第七章 行動開始
1
飛行機が羽田空港に近付くに連れて、窓から見える地上の光景に、黒川は眼を丸くしていた。何しろ、眼下には、何千、何万、いや、それ以上の住宅やビルなどが立ち並び、その間を縫うように伸びている道路には、夥しい車が行き来していたからだ。その光景は、黒川を驚かせるに十分であったというわけだ。
やがて、飛行機は東京湾上に差し掛かった。
そして、その時に黒川の眼に入って来たのは、陸の方から海に伸びている道路だった。黒川は今までこのような道路は眼にしたことはなかったのだ。そして、その道路は、後になって、東京湾を海底トンネルで横断するアクアラインだと分かった。
そして、大小様々な船がまるで気持ち良さそうに浮かんでいる東京湾の光景を愉しんでいたのだが、飛行機はやがてぐんぐんと高度を下げて行き、そして、辺りのビルが殆ど間近に見えるようになったかと思ったら、飛行機はどすんという音と共に、滑走路に着陸した。
すると、見る見る内に速度が落ち、やがて、空港ターミナルビルに着いた。
飛行機が停止すると、スチュワーデスの笑顔に見送られ、飛行機から羽田空港ターミナルビルに踏み出した。
黒川は、羽田空港の滑走路の広さにはびっくりしていたのだが、空港ターミナルビルの大きさにもびっくりしていた。
そして、その驚きはまだしばらく続くことになった。何故なら、羽田空港から浜松町行きのモノレールに乗ったのだが、モノレールから眼に出来るウオーターフロントの光景が、今まで眼にしたことのない壮大なものだったからだ。黒川は改めて東京って、凄い街だと、妙に感激していたのだ。
そんな黒川が東京に来た目的とは、一体何なのか? 早苗に言ったように、東京見物が目的なのか?
その答えは否である。即ち、黒川は早苗に嘘をついたのだ。
では、本当の目的とは、何なのか?
それは、この物語を読んで行けば、やがて、分かるだろう。
黒川がまず最初に向かったのは、国会図書館だった。国会図書館には、日本全国の住宅地図があるということを、黒川は本で読んだことがあり、知っていたのだ。
とはいうものの、黒川は東京に来ること自体が始めてであったので、国会図書館に行くのは、大層苦労したのであった。
それはともかく、黒川は国会図書館の地図閲覧室で、黒川が入手したかった頁のコピーを終えると、
「これでよし」
と、些か満足そうに肯いた。これによって、黒川の作業が一歩前進したと実感したからだ。
では、黒川は何処に行こうとしてるんだろうか?
それは、武井晴夫の家である。
では、武井晴夫とは、誰だったのか?
武井晴夫とは、西表島の仲宗根ダイビングショップで、三ヶ月前にバラス島周辺のダイビングポイントで、事故死した男性だ。その男性が、武井晴夫なのだ。
では、何故黒川は武井晴夫宅を訪れようとしてるのか? 今まで一度も東京に来たことはなく、しかも、好きでもなかった東京を、武井晴夫宅を訪れる為に訪れたということなのか?
黒川は、台東区の古びたマンションが立ち並んでるような道を、辺りにまるで敵でも潜んでるかのような慎重な足取りで歩いていた。
武井晴夫が住んでいたマンションが、地下鉄の駅から歩いて行ける場所にあったことが、黒川にとって幸だった。これが、もしバスを使わなければならない場所であれば、そこに行き着くことは、不可能だっただろう。
やがて、黒川は武井晴夫が住んでいたというマンションに着くことが出来た。それは、かなり昔に建てられたと思われる古びたものだった。
そのマンションを眼にして、黒川は眉を顰めた。というのは、果して、ダイビング好きの武井晴夫という男性が、このような古びたマンションに住んでいたからだ。ダイビングは、金が掛かるスポーツだ。それ故、金銭的に余裕のある者が行なうものだと黒川は思っていたからだ。
それ故、武井が住んでいたマンションを眼にして、黒川は眉を顰めたのだ。
それはともかく、黒川は武井晴夫が住んでいたという「秋元マンション」の105室の前に来てみた。
すると、黒川は忽ち強張った表情を浮かべた。何故なら、105室には、表札は掛かっていなかったからだ。ということは、現在、空室ということか。
それで、黒川はマンションの入り口にある郵便受けをチェックしてみた。
すると、やはり105室には、何ら名札が貼られていなかった。即ち、武井晴夫の妻は何処かに転居してしまったというわけだ。
もっとも、そういったケースは、黒川は既に想定していた。
それで、黒川は直ちに行動を開始することにした。
黒川は104室の前に来ると、玄関扉をノックした。
そして、三回ノックした頃、玄関扉が開き、すると、中年の人良さそうな感じの婦人が姿を見せた。
それで、黒川は、
「僕は田中という者です」
と、偽名を名乗り、
「105室に住んでいた武井さんを訪ねたのですが、武井さんはどうなされたのでしょうかね?」
と、穏やかな表情と口調で言った。
すると、その婦人、つまり、高木真由子は、
「武井さんは、転居されたみたいですよ」
「転居した? いつ頃ですかね?」
「もう二ヶ月以上前のことではなかったですかね」
「二ヶ月前ですか。
で、旦那さんの方は亡くなられたそうですが、葬式は行なわれたのでしょうかね?」
と、黒川が真剣な表情を浮かべては言うと、真由子は、
「それは、初耳ですね」
と、眼を丸くしては言った。
すると、黒川も眼を丸くさせては、
「初耳、ですか」
「ですから、旦那さんが亡くなられたということですよ」
「ということは、葬式は行なわれなかったということですかね?」
と、黒川は眉を顰めた。
「勿論そうですよ。葬式が行なわれれば、私が知らない筈はありませんからね」
と、真由子も眉を顰めた。
「そうですか。
で、僕は武井さんがお亡くなりになられたと聞いたので、武井さん宅にやって来たのですがね」
「そうですか。でも、その点に関して、私は全く情報を持ってないのですよ。
それに、私は武井さんの旦那さんという方を眼にしたことはないのですよ」
と、真由子は眼を大きく見開き、淡々とした口調で言った。
「一度も見たことはないのですかね?」
「ええ。そうですよ。奥さんの方なら、時々、眼にしたことはあるのですがね」
と、、真由子は神妙な表情で言った。
「ということは、旦那さんは朝早く家を出て、夜遅く帰って来るという生活をされてたのでしょうかね?」
と、黒川は神妙な表情を浮かべては言った。
「さあ……。どうでしょうかね。私は武井さんの隣室に住んでいたといえども、武井さんとは全く付き合いはありませんでしたからね。
というのも、奥さんは何となく愛想の悪い人でしてね。私は一度挨拶をしたことがあるのですが、そんな私のことを無視するかのように、私に対して口を利くこともなく、私の横を通り過ぎて行きましたからね」
と、真由子は淡々とした口調で言った。
どうやら真由子は話し好きのようだ。黒川が訊きもしないことを次から次へとぺらぺらと喋ってくれるのだ。
更に真由子は、
「でも、妙に思うことがありましたよ」
と、いかにも黒川に話したいことがあると言わんばかりに言った。
「それは、どんなことですかね?」
黒川はいかにも興味有りげに言った。
「武井さんの奥さんは、日本人ではないのではないかと思ったりしたことがありましたね」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
「日本人じゃない? どうしてそう思われるのですかね?」
黒川は再び興味有りげに言った。
「それは、武井さんの奥さんが、中国語か韓国語のような言葉を使ってるのを耳にしたことがあるからですよ。
それは、今から三ヶ月位前の午後五時頃のことでしたね。
私は部屋の中で雑誌を読んでいたのですよ。すると、武井さんの部屋で、奥さんが喋ってる声が聞こえたのですがね。何しろ、このマンションは古いですから、隣室の声は結構聞こえるのですよ。
で、恐らくその時、奥さんは電話で話していたと思うのですが、興奮していたのか、甲高い声を出していたのですよ。それが、日本語ではなく、中国語か韓国語のように私は聞こえたのですよ。
もっとも、私は中国語も韓国語も分からないですから、何を言ってるのかは分からないですよ。
とはいうものの、あれだけ流暢に話せるということは、武井さんの奥さんは日本人ではなく、中国人か韓国人ではないかと、私は思うのですよ。外見では、日本人なのか中国人なのか、韓国人なのかは分からないですからね」
と、真由子は神妙な表情を浮かべては言った。
そう真由子に言われて、黒川は、
「なるほど」
と、些か険しい表情を浮かべては、眼を鋭く光らせた。というのは、黒川は元々、武井晴夫の死に関して、不審なものを感じていたから、こうして真由子から話を聴いているのだが、今の真由子の話を聴くと、やはり、黒川の思いは正しかったと実感したのだ。
そんな黒川に真由子は、
「私が武井さんのことで知ってることは、これ位ですよ」
と、黒川を見やっては、淡々とした口調で言った。
「そうですか」
と、黒川は軽く頭を下げた。そんな黒川に、真由子は、
「で、あなたは武井さんとは、どんな関係の方なんですかね?」
そう真由子が言うと、黒川は狼狽したような表情を浮かべた。何故なら、黒川は今のような問いを出されれば、どのように返答したらよいのか、その返答を予め考えてなかったからだ。
それ故、狼狽したような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「ダイビング仲間みたいなものですよ。その関係で知り合ったのですよ」
と、薄らと笑みを浮かべては言った。そして、
「で、武井さんは西表島でダイビングをやっていた時に、事故死したと聞いてるのですよ。それで、僕は武井さんにお線香でも上げさせてもらおうと思い、こうしてやって来たのですよ」
と、薄らと笑みを浮かべては言った。
すると、真由子はそんな黒川の説明に納得したのか、
「そういうわけですか」
と言うに留まった。だが、
「でも、隣室の武井さんが、ダイビングをやっていたなんて、知らなかったですね」
と、眉を顰めた。
「旦那さんだけではなく、奥さんもやっていたそうですよ。武井さんは奥さんと一緒に西表島でダイビングをやっていた時に、事故死したそうですから」
「でも、あの奥さんがダイビングをやってたのですかね」
と、真由子は表情を曇らせた。
すると、黒川は眼を大きく見開き、
「何か妙に思うことがおありなんですかね?」
と、興味有りげに言った。
「そりゃ、思うことがないとは言いませんよ。何故なら、ダイビングって、とてお金が掛かりますよね。ですから、ダイビングをやってる人って、お金に余裕がある人だと思いますよ。
ところが、失礼な言い方になると思うのですが、武井さんの奥さんを一目見た印象は、とても地味な感じで、また、服装もとても地味なんですよ。
それに、このマンションはとても家賃が安いですからね。それ故、うちもそうですが、このマンションに住んでる人は貧乏人が多いのですよ。それなのに、ダイビングというお金の掛かるスポーツをやってたなんて、とても違和感を感じるのですよ」
と、真由子は眉を顰めた。
また、その真由子の思いと黒川も同感だったので、
「僕もそう思いますよ」
と言っては、小さく肯いた。
すると、真由子も小さく肯いたが、
「田中さんは、ひょっとして、訪ねる家を間違えたのではないですかね?」
と言っては、眉を潜めた。
「いいえ。そうじゃないですよ」
と言っては、武井の住所を真由子に見せた。
すると、真由子は、
「確かにそのようですね」
そんな真由子は、もうこれ以上、黒川とは話をすることはないと言わんばかりであった。
そんな真由子に、黒川は、
「武井さんの奥さんは、何処に転居したか、ご存知ないですかね?」
「全く知らないですね」
「じゃ、武井さんが転居する前に、保険会社の係員が武井さん宅を訪ねては来ませんでしたかね?」
と、黒川はこれが最後の質問だと言わんばかりに言った。
「それも、知らないですよ」
と、真由子は素っ気なく言った。
それで、黒川はこの辺で真由子と話を終えることにした。
黒川は、真由子から話を聞いて、やはり成果があったと思った。というのは、たまたま仲宗根次郎の話を盗み聞きしてしまい、その結果、三ヶ月前、次郎の案内の下にバラス島周辺のポイントで事故死したというと武井晴夫の死に関して、黒川は疑問を抱き、そして、その疑問を解明することは、金になると思い、こうして東京にやって来たのだが、その黒川の思いは、正しかったと、真由子と話をしてみて、そう思ったのだ。
だが、真由子との話だけでは、金になる為の強力なネタは仕入れることは出来なかった。いくら何でも、今の真由子の話だけでは、金にはならないのだ。
それで、黒川は何としてでも、強力な話のネタを仕入れたかったので、今度は106室を訪ねてみた。106室には、柿沢というネームプレートが掛かっていた。
五回程ノックすると、六十半ば位の男性が、姿を見せた。その男性は相当日焼けして逞しい身体付きであったので、道路工事の仕事でもしてるのだろうか?
黒川はそう思ったが、それはともかく、黒川は104室の高木真由子に対して行なったのと同じような質問をしてみたのだが、最初の内は、特に真新しい情報を入手することは出来なかった。
とはいうものの、黒川はやがて、柿沢から黒川が入手したいと思うような情報を入手することが出来た。即ち、柿沢は武井宅に、最近になって度々保険会社の係員が訪れていたことを知っていたからだ。
それで、黒川は柿沢に、三ヶ月前に武井が西表島で事故死したということを話すと、
「それは、初耳ですね」
と、眼を大きく見開き、驚いたような表情を見せては言った。
「葬式をやらなかったみたいですから、隣室といえども、武井さんが亡くなられたことに気付かなかったのでしょね。
で、保険会社の係員が、武井さん宅を訪ねて来たそうですが、その理由はやはり、武井さんが亡くなられた為の生命保険に関してでしょうかね?」
「そうかもしれないですね。もっとも、僕は武井さんが亡くなられたことを知らなかったですから、今、あなたからそれを聞いて、そう思ったという次弟なんですよ」
と言っては、柿沢は眉を顰めた。
「でも、柿沢さんはどうして武井さん宅に、保険会社の係員が来ていたということを知っていたのですかね?」
と、黒川は興味有りげに言った。
「そりゃ、武井さん宅の玄扉を何度もその係員が『S生命の鈴木です!』と大声で言ってましたからね。僕はその鈴木さんの声を何度も耳にしてるからですよ」 と、柿沢は淡々といた口調で言った。
「なるほど」
と、黒川は言っては、小さく肯いた。
そんな黒川に、柿沢は、
「しかし、隣室の武井さんが、西表島でダイビングで事故死したとはね」
と、眉を顰めた。
「そうらしいですね。といっても、遺体は見付かってないらしいですがね」
「遺体はまだ見付かってないのですかね?」
「そうらしいですよ。何しろ、潮の流れが速いポイントだったそうで。だから、遺体は潮で流されてしまったみたいですよ」
「遺体が見付からなかったのに、保険は出るのでしょうかね?」
柿沢は眉を顰めた。
「さあ……。僕は保険会社の者ではないので、詳しいことは分からないですね」
と、黒川は渋面顔を浮かべた。
すると、柿沢は、
「しかし、まさか武井さんたちは、一杯喰わせたのではないでしょうね」
と、些か嫌味を込めた表情を浮かべては言った。
「と言われると?」
黒川は好奇心を露にした表情を浮かべては言った。
「つまり、死んでもいないのに、死んだと思わせては、保険会社から保険金を騙し盗ったのじゃないかということですよ」
と、柿沢は再び嫌味を込めた口調で言った。
すると、黒川は東京に来て以来、一度も見せたことのないような険しい表情を浮かべた。
即ち、黒川も柿沢と同様、武井は実際には死んでなくて、死んだと見せ掛けては、保険金を騙し盗ったのではないかと推理していたのだ。黒川は、仲宗根次郎の電話を盗み聞きした結果、そのような思いを抱いたのだ。
そして、その推理を確認する為に、西表島から遥々東京にまでやって来たという次第なのだ。
甚だ険しい表情を浮かべたまま、言葉を発そうとはしない黒川に対して、柿沢は笑みを浮かべては、
「冗談ですよ! 冗談! ただ、冗談を言ったに過ぎないのですよ!」
そう柿沢に言われると、黒川は表情を綻ばせた。
だが、黒川は内心では、柿沢の言葉を否定してなかっただ、表面的に表情を綻ばせたに過ぎないのだ。
即ち、黒川は武井は実際には死んでなく、保険金を騙し盗り、その偽装工作が行なわれ、そこを突くことは金になると判断し、東京にやって来たのだ。
そんな黒川を見て、柿沢も笑みを浮かべた。
そして、二人は少しの間、声を上げては笑ったのだが、やがて、黒川は、
「で、保険金の受取人は、武井さんの奥さんだったのでしょうかね?」
そう言った黒川の表情には、笑みはなかった。
「さあ……。そこまでは知らないですね」
「柿沢さんは、武井さんの旦那さんを眼にしたことはありますかね?」
「いいえ。一度もないですよ」
「じゃ、旦那さんは、一体何をされていた方なんですかね?」
と、黒川が訊くと、柿沢は、
「あなたは、武井さんの友人だった方ですよね。だったら、武井さんが何をしていたかは、知ってるのではないですかね?」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、黒川は些か顔を赤らめ、
「ただダイビング関係で、多少の知人関係にあったというに過ぎないので……」
と、決まり悪そうに言った。
すると、柿沢はその点に関して、それ以上問おうとはしなかった。
そんな柿沢に黒川は、
「で、武井さんの奥さんは日本人ではなかったのですかね? つまり、中国人か韓国人ではなかったのかというような噂を耳にしたことがあるのですがね」
「そう言われてみれば、僕もそう思ったことがありますね」
と、柿沢も高木真由子と同じく、武井の奥さんが中国語か韓国語のような言葉を話してるのを耳にしたことがあると言った。
それで、黒川は、
「なるほど」
と、言っては、小さく肯いた。やはり、武井夫婦は、改めて胡散臭いと思ったのだ。
すると、柿沢は、
「ひょっとして、武井夫婦は、偽装結婚していたのではないでしょうかね」
と言っては、眼を鋭く光らせた。
「偽装結婚ですか……」
黒川は眉を顰めては、呟くように言った。
「戸籍を売るというようなことを聞いたことはありませんかね? 即ち、結婚する意思は無いのに、戸籍だけの夫婦というわけですよ。そうすれば、密入国しなくても、中国人は日本に住めますからね。こういった戸籍だけの結婚が行なわれているというTVを見たことがありますからね。だから、僕はそう思ったのですよ」
「ということは、武井さん夫婦もそうだったと言われるのですかね?」
「そうだとは断言してませんよ。
でも、こんなおんぼろマンションにどんな人が住んでるか、近所の住人は気にしませんからね。それ故、そういった可能性がないとは断言出来ないというわけですよ」
「ということは、旦那の方が日本人だったというわけですかね?」
「そうなるでしょうが、先程も言ったように、僕は旦那のことを見たことはないのですよ。でも、それ、妙だと言えるのではないですかね」
と、柿沢は正に胸に痞えていた疑問を吐き出すかのように言った。実際にも、柿沢はその思いを今まで胸に秘めていたのだが、一人暮らしの柿沢は、今までにそのことを誰にも話したことはなかったのだ。
「となると、どうなるのですかね?」
と黒川は渋面顔で言った。
「それは、どういうことですかね?」
「つまり、武井夫婦は偽装結婚で、旦那の方が死んだと思わせ、保険会社から保険金を騙し盗ったのではないかということなんですよ」
すると、柿沢は表情を綻ばせては、
「ですから、僕はそうではないかと言ったじゃないですか」
と言っては小さく肯いた。
だが、急に真顔を見せては、
「しかし、この種の事件には、中国マフイアが関係してるかもしれないですね」
そう言った柿沢は、そのようなことには、関わりを持ちたくないと言わんばかりであった。
だが、黒川の頭の中には、中国マフイアという思いはまるで浮かばず、ただ、武井夫婦の不正を暴き、口止め料をせしめるという思いしかなかった。
そして、黒川はこの柿沢という男性と話をして、正に成果があったと思った。何しろ、柿沢から黒川が入手したいと思ってる情報を入手出来たからだ。
それ故、武井夫婦を見付け出しては、保険金詐欺や偽装結婚のことを警察に言わない代わりに口止め料をせしめるつもりなのだ。
また、それを可能にするのには、武井夫婦の居場所を突き止めなければならないだろう。
とはいうものの、旦那の方は、死んだということになってるから、旦那と何ら面識のない黒川が、旦那を見付け出すことは、極めて困難だと言えるだろう。
となれば、保険会社を頼るしかないだろう。
とはいうものの、黒川は念の為に、
「武井さんの奥さんが何処に引っ越したか、分からないですかね?」
と、柿沢に確認してみた。
すると、柿沢は、
「知りませんね」
と、あっさりと言った。
2
この辺で黒川は柿沢との話を切り上げ、柿沢に礼を言っては、柿沢の室を後にした。
そんな黒川は、改めて武井夫婦が犯した事件が凡そ見えて来た。
即ち、武井夫婦は、戸籍だけの夫婦で、一緒に暮らしてなかった。恐らく武井は中国人の女性と戸籍上入籍して、その代償として、金を受け取った。
そして、今度は西表島で一芝居を打った。即ち、武井は実際には死んでいないのに、表面的には事故死したと思わせ、保険会社を騙し、保険金を受け取ったというわけだ。もっとも、死んだことになっている武井の旦那が今、どうしてるかは分からないのだが。
ただ、武井は戸籍を売った位の男だから、浮浪者みたいな男だったのかもしれない。そういった男なら、戸籍上死亡したとなっても、問題ないのかもしれない。
そして、今は中国マフィアなんかの助けを得て、中国で暮らしてるのかもしれない。
<となると……>
と、黒川は表情を曇らせた。
というのは、西表島で一芝居を打つには、仲宗根ダイビングショップの仲宗根次郎の協力が必要となるからだ。しかし、黒川とは違って、あの善人である仲宗根次郎が、武井の犯罪に協力するだろうか?
そう思うと、黒川の表情は、曇った。黒川には次郎がそのようなことに協力するとは思えなかったからだ。
とはいうものの、黒川とて、外見だけからでは、今、黒川が行なってるような暗部があるとは、思えないだろう。要するに、人間とは、外見では分からないものだということなのだ。
それはともかく、黒川は武井の妻の居場所や、武井の保険金受取人のことを突き止めなければならないだろう。それらの者は、武井の偽装工作に関わってるに違いないからだ。
黒川は、柿沢から得た情報を元に、S生命に電話を掛けた。そして、武井晴夫の死亡保険金に関して、訊きたいことがあると言うと、鈴木という係員が電話に出た。
―僕が武井さんの担当だった者ですが。
「武井さんは、西表島でダイビングをしてる時に事故死したのですから、S生命が保険金を支払ったのですかね?」
―そうですが。
「いくら支払ったのですかね?」
と、黒川が言うと、
―あなたは、どういった方なのですかね?
と言う鈴木の怪訝そうな声が聞こえた。
それで、黒川は、
「友人だった者ですが」
と、些か顔を赤らめながら、また、おどおどした表情で言った。
すると、そんな黒川の話を信じたのかどうかは分からないが、
―一億円ですね。
と、あっさり言った。
その金額の大きさを耳にして、黒川は思わず言葉を失ってしまった。
だが、黒川はすぐにこう言った。
「一億円は支払われたのですかね?」
―そりゃ、武井さんの遺体は上がらなかったのですから、問題がなかったわけではないのですよ。
しかし、武井さんがダイビングをしていたポイントは潮の流れが速く、また、今まで辺りで事故死したダイバーの遺体が上がらなかったこともあったので、うちは武井さんに保険金を支払ったというわけですよ。
と、鈴木は淡々とした口調で言った。
そんな鈴木に、黒川は、
「保険金の受取人は誰だったのですかね?」
と、言うと、鈴木は
―あなたは、武井さんとどういった間柄なんですかね?
と、この時点でやっと警戒したような言葉を発した。
「ですから、先程も言ったように、武井さんの友人だった者ですよ」
―友人ねぇ。しかし、保険金受取人のことを知ってどうなされつもりですかね?
それに、我々は身元が明らかになってない方に対しては、今のような質問には答えることは出来ないのですよ。
と、鈴木は冷ややかな口調で言った。
すると、黒川は眼を大きく見開いては、
「僕は武井さんの死に関して、耳寄りの情報を持ってるのですがね」
すると、鈴木はそんな黒川の言葉に興味を持ったのか、
―耳寄りの情報?
と、いかにも興味有りげに言った。
「ええ。そうです。耳寄りの情報ですよ」
と言っては、黒川は力強く肯いた。
―その耳寄りの情報って、どういったものですかね?
鈴木は再びいかにも興味有りげに言った。
「鈴木さんたちは、武井さんが本当に死んだと思ってるのですかね?」
黒川は眼を大きく見開いては、また、爛々と輝かせては言った。
黒川にそう言われると、鈴木は思わず言葉を詰まらせた。それは、思ってもみなかった言葉であったからだ。
だが、鈴木は、
―それ、どういうことですかね?
と、渋面顔で言った。
その鈴木の表情を眼にすれば、明らかに動揺した様を見ることが出来た。だが、電話で鈴木と話をしてる黒川は、そんな鈴木の表情を見ることは出来なかった。
「ですから、鈴木さんは、武井さんが、本当に死んだと思ってるのかということですよ」
と、黒川は鈴木に挑むかのように言った。
すると、鈴木は、
―そりゃ、死んだのですよ! 死体は上がらなかったですが。しかし、要するに、武井さんの遺体は、海の藻屑となってしまったのですよ。
と言っては、小さく肯いた。
「僕は、保険会社の審査がこんなに甘いとは思っていなかったですよ」
と、黒川はまるで鈴木を嘲るかのように言った。
そう黒川に言われると、鈴木は顔を赤らめては、言葉を詰まらせてしまった。
そんな鈴木に、黒川は更に話を続けた。
「武井さんの遺体は見付からなかったのですよね。それなのに、鈴木さんは死んだと看做してよいのかということですよ」
―ですから、武井さんがダイビングをしていたポイントは、潮の流れが速かった為に、武井さんの遺体は潮に流されてしまったのですよ。だから、我々は武井さんに保険金を支払ったのですよ。
と、まだ三十になったばかりの鈴木は、額の汗をハンカチで拭いながら、そして、顔を赤らめながら、送受器を握っていた。その鈴木の脳裏には、ミスをしたのではないかという思いが過ぎったのであった。
「だから、それは一般論の話であって、武井さんのケースもそれに該当するとは限らないのではないですかね? 武井さんの遺体が潮に流されたということを知ってるのは、その時に一緒にダイビングをしていた武井さんの奥さんとダイビングショップの係員の二人だけですよ。その二人の証言をあっさりと信じてよいのですかね?」
そう言った黒川は、もう投げ遣りになっていた。
というのは、武井たちの不正を暴き、武井たちから金をゆすり取ろうとしていたのだが、その思いは空振りに終わり、結局、保険会社に武井たちの不正を告発するだけに終わってしまいそうな状況になって来たからだ。
これは、本来の目的から大きく逸脱してしまうわけだが、やむを得ないという状況になりそうなのだ。それ故、投げ遣りの気持ちになってしまったのだ。
すると、鈴木は、
―田中さんは、武井さんは死んでないと推測されてるのですかね?
と、何となく丁寧な口調で言ったように、黒川には聞こえた。
「そうですよ。つまり、保険金を騙し盗る為に、事故死を装ったというわけですよ」
と、黒川は力を込めて言った。
すると、鈴木は十秒程言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
―それに関して、何か具体的な証拠があるのですかね?
と、鈴木は眼を大きく見開いては言った。
「そりゃ、ありますよ」
と言っては、黒川は小さく肯いた。
―じゃ、それを話していただけますかね。
と、鈴木はまるで黒川の機嫌を取るかのように、いかにも愛想良い口調で言った。
すると、黒川は、
「鈴木さんと直に会ってから話をしたいのですよ」
と言っては、にやっとした。
そう黒川に言われると、鈴木はそれを了承し、その結果、黒川は、S生命の本社を訪れることになった。
S生命の本社ビルは、西新宿のSビル内にあるとのことだ。
とはいうものの、黒川は今まで西新宿を訪れたことがなかったので、その旨を鈴木に言った。
それで、鈴木は行き方を丁寧に黒川に説明した。
そして、その結果、黒川のS生命行きが決まったのであった。
3
黒川は簡単な新宿の地図を片手に、何とかSビルに着くことが出来た。それは三十階以上はあると思われる高層ビルで、こんな高層ビルは無論沖縄にはなかった。
それはともかく、エスカレーターでSビルのエントランスにまで上がり、そして、二十五階までエレベーターで上がることになった。
因みに、Sビルのエントランスには、背広姿の紳士然とした人々が盛んに往き来し、カジュアルシャツにスニーカーの黒川は、場違いな場所に来てしまったと後悔した位であった。
それはともかく、早速エレベーターで二十五階まで上がると、S生命の受付はすぐに分かった。エレベーターから降りて、すぐ左側がS生命の受付だったからだ。
ブルーのコスチュームに身を包んだ若い受付嬢に、黒川の名前と来意を告げると、受付嬢は、
「少々お待ちください」
と言っては、右手にあった電話のボタンをプッシュした。そして、
「黒川さんが、お見えになりました」
すると、その一分後に、鈴木が姿を見せた。
鈴木は濃紺のスーツに身をぴったりと固め、銀縁の眼鏡を掛けたインテリ然とした男性だったが、まだ、何となく学生の面影が残ってるかのように黒川には見えた。
それはともかく、鈴木は黒川に対して、
「あなたが、田中さんですか」
と、愛想良い笑みを浮かべては言った。
「そうです」
と、黒川は小さく肯いた。
「僕が鈴木です。では、早速お話を伺いましょうか」
と言っては、黒川を階下の小さな会議室のような部屋に案内した。
サラリーマンを経験したことのない黒川は、このような立派なビルに入ることは無論、このようなビルの中の会議室のような室に入るのも、初めての経験だった。それ故、黒川は少し緊張してしまったが、冷静になるようにと、自らに言い聞かせた。
小さなテーブルを挟んで、黒川は鈴木と向い合うと、鈴木は早速本題を切り出した。
「黒川さんは、西表島でダイビング中に事故死した武井さんの死に関して、不審な思いを抱いておられるとか」
そう言った鈴木の表情には、笑みは見られなかった。そんな鈴木の表情は、いかにも真剣なものであった。
「そうなんですよ」
と言っては、黒川は小さく肯いた。
「では、黒川さんは、武井さんは、死んでないと言われるのですかね?」
「そうなんですよ」
と言っては黒川は肯き、そして、唇を噛み締めた。
「ということは、我々から保険金を騙し盗る為に、事故死を装ったと黒川さんは、言われるのですかね?」
鈴木は険しい表情を浮かべては言った。
「そうなんですよ」
と、黒川はいかにも真剣な表情を浮かべては、大きく肯いた。
「どうして、そう思われるのですかね?」
鈴木は険しい表情で、そして、黒川をまじまじと見やっては言った。
「そりゃ、色々と理由がありましてね。
で、鈴木さんは、武井夫婦のことを調べたことはあるのですかね?」
「そりゃ、調べましたよ」
「その結果は、どんなものでしたかね?」
「その点に関しては、まだ応えられませんよ」
そう言った鈴木は、それを話すかどうかは、黒川次第だと言わんばかりであった。
そんな鈴木に、黒川は「秋元マンション」で武井の室の隣人から入手したようなことを話した。
そんな黒川の話に、鈴木は言葉を挟まずにじっと耳を傾けていたが、黒川の話が一通り終わると、
「そのことなら、我々も既に確認していますよ」
と、いかにも余裕有りげな表情で言った。
「ということは、武井さんの妻が、中国人か韓国人であったという情報は、把握してるのですかね?」
「そりゃ、当然ですよ。そのようなことは調べれば、ちゃんと分かりますからね」
それなら、話し易いと黒川は思い、この時点で黒川の推理を一気に話すことにした。
「武井さん夫婦は、戸籍だけの夫婦ではなかったのですかね?」
「戸籍だけの夫婦?」
「そうです。戸籍だけの夫婦です。つまり、一緒に暮らしていなかったというわけですよ」
すると、鈴木は薄らと笑みを浮かべ、
「どうしてそのようなことが分かるのですかね?」
それで、黒川は高木真由子たちから入手したは情報を話した。
鈴木はそんな黒川の話にじっと耳を傾けていたが、
「別にそうだからといって、戸籍だけの夫婦だと断定することは出来ないと思いますね。何か特別な事情があるかもしれませんからね。
で、僕が武井さんの奥さんから聞いた話だと、武井さんは精神的に不安定で、ここ五年位は仕事をしてなかったそうです。それ以前は、建設会社で仕事をしていたことを確認しています。
それで、将来のことを考え、万一のことがあればということで、旦那さんに多額の保険金を掛けていたというわけですよ。それに関して、何ら不審点はないと思いますよ」
「では、二人の夫婦は、どれ位の間、夫婦だったのですかね?」
「五年ですね。保険を申し込んだのも、その時期だったですね」
「では、武井さんと会ったのですかね?」
「当然です。健康診断もちゃんと受診してますよ」
と言っては、鈴木は小さく肯いた。そんな鈴木は、その点なら考慮しても、武井の死に不審点はないと言わんばかりであった。
「では、保険金の受取人は誰だったのですかね?」
「そりゃ、奥さんですよ」
「では、奥さんに不審点はなかったのですかね?」
そう黒川に言われると、鈴木は言葉を詰まらせた。鈴木たちは、妻のことまでは深く調べなかったからだ。
そんな鈴木に、黒川は、
「武井さんは戸籍を売ったのではないですかね?」
「戸籍を売る?」
「そうです。つまり、中国人にですよ。武井さんはお金の為に中国人の奥さんと結婚したのですよ。ですから、夫婦生活はなかったというわけですよ。中国人の女性は、日本人と結婚すれば、日本に住めますからね」
と言っては、黒川は肯いた。
そんな黒川の話を耳にし、鈴木は言葉を詰まらせた。実のところ、黒川はそこまで考えてなかったのだ。
そんな鈴木に、黒川は更に話を続けた。
「それ故、そんな武井さん夫婦ですから、武井さんが事故死したと嘘をつき、保険金を騙し盗ったという可能性は、充分にあるのではないですかね?」
と、黒川は力強い口調で言っては、眼を鋭く光らせた。
すると、鈴木は険しい表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。そんな鈴木は、今の黒川の言葉の真偽を、頭の中で激しく見極めてるかのようであった。
そんな鈴木は、やがて、
「ということは、あの仲宗根ダイビングショップの仲宗根さんは、嘘をついたということですかね?」
そう言った鈴木は、正にあの誠実そうな仲宗根が嘘をついたなんて、信じられないと言わんばかりであった。何しろ、鈴木は実際にも西表島にまで行っては、仲宗根次郎と話をし、そして、次郎の証言を信じたのだ。それ故、保険金は支払われたのである。
そう鈴木に言われると、黒川は、
「恐らくそうでしょうね」
と渋面顔で言った。黒川とて、あの誠実な次郎が、そのような犯行に加担したなんて、信じられなかったのだ。
すると、鈴木は、
「信じられないな」
と、渋面顔を浮かべては、改めて言った。
「僕も信じられない位ですよ。でも、人間、見た目では、分からないですからね」
と言っては、黒川は唇を編み締めた。
すると、鈴木は眼を大きく見開き、
「で、田中さんは、どうして武井さんの死が、出鱈目だと睨んだのですかね?」
と、些か黒川に敬意を払うかのように言った。鈴木は今まで黒川のことをあまり信用してなかったのだが、黒川のもたらした情報とか洞察力がなかなかのものだと思ったのだ。
すると、黒川は慌てて笑顔を繕い、
「ですから、武井さんの部屋の両隣りの人から話を聞いたからですよ」
「でも、武井さんの死に不審点を感じたからこそ、東京にやって来たのですよね?」
「ええ……」
と、黒川は決まり悪そうに言った。
すると、鈴木は小さく肯き、
「ということは、西表島で武井さんが怪しいという感触を得たからだと思うのですよ。そうでないと、東京にまで来ては、武井さんのことを調べようとはしないと思うのですよ。そうではないですかね?」
と、鋭い眼差しで黒川を見やった。
すると、黒川は、
「ええ」
と、鈴木から眼を逸らせては決まり悪そうに言った。
すると、鈴木は小さく肯き、
「ですから、西表島で、何故武井さんの死に不審点を持ったのか、その理由を説明してもらいたいのですよ」
そう言われると、黒川の言葉は詰まった。
というのは、武井のことを調査する為に東京に来たのは、元はと言えば、次郎の電話を盗み聞きしたからだ。
しかし、それを言うのには、気が退けた。というのは、黒川は次郎とかなり親密な間柄であり、そんな次郎のことを保険会社に悪く言うのには、やはり気が退けたのだ。
しかし、その理由を説明しなければ、鈴木は納得しないだろう。
それで、黒川は、
「武井さんの奥さんが、旦那が事故死したにもかかわらず、然程哀しんでないとかいうような話を耳にしたことがありましてね。
それに、多額の保険金を受け取ったというような話も聞きました。
それらのことから、怪しいと思い、東京にまでやって来たというわけですよ」
と、鈴木に言い聞かせるかのように言った。
すると、鈴木はその黒川の説明に納得したのかどうかは分からないが、それ以上、その点に関して訊こうとはしなかった。
そして、鈴木は、
「ちょっと待っててくださいね」
と言っては、席を外した。
すると、その時、黒川は鈴木が机の上に置いて行った書類に眼が留まった。
それで、密かに頁を捲ってみたのだが、すると、武井八郎という名前が眼に留まった。
そして、武井八郎の住所と思われるものが記してあったので、黒川はそれを素早く手帳に書き留めたのであった。
やがて、鈴木が室に戻って来た。
しかし、鈴木は一人ではなかった。どうやら、鈴木の上司を連れて来たようだ。黒川の話を聞いて、鈴木は上司にも黒川の話を聞いてもらわなければならぬと思ったのかもしれない。
案の定、黒川は鈴木の上司だという岡田という男性に、鈴木に対して行なったのと同じような話を繰り返したのだった。
黒川の説明が一通り終わると、岡田は、
「分かりました。我々はもう一度、武井さんの事故のことを調べてみますよ」
と、冴えない表情で言っては、黒川の連絡先を聞き、黒川はやっとのことでS生命を後にしたのだった。