1 東京駅と新宿駅と上野駅
人、また、人でごった返している東京駅。
それは、正に日常的な光景だ。
日本の首都、東京の表玄関だから、東京周辺の居住者は無論、日本全国、津々浦々から東京駅にやって来ては、去って行くのだ。それ故、東京駅がいつもごった返しているのは、当然のことなのだ。
それはともかく、今は午後五時を少し過ぎた頃だ。とはいうものの、東京駅はやはり、いつも通りに混雑していた。
しかし、ラッシュアワーの時間帯と比べれば、まだ混雑振りはそれ程でもなかった。
それ故、駅構内の売店の利用客も、ラッシュアワーの時間帯と比べれば、それ程でもなかった。
そんな状況であったから、駅構内の売店係である藤村正子(60)は、〈これから忙しくなるわ〉と思っていた。
そんな正子の不満は、売店係としての時給が安いことだ。
これだけてきぱきと働いているのに、これだけの時給では、不満が出ても当然だと正子はいつも思っていたのだ。
とはいうものの、他に良いアルバイト口も見付かりそうもなかった。それ故、まだしばらくの間、この仕事で我慢するしかないであろう。また、この不況の最中であるから、アルバイトをやれるだけでもましというものだろう。
正子はそう思ったりしていたのだが、その時、正子は突如、強張った表情を浮かべた。何故なら、正子から十二、三メートル程離れた所を歩いていた背広姿の中年の男性が、突如、ぶっ倒れたからだ。その倒れ方から推して、その男性に只ならぬ事態が発生したに違いない!
正子はそう思ったのだが、そう思ったのは、正子だけではなかった。その男性の後ろを歩いていた人や、その男性とは逆方向から歩いて来た人も、そのように思ったのである。
そして、その男性は、あっという間に、人の輪で囲まれてしまった。
そして、その中の一人の中年の男性が、その倒れた男性に、
「大丈夫ですか?」
と屈み込んでは、いかにも心配そうに声を掛けた。
しかし、男性は何の反応も見せなかった。
そんな男性の様からすると、男性は既に魂切れてしまったのかもしれない。
そして、一体誰が連絡したのか分からないが、駅員が駆けつけては、
「大丈夫ですか?」
と、先程の男性のように、声を掛けた。
しかし、男性は依然として何の反応も見られなかった。
その男性の様からして、その男性の周囲に群がってる少なからずの人は、男性は既に魂切れたと思ってるのではないのか? その為か、それらの人たちは殆ど、その場から動こうとはしなかった。
やがて、駅員たちが担架を持って来ては、その男性を担架に載せ、その場から去って行った。
すると、その場に群がっていた野次馬たちの姿も、まるで潮が引くかのように、その場から去って行った。そして、それはラッシュアワーが始まる少し前のことあった。
丁度その頃、新宿駅構内も、異変が起きていた。
東京の表玄関といえば、東京駅であろうが、一日の乗降客数では、新宿駅が日本一である。即ち、新宿駅は、日本最大のターミナルなのだ。
では、その新宿駅構内で、どういった異変が起きてるというのだろうか?
新宿駅構内の外回りの山手線乗場へと向かう階段がある少し手前で、一人の若い女性が突如、ぶっ倒れたのである。その女性の後ろを歩いていた人が、その女性の様を見て、驚かないわけがないだろう。また、その女性の反対側から歩いて来た人たちも同様である。
しかし、その女性の異変を眼にしても、何事もなかったように、その場を通り過ぎて行く人も少なからずいた。そういった人は、何事にも無関心なのか、あるいは、忙しくて、立ち止まってる時間がないのかもしれない。
それはともかく、その突如、ぶっ倒れた女性の周りには、忽ち人が集まって来た。そして、いつの間にか、人の輪が出来てしまった。そして、その誰もかれもが、いかにも心配そうな表情を浮かべては、その女性を見入っていた。
だが、誰もかれもが見入ってるばかりではなかった。六十位の背広姿の男性が、その女性の肩を少し揺り動かしては、
「大丈夫ですか?」
と、いかにも心配そうな表情を浮かべながら、女性に声を掛けている。だが、女性はぴくりともしなかった。
その女性の様からすると、女性は既に魂切れているのかもしれない。
その若くて元気盛りと思われるその女性に、一体どのような異変が起こったというのだろうか?
そして、程なく駅員が四人、その女性の傍らにやって来ては、女性の傍らに姿を見せていたその六十位の男性が行なったように、肩を揺り動かしては、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
だが、女性にはやはり何ら反応は見られなかった。
そんな女性を眼にして、駅員たちの表情は、一層強張った。
そして、駅員たちが持って来た担架に、女性を正に大切なものを扱うかのように載せては、早々とその場を去って行った。
すると、その場に群がっていた野次馬たちは、まるで潮が引くかのように、その場から去って行った。
すると、その場はまだラッシュアワーになっていないのに、人でごった返してるいつもながらの新宿駅の光景が見られるだけとなったのだ。
丁度その頃、上野駅構内で、異変が起きていた。
上野駅では、東京駅や新宿駅程、人混みは見られないのだが、それでも、地方都市の駅でこれ程の人は見られないであろう。
それ故、流石に東京のターミナルであった。東北新幹線の始発駅が、東京駅になったといえども、上野駅はまだまだ東北地方に向かう列車の始発駅となっていて、その賑わい振りは衰えを見せないのである。
それはともかく、今、上野駅では、どんな異変が起きているというのだろうか?
上野駅のみどりの窓口近くを歩いていた若い女性が、突如、ぶっ倒れてしまったのである。その女性の後ろを歩いていた人や、女性の方に向かって歩いていた人は、その女性の様を見て、さぞびっくりしたことであろう。
それはともかく、ぶっ倒れた女性の許には、忽ち人が集まって来た。そして、一人の五十位の女性がその女性の傍らで屈み込んでは、女性の手に少し触れながら、
「大丈夫ですか?」
と、いかにも心配そうな表情を浮かべては言った。
だが、女性にはまるで反応が見られなかった。
そんな女性を眼にして、その女性だけではなく、周りに群がってる人たちの多くは、その女性の様を眼にして、既に魂切れたのではないかと思ってることであろう。何しろ、その女性の様はそう思わせるに十分なものであったのだから。
そして、程なく四人の駅員がその女性の傍らにやって来ては、その中の一人が女性の傍らに屈み込んでは女性に「大丈夫ですか?」と、声を掛けた。だが、女性には何の反応も見られなかった。
そんな女性を眼にして、駅員たちの表情は、一層強張ったが、とにかく女性を担架に載せては、その場から去って行った。
すると、その女性の傍らに群がっていた野次馬たちは、まるで潮が引くかのように、辺りから去って行ったのだ。
そして、その場がいつも通りの上野駅に戻るのに、さ程時間は掛からなかったのである。