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湯布院と阿蘇を結んでいるやまなみハイウェイは、阿蘇くじゅう国立公園に指定され、九州のみならず日本有数のドライブコースといえるだろう。火山あり、湿原あり、草原あり、温泉あり、展望スポットあり、正に快適なドライブを約束させるというものだ。
そして、タデ原湿原は、やまなみハイウェイの丁度中間辺りに位置し、タデ原湿原への出発地点である長者原には、ビジターセンタや観光案内所もあり、やまなみハイウェイの代表的なスポットだ。
タデ原湿原とは、火山の火砕流堆積物が堆積し、その後、谷が塞がれて出来た湿原で、湿原特有のヨシ類が繁茂し、湿原内には、木道が整備されている。
また、現在の気候下では、湿原を何もせずに放置しておくと、森林に移行していく為に、タデ原湿原は毎年春になると、野焼きが行なわれる。そして、阿蘇周辺で行なわれる野焼きは、正に阿蘇の風物詩のようなものだ。
それはともかく、タデ原湿原に犬、猫といった動物の持ち込みは厳禁である。犬、猫などが持っている病原菌が、生態系に悪影響を及ぼす可能性があるからだ。
だが、そのようなことを知らない葛西治は、マイカーで宮崎の自宅から遙々タデ原湿原にまでやって来ると、早速、愛車からクロ助を助手席から出した。クロ助は柴犬で、とても利口な犬だ。
それはともかく、葛西は五十歳の独身なのだが、今は無職の身の上であった。ここ最近の不況の為にリストラに遭ってしまったのだ。そして、無職暮らしは、既に二年を経過した。
しかし、再就職の当ては全くなかった。
しかし、かなりの蓄えがあった為に、葛西は再就職することを今や諦めてしまったという塩梅であった。
そんな葛西の愉しみは、今やクロ助であった。外出する時は、クロ助と一緒であることも多く、クロ助は今や葛西の分身であるかのような存在であった。
それはともかく、今回の旅行にも、葛西はクロ助を連れて来た。
クロ助は、葛西の車(マツダのデミオ)に乗車するのがすっかり馴れたようで、葛西が助手席のドアを開けると、待ってましたと言わんばかりに、助手席に飛び乗り、ごろりと横になるのである。
また、クロ助は車窓から流れ行く景色を眼にするのもとても好きで、正に葛西と共にデミオで旅をすることが、食事や散歩と同様、クロ助のお気に入りであったのだ。
それはともかく、葛西は長者原の駐車場にデミオを停めると、早速、クロ助と共に車外に出ては、タデ原湿原散策に乗り出した。葛西は今までに、こういった観光地にクロ助を度々連れて来たものであった。葛西はクロ助が葛西と共に旅行をするのが好きであることを知ってる為に、度々連れて来るのだ。
そんなクロ助は、長者原の木道を歩き始めると、正にご機嫌であった。
クロ助の表情とか 尻尾の振りようを見れば、クロ助のご機嫌振りが、十分に察せられるというものだ。
葛西はクロ助と共に、早速、長者原の木道を歩き始めた。
今日は正に絶好の行楽日和で、長者原の木道を歩いてる人は、少なからずいた。しかし、別府の地獄巡りの時に見られる程でないことは、言うまでもないだろう。
そんな葛西は、無論、クロ助に鎖をつけていた。人がまるで見られなければ、鎖をつけなくても構わないのだが、この場所ではそうもいかないというものだ。
それはともかく、木道からは、周囲に拡がってるヨシ類を眼に出来るのは当然だが、遠くに眼を向けてみると、くじゅうの火山からの噴煙を眼にすることが出来た。
この光景は、正に国立公園に相応しく、葛西は辺りの光景を写真に撮ることを忘れはしなかった。
そして、このすがすがしい空気の中で、葛西はいかにも快適な気分で、木道を歩いていたのだが、そんな葛西は、
「こら!」
という怒鳴り声を耳にし、我に還った。
とはいうものの、葛西は歩みを中断しはしなかった。その怒鳴り声は、葛西に関係ないものと理解していたからだ。
それで、振り返ることなく、歩みを進めていたのだが、すると、すぐに再び、
「こら!」
という怒鳴り声を耳にした。
その怒鳴り声は、先程の怒鳴り声よりかなり葛西の近い所で発せられた。
それで、葛西は思わず振り返った。
すると、その怒鳴り声を発したと思われる主、即ち、六十を少し超えたという位の年齢で、髪をまるでヒッピーのように長くし、何となく人相の悪い男が葛西目掛けて、走って来るではないか!
その光景を眼にして、葛西は何となく嫌な予感がした。
とはいうものの、その男が、葛西に用があることは、今や歴然とした事実となった。
それで、葛西はその場に立ち止まっては、その男が来るのを待った。
男はやがて葛西の前に来た。
その男は大きく息をついたので、男はまるで葛西の許に来るのに、必死であったかのようであった。
しかし、何故男は、そこまでして、葛西に用があるのだろうか?
葛西はこの男を一目眼にして、葛西の知らない男であることは理解したし、また、この辺りを管理してる管理員でもなさそうだ。また、警察関係者でないことも歴然としていた。
一体、この男は何者で、また、葛西にどういった用があるのだろうか? その疑問が葛西の脳裡を捕えても、それは当然のことと思われた。
それはともかく、男は葛西の前に来ると、突如、
「こんな場所に、犬を連れて来るな!」
と、葛西を怒鳴りつけた。
そう怒鳴られても、葛西は返す言葉はなかった。
というのも、葛西は今までに、こういった木道にクロ助を度々連れて来たことがあり、また、その時に今のように怒鳴られたことは一度もなかったのだ。
それ故、葛西は何故怒鳴られなければならないのか、その理由が分からなかった。
それで、葛西は怪訝そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせていると、
「こんな所に、犬を連れてくるな!」
と、男は再び葛西を怒鳴りつけた。
葛西は何故この男から、このように怒鳴られなければならないのか、その理由が分からなかった。
それで、
「どうして、犬を連れて来ては、いけないのかな」
と、いかにも怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、男は、
「そんなことも分からないのか!」
と、またしても葛西を怒鳴りつけた。
「分からないですね」
と、葛西は男に反発するかのように言った。そんな葛西は、男の主張には、根拠がないと言わんばかりであった。
すると、男は、
「この大馬鹿やろう!」
と、吐き捨てるように言った。そして、
「犬が病原菌を持ってるんだ。だから、この犬から、その病原菌がこの長者原の生態系に悪影響を与えるんだ。だから、犬を連れて来ては駄目なんだ!」
と、男はそんなことも分からないのかと、まるで、葛西を激しく非難するかのように言った。
そう男に言われ、葛西は<なるほど>と思わなかったことはなかった。
しかし、クロ助が病原菌を持ってるとは限らないし、また、長者原を管理してるわけでもないこの男に、これ程まで生意気な口を利かれては、葛西がいい思いをするわけがない。
それで、葛西は思わず、
「うちの犬は、病気なんて、持ってないよ!」
と、いかにも不快そうに言った。
「きちんと、検査したのか?」
と、男もいかにも不快そうに言った。
そう言われて、葛西は言葉を発することは出来なかった。動物病院で、検査など受けたことはなかったからだ。
それで、渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせたのだが、そんな葛西に男は、
「もう病原菌を巻き散らしてるかもしれないぜ! 責任を取れよ! この馬鹿者めが!」
と、葛西に怒声を浴びせた。
そう男に言われ、葛西はいかにも険しい表情を浮かべた。このような滅茶苦茶なことを言う輩とは、これ以上相手にしていても仕方ないからだ。また、これ以上、相手にしてると、喧嘩となってしまいそうだからだ。
それで、もう言葉を返すことを止めては、ここは一旦退却するのが、得策だと葛西は判断した。
それで、葛西はこの男に背を向けては、木道を戻ろうとしたのだが、そんな葛西は、頭部に突如、鈍い痛みを感じた。
それで、振り返ったのだが、すると、そこにはいかにも殺気立ったような表情を浮かべた男がいた。
そんな男は、
「話はまだ終わってないんだ! で、俺が言いたいのは、もう既にこの犬野郎から、病気が長者原に撒き散らされてしまったかもしれないということだ。そうなったとしたら、どう責任を取ってくれるんだ!」
そう言われても、葛西は返す言葉がなかった。男の言うことは、馬鹿馬鹿しくて、話にならなかったからだ。
それで、男のことを無視し、再び木道を戻り掛けたのだが、すると、今度は男は葛西の前に立ち塞がり、葛西に、
「まだ、話は終わってないと言ったじゃないか!」
と、怒声を浴びせた。
「だから、何の話があるのですか!」
葛西はいかにも不快そうに言った。
「だから、お前のような奴は、こういった場所に来るんじゃない! これが、俺が言いたいことさ」
と、男は正に声を荒げて言った。
そう男に言われ、葛西は遂に堪忍袋の緒が切れた。それで、葛西は、
「あんたみたいな奴こそ、こういった場所に来るなよ。こんなことで、一々喧嘩を売られたら、堪らないからな。あんたみたいな奴こそ、観光客の敵さ!」
と、いかにも男のことを疫病神と言わんばかりに言った。
そう葛西に言われ、男の顔色が一気に変貌した。男は、今のように、自らが非難されたり、また、侮辱の言葉を投げられるのに、馴れていなかったのかもしれない。
男は持参していたザックから、何やら取り出した。
それは、山刀のようなものであったが、男は素早くその鞘を抜くと、一気クロ助目掛けて、切り付けたのだ。
「キャーン」
と、クロ助は悲鳴を上げた。そして、クロ助の身体から、鮮血が飛び散った。
葛西はといえば、呆気に取られたような表情を浮かべては、言葉を失っていた。男の行為は、正に予想だにしてないものであったからだ。まさか、山刀でクロ助を切り付けるとは思ってはいなかったのだ。まさか、ここまでするとは、思ってもみなかったのだ。
だが、すぐに我に還った葛西は、男に何かを言おうとしたのだが、それは実現しなかった。男は、正に疾風のようにその場から逃げるように後にしたからだ。流石に男とて、クロ助を山刀で切り付けたということに関しては、後ろめたさを感じたのかもしれない。
そんな葛西は、クロ助に眼をやった。
すると、クロ助は苦しそうに身体をぴくぴくと痙攣させている。そんなクロ助を見て、クロ助はもはや虫の息だった。クロ助の流した血が、木動を赤く染めている。
程なく、葛西の眼は、クロ助から男に向かった。
すると、男との距離はぐんぐんと遠ざかり、木道から駐車場へと後、僅かという距離だ。
それを眼にした葛西は、男を追って走り出した。無論、クロ助をその場に残してだ。
男は駐車場の中へと入った。男はまだ一度も振り返りはしなかったが、葛西が追い掛けて来るということを確信してるみたいだ。
「待ちやがれ!」
と、葛西は叫びはしなかったが、そう叫びたいのを必死で堪えてるかの如しだ。
葛西が全速力で走った為に、男との距離は少し縮まったが、追いつくことは出来なかった。男は自らの車に早々と乗り込んだからだ。男の車は、日産のマーチだった。
そして、この時、男はやっとのことで眼をこちらに向けた。
すると、その時点で、葛西が追って来たのを眼に留めた。
だが、男はそんな葛西を無視し、エンジンを掛けては、正に逃げるように、その場を後にした。
葛西はこの時点で男に追いつくことは無理だと理解した。
だが、男の車のナンバー書き留めることを忘れはしなかったのだ。
そんな葛西のことを、トラブルがあった時から、興味ありげに眼にしていた男がいたことなど、葛西は知る由もなかった。
男のマーチが葛西の視界から消えて行くと、葛西はクロ助の許に掛けて行った。
すると、そこには五人ばかりの人が集まっていた。そして、その人の輪の中には、クロ助の死体があった。
そう! やはり、クロ助は男の山刀の一撃を受け、呆気なく死んでしまったのである。僅か、四歳での死であった。
「クロ助……」
クロ助の死体を眼にして、葛西はいかにも哀しげに言った。葛西にとって、クロ助は人間同様であったのだ。
そんな葛西を見て、事の次第を知らない吉田という五十歳の自営業の男性は、いかにも怪訝そうな表情を浮かべていた。何故、犬がこんな状態で死んでるのか、分からなかったのだ。
それで、葛西はクロ助が件の男の山刀で切り付けられたことを説明した。
すると、吉田は、
「惨いことをやるもんだ」
と、いかにも怒りを露にしては行った。
すると、吉田の連れの山内という男性が、
「でも、その男は、何故そんなことをやったのでしょうかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
それで、葛西は男が語った病気のことを話した。
すると、山内は、
「それは大袈裟だな」
と、いかにも呆れたような様を見せては言った。
そう山内に言われ、葛西は唇を噛み締めた。正に、その通りだったからだ。
すると、山田という四十位の男性は、
「でも、これは警察に言った方がいいですよ。犬を殺したとなれば、器物損壊罪として罰せられるということを聞いたことがありますからね」
と、眉を顰めては言った。
すると、吉田もその山内の言葉に相槌を打つかのように、
「僕もそう思いますよ」
と言っては、肯いた。
すると、葛西は、
「でも、こういった所に犬を連れて来た為に罰せられるということはないのですかね?」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
すると、ザックを背負い、登山服を着ては登山者の恰好をしてる長田という六十位の男性は、
「そんな法律は聞いたことはないですね。ただ、注意を呼び掛けてるだけですよ」
そういった遣り取りを交わしながら、やがて、吉田たちは現場を後にし、葛西はといえば、クロ助の死骸をビニール袋の中に入れては、葛西のデミオへと運んで行ったのであった。