないのに、僕たちの推測だけで、金城家の者を攻撃しては駄目だよ」
 と、花江の行動を制しようとした。
 すると、花江は薄らと笑みを見せ、
「分かってるさ。心配しなくていいよ。
 でも、金城家の者が犯人だったら、許せない」 
 と言い、再び険しい表情を浮かべた。
「僕も同感だけど、逮捕は出来ないと思うよ」
「そりゃ、そうだけど。
 でも、社会的に制裁は出来るよ。つまり、この西表島に住めないようには出来るさ」
 と、花江は決意を新たにしたような表情を浮かべた。
「となると、僕が誘拐された時に持っていたキャラメルの箱だけが頼りになるわけか」
「そうね。そうなるでしょうね」
 といった遣り取りを交してる内に、時間が来たので、花江は民宿での仕事をする為に、家を後にした。
 
   2

 一人になった貫太郎は、今日は浦内川遊覧船に乗って、浦内川見物をすることになった。
 そして、昨日のように、自転車で浦内川にまで行っては、遊覧船の乗船券を買い、遊覧船に乗船した。 
 貫太郎を含めて、五人しか、お客さんはいなかったが、遊覧船は出発した。
 貫太郎は、浦内川の両岸に拡がっているマングローブの景観を愉しんだ。
 そして、遊覧船は軍艦岩にまで行き、そして、この地点で折り返し、やがて、遊覧船乗場に戻った。
 そして、遊覧船乗場を後にすると、昨日、オレンジジュースを飲んだレストランで、今日も飲み、そして、浦内橋から浦内川もう一度、眼にし、やがて、自転車で仲宗根ダイビングショップに戻った。
 仲宗根ダイビングショップに着いたのは、午後四時半頃であったが、今日も昨日と同じく、店内には、田中加奈子がいるだけであった。
 加奈子は、
「義人君が戻って来たら、この近くにあるうちの民宿に来るようにと、花江おばさんが言ってたよ。今日は民宿で夕食を食べるそうだから」
 ということなので、貫太郎はまだ行ったことがない、次郎の民宿の地図を加奈子に渡され、早速、そこに行ってみることにした。
 その民宿は、仲宗根ダイビングから、徒歩二分位の所にあった。
「仲宗根荘」という名前のその民宿は、二階建てで、外観は白いペンキで塗られ、なかなか感じの良い民宿であった。そして、部屋は十二室あるそうだ。
 加奈子から言われたように、貫太郎は裏口に回り、そして、勝手口を開けると、そこは厨房で、エプロン姿の花江と、花江と同じ位の年齢の貫太郎が知らない中年の婦人が、鍋を手にしたり、煮物の味見をしたりして、とても忙しそうにしていた。
 そんな様を眼にして、貫太郎はもう少し、後から来ようかと思ったが、花江は貫太郎の姿を眼に留めると、
「奥の部屋で待っていて」
 奥の部屋と言われても、貫太郎はそれが何処にあるか分からなかったので、怪訝そうな表情を浮かべてると、花江は、
「さあ! 靴を脱いで頂戴! そこにスリッパがあるでしょ。そのスリッパを履いて上がって頂戴!」
 と言われたので、貫太郎は厨房に上がった。厨房は細長く、六畳位の広さがあるようであった。
 それはともかく、貫太郎は花江と共に、花江が言った奥の部屋という部屋に向かった。だが、奥の部屋といっても、厨房の隣にある部屋で、そこは六畳の畳の部屋で、従業員室のような部屋であった。
 その部屋には、小さなTVと週刊誌が置いてあった。その週刊誌は、かなり古いものであった。
 花江は、
「今、お客さんの夕食の準備に忙しいから、一時間位は手を離せないのよ。だから、それまでTVでも見ていてくれるかな」
「それで、構わないよ」
 と、貫太郎は快活な口調で言った。
 すると、花江は薄らと笑みを浮かべては、厨房に戻って行った。
 それで、貫太郎はTVを見ながら、しばらくの間、寛いでいたのだが、そんな貫太郎の前に花江が姿を見せたのは、その一時間半後であった。
 花江は、
「待たせてごめんね。今、お客さんの夕食が終わったところなのよ」
 と、いかにも一仕事終えたと言わんばかりに言った。
「構わないさ。僕はお客さんではないんだから」
 と、貫太郎は笑いながら言った。
「そう。じゃ、やっと、義人君に夕食を食べてもらうことにするわ」
 と言っては、花江は貫太郎を食堂に案内した。
 食堂はかなり広くて、四人掛けの木製のテーブルが七個置かれていた。
 そのテーブルの一つには、鍋が置かれ、その鍋から、湯気がほとぼり出ていた。
 花江は、
「今夜のメニューは、しし鍋よ」
 花江にそう言われ、貫太郎は思わず唾をごくりと飲み込んだ。何故なら、貫太郎はしし鍋が、大好きであった、。前回の八重山諸島旅行の時に、石垣島でしし鍋を食べた時の味が忘れられなかったのだ。
 それで、貫太郎はテーブルに着くと、早速しし鍋に舌鼓を打った。味は最高といって言い位に美味しかった。
 そんな貫太郎の様を、厨房のカウンター越しに見入ってる花江と末吉芳子のことを貫太郎は気付くことはなかったのだった。

     3

 しし鍋を食べ終え、いかにも満足そうな表情を浮かべている貫太郎の許に、花江がやって来ては、
「美味しかった?」
「とても、美味しかったよ」
 と、貫太郎はいかに満足げな表情を浮かべては言った。
「そう言われ、母さん、とても嬉しいよ。
 で、今日はこの民宿に泊まってもらうことにするよ」
 と花江に言われたので、貫太郎は眉を顰めた。何故なら、この民宿で泊まるとなれば、先程までTVを見ていた控室でだろうと思ったからだ。
 それ故、あの部屋で泊まる位なら、まだ、花江宅の方が居心地が良いと思ったのだ。 
 それで、貫太郎はその思いを花江に話してみた。
 すると、花江は、
「何を勘違いしてるの。義人君が泊まるのは、客室に決まってるじゃないの!」
 花江にそう言われたので、貫太郎は表情を綻ばせたのだった。
 だが、
「でも、僕はお客さんではないのに、客室に泊まっていいのかい?」
 と、眉を顰めた。
「義人君は、まだお客さんみたいなものだから、遠慮せずに、客室に泊まっていいのよ。無論、宿泊料は要らないからね」
 と言われたので、貫太郎は微かに笑った。
 そして、食堂を後にすると、貫太郎は赤い絨毯が敷かれた階段を上がり二階に行っては、202号室が貫太郎の部屋となった。
 202号室に入ると、そこは八畳位の洋間で、ベッドが二つ置かれていた。
「この部屋は、二人部屋なのだけど、今日はこの部屋が空いてるから、義人君は一人で使っていよ」
 花江にそう言われたので、貫太郎は満面に笑みを浮かべた。
 部屋の中は、とても清潔で、貫太郎は花江宅で泊まるよりも、こちらの方がいいと思った。しかし、それは当然なのかもそれない。この部屋は、一泊八千円もするらしいからだ。
 そう思ってると、そんな貫太郎に、花江は、
「母さんは、まだ台所仕事があるから、もう行くからね」
 と言ったので、貫太郎は、
「僕のことを気にせずに、仕事をやってくださいな」
「じゃ、九時までには、この部屋に顔を見せるからね。それまでは、TVでも見て、寛いでいてよ。お風呂はお客さんの後からでないと、入れないのよ。でも、それで、我慢してね」
「勿論、それで、構わないさ。僕は十時でも、十一時からでも構わないさ」
 と、貫太郎は笑みを浮かべては言った。
 その貫太郎の言葉を耳にして、花江は薄らと笑みを浮かべ、そして、202号室を後にした。
 花江の姿が見えなくなった後、貫太郎はそろそろ東京に戻らなければならないと思った。
 というのは、花江たちは皆、仕事で何かと忙しいのだ。そんな中を貫太郎が長々と気苦労を掛け、仕事に差し障りが出るのではないかと思ったのだ。
 もっとも、貫太郎が西表島にやって来たのは、花江に渇望されたからであり、貫太郎が西表島に居続けるのを花江たちが迷惑する訳は無い。
 しかし、花江たちの忙しさを目の当たりにしていると、そういった思いを抱いてしまったのだ。
 それ故、今度、貫太郎が西表島を訪れる時は、今回のようなお客さん待遇ではなく、仲宗根家の一員として、仕事を手伝わなければならないだろう。貫太郎は、そのように思ったのだ。
 そう思った貫太郎は、部屋の中に置かれているTVを見始めた。そのTVは、サスペンスドラマのようであったが、特に面白くもなかったので、すぐにスイッチを消してしまった。
 それで、椅子に腰かけては、寛いでいたのだが、八時半頃に花江がやって来ては、
「お風呂に入ってくれるかい」
 それで、貫太郎は花江の案内の下に、浴室に向かった。それは、一階の廊下の突き当たりにあった。
 貫太郎は、花江に、
「お客さんはもう皆入った?」
「入ったよ。いくら義人君でも、お客さんの前に入ってもらうのはね」
「そりゃ、そうだね。僕はお客さんではないからね」
 と、貫太郎が言うと、花江は嬉しそうな表情を浮かべた。
 
 やがて、貫太郎は浴槽に身体を浸した。湯は温泉ではないのだが、肌触りがとてもよかった。
 貫太郎は湯に浸りながら、正に極楽気分であった。
 だが、やがて、
「明日、帰ろう」 
 と、決めた。
 というのは、花江たちの仕事に差し障りになるのではないかと思った以外にも、いつまでもアルバイトを休み続けるわけにはいかなかったし、また、大学の講義にも出なければならないだろうと思ったからだ。
 もっとも、貫太郎は今後、この西表島で暮らすのか、あるいは、東京で暮らすのかという、人生の重大決意を行なわなければならないのだ。
 それ故、その点を決めなければ、会社訪問どころではないだろう。もっとも、既に書類選考で何社も落ちているから、慌てなくてもよいかもしれないが。
 それで、とにかく、風呂から上がると、台所にいる花江の許に行った。そして、明日帰るという旨を話した。
 すると、花江は、
「そう……」
 と、渋面顔で言った。
 そして、二人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、貫太郎は、
「また、西表島に来るつもりなんだけど」
 と、眉を顰めては言った。
「来るって、いつ?」
 花江は眼を爛々と輝かせては言った。
「それが、今、大学四年だから、色々と忙しくて……。それに、アルバイともやってるから……」
 実のところ、今回の西表島行きも、時間の都合を取るのに、色々と苦労した位であった。
 すると、花江は渋面顔を浮かべては、
「それも、そうね。義人君の事情もよく分かるわ。大学四年ともなれば、色々と大変だからね。本来なら、私が東京の義人君の許に行っては、お料理なんかを作ってやらなければならないんだけど、お母さん、仕事があるからね。だから、東京にまで行くことは、出来ないわ」
 すると、貫太郎は、
「そこまでやってもらわなくてもいいよ。それに、僕の下宿は、僕一人で暮らすのに精一杯の広さだから、お母さんが来ることは出来ないよ」 
 と、貫太郎は苦笑すると、花江も苦笑した。
 だが、花江は、
「で、どうするの?」
 と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「何を?」
 と、貫太郎は眉を顰めた。
「大学卒業後の就職のことよ。この西表島でするの? それとも、東京でするの?」
 と、花江は眼を大きく見開き、輝かせては言った。
「それが……、まだ、決めかねてるんだよ」
 と、貫太郎は花江から眼を逸らせ、言いにくそうに言った。
「迷うことないよ。こちらで就職するのよ。といっても、観光関係の仕事になると思うけど。八重山諸島は、人気のある観光スポットだから、食いはぐれにはならないと思うな」
 と言っては、花江は大きく肯いた。
「そりゃ、そう思うけど……」 
 と、貫太郎は言葉を濁した。
 というのは、貫太郎は育ての親である中上の両親のことを思い出したからだ。
 大学卒業後、西表島で就職するとなれば、それは中上家と離縁し、仲宗根家の籍に入るということだ。
 もっとも、本来ならそうすべきなのだろうが、しかし、中上の両親と別れることに、貫太郎は躊躇いを感じたのだ。
 そんな貫太郎の胸の内を察したのか、花江は、
「義人君の気持ちは、よく分かるわ。つまり、義人君は、中上の両親のことを思ってるのね。
 でも、私がどんなに義人君に戻って来てもらいたいのか、そのことを忘れないでもらいたいわ」
 と、花江は燃えるような眼差しを貫太郎に向けた。
 すると、貫太郎は狼狽したような表情を浮かべては、
「分かってるさ」
 その貫太郎の言葉を耳にし、花江は、
「お母さんは、義人君がうちに戻って来てくれると信じてるからね。お母さんのこの気持ち、絶対に忘れないでね」
 と、貫太郎に訴えるかのように言った。
 すると、貫太郎は、
「そりゃ分かってるさ」
 と、薄らと笑みを浮かべた。
「それを聞いて、お母さん、安心したよ」
 といった遣り取りを交していたのだが、やがて、午後十一時が近付いたので、貫太郎は部屋に戻り、床についたのだった。

     4

 その翌日、貫太郎は東京に戻ることになった。
 花江が寂しがったのは、言うまでもないが、貫太郎の事情もあったので、花江は貫太郎を引き留めるわけにはいかず、花江は貫太郎をライトバンで大原港にまで送って行くことになった。
 大原港に着いた頃、
「あの黒川という人は、もし僕が送ったキャラメルの箱に、金城家の者の指紋が付いていたとしたら、どうするつもりなのかな」
「さあ……。どうするつもりなのかね」
 と、花江は渋面顔で言った。
「お母さんが言ったように、もし金城家の者が僕の誘拐犯だったら、そのことを村人たちに言い触らし、金城家の者を西表島に住めないようにしてやるつもりなのかな」
 と、貫太郎は双眸を海に向けながら、淡々とした口調で言った。
「そうかもしれないね。金城家の者は犯人であったと明らかになっても、今更、逮捕は出来ないからね」
 と、花江は神妙な表情で言った。
「もし、金城家の者が犯人だったなら、僕は金城家の者に罵詈雑言を浴びせてやらなければならないな」
 と、貫太郎は表情を険しくさせては言った。
「そりゃ、それ位のことはやらないとね。それに、損害賠償を請求しなければならないよ」
 やがて、貫太郎はライトバンから降りた。桟橋には、既に石垣島への連絡船が接岸していた。
 それで、貫太郎はこの時、花江に別れの挨拶をした。
 すると、花江は、
「絶対に戻って来てね」
 と、力強い口調で言った。
「ああ」
 貫太郎も力強い口調で言った。
 そして、貫太郎と花江は握手を交わし、貫太郎は連絡船に向かったのだった。

     5

 東京に戻ると、貫太郎は直ちに中上の両親に西表島での状況を電話で報告した。
 貫太郎の話にいかにも興味深い表情を浮かべながら、耳を傾けていた勝行は、
―花江さんとは、随分と打ち解けて話が出来たみたいだな。
 と、穏やかな声で言った。
 すると、貫太郎は照れ臭そうな表情を浮かべては、
「やはり、本当の親子だから、フィーリングが合うのかもしれないな」
―お父さんもそう思うよ。本当の親子なんだから、少し一緒に暮らせば、すぐに打ち解けられると思うよ。
 と、勝行は穏やかな表情で言ったが、勝行の胸中は複雑だった。何故なら、貫太郎の実母の花江と貫太郎が、本来の親子の関係になれば、貫太郎は中上家から去ってしまうと、勝行は思ったからだ。そして、そのことは、貫太郎にとって、好ましいかもしれないが、勝行たちにとってみれば、好ましいことではないと思ったからだ。
 しかし、貫太郎には、その勝行と道子の本心を言うべきではないと思った。
 そう勝行は思ってると、貫太郎は、
「それでですね。僕はどうしようと迷ってるのですよ」
 と、自らの胸の内、つまり、中上家に残るべきか、中上家に戻るべきか、就職は東京でするべきか、西表島でするべきかという迷いを勝行に話した。
 すると、勝行は、
―それは、貫太郎が決めることだよ。お父さんがとやかく言うことはないと思ってるんだよ。
 そう勝行に言われ、貫太郎は何も言うことは出来なかった。
 貫太郎としては、「中上家に残ってもらいたい」と言ってもらいたかった。というのも、貫太郎は自らの意思で決めかねているので、その迷いを払拭するような強い命令に平伏したかったのだ。
 そうなれば、まるで大波に翻弄される木の葉のように、無責任ではあるが、従えばいいだけだとも思っていたのだ。
 だが、その貫太郎の思いは、正に貫太郎の独りよがりであったみたいだ。勝行はそれを貫太郎の意志で決めるようにと言ったからだ。
 そんな貫太郎は、
「でも、僕はどうしたらよいのか、分からないんだよ」
 と、いかにも弱音を吐くかのように言った。
―だから、すぐに決断するのは、むずかしいと、お父さんも思うよ。だから、じっくりと考えればいいよ。
 と、勝行は穏やかな口調で言った。
「でも、仲宗根のお母さんは、僕が八重山諸島で就職するようにと言うんだよ。八重山諸島の観光会社にね。僕がそういった仕事をしたいということを仲宗根のお母さんは知ってから、八重山諸島を舞台にした観光関係の仕事をすればいいと言うんだよ。
―そうか。でも、そのことは今、決めなくてもいいよ。じっくりと考えるんだ。 そう勝行に言われたので、貫太郎はそうすることにした。
 そして、貫太郎は星砂の浜で黒川佐吉という男性に会ったことを話し、また、貫太郎のキャラメルの箱のこと、更に、貫太郎の誘拐に関する話をした。
 すると、勝行は、
―貫太郎が誘拐されたのには、そんな複雑な事情があったのか。
 と、渋面顔を浮かべた。そして、
―で、今、そのキャラメルの箱に指紋が付いてるかどうかなんてことは、分かららないよ。
「僕は付いてないと思いよ。 
 でも、その黒川という人は、可能性はあると言ったからね。だから、一応、そのキャラメルの箱を、黒川さんに送ってよ。
 それに、そのキャラメルの箱には、父さんの指紋も付いてるだろうから、父さん、それに、母さんの指紋も一緒に送ってよ。ガラスのコップに付けて、そのコップを一緒に送ればいいから。じゃ、黒川さんの住所を言うからね」
 ということになり、貫太郎が孤児院の前に置き去りにされた時に持っていたというキャラメルの箱が、黒川の許に送られることになったのだ。

     6

 一方、西表島の花江たちの間では、今、義人を誘拐したのが、金城家の者かどうかということの議論が行なわれていた。
「僕は元々、金城家の者の仕業だと思っていたんだよ」
 泡盛を飲みながら、顔がかなり赤くなっている仲宗根和雄は、些か興奮気味に言った。
「僕もそう思ったことは、今まで何度もあったさ」
 次郎もかなり泡盛を飲んでいた為か、顔をかなり赤くさせながら、和雄に相槌を打つかのように言った。
「つまり、戦時中に、父さんに、三歳の子供を殺されてしまい、更に戦後は兄さんが操縦していたボートの波を受け、三歳だった勇一君を亡くしてしまった。金城家の者は、兄さんがわざとボートの波をぶつけたと言ってたからね。
 その復讐として、兄さんには子供がいなかったから、私の義人を狙ったというわけよ」
 と、花江はそうに違いないと言わんばかりに言った。
「そうさ! そうに違いないんだ! それは、分かり切ったことだったんだよ!
 しかし、義人が誘拐されたのは、勇一君が死んでから一年後だった為に、俺たちは金城家の者を疑い切れなかったんだよ。 
 しかし、それは金城家の者の作戦だったんだよ。勇一君が死んだ後、すぐに誘拐すれば、俺たちに疑われてしまうからな。だから、金城家の奴等は、時間稼ぎを行なったんだよ」
 と、和雄は吐き捨てるかのように言った。そして、泡盛を口の中にもって行った。
「私も同感よ!」
 と、花江は眼をギラギラさせながら言った。そんな花江の表情は、金城家に改めて怒りの炎を燃やしてるかのようであった。
「しかし、今更、証拠を見付けることは出来ないよ」
 と、次郎は渋面顔で言った。
「確かに次郎の言う通りだよ。金城家の者がやったという証拠が見付かれば、今からでも村八分に出来るんだが」
 と、和雄はいかにも悔しそうに言った。
 すると、花江は、件の貫太郎のキャラメルの箱に関しての話をした。
 和雄と次郎は、そんな花江の話に黙って耳を傾けていたが、そんな二人に、花江は、
「でも、十八年前の指紋が付いてるとは思わないわ」
 と、渋面顔で言った。
「僕もそう思うよ。それ故、義人がいなくなった時の金城家の者を徹底的に捜査しなかったことが、悔やまれるよ」
 と、和雄はいかにも悔しそうに言った。
 そして、三人の間で、少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、和雄が、
「しかし、金城家の者が犯人なら、どうして義人を置き去りにしたのが、東京の孤児院だったのだろうか? 金城家の者は、その孤児院のことを知っていたのだろうか? 俺たちは、そのような孤児院のことは、まるで知らないからな。
 だから、義人が置き去りにされていた孤児院と、金城家の者との繋がりを突き止めれば、金城家の者を追い詰めることが出来るんじゃないかな」
 と、眼を光らせた。
「それは、名案だと言いたいところだが、そうではないのじゃないかな。ただ単に、偶然にその方面に行ったことがある為に、土地勘があった程度じゃ、追い詰めることは出来ないよ」
 と、次郎は渋面顔を浮かべた。
「じゃ、他にいい案があるのかい?」
 と、和雄は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 それで、三人の間に再び沈黙の時間が流れたが、やがて、花江が、
「こうなったら、興信所に頼みましょうよ。そして、金城家の者と、義人が置き去りにされていた孤児院との関係を調べてもらおうよ」
「そうだな。まず、それをやってみるか」
 と、和雄も渋面顔を浮かべた。
「義人君だけではなく、私の人生まで 狂わせておきながら、何も仕返しが出来なかったら、お父さんに申し訳ないよ。絶対にこのままでは済まさないからね」 
 と、花江は眼をギラギラと輝かせては言った。

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