第六章 事件発生

     1

 勝浦から、小包でキャラメルの箱を送ってもらった黒川は、早速予め入手してあった金城明夫と正子の指紋が、キャラメルの箱に付いていないかの鑑定を、那覇で探偵業を営んでいる友人に密かに調べてもらうことにした。
 それはせておき、もし、キャラメルの箱に金城家の者の指紋が付いていたとしたら、黒川はどうしようと思ってるのか?
 もし、そうだとしたら、黒川は金城家の者から、少しばかりの小遣いをせしめようと思っていたのだ。
 黒川夫婦は民宿を営んでいるといえども、その民宿は古びた平屋建てで、部屋は五部屋しかなかった。そういった状況の為に、黒川夫婦の民宿に泊まるお客さんは、滅多にいなかったのである。
 それで、黒川夫婦は、黒川が釣った魚を食べたり、また、庭で作った野菜を食べたりしながら、質素に暮らしていたのだ。
 そんな黒川は、既に六十を超えていたのだが、そうだからといって、遊ぶお金が欲しいのは、若者とは変わらないのだ。
 それ故、何か金儲けの話があれば、それに飛びつくといった状況だったのだ。
 そして、そんな黒川の眼に留まったのが、義人の誘拐の件だったのだ。
 即ち、黒川はもし義人を誘拐したのが、金城明夫か正子だという確証を摑めば、それをねたに、金城明夫、正子に、誰にも話さないから、口止め料を払えと言うつもりだったのだ。
 それ故、勝行から送られて来たキャラメルの箱を、友人の安芸正吉に手渡した時は、正に祈るような気持ちだったのだ。
 そして、その四日後に、黒川の許に電話が掛かって来た安芸の声を耳にすると、黒川は、
「どうだった?」 
 と、眼を大きく見開いては、爛々と輝かせては言った。
―それがだな。やはり、付いてなかったよ。
 と、安芸は些か沈んだような声で言った。
 その安芸の声に、黒川は言葉を失ってしまった。そして、黒川の表情は、蒼白なものに変貌した。即ち、今の安芸の一言で、黒川の計画は崩壊してしまったのだ。
 黒川が言葉を失ってしまったので、安芸は、
―キャラメルの箱には、黒川さんが付いていないかと頼まれた人物の指紋は付いていなかったよ。でも、中上さんという人の指紋は付いていたがね。
 それは、予想出来たことだ。しかし、金城家の者の指紋が付いてなかったとなれば、話にならないというものだ。
 それで、黒川は、
「迷惑を掛けて済まなかったな」
 と、沈痛な表情で言ったのだった。

     2

 黒川は安芸との電話を終えると、いかにも失望したような表情を浮かべては、眉を顰めた。何しろ、黒川が当てにしていた金蔓が、呆気なく消失してしまったからだ。やはり、十八年も前の指紋が付いている筈はないのだ。
 それ故、黒川はしばらくの間、渋面顔を浮かべては、家の中の畳の上に座り込んでいたのだが、やがて、その結果を、あの青年、即ち、中上貫太郎という青年に知らせなければならないと思った。
 といっても、義人は東京で一人で住んでるとのことだ。しかし、その連絡先のことを聞くのを、黒川は忘れていた。
 もっとも、キャラメルの箱が送られて来た箱には、その差出人、つまり、中上勝行の住所が記してあったので、そこで連絡がつくだろうが、しかし、その前に仲宗根次郎に話してみようと思った。仲宗根次郎なら、黒川は結構親しかったので、仲宗根次郎なら、気軽に話せると思ったのだ。
 そんな黒川は、重い足取りで、仲宗根ダイビングショップに向かった。もう午後六時に近いから、次郎は店にいると、黒川は思ったのだ。
 黒川は、やがて、仲宗根ダイビングショップの前に来た。
 仲宗根ダイビングショップは、まだ煌々とした灯が点いていた。次郎は、事務作業をしてると、黒川は思った。
 それはともかく、黒川は店内に入った。
 だが、次郎の姿は見当たらなかった。ただ、カラフルなダイビングスーツなんかが、眼につくばかりであった。
 そして、その光景は、黒川にとって、見慣れたものであったが、黒川はふと、眉を顰めた。何故なら、店の奥の方から、次郎の声が聞こえて来たからだ。
 そして、その次郎の声は、何となく殺気立っていた。そのように、黒川には、そう感じられた。
 それで、黒川は、
「こんばんは」
と、声を出さずに、聞き耳を立て始めた。
「またですか……」
「もう、勘弁してくださいよ」
「これ以上、妙なことをすると、怪しまれてしまいますよ」
 とかいう次郎の声が、聞こえた。
 そして、黒川はいつの間にやら、いつも黒川のバッグに入れてあるICレコーダーの録音スイッチを押していたのだった。

     3

 話は三ヶ月前に遡る。
 季節は二月の終わりといえども、西表島の二月の水温は、20度はある。それ故、勿論、ダイビング可能だ。
 それ故、二月といえども、冬の西表島を潜る為に、日本各地から、ダイビング好きの者が、西表島を訪れていた。
 そんな状況であったので、仲宗根ダイビングショップには、今日は東京からの中年の夫婦が訪れていた。
 その夫婦の名前は、武井晴夫(42)と美由紀(38)であった。
 概して、仲宗根ダイビングショップを訪れるお客は、二十代の若者が多かったのだが、時折、武井のような年齢のお客さんも訪れるのだ。
 それはさておき、仲宗根ダイビングショップ内にあるデッキチェアに座っては、次郎は武井と話をしていたのだが、その結果、バラス島周辺で潜ることにした。
 というのは、まだダイビング経験の浅い武井夫婦は、バラス島周辺のポイントが適切と判断したからだ。
 とはいうものの、今日は生憎の曇天で、いつ雨が降り出してもおかしくない状況だった。
 それが、とても残念だったが、わざわざ武井夫婦は東京からやって来たのだから、少し位天気が悪いからといって、取り止めにならないのは、言うまでもなかった。
 一時間と少し位掛かって、やっとバラス島東のポイントに着いた。
 初心者向けのポイントといえども、、潮が早く流れることがある。それは、当然のことだ。
 それ故、いかにも浮き浮きした様を見せていると夫婦に対して、次郎は、
「本当に大丈夫ですかね」
 と、念を押した。
「大丈夫ですよ」
 と、晴夫は答えた。
 そう言われても、次郎は心配そうな表情を浮かべていた。というのも、武井夫婦は、二人で海の世界を愉しみたいから、次郎にはボートで待っていてくれと言ったからだ。
 次郎は、その申し出に頑なに首を縦にはふらなかったのだが、武井夫婦は何としてでも、二人で潜りたいと言い張るのだ。それ故、次郎はそんな武井夫婦に根負けしてしまったのだ。何しろ、次郎がボートで待機していれば、その方がボートの番をする人員を手配しなくても済むという打算もあったのだ。
 それ故、武井夫婦を次郎のガイド無で潜らせることにしたのだ。
 武井夫婦が潜り始めて、十五分が経過した。
 すると、その頃、美由紀が浮上して来た。
 美由紀は、マスクを顔から外し、そして、口元からはスノーケルを外すと、
「素晴らしいよ! こんな素敵な海は、初めてよ!」
 と、いかにも声を弾ませては言った。更に、
「それはよかったですね。で、ご主人はどうされたのですかね?」
「主人はご覧の通り、まだ潜ってますよ。あまりにもの素晴らしい光景に、大感激し、私がダイビングボードに『カメラを忘れたから、一旦浮上するけど、あなたはどうする?』と訊いたところ、『まだ、潜ってる』と返答したから、私一人が浮上したというわけですよ」
 と言っては、美由紀は小さく肯いた。
 だが、辺りには美由紀のものと思われる水中カメラは見当たらなかったので、
「ボートの中には、武井さんの水中カメラは、見当たらないようですがね」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、美由紀も怪訝そうな表情を浮かべては、
「あら……。そうですか。だったら、私、何処かに落としてしまったのかもしれない」
 と、言ったかと思うと、顔を少し赤らめ、そして、すぐにマスクとスノーケルを付け、再び海の中に消えて行った。
 そんな美由紀を眼にして、次郎は薄らと笑みを浮かべたのであった。
 だが、その十分後に、美由紀が浮上して来て、素早くマスクとスノーケルを外すと、
「大変なのよ! 主人が何処にも見当たらないのよ!」
 と、いかにも表情を強張らせては、甲高い声で言った。
 それを耳にして、次郎も引き攣った表情を浮かべては、
「そんな!」
「本当よ! 私が浮上した間に、何処かに消えてしまったのよ。辺りを探したんだけど、何処にもいないの」
 美由紀は、再びいかにも引き攣った表情と声で言った。そんな美由紀の様は、晴夫は遭難したと言わんばかりであった。
 その只ならぬ美由紀の言葉を耳にして、次郎は直ちに潜る体制を整え、美由紀と共に海の中に消えた。そして、美由紀の後について、晴夫がいそうな場所を探してみたのだが、晴夫の姿は、何処にも見当たらなかった。
 それを目の当たりにして、次郎の頭の中には、
<もう助からない>という思いが、過ぎった。何故なら、晴夫のタンクのエアは、そろそろ空になる頃だったからだ。また、気が動転したことから、もっと前にタンクのエアは空になってしまったかもしれない。
 しかし、死体が見付かるまでは、諦めては駄目だろう。以前も、死んだと思っていたら、潮で遠くまで流され、結局、助かったというケースがあったからだ。それ故、次郎は最後まで諦めては駄目だと自らに言い聞かせた。
 それ故、一旦、海上に浮上し、海面から晴夫を探してみようと次郎は思った。
 しかし、それは、潮の流れが、早くなって来たということも影響していた。これ以上、潜り続けていたら、美由紀だけではなく、次郎も遭難しかねないと、察知したからだ。
 また、それと同時に、やはり、武井夫婦は、このポイントに連れて来るべきではなかったという悔恨の念が過ぎった。
 それはともかく、次郎は美由紀と共に、一旦、浮上することになった。
 だが、それを拒否するかのような仕草を美由紀が見せるので、
「これ以上、潜っていれば、私たちも遭難してしまいます」 
 とダイビングボードに書き、そして、美由紀を納得させ、次郎は美由紀と共に浮上した。 
 そして、ボートに戻るや否や、マスクを外し、辺りの海に眼をやった。
 だが、晴夫の姿は、何処にも見当たらなかった。
 それ故、次郎の表情は、正に引き攣っていた。また、美由紀の表情も、同様であった。
 そんな美由紀は、
「私、主人を見殺しには出来ません! もう一度、潜るわ!」
 と言っては、マスクを付けようとした。
 すると、次郎は、
「もう駄目です! 潮の流れが速くなって来ましたから、今、潜るのは危険です!」
 と、次郎は悲愴感漂う表情を浮かべては言った。
「じゃ、主人を見殺しにするの?」
 美由紀は、次郎を非難するかのように言った。
 次郎は、その美由紀の言葉に、美由紀から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。そして、険しい表情を浮かべるだけであった。
 それで、美由紀はマスクを付け、潜ろうとしたのだが、そんな美由紀に、次郎は、
「今、潜れば危険です! 奥さんは命を落としたいのですか!」
 と、美由紀を諫めた。
「主人を見殺しには出来ません!」
 美由紀は絶叫した。
 そんな美由紀に、次郎は、
「じゃ、僕がもう一度、潜りますから、奥さんはこのまま、ボートで待っていてください」
 と言い、次郎は再び潜る体勢を整えては、海の中に入って行った。次郎は、今、潜れば危険だということは分かっていたが、美由紀の様を眼にすると、このまま引き退がるわけにはかなかったのだ。
 とはいうものの、やはり、辺りには晴夫の姿は見当たりそうもなかった。また、サンゴの花園が所処に見られ、そのサンゴの中に晴夫の遺体があるかもしれない。
 しかし、潮の流れが先程よりも一層激しさを増して来た為に、そのサンゴの花園の中を探すなんてことは、到底不可能な状況となっていた。
 それ故、次郎は苦渋の表情を浮かべては、ボートに上がった。そして、その前に待っていたのは、悲愴感漂う美由紀の姿であった。
 そんな美由紀は、次郎が一人で戻って来たのを眼にして、項垂れた。そして、眼頭に手を当てた。
 そんな美由紀に、次郎は、
「申し訳ありません」
 と言って、頭を下げた。
 次郎の言葉を耳にしても、美由紀は何も言おうとはせずに、ただ啜り泣きをするばかりであった。
 そして、この時点で、武井晴夫の死は、決まったのであった。
     
 次郎は後になって、警察に晴夫の遭難の報告をした。その時に、次郎は次郎が悪かったと言った。即ち、ダイビングの経験が浅い武井夫婦を、次郎がボートに待機したまま潜らせたことが晴夫の死に繋がったと警察に説明したのだ。
 そう次郎に言われても、警察はそんな次郎を逮捕するわけにはいかなかっただ、今後は同じような事故は起こさないようにと、強く注意したに留まったのだ。
 これが、三ヶ月前に起こった仲宗根ダイビングショップで発生した事故の一部始終だった。

     4

 次郎が長々と電話してるのを黙って耳を傾けていた黒川は、次郎が電話を終え、黒川の前に姿を見せた時に、黒川は今、仲宗根ダイビングショップに来たと言わんばかりの表情を浮かべては、
「こんばんわ」
 と、些か笑みを浮かべては言った。そして、
「商売、繁盛してますかね」
 と、愛相良い表情を浮かべては言った。
「まずまずですよ。最近はダイビングブームですからね」
 と、次郎は薄らと笑みを見せては言った。
 そんな次郎に、黒川は、
「実はですね」 
と言っては、件のキャラメルの箱の件を話した。
 黒川の話に黙って耳を傾けていた次郎は、黒川の話が一通り終わると、
「それは残念だな」
 と、神妙な表情で言った。
「僕も同感ですよ。もし、キャラメルの箱に、金城家の者の指紋が付いていたなら、金城家の者を懲らしめることが出来たでしょうからね。でも、十八年前の指紋は、やはり、付いていなかったというわけですよ」
 と、黒川はいかにも残念だったと言わんばかりに言った。
 黒川がそう言った後、二人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、黒川は、
「三ヶ月前の事故は、大変だったですね」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
 そう黒川に言われると、次郎は突如、表情を強張らせた。
 しかし、次郎がそのような表情を見せたのは、一瞬だった。次郎は、すぐに表情を元に戻したのだった。
 だが、次郎は言葉を発そうとはしなかった。
 そんな次郎に、黒川は、
「ほら! バラス島の事故のことですよ。三ヶ月前に東京から来た夫婦の内、旦那の方が、バラス島周辺上で事故死しましたよね」
 と、黒川はにこにこしながら言った。
 すると、次郎は、
「ええ」
 と言うに留まった。そして、その次郎の表情は、何となくぎこちないものだった。
 そんな次郎に黒川は、
「で、旦那の遺体は、結局見付からなかったのですよね?」
 と、眉を顰めた。
「そうでしたね。
 遭難した翌日、潮の流れが穏やかになってから、十人程のダイバーで捜索したのですがね。でも、結局、見付からなかったのですよ」
 と次郎は、黒川から眼を逸らせ、渋面顔で言った。
「そんなことって、あるのですかね?」
 黒川は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「そりゃ、ありますよ。あの辺りは潮の流れが速いですからね。ですから、潮に流され、結局、海の藻屑となってしまうことも十分に有り得るわけですよ」
 と、次郎は黒川から眼を逸らせたまま、いかに決まり悪そうに言った。
「ということは、旦那の遺体は、永久に見付からないというわけですかね?」
 と言っては、黒川は眉を顰めた。
「そういった可能性は、充分にありますね。もっとも、少し経ってから、遺体が上がる可能性が、全く無いとは、断言は出来ませんね」
 と次郎は言っては、小さく肯いた。
「で、その旦那の名前は、何と言いましたかね?」
「武井晴夫という名前でしたね」
「年齢は?」
「確か、42歳でしたね」
「住所は、何処でしたかね?」
 と、黒川が訊くと、次郎は、
「黒川さんは、どうして、そのようなことを訊かれるのですかね?」
 と、眉を顰めた。
「ただの世間話ですよ。そのねたを仕入れたくてね」
 と黒川が言うと、
「東京の台東区に住んでおられた方ですが、それ以上のことは、覚えていませんね」
 と次郎は、黒川から眼を逸らせては言った。
「もっと正確な住所は分からないのですかね?」
 と、黒川はさりげなく言った。
 すると、次郎の表情からは、完全に笑みは消え、
「黒川さんは、どうしてそのようなことまで、興味があるのですかね?」
 すると、黒川は作り笑いのような笑みを浮かべては、
「だから、単なる世間話ですよ」
「そうですか。でも、それなら、住所まで知らなくてもいいのではないですかね」
 と、次郎は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、黒川はつんとした表情を浮かべては、
「分かりましたよ。だったら、警察に訊きますからね。警察に訊けば、話してくれるでしょう」
 黒川にそう言われると、次郎は慌てて笑顔を繕い、
「分かりましたよ。調べてみますから」
 と言っては、キャビネットから武井に関する書類を取り出しては、その住所を黒川に言い聞かせた。 
 黒川はそれを丁寧に手帳にメモしていた。
 そんな黒川を、次郎は冷ややかな眼差しで見やっていた。
 黒川がメモを終えると、次郎は、
「義人君を誘拐した犯人のことですがね。僕たちも黒川さんと同様、金城家の者がやったと思い、金城家の者と、義人君が置き去りにされてた東京の孤児院と関わりを調べてみたのですよ。その孤児院のことを金城家の者がある程度知ってなければ、その孤児院の前に置き去りにはしないだろうと思ったのですよ。
 それ故、そういった点を踏まえ興信所に調べてもらったのですが、まだ成果は得られてないのですよ」
 と、渋面顔で言った。
 すると、黒川は、
「そうでしたか……」 
 と、渋面顔で言った。
 そして、黒川はまだ何か話をしたそうな感じだったが、そんな黒川に、次郎は、
「申し訳ないですが、この辺で店を閉めますので」
 と、軽く黒川に頭を下げた。
 すると、黒川は、
「分かりました」 
 と、軽く頭を下げ、そして、仲宗根ダイビングショップから出て行った。
 すると、次郎の表情は、一変した。その次郎の表情は、先程まで見せていた表情とは打って変わって、とても険しいものであった。
 また、その次郎の眼は、ワシのように鋭いものであった。そんな眼をした次郎のことを眼にした者は、今まで誰もいないのではないだろうか?

     5

 その翌日、仲宗根ダイビングショップに近い所にある黒川宅では、ちょっとした異変が起きていた。何故なら、黒川が妻の早苗に、
「明日、東京に行って来るよ」
 と、言い出したからだ。
 その黒川の言葉を耳にして、早苗はびっくりしていた。
 というのは、この西表島で長年暮らして来た黒川は、東京に行ったことはないからだ。
 更に、黒川は今までに東京に行ってみたいなどと、言い出したことはなかったのだ。それどころか、黒川は日頃、東京のことを「人が一杯いて、ゴミゴミした嫌な物騒な所」と言っては、東京のことを嫌っていたのだ。
 そんな黒川なのに、<一体どういった風の吹き回しなのだろうか?> と、早苗は驚いてしまったんだ。
 それ故、早苗は怪訝そうな表情を浮かべながら、
「東京に何をしに行くの?」
 すると、黒川は、
「ちょっと、東京見物でもしたくなったのさ」
 と、面映ゆそうな表情を浮かべては、早苗から眼を逸らせた。
「東京見物って、あんたは今まで東京は嫌いって言ってたじゃないか」
 と、早苗は眼を大きく見開き、皺くちゃになった顔に一層怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「それは、そうだけど……。
 でも、死ぬまで一度位行ったっていいじゃないか。この眼で一度位見たっていいじゃないか」
 と、黒川は薄くなった髪に手を当てては、面映ゆそうな表情を浮かべた。
 すると、早苗は突如、表情を綻ばせては、
「じゃ、私も行こうか」
 と、まるで妙案が浮かんだかのように言った。
 すると、黒川は眼を大きく見開き、狼狽したような表情を浮かべては、
「それは、まずいよ」
 と、甲高い声で言った。
「どうして、まずいの?」
 早苗は不満そうな表情を浮かべては言った。
「それは当り前じゃないか! 民宿の番は誰がするんだ?」
「明日も明後日も、その翌日も、お客さんの予定はないんだよ」
 と、早苗は口を尖らせた。
「そうだからといって、急に入るかもしれないじゃないか」
「そりゃ、そうだけど……」
 と、早苗は不満そうに言った。早苗はやはり、黒川だけが東京に生行くということが、気に入らなかったのだ。
 そんな早苗に、
「だから、土産をたっぷりと買って来てやるよ。
 それに、俺が東京の事を気に入れば、今度行く時は、連れて行ってやるからさ」
 と、黒川は早苗を宥めるかのように言った。それで、早苗は黒川が一人で東京に行くことを了承したのであった。

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