第八章 油断

     1

 そんな黒川は、再び国会図書館に向かった。武井八郎という男の居場所を住宅地図で調べる為だ。
 黒川は、武井八郎という男は、死亡したという武井晴夫の兄か弟だと看做した。あの書類に記されていたことだから、保険金を支払うにあたって、その武井八郎からS生命は話を聴いたのだろう。
 そして、八郎は晴夫は死んだと証言したのだろう。しかし、もし晴夫が生きているのなら、その事実を八郎が知ってる可能性は十分にあるというものだ。即ち、八郎は晴夫の共犯だというわけだ。
 その八郎が台東区の「スカイハイツ砂山」というマンションに住んでるようなのだ。黒川が盗み見した書類にはそのように記されていたのだ。
 もっとも、保険金の受取人は、妻の美由紀という女性らしいが、その美由紀の連絡先を盗み見することは出来なかったのだ。それで、武井八郎から当たってみようと黒川は思ったのだ。
 そして、程なく住宅地図で、それを見付けることは出来たのだが、しかし、この時、黒川の表情は曇った。何故なら、八郎が今もそこに住んでいるという保証はなかったからだ。
 それで、まず電話を掛けて、確認してみることにした。何しろ、黒川は八郎の電話番号もちゃっかりと盗み見するこに成功してたからだ。
 それで、黒川は公衆電話から、早速八郎に電話してみることにした。
 しかし、呼出音が鳴るばかりで、電話は繋がらなかった。
 しかし、呼出音が鳴るということは、まだ八郎は「スカイハイツ砂山」に住んでいるという証だろう。
 そして、手頃な場所で、八郎宅に行くにはどうするかを調べてみた。
 すると、それは銀座線で浅草まで行き、そこから歩いて十五分程で行けそうだった。
 それで、早速地下鉄に乗り、浅草に向かった。
 浅草からどういう風にして行けばよいか、分からなかったが、地図を頼りに歩き始めると、やはり、慣れない土地であった為に、思ってた以上に時間が掛かってしまったが、しかし、三十分程で、「スカイハイツ砂山」に着くことが出来た。それは、午後七時頃のことであった。
 その505室に八郎は住んでるらしかったので、黒川はまず一階にある郵便受けで確認してみたのだが、すると、黒川はすぐに笑みを浮かべた。何故なら、505室は、確かに武井八郎となってたからだ。
 それで、黒川はもう一度電話してみることにした。いきなり訪問するよりも、まず電話で話をしてみようと思ったのだ。
 呼出音が五回鳴った後、電話は繋がった。
―もしもし。
 男の声が聞こえた。
「武井八郎さんですかね?」
―そうだが。
 すると、黒川は小さく肯き、
「武井さんには、武井晴夫さんという兄弟がおられましたよね」
 と黒川が言うと、八郎の言葉が詰まった。 
 それで、黒川は同じ問いを繰り返した。
 すると、八郎は、
―あんたは一体誰なんだ?
 という冷ややかな声が聞こえた。
「武井さんの知人ですよ」
 と、黒川はそう言った。
 すると、八郎は言葉を詰まらせたので、そんな八郎に黒川は、
「武井さんは、三ヶ月前に亡くなりましたね?」
 と、黒川は眼を大きく見開いては言った。そんな黒川は、胸が激しく高鳴るのを感じていた。
 すると、八郎は、
―ああ。
 すると、黒川は小さく肯き、そして、
「西表島で、ダイビング中に亡くなられたのですよね?」
―ああ。
「遺体は見付からなかったのですよね」
―ああ。
「それなのに、奥さんは一億円の保険金を受け取ったというような話を耳にしたのですがね」
 と言うと、八郎は、
―あんたは一体誰なんだ?
 と、今度は怒ったような声が聞こえた。
「これは失礼しました。 
 僕は田中という者です。武井晴夫さんの知人だった者なんですよ。
 で、晴夫さんが三ヶ月前に西表島でダイビング中に事故死されたという話を耳にしたものですから、ご線香を上げさせてもらおうと思っていたのですが、事情がありまして、すぐに駆けつけることは出来なかったのですよ。それで、先日、武井さんのマンションに行ったのですが、転居されたというじゃないですか。で、何処に転居されたか分からなかったので、武井八郎さん宅に電話をしたのですよ」
 と、黒川はいかにも丁寧な口調で言った。
 そんな黒川に、八郎は、
―しかし、どうして俺の電話番号が分かったのかな?
 と、いかにも怪訝そうな表情で言った。
「保険会社から知ったのですよ」
 そう黒川が言うと、八郎は<余計なことをしやがって!>と、S生命の担当者に罵りの言葉を浴びせたが、それがは声に出さずに、
―そういうわけか。
 と呟くように言っては、
―でも、俺は兄貴の女房が何処に転居したのかは知らないよ。
 と、素っ気なく言った。
「そんな……」
 と、黒川はその言葉は信じられないと言わんばかりに言った。
―嘘じゃないさ。俺と兄貴の女房との関係は、あまり良好ではなかったんだよ。だから、知らないんだよ。
 そう言っては、八郎は顎に蓄えた髭に手を当てては、にやっとした。その笑みは、正に嫌味のある笑みであった。
 八郎にそう言われ、黒川の言葉は詰まったが、そんな八郎は、
―もうこれ位でいいかい?
 と、素っ気ない口調で言った。
 すると、黒川は表情を引き締めては、
「もう少し話したいことがあるんですよ」
 と言っては、いかにも真剣な表情を浮かべた。
―何だい、それは?
「晴夫さんの奥さんは中国人だったのですよね」
 そう言うと、八郎の言葉は詰まった。そんな八郎は、黒川の今の言葉を聞かされ、言葉を失ってしまったかのようであった。
 そんな八郎に、黒川は同じ言葉を繰り返した。
 すると、八郎は、
―どうしてあんたは、そのようなことを言うんだ?
 と、いかにも納得が出来ないように言った。
 それで、黒川は武井宅の隣室の住人からの証言を話した。
 すると、八郎は、
―どうしてあんたは、兄貴宅の隣室の住人から、兄貴のことを訊いたんだい?
 と、再びいかにも納得が出来ないように言った。
「ですから、奥さんに連絡を取りたかったからですよ」
 すると、八郎は言葉を詰まらせた。そんな八郎は、今の黒川の言葉にどのように答えればよいのか、迷ってるかのようであった。
 すると、黒川はこの際、遠慮せずに本題を切り出してやろうと思った。今、話さなければ、いつ話せるか分からなかったからだ。
「実は、僕は武井さんの死に関して何となく不審な思いを抱いていましてね」
 と、黒川は渋面顔を浮かべては言った。
―不審な思い? それ、どういうことなんだ?
「ですから、晴夫さんの遺体は、結局見付からなかったではないですか。じゃ、本当に晴夫さんは死んだのかという疑問が浮かんでも不思議ではないじゃないですか。
 それに、奥さんは中国人だったみたいで。更に、二人は一緒に暮らしていなかったみたいなんですよ。つまり、戸籍上だけの夫婦というわけですよ。
 更にそんな奥さんは保険金を一億円も手にしたというじゃないですか!
 それらの話からして、正に不審な思いを抱いても不思議ではないというわけですよ」
 と言っては、黒川は眼をキラリと光らせた。そんな黒川は、今の黒川の言葉に八郎が何と答えるか、興味津々であるかのようだった。
 黒川の話に、険しい表情を浮かべては、じっと耳を傾けていた八郎は、
―あんたは一体何を言いたいんだ? それに、あんたは何者なんだ? 
 と、些か苛立ったかのように言った。
「ですから、僕は単なる晴夫さんの知人だった者ですよ。
 で、何を言いたいのかというと、やはり、話がうま過ぎるということを言いたいのですよ」
 と、黒川は穏やかな声で言ったものの、その表情は、真剣そのものであった。
―だから、それはあんたの気の回し過ぎだというものだよ。
 と、八郎は穏やかな声で言ったが、その表情は、とても険しかった。
「そうですかね?
 実は僕は晴夫さんが西表島でダイビング中に事故死した時に、乗っていたダイビングショップのオーナーと知人関係にありましてね。
 もっとも、僕はそのオーナーから、晴夫さんの事故に関する秘密を聞いたわけではないのですが、そのオーナーがその秘密に関して、誰かと話をしていましてね。その話を僕は偶然耳にしてしまったのですよ。それで、僕は晴夫さんの事故の秘密を知ってしまったというわけですよ。
 と、黒川は正に八郎を脅すかのように言った。また、今の黒川の言葉は、正に八郎に対する切り札とも言える言葉であった。
 すると、八郎は、
―あんたは何かを勘違いしてるんだよ。もう馬鹿馬鹿しくて、あんたとは話をしてられないよ。もう電話を切るからな。
 と八郎は言っては、電話を切ろうとすると、
「ちょっと待ってくれよ」
 という黒川の甲高い声が飛び込んで来た。
 それで、八郎は眉を顰め、黒川の次の言葉を待った。
 そんな八郎に、黒川は、
「僕はそのオーナーが、晴夫さんの秘密に関して話してるのをICレコーダーで録音したんだよ。そのICレコーダーを警察に渡していいのかな」
 と言っては、にやっとした。その笑みは、黒川が滅多に見せたことのないような嫌味のある笑みであった。
 すると、八郎は送受器を手にしたまま、言葉を発そうとはしなかったが、そんな八郎は、甚だ険しいものであった。
 そんな八郎に、黒川は、
「このICレコーダーを警察に渡していいのかな」
 そう言った黒川の声は、甚だドスの利いたものであった。
 すると、八郎は、
―そのICレコーダーには、どういった会話が録音されてるのかな?
「それは、言えないよ」
 と、黒川は冷ややかな声で言った。
 すると、八郎は何やら考え込むような仕草を見せては、少しの間言葉を詰まらせたが、
―そのICレコーダーを今、持ってるのかな?
「今は持ってないさ」
黒川は素っ気なく言った。
―で、あんたは俺にそのような話をして、俺に何かやって欲しいのかな?
「俺は金が無いんだよ。とても困ってるんだよ。それに対して、あんたの身内は、一億円も手にしたじゃないか。その一億円を俺に少し位分けてくれたっていいじゃないのか」
 と言っては、黒川はにやっとした。その笑みは、黒川が滅多に見せたことのない嫌味のある笑みであった。
 すると、八郎は、
―あんたの目的は分かったよ。
 で、あんたは今、何処にいるんだ?
「あんたのマンションの近くにいるよ」
―じゃ、一度あんたと会って話をしたいんだよ。
 と八郎が言うと、黒川は警戒したような表情を浮かべた。何故なら、のこのこと八郎のマンションに行ってしまえば、八郎に危害を加えられるのではないかと、恐れたのだ。何しろ、黒川は六十を超えている。それ故、体力的には八郎には敵わないと思ったのだ。
 それで、黒川は、
「それは無理だな」
―何故だい?
 八郎は穏やかな声で言った。
「そりゃ、あんたのマンションにのこのこと行ってしまえば、あんたに危害を加えられるかもしれないからな」
 と、黒川は薄らと笑みを浮かべては言った。
―随分と用人深いんだな。
 と、八郎は苦笑しながら言った。そして、
―じゃ、外でならいいのかい?
 八郎は再び穏やかな声で言った。
「外でか……」
 黒川は呟くように言った。外なら、他人の眼がある。それ故、八郎も滅多なことは出来ないと思ったのだ。
 それに、黒川は黒いサングラスを持って来ていた。それを掛ければ、素顔を見られなくて済むとも思ったのだ。
 それ故、黒川は、
「外なら構わないさ」
―それに、あんたは小遣いが欲しいだろ。だったら、あんたの要求に応えてやってもいいさ。
 しかし、勘違いしないでくれよ。俺はただ、困ってる人を助けてやりたいだけなのさ。
 と、八郎は甘い声で言った。
 すると、黒川は、
「そうかい。あんたの気持は分かったよ。だったら、あんたの言葉に甘えてみようかな」
 と、いかにも嬉しそうに言った。
 この時、黒川は、どうやら今回の作戦、即ち、八郎をゆすり、八郎から小遣いを頂戴するという作戦は、成功したと思った。
 そんな黒川は、今からK駅近くにある天津屋という中華料理店の前で会う約束をした後、この時点で八郎との電話を終えたのであった。

     2

 天津屋という中華料理店は、八郎が言った通り、黒川でもすぐに分かった。
 それで、黒川は黒いサングラスを掛けては八郎を待つことにした。
 一方、八郎は黒川との電話を終えた後、直ちに何者かに電話を掛けた。そして、八郎は険しい表情を浮かべては、その相手と何やら話し込んでいたが、やがて、送受器を置いた。
 そんな八郎が向かった場所は、黒川との待ち合わせ場所の天津屋ではなく、そこから少し離れたアップルジャムという喫茶店であった。
 その喫茶店の前に着いた八郎は、険しい様を見せていた。何故なら、黒川と約束した時間は、刻一刻と迫っていたからだ。だが、八郎と待ち合わせをした男は、まだ姿を見せてなかったからだ。
 八郎がその喫茶店の前に来て、十分が経過した。それで、黒川と待ち合わせをした時間となってしまったのだ。
<何をしてるんだ。あの野郎!>
 と、八郎は舌打ちをした。八郎は八郎の仲間に黒川を尾行させ、黒川の素性を探らせようとしたのだ。それ故、黒川と会う約束を承諾したのだ。
 そんなわけなので、八郎はまだ姿を見せない天野哲哉なる二十一歳の若者に何度も罵りの言葉を浴びせていたのだが……。

 一方、黒川は既に約束の時間が十分も過ぎているにもかかわらず、まだ姿を見せない八郎に対して不審感を抱き始めていた。
 即ち、八郎は黒川に対して嘘をついたのではないかと勘繰り始めていたのだ。
 大体、八郎の説明は妙であった。
 困って入る人を助けてやりたいだと? そんな殊勝な人間がいるだろうか?
 八郎という男は、晴夫の偽装工作を知ってるに違いない。また、晴夫の共犯とも言える男なのだ! そんな男が、殊勝な人間である筈がないのだ!
 そういった思いが、自ずから黒川の脳裏に込み上げて来たのだ。
 すると、その時、黒川の左前方から、さっと男が近付いて来ては、
「あんたが、田中さんかい?」
 と、黒川に声を掛けて来た。
 黒川はその声に、聞き覚えがあった。
 即ち、この時点でやっと武井八郎が、黒川の前に姿を見せたのだ! 
 それで、黒川は思わず緊張してしまった。
 もっとも、黒川が緊張したのは、八郎が姿を見せたからというよりも、八郎を一目見て、八郎は一癖も二癖もある人物だと、感じたからだ。そのパンチパーマの髪に、顔の所処に傷が見られ、顎鬚を蓄え、肉感的な身体付き。
 こんな八郎のようなタイプの者は、八重山諸島では見られなかった。そう黒川は感じた。
 それ故、そんな八郎を見て、黒川は自ずから警戒心が働いたのだ。
 とはいうものの、黒川は八郎から声を掛けられたので、
「そうだ」
 と、冷静な口調で言った。
 すると、その男は、
「俺が、武井八郎だよ」
 そう言った八郎の表情は、やはり、黒川にとって、不気味に見えた。
 それはともかく、黒川は、
「会ってでないと話せない話って、何なんだい?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「それはないでしょう。あんたが、俺に妙な話を持ち込んだんだから」
 と言っては、八郎ににやにやした。
 すると、黒川は我に返ったような表情を浮かべては、
「そうだったな」
 と、些か顔を赤らめては言った。もっとも、黒川は黒いサングラスを掛けていたので、そんな黒川の表情を、八郎は具に見ることは出来なかったが。
 それはともかく、黒川は、
「で、俺が何を言いたいかと言うと、俺が言ったことは、当たってるよな」
 と、冷ややかな表情と口調で言った。
「いや」
 八郎はゆっくりではあるが、大きく頭を振った。
「じゃ、どうして俺が言った事を無視しなかったんだい?」
 黒川は些か納得が出来ないように言った。
「それは、あんたに妙なことを起こされたくないからさ。
 何しろ、今は物騒な世の中だからな。保険金目当ての事件など、しょっちゅう起こってるからな。だから、保険会社に妙な思いを抱かれてしまえば、面倒なことになり兼ねないからさ。だから、あんたの要望に応じようと思ったのさ」
 と、八郎は淡々とした口調で言った。
 そう八郎に言われ、黒川は<なるほど>と思った。その八郎の説明を聞くと、まるで八郎には、疾しいものはないと思わせる位であった。
 とはいうものの、黒川はとにかく、
「で、俺が持っているICレコーダーをいくらで買ってくれるのかな」
 と、八郎の顔をまじまじと見やっては言った。
「あんたは、いくらで買って欲しいのかな?」
 八郎は冷ややかな表情と口調で言った。
「一千万でどうかな」
 と、黒川は大きく吹っ掛けてみた。
 すると、八郎は苦笑しながら、
「一千万とは、いやに高いじゃないか」
 と、まるで話にならないと言わんばかりに言った。
「じゃ、取引を止めようかな。俺は、そのICレコーダーを警察に渡すことにするよ」
 そう言った黒川の姿を遠くから密かにビデオカメラに録画していた男がいた。その男が、八郎の仲間の天野哲哉だ。
 そんな哲哉のことを、黒川は八郎との会話に必死になっていた為に、まるで気付くことはなかった。
 八郎は、そう黒川に言われると、
「分かったよ。でも、もっと負けてくれないかな」
 と、まるで黒川に哀願するかのように言った。
「じゃ、八百万だ。しかし、これ以上、負けられないよ」
 すると、八郎は、
「分かった。じゃ、あんたの要求を呑むことにするよ」
 と言っては、苦笑した。
「さすがにあんたは、物分かりがいいな。
 で、金はいつ渡してくれるんだ?」
 と、黒川は声を弾ませては言った。
 黒川はこの時、天にでも昇るような気持ちになっていた。八百万もお金が、こうあっさりと手に入るとは思ってなかったからだ。そして、黒川はやっと黒川にも運が巡って来たという思いを抱いたのだ。
「金は、定期預金にしてあるんだよ。それを解約しなければならないから、二週間程待って欲しいんだよ」
 八郎は決まり悪そうに言った。
「二週間? いやに時間が掛かるじゃないか」
 黒川は不満そうに言った。
「仕方ないじゃないか。解約するのに、結構時間が掛かるんだよ」
 と、八郎は渋面顔で言った。
 すると、黒川はその八郎の言葉を信じたのか、
「仕方ないな。で、何処で渡してくれるのかな」
「この場所はどうかな」
「この場所? こんな場所で、八百万あるかどうかなんて、数えられないよ」
「だから、喫茶店に入って、数えればいいじゃないか」
「なるほど。それでいいよ」
 そんな黒川に、八郎は、
「で、あんたは、晴夫兄さんの知人だったのかい?」
「まあ、そんなものかな」
「そんなものって、もう少し詳しく話をしてくれないかな」
 八郎は些か不満そうに言った。
「だから、ダイビングの関係で知り合ったんだよ」
「ダイビングの関係か。でも、兄貴はそう何度もダイビングをやってないと思うんだけど」
 そう八郎に言われると、黒川の言葉は詰まった。
 そんな黒川を見て、八郎ににやにやし、
「やはり、あんたは兄貴の知人ではないんだな。単なる西表島の小悪党に過ぎないんだろ?」
 そう八郎に言われると、黒川は八郎から眼を逸らせては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんな黒川は、何故八郎が、黒川が西表島に住んでいるということを知ってるのか、不思議であった。
 すると、八郎はそんな黒川の疑問に答えるかのように、
「あんたは、西表島のダイビングショップのオーナーと知り合いだと言ってたじゃないか。だから、あんたは西表島の住人だと思ったんだよ」
 と言っては、再びにやにやした。
 すると、黒川は、<なるほど>と思った。また、西表島の住人と身元がばれてしまったのは、まずいと思った。何しろ、西表島の住人の数は、決して多くはないのだから。
 それで、黒川は、
「いいや。俺は本土の人間なんだよ。武井さんとは、たまたま西表島で一緒になっただけなんだよ」
 と、誤魔化した。
 すると、八郎から笑みは消えた。
 だが、八郎はすぐに笑みを見せると、
「分かったよ」
 と言っては、小さく肯いた。そして、
「で、話って、これ位かな?」
「ああ。そうだ」
 と、黒川は言っては、小さく肯いた。
「そうかい。じゃ、今日はこれ位にしておこうか」
「それで、いいよ。じゃ、二週間後にこの場所でな」
 と黒川が言っては、この時点で二人は別れた。
 そして、黒川は八郎に背を向けては歩き出した。
 そして、黒川は背後を振り返ることなく、駅の切符売り場に向かい、切符を買うと、まるで滑るようにホームに向かい始めた。
 そんな黒川の後を尾行してる輩がいるなんて、黒川は思ってもみなかったのだった。

     3

 黒川は新宿駅に向かう電車の中で、車窓から流れ行く都会の光景に眼を白黒させていたのだが、今日の疲労が一気に押し寄せて来た。正に大きな仕事を終えた後の虚脱感というものだろうか。
 そんな黒川は、まるで夢遊病者のように、今夜の宿泊先のビジネスホテルに向かっていた。それは、新宿駅の南口の方にあるのだが、黒川は無論、そちらの方に行ったことはなかった。
 それで、道を間違えたりはしたが、何とか、そのビジネスホテルに行き着くことが出来たのだった。
 そんな黒川であったから、哲哉が尾行して来たなんてことは、てんで気が付かなかったのだ。
 そして、黒川はビジネスホテルに入ると宿泊カードに自らの住所と名前を書いた。
 それが終わると、エレベーターに乗った。
 そんな黒川の近くにあるソファに腰を降ろしていた哲哉は、黒川と共にエレベーターに乗り込んだ。
 だが、黒川はそんな哲哉のことを疑うことはまるでなかった。
 そして、黒川が、四階の404号室に行った事を確認すると、哲哉はこの時点で、事の成り行きを八郎に携帯電話で報告した。
 すると、八郎は、
―フロントは、田中の連絡先を話しはしないさ。
 と、渋面顔で言った。
「僕もそう思いますよ」
 と、哲哉も渋面顔で言った。
―でも、田中の姿は、はっきりとビデオカメラで撮ったんだろ?
「その点はばっちりですよ。黒いサングラスを外した素顔を撮ることが出来ましたからね」
 と、哲哉は弾むような口調で言った。
―だったら、その線から、あいつの素性を確かめることは可能だよ。
「と言われると?」
―だから、俺はあいつの知人というダイビングショップのオーナーのことを知ってるんだ。だから、お前が撮ったあいつのビデオを見せれば、分かるというわけさ。
「なるほど。流石、兄貴ですね」
 と、哲哉は感心したように言った。
 そんなとに、八郎は、
―で、フロントマンに田中の住所を訊くんじゃないぞ! そんなことをすれば、足が付くかもしれないからな!
 と、声を荒げて言った。
「足が付くですか……」
 八郎の言葉の意味がよく分からなかったので、哲哉は怪訝そうな表情を浮かべたのだが、そんな哲哉に、八郎は念を押した。
 それで、哲哉はとにか、その場から足早に立ち去ったのだった。

 哲哉が撮ったビデオカメラから、田中の本名と住所が分かった。即ち、西表島の仲宗根次郎にビデオカメラで撮った映像を見せ、それが明らかになったのだ。
 そして、そのことが、平和な島であった西表島に、不幸が発生する発端となってしまったのである!

  

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