「和郎、雪だよ。雪が降って来たよ」
 そう言った良子を一瞥しては、和郎は窓ガラス越しに、外に眼をやった。
 すると、街灯の仄かな明かりの下に、雪がしんしんと落ちていた。
「本当だ。雪だ!」
 和郎はガラス窓に歩み寄っては、そっとしんしんと降り注ぐ雪に眼をやった。
 和郎たち一家は、今や貧困のどん底にあった。
「新潟に行けばなんとかなるさ」
 と言った一家の大黒柱である大造の言葉を信じ、住み慣れた横浜から転居したのは一年前だったのだが、暮らしは一向によくならなかった。
「父ちゃん、今日も遅いのかな」
 栄養が行き届かない為か、同年齢の子供たちに比べてみると、かなり痩せ細った和郎は、神妙な表情で言った。
「そうかもしれないね」
 和郎と同様、好きなだけ食べることの出来ない和郎の母である良子もかなり痩せ形であった。もっとも、良子の場合は、和郎とは違って、元々と痩せ形だったのだけれど。
 そんな良子は、大造が仕事をしてないことを知っていた。
 ここしばらくの間、大造の帰りは、夜中の零時頃が多かった。
 そんな大造は、夜遅い時は、決まって酒の臭いを漂わせては帰って来た。そんな大造の様を見るのは、和郎は嫌であった。
 今や、一家の生活を支えてるのは、良子であった。良子は小さな町工場の事務員として働いていたのだ。
 そんな良子の稼ぎは、とても少なかった。
 しかし、その僅かな稼ぎは、一家にとってはとても貴重であった。しかし、大造は、その貴重な貯えを酒に変えてしまうのである。
 大造だって、新潟に来てから、ずっと、酒浸りではなかった。
 大造は元はといえば、小さな土建屋を営んでいた。従業員も、五人を抱えていた。だが、昨今の不況を受けて、仕事の依頼が激減し、従業員の給料を払えなくなってしまった。その挙句、取引先が倒産してしまったりして、大造の会社も余儀なく倒産に追い込まれてしまった。しかし、従業員の給料は払わなければならない。 
 その為には、家邸は無論、貯えも全て処分しなければならなかったのだ。
 そして、その結果、平野家は無一文になってしまったのだ。
 そんな大造は、生まれ故郷である新潟に引っ越そうと決意した。新潟でもう一度、土建屋として再起を試みようとしたのだ。 
 しかし、いくら生まれ故郷だからといって、大造はいい仕事に有り付くことが出来なかった。友人の紹介で最初は小さな土建屋で働いたものの、社長とは馬が合わず、半年で退社した。その後、未だに職に有り付くことが出来なかったのだ。そして、最近では、仕事を探す気すら、消失してしまったのだ。
 そんな大造はいつの間にやら、昼まで家で眠っては、三時頃になって町に出向くといったライフスタイルが続いていた。
 和郎は昼間は学校にいる為に、大造が家でぶらぶらしてるということを知らないと、大造は思っていた。
 そんな大造は、和郎が帰る頃、ぶらりと新潟の町に出掛けては酒を飲み、夜遅くになって帰って来るのである。

 和郎はじっと、窓越しにしんしんと降りしきる雪に眼をやったまま、言葉を発そうとはしなかった。
 和郎は知っていた。和郎が大造のことを口にすると、良子が嫌な顔をすることを。
 しかし、そんな良子に対して、和郎は敢えて大造のことに言及した。それは、和郎のささやかな大造、そして、良子に対する反抗であった。
 六畳と四畳半の二部屋しかない木造アパートでの生活は侘しいものであった。
和郎は薄汚れた天井と、木枠のガラス窓から入って来る隙間風が、とても嫌であった。更に、大造と良子の喧嘩が重なって、一層和郎に侘しさを掻き立てるのであった。
「お餅、食べるかい?」
 良子は和郎に言った。
「いらん」
 和郎は頭を振った。
 和郎は、家の財政状態が良くないことを知っていた。
 新潟にやって来て以来、和郎は夜食など食べたことはなかった。
 育ち盛りだから、お腹は空いた。思う存分、食べたかった。
 しかし、それが家計の負担になることを和郎は知ってた。それ故、和郎は我慢しなければならなかったのだ。
 そんな和郎に、良子は、
「遠慮しなくたっていいんだよ。さっ! お腹、空いてるだろうから」
 と言っては、三畳ばかりの小さな台所に置かれてある古びた食器棚に仕舞ってあった蓬餅を皿に載せては和郎に持って行った。そして、
「仕事仲間の町田さんから貰ったんだよ」
 そう言われ、和郎は些か笑みを浮かべた。それは、貰いものだったからだ。それなら、遠慮なく食べられるというものだ。
「じゃ、食べるよ。これ、食べたかったんだ」
 そう和郎が言うと、良子はにこりとした。
 和郎がいかにも嬉しそうに食べるのを見て、良子は、
「どう? 美味しい?」
「ああ。とても美味しいよ」
 そう和郎が言った時に、玄関扉が開く音が聞こえた。大造が帰って来たのだ。
「お帰りなさい」
 と、良子は言ったものの、その良子の表情には笑みは見られなかった。また、大造は「ただいま」とも言わなかった。
 大造の薄汚れたコートには、薄らと雪が付いていた。
「お餅、もらったのよ。和郎と今、食べていたところなのよ」
 と言っては、良子は蓬餅を大造にもすすめようとした。
 すると、大造は、
「馬鹿野郎! そんな乞食みたいなことをするな!」
 と言っては、良子を怒鳴り付け、良子の頬に平手打ちした。
 良子は大造にぶたれた頬を右手で摩った。
「なんてことするんだ! 母さんに乱暴するな!」
 和郎は大造を怒鳴り付けた。そして、大造に組み付いた。
 だが、頑丈な身体つきの大造は、そんな和郎を放り投げた。
 その弾みで、和郎は頭を柱にぶつけてしまった。
 和郎は痛いのやら、哀しいのやらで、思わず泣き出してしまった。
「なんてことをするの!」
 良子は大造を睨め付けた。
「何だ、その眼は! お前まで、俺のことを嘲るのか!」
 大造は怒りにまかせて、テーブルをひっくり返した。
 皿に載っていた蓬餅が畳の上に零れ落ちた。
 良子は畳みの上に零れ落ちた蓬餅を皿の上に戻しては、台所に持って行った。
 そして、蓬餅が零れた畳みの上を雑巾で拭いた。そんな良子の眼からは、一筋、二筋の涙が零れ落ちた。
 大造はそんな良子に眼を向けることなく、コートとズボンを脱ぎ棄てると、寝室になっている四畳半の和室に行っては大の字に寝転がると、早々と鼾を掻いては、眠り込んでしまった。 
 やっと、今日一日が終わった。
 良子はそう思った。
 そして、今日も平野家のいつもの一日と、さして変わりはなかったのだった。


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