第九章 不幸の始まり
1
西表島の北部の玄関口である上原港では、朝の八時前なのに、四、五十人程の人が姿を見せていた。
というのは、石垣島行きの連絡船が八時に出航するからだ。つまり、その四、五十人程の人は、その連絡船に乗船する人だったのだ!
その中に、安里佳子という五十歳の石垣島在住の婦人は、何気なく海に眼をやっていた。佳子は、西表島にいる友人宅に遊びに来ていて、そして、その友人宅に泊まり、今朝石垣島に戻ることになっていた。
そんな佳子は、海に向かって大きく伸びをしたのだが、温厚で人良さそうな佳子の表情が、その時、大きく歪んだ。というのは、佳子はその時、とんでもないものを眼にしてしまったからだ。
その佳子が眼にしたものは、正に人間だった。人間としかいいようがないものが、佳子が佇んでいる岸壁から十メートル程先の所で、ぷかぷかと浮かんでいるのだ。
その様を眼にして、佳子は頭の中が空白になってしまい、言葉を失ってしまった。
だが、すぐに我に返り、近くにいる人に、
「あれを見てください!」
と言い、その人間と思われるものを指差した。
すると、その佳子と同年齢と思われる位の婦人、岡田春子の表情も、忽ち強張った。それが人間だと理解したからだ。
やがて、その知らせが警察に伝わると、駐在署の警官が直ちに駆け付け、消防団員の者たちとそれを陸上げすることに成功した。
それは、確かに人間の遺体であった。六十半ば位の男性の遺体であった。
その男性の身元はすぐに明らかにあった。何故なら、その消防団員の中に、その男性のことを知ってる者がいたからだ。
そして、その遺体は、上原在住の魚師兼、民宿経営の黒川佐吉だったのだ!
黒川の死の知らせを受けて、妻の早苗は直ちに黒川の遺体が安置されてる石垣島にあるS病院に駆け付けた。そして、変わり果てた黒川を眼にして、しばらくの間、甲高い声で泣き続けた。
だが、早苗の泣き声はやがて、小さくなり、止まった。
そんな早苗に、八重山署の末吉明則警部(50)は、
「全くお気の毒です」
と、早苗にまず悔みの言葉を述べた。そして、
「ご主人は事故に遭われたか、あるいは、自殺されたのではないかと思うのですがね」
と、言いにくそうに言った。
黒川の死因は水死と既に明らかになっていた。それで、八重山署としては、黒川の死は事故か自殺と看做していたのだ。
その末吉の言葉は、早苗にとって意外なものであった。
それで、早苗は、思わず、
「信じられません!」
と、甲高い声で言った。
早苗の言葉を耳にして、末吉は言葉を発そうとはしなかった。早苗は夫の死を目の当たりにして、今は冷静に話を出来る状態ではないと思ったのだ。
そんな末吉に、早苗は、
「主人は事故死でも、自殺でもありません!」
と、再び甲高い声で言った。
それで、末吉は、
「じゃ、何故ご主人は亡くなられたと思いますかね?」
と、神妙な表情で言った。
「そりゃ……、そりゃ……、分からないです」
と、早苗は末吉から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
すると、末吉は、
「そうですか」
と、殊勝な表情を浮かべてた。早苗は黒川を亡くしたショックで、冷静な判断が出来ないと察知したのだ。
だが、早苗は、
「主人は、上原港の辺りをまるで自分の家のように知っていましたからね。そんな主人が上原港で事故死する筈はありません!
それに、主人は昨日だけではなく、最近はとても愉しそうにしていたのですよ。そんな主人が自殺する筈もないのですよ!」
と、早苗は声を荒げて言った。
それを聞いて、末吉は眉を顰めた。
末吉たちは、現場の状況から、黒川は事故死か自殺に違いないと看做していたのだが、末吉たちのその見解は正しくないという思いが過ぎったからだ。となると、殺しなのか?
事故死でも自殺でもないとなると、黒川の死は殺しによってもたらされたという可能性も出て来るのだ。
黒川の死は水死に間違いない。検視の結果、そう医師が看做したのだから。
しかし、犯人に無理矢理海水を飲まされ、殺しを闇に葬ろうとした可能性も考えられるというものだ。
それで、末吉は、
「では、奥さんはご主人は何者かに殺されたと思われてるのですかね?」
と、眉を顰めては、言いにくそうに言った。
すると、早苗は末吉から眼を逸らせては、いかに決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。その早苗の表情は、黒川が殺されたと思うことも、信じられないと言わんばかりであった。
それはともかく、黒川の死は、殺しも有り得ると看做し、早速その線に基づいて早苗から話を聞いてみることにした。
「では、ご主人は誰かとトラブルを抱えていたのですかね?」
と、末吉は早苗の顔をまじまじと見やっては言った。
「そのようなものは、抱えていなかったと思いますね。主人は私にそのような話をしたことはありませんからね」
と、早苗は冴えない表情で言った。
そんな早苗に、末吉は、
「どんな些細なことでも構いませんから、何か気付いたことがあれば、遠慮なく話してもらえないですかね」
と、穏やかな表情と口調で言った。
すると、早苗は、
「こんなことは、余り言いたくはないのですが、主人には妙な癖がありましてね」
「妙な癖ですか……。それは、どういったものですかね?」
末吉は興味有りげに言った。
「主人は、他人の弱みなんかに付け込んだりしては、お金をゆすったりするような癖があったのですよ。妙な癖というより、悪癖といった方がいいと思うのですが……」
と、早苗は末吉から眼を逸らせたまま、渋面顔で言った。
そう早苗に言われると、末吉は、
「ほう……」
と、呟くように言った。黒川のその悪癖が、黒川の命を奪う原因となった可能性は、充分あると、末吉は思ったからだ。
それ故、その悪癖とやらを早苗からもっと詳しく聞く必要があるだろう。
そう思った末吉は、
「黒川さんは、その悪癖に関して、具体的にどういったことをやったのですかね?」
「大原に住んでいる主人の知人の奥さんが、石垣島の男性と浮気してるという情報を入手したことがありましてね。
すると、主人は、『旦那に話さない代わりに、口止め料を払え』と、奥さんをゆすったことがあるのですよ。
私は人づてにそのことを聞いたので、私は主人にそのことを問い詰めたのですがね。
すると、主人は否定はしましたがね。でも、その時の主人の様はとてもぎこちないものでした。私は主人は嘘をついてると思いましたね。
でも、そういった話は私の耳に度々入って来たのですよ。つまり、その噂は事実だということですよ。
でも、主人を責めることは出来ませんでした。何しろ、うちは貧乏なので、その貧乏が主人をそのような行為に駆り立てたのだと思います」
と、早苗はいかにも決まり悪そうに言った。
「なるほど。となると、黒川さんが何者かに殺されたのなら、その悪癖が関係してそうですね」
と、末吉は早苗に言い聞かせるかのように言った。
すると、早苗は決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
そんな早苗に、末吉は、
「では、黒川さんは最近、その悪癖を行なっていたような形跡はなかったですかね?」
と言っては、唇を歪めた。
すると、早苗は、
「特に心当りありませんね。それに、私が勝手に悪癖と思ってるだけで、主人はそれに関して具体的に私に話したことは、今までに一度もありませんでしたから。 それに、何故私がその悪癖のことを知っていたかと言うと、何しろ、西表島は人口の少ない島ですからね。そのようなことをやれば、自ずから耳に入って来るというわけですよ」
と、末吉から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうに言った。
「なるほど。では、最近のご主人に、何か変化は見られなかったですかね? つまり、今までとは違った何かをやったとか、話したとかいうようなことですが」 と、末吉は取り敢えずそう言った。
すると、早苗は何やら考え込むような仕草を見せては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「そういえば、最近、主人は妙なことをやりましたね」
と言っては、眉を顰めた。
「それは、どういったことですかね?」
末吉は好奇心を露にしては言った。
「二週間程前ですが、主人は東京に行ったのですよ」
「東京ですか……」
末吉は呟くように言った。
だが、末吉はそれが妙なこととは思えなかった。それで、
「どうして東京に行ったことが、妙なのですかね?」
と、怪訝そうな表情で言った。
「主人は東京は好きではなかったのですよ。東京のことをゴミゴミした人が多い物騒な所と、嫌っていたのですよ。それ故、今まで一度も東京に行ったことはなかったのですよ。
それに、二週間前に、突如東京に行くと言い出し、実際にも行ったのですよ。
そんな主人は、私に土産を買って来ると、言っていたのに、そのこともすっかり忘れてしまっていたのですよ」
と、早苗は神妙な表情を浮かべては言った。
「では、黒川さんは、東京には何をしに行くと言っていたのですかね?」
「観光の為だとか言ってましたね。しかし、東京は嫌いだと言っていたのに、どうして今になって、観光の為に東京に行ったのか、私にはよく分からないのですよ」
と、早苗は再び神妙な表情で言った。
それ聞いて、末吉は眼を鋭く光らせた。というのは、黒川が突如、東京に行ったことが、黒川の死に関係してると思ったからだ。それ故、黒川の東京行きの理由が分かれば、黒川の死の謎を解明出来るかもしれない。
そう思った末吉は、その思いを早苗に話した。
だが、早苗は、
「そう言われても、私は何故主人が東京に行ったのか、分からないのですよ。ただ、観光目的ではないとは思うのですが……」
と、末吉から眼を逸らせては、決まり悪そうに言った。
「そうですか。では、何か手掛かりがあるかもしれなので、黒川さんの部屋を捜査させてください」
ということになり、末吉は黒川の部屋を捜査することになった。
2
すると、黒川の手帳に興味深いものが記されてるの眼に留めた。
というのは、東京都台東区内にある住所とマンション名が記されていたからだ。そのマンションは「秋元マンション」となっていて、また、武井という名前も記されてたのだ。
それで、末吉はその部分を早苗に見せた。そして、
「この東京の住所と武井という名前に心当りありますかね?」
「ないですね。うちには、東京の知り合いはいませんからね」
と、早苗は渋面顔で言った。
とはいうものの、末吉は確かに手応えを感じていた。というのは、黒川が東京に行った目的が、その「秋元マンション」を訪ねることにあったと思ったからだ。そして、そのマンションには、武井という人物が住んでいたのかもしれない。
それで、引き続き、黒川の部屋を調べてみた。
すると、再び興味深いものを見付けることが出来た。
それは航空券であった。しかも、今日の航空券であった。
即ち、今日発の石垣島から東京への航空券が、何と黒川の部屋の中にあった机の引出しの中から見付かったのだ。
それを受けて、
「これは、一体どういうことなんでしょうかね?」
と、早苗は眼を丸くさせては言った。
「つまり、ご主人は、もし生きておられたら、今日、東京に行っていたということですよ」
と、末吉は言っては、肯いた。そして、
「それに関して、黒川さんは何か話しておられましたかね?」
と、早苗の眼を見据えては言った。
「いいえ。主人はそれに関して私に何も言ってなかったですね」
早苗は決まり悪そうに言った。
それを聞いて、末吉は些か険しい表情を浮かべては、小さく肯いた。やはり、黒川の死は、東京が関係してると思ったからだ。
そして、「秋元マンション」の武井が関係してる可能性は充分にある。
それで、末吉は警視庁に電話をしては、「秋元マンション」の武井という人物に関して調べてもらった。
すると、警視庁の西村慎一という警部補が、
―武井さんは、四ヶ月程前に亡くなっています。
と、淡々とした口調で言った。
「亡くなった、ですか……」
―そうです。武井さんとは、武井晴夫さんのことですよね?
「そこまでは分からないのですが……」
―そうですか。でも、その武井晴夫という人物は、四ヶ月前に亡くなってますよ。
と、素っ気なく言った。
「そうですか。で、武井さんのことで、それ以外に何か分かりませんかね?」
―前科者ではありませんね。
と、再び素っ気なく言った。
その西村の言葉を耳にして、末吉の表情は、突如、強張った。武井という名前は、何処かで聞いたような名前だったからだ。だが、この時、思い出したのだ。
即ち、武井晴夫とは、四ヶ月前に、バラス島周辺のダイビングポイントで事故死した人物だったのだ。そうに違いない!
そう思った末吉は、思わず言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな末吉に、西村は、
―この辺でいですかね?
と、渋面顔で言った。
すると、末吉は笑顔を繕い、
「その武井という人物は、何処で亡くなったのですかね? また、何故死んだのか、分かりますかね?」
―そこまでは、分からないですね。
と、西村は淡々とした口調で言った。
それで、末吉はこの辺で一旦西村との電話を終えることにした。
送受器を置くと、末吉は甚だ険しい表情を浮かべた。即ち、黒川の手帳に記されていた東京都台東区「秋元マンション」の武井という男性は、四ヶ月前にバラス島周辺のダイビングポイントで事故死した男性に違いないのだ! 武井の死亡した時期といい、東京と何ら縁の無かった黒川が、何故武井のことを知っていたのかという説明も、武井が西表島に来ていたことから、うまく説明が出来るというものだ。
それで、末吉は早速、四ヶ月前に西表島で事故死したのが、東京の台東区の「秋元マンション」に住んでいた武井なのかどうか、調べてみた。
すると、やはり、末吉の勘は当たった。やはり、四か月前にバラス島周辺のダイビングポイントで事故死した武井は、東京都台東区在となってたからだ。
この事実を確認出来て、末吉は表情を綻ばせたが、しかし、それは僅かな間だけであった。末吉はすぐに険しい表情を浮かべた。何故なら、何故四ヶ月前に事故死した武井が、何故黒川の死に関係してるのか、分からなかったからだ。
それに、黒川は何故四ヶ月前に死亡した武井のマンションを訪ねたのだろうか?
末吉はその謎を解明する為に、険しい表情を浮かべながら、腕組みをし、何やら考え込んでいたのだが、やがて、<黒川さんは、本当に武井のマンションである「秋元マンション」を訪ねたのか?>という疑問が沸き上がって来た。黒川の手帳に武井の住所が記されていたが、本当に訪れたという保証はないのだ。
それ故、この点を再び警視庁に捜査を依頼し、調べてもらうことにした。
また、末吉は武井をバラス島周辺のポイントに案内したという仲宗根ダイビングショップの仲宗根次郎という男性から、話を聴いてみることにした。
3
仲宗根ダイビングショップに、制服姿の末吉が姿を見せると、次郎はデッキチェアに腰を降ろしては、何となく落ち着かない様を見せていた。
そんな次郎に、末吉は、
「先程電話した、八重山署の末吉です」
と言っては、軽く頭を下げた。そして、
「で、僕は先日、上原港で水死体で発見された黒川佐吉さんの事件を捜査してるですがね」
と、眉を顰めて言うと、次郎は、
「事件? 黒川さんの死は、事故ではなかったのですかね?」
と、些か驚いたように言った。
「いや。その辺は、まだ何とも言えないのですよ」
と、末吉は渋面顔で言った。
すると、次郎は眼を大きく見開き、
「まさか黒川さんは殺された可能性があると言われるのではないでしょうね?」
と、末吉をまじまじと見やっては言った。
「それが、その可能性が全く無いとは言えないのですよ」
と、末吉は次郎から眼を逸らせては、言いにそうに言った。
「どうして、その可能性があるのですかね?」
次郎は身を乗り出し、好奇心を露にしては言った。
「そりゃ、黒川さんの奥さんは、黒川さんが自殺することは有り得ないと言われるし、また、上原港の辺りは、まるで自分の家の庭のように、熟知していたそうなんですよ。それ故、事故死も有り得ないと言われるのですよ。となると、自殺に見せ掛けた殺しという可能性も有り得るわけですよ」
と、末吉は次郎をまじまじと見やっては言った。
「……」
「で、仲宗根さんに訊きたいのは、四ヶ月前にバラス島周辺のダイビングスポットで事故死した武井さんのことなんですよ」
と言っては、末吉は小さく肯いた。
すると、次郎は、
「それは、どんなことですかね?」
と、いかにも落ち着いた口調で言った。
「武井さんの死が、黒川さんの死に関係してるかもしれないんですよ。僕はそういった印象を持ってましてね」
と末吉が言うと、次郎の表情は、さっと蒼褪めた。
だが、すぐに表情を元に戻した。そんな次郎は、次の末吉の言葉を待ってるかのようであった。
そんな次郎に、末吉は話を続けた。
「というのは、黒川さんの手帳に、武井さんの東京の住所と名前がメモされていたのですよ」
と言っては、末吉は小さく肯いた。
すると、次郎は、
「そうなんですか……」
と言うに留まった。
そんな次郎に、末吉は、
「何故そうなのか、仲宗根さんは心当りありますかね?」
と、次郎の顔をまじまじと見やっては言った。この末吉の問いによって、何か真新しい情報を入手出来ることを期待したのだ。
だが、次郎の返答は末吉の期待外れなものであった。次郎は、
「特にないですね」
と、素っ気ない口調で言ったからだ。
そう次郎に言われ、末吉は落胆したような表情を浮かべたが、
「では、何故黒川さんの手帳に、武井さんの名前と住所が記されていたのでしょうかね?」
と言っては、末吉は首を傾げた。
「そう言われても、僕には分からないですね」
と言っては、次郎も首を傾げた。
「武井さんが西表島に来た時に、武井さんは黒川さんと接点を持ったのではないですかね?」
と、末吉は正にそうに違いないと言わんばかりに言った。
「さあ……。そう言われても、僕では何とも言えないですね。僕は武井さんが西表島を訪れてから常に行動を共にしていたわけではありませんからね。僕が武井さんと行動を共にしたのは、ダイビングをしていた時だけですからね」
と、次郎は末吉を見やっては、申し訳なさそうに言った。
「ということは、武井さんは黒川さんに関して、何ら言及してなかったのですかね?」
「全くしてなかったですね」
「だったら、黒川さんは、武井さんに関して、何か言及してなかったですかね?」
と、末吉が訊くと、次郎は一瞬、狼狽したような表情を浮かべたが、すぐに表情を元に戻し、
「別に言ってませんでしたがね」
と、素っ気ない口調で言った。
次郎にそう言われ、末吉は再び落胆したような表情を浮かべた。次郎から、何か有力な情報を入手出来るのではないかと、期待していたのだが、その期待は、どうやら、空振りに終わってしまったみただからだ。
だが、末吉は、
「では、武井さんが西表島に来た時に、何処の宿に泊まったのですかね?」
「僕はそこまでは把握してなかったですね」
そう次郎に言われたので、末吉はそれに関しては明らかにしなければならないと思った。何故なら、黒川は西表島の何処かで武井と接点を持ち、それが黒川の死に繋がった可能性は、充分にあると思ったからだ。
そんな末吉は、この辺で仲宗根ダイビングショップを後にした。
末吉が去って行くと、次郎は渋面顔を浮かべては、大きく溜息をついた。そんな次郎は、とても疲れているようであった。
そして、そんな次郎の後ろ姿を、店の奥の方から次郎より一層深刻な顔をしては、二人の会話に聞き耳を立てていた花江の姿に、次郎は気付くことはなかった。
4
八重山署に戻ると、そんな末吉に伝言が入っていた。それは、警視庁の西村警部補からであった。
それで、末吉は直ちに西村に電話をした。
すると、西村は、
―末吉さんが欲しそうな情報を入手しましたよ。
と、そのごつい顔をにやにやさせた。
「それは、どんものですかね?」
末吉は眼を輝やかせては言った。
―実はですね。得体の知れないような年配の男性が、二週間程前に「秋元マンション」の武井さんが住んでいた室を訪ねては、その両隣の居住者に武井さんに関して、色々と話を訊いていたそうなんですよ。それで、末吉さんから送られて来た黒川さんの写真を見せたところ、その男性は、黒川さんに間違いないという証言を入手出来ましたよ。
と、西村は声を弾ませては言った。
それを聞いて、末吉は、
「やはり、そうでしたか」
と言っては、大きく肯いた。そんな黒川は、やはり、黒川の死には、武井が関係してるという思いを一層強くした。
そんな末吉に、西村は、
―黒川さんは、武井さんに関して、色々と調べていたみたいですよ。
と、高木真由子と柿沢から入手した話を末吉に話した。
そんな西村の話を、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていた末吉は、自ずから疑問が込み上げて来た。それは、何故そこまでして、黒川は武井のことを調べなければならなかったのかということだ。
それで、その疑問を西村に話した。
すると、西村は、
―実はですね。我々はそれ関しても、既に突き止めているのですよ。
と、得意気に言った。
「それはどういったものですかね?」
と、末吉は眼を大きく見開き、輝かせては言った。
―実はですね。黒川さんは、武井さんの死に疑問を持っていたみたいなのですよ。
「武井さんの死に疑問を持っていた?」
末吉はそれは思ってもみなかった言葉だったので、甲高い声で言った。
―ええ。そうです。つまり、武井さんは実際には死んでなく、死んだと見せ掛けては、保険金を騙し盗ったのではないかと、疑っていたみたいなんですよ。
「そんな!」
と、末吉はまたしても甲高い声で言った。それは、正に末吉が予想だにしてなかった言葉だったからだ。
―それ以外としても、黒川さんは、武井さん夫婦が偽装結婚したのではないかと、疑っていたみたいなんですよ。つまり、二人は戸籍上だけの夫婦だったと疑っていたみたいなんですよ。何しろ、武井さんの奥さんは中国人だったみたいですからね。
そんな武井さん夫婦ですから、保険金を騙し盗っても不思議ではないと黒川さんは、思っていたいですよ。
西村の話を聞いている内に、黒川が何故殺されたのか、見えて来た。
即ち、黒川は余計なことに突っ込み過ぎたのだ。黒川の妻が言っていたように、黒川の悪い癖が出てしまったのだ。
黒川は何故だか分からないが、武井の死に疑問を持ち、その真相を探ろうとしたのだ。そして、その為に、武井の保険金詐欺に関わった連中に殺されてしまったのだ! その可能性は、充分にある!
それで、末吉はその推理を西村に話してみた。
すると、西村は、
―僕もその推理に賛成ですよ。
「となると、武井さんを見付け出さなければなりませんね」
―そうですね。といっても、戸籍の上では、死亡したことになってますからね。ですから、武井さんは既に海外に脱出してるかもしれませんよ。となると、武井さんのことを見付け出すことは、むずかしいかもしれませんね。
と、西村は渋面顔で言った。
「確かにそうですね」
末吉は確かに事件解決の道程は相当に険しそうだと思い、思わず額の脂汗をハンカチで拭った。
「で、武井さんの死亡保険金を受け取ったのは、誰なんですかね?」
―まだ、そこまでは調べてないのですよ。
で、武井さんが住んでいた「秋元マンション」の室は、現在空室になってるみたいですね。つまり、武井さんの奥さんは何処かに転居したのですよ。もっとも、何処に転居したのかは分かってませんが。
そして、西村との電話は、この辺で終わった。
西村からもたらされた情報からも、黒川の死はやはり殺しによってもたらされたという思いを末吉は強くした。そして、今後は、その線から捜査しなければならないと思った。
また、黒川を殺したのは、無論、武井の保険金詐欺に関わった者だろう。
となると、末吉たちが東京にまで行っては、捜査しなければならなくなるのか。
そう思うと、末吉は気が重かったが、そんな末吉に、東京から電話が入った。そして、その人物は、中上貫太郎と名乗った。
5
中上貫太郎は、
―先日、西表島で亡くなった上原に住んでいた黒川佐吉さんのことで、話したいことがあるのですがね。
「それは、どんなことですかね?」
末吉はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
―黒川さんは何故死んだのか、既に明らかになってるのですかね?
貫太郎は、花江から黒川の死の知らせを受けて、黒川の死に思い当たることがあったのだ。それで、黒川の死を捜査してるという八重山署に電話をしたのだ。
そして、その思い当たることとは、件のキャラメルの箱の件であった。そのことが、黒川の死に関係してるのではないかと、貫太郎は思ったのだ。
「いや。まだ明らかになってませんよ」
―事故死したとかいうようなことも、まだ分からないのですかね?
「そうですよ。まだ、捜査中という状況なんですよ。もっとも、死因が水死ということは、明らかになってはいるのですがね」
黒川の死が水死ということは、貫太郎は既に花江から耳にしていたので、知っていた。だが、殺しによる水死という可能性もあると思ったので、貫太郎は、
―黒川さんは、何者かに殺されたとう可能性はないのですかね?
と、眉を顰めては言った。
「その可能性も、有り得ますね」
と、末吉は武井の保険金に関することを思い浮かべながら言った。
すると、貫太郎は、件のキャラメルの箱に付いていたかもしれない指紋に関して言及した。
そんな貫太郎に、末吉は黙って耳を傾けていたが、貫太郎の話は末吉が推理していたケースとはまるで違っていた。
即ち、今の貫太郎の推理によると、黒川を殺したのは、上原に住んでいる金城家の者だと言わんばかりなのだ。
貫太郎が言うように、金城家の者が、貫太郎を誘拐したという事実を突き止め、それをねたに、黒川は金城家の者をゆすったところ、逆に殺されてしまったという可能性が、全くないとは断言出来ないだろう。それ故、その線も一応、捜査してみなければならないだろう。
とはいうものに、末吉としては、武井絡みの方が、可能性としては高いと思った。
だが、末吉はその思いを貫太郎に述べることなく、貫太郎との電話を終えたのであった。
一方、貫太郎はといえば、自分の為に、黒川が死に至ったのではないかと、随分落ち込んでいた。星砂の浜で妙なことを言わなければ、黒川は行動を起こすことなく、死なずに済んだのではないかと貫太郎は思ったのだ。即ち、貫太郎は黒川の死をもたらしたのは、金城家の者ではないかと、看做していたのだ。
それ故、貫太郎は随分と落ち込んだ気分に陥ってしまったのだが、その一週間後、貫太郎に衝撃的な知らせが入ったのだ。