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「平野、そこを訳してくれるかい」
そう言った英語の先生の声を子守唄のように耳にしていたのは、和郎であった。
窓際の傍らにいる和郎は、しんしんと降る雪を窓越しから、まるで夢心地のように眼にしていたのだ。
和郎は雪というものは、とても神秘的だと思った。生あるものにもないものにも、お構いなしに、白で覆ってしまう。
もし、雪に感情というものがあれば、暖かでおおらかではないだろうか。雪が暖かでおおらかというのも滑稽ではあるが、雪はたとえ相手が何であろうと、差別することなく地上にある一切のものをその白さで覆うのだ。
その雪の姿勢は、暖かでおおらかとも思えたのだ。
だが、雪はとても冷ややかなものだ。雪に触れると、和郎たち人間は忽ち冷たさを感じてしまう。
これが、雪であった。
即ち、暖かさと冷たさ。この反するものを同時に持ち合わせてるもの。それが、雪であったのだ。
だから、雪はとても神秘的なのである。
雪はこれから和郎にどういった思いを抱かせてくれるのだろうか?
和郎はそう思いながら、しんしんと降りしきる雪を窓越しに眺めていたのだ。
しかし、その夢心地が、今、破られてしまったのだ。
今度は激しい口調で、
「平野! 眠ってるのか!」
という怒鳴り声が、和郎の耳に飛び込んで来たのだ。
すると教室の中は、爆笑の渦で包まれた。
「はい! あの……、その……、何処ですか?」
そう和郎が言うと、再び爆笑の渦が巻き起こった。
「どうして新潟なんかに、引っ越すんだよ!」
和郎は駄々をこねた。
和郎は新潟という所が、どんな所なのか、分からなかった。ただ、日本海に面し、雪の多い寒い所ということ位しか、知らなかったのだ。
その時、和郎は中学二年生だった。
和郎はその日、学友たちとサッカーに興じ、帰宅したのは、午後六時頃だった。
そして、食卓につき、夕食を食べてる時に、良子が、
「和郎、来月からは、新潟で暮らすことになったのよ」
そう良子が言っても、和郎にはそれが本当の出来事とは感じられなかった。
しかし、その翌日から始まった引っ越しの為の荷造りを目の当たりにすると、和郎は新潟行きを徐々に事実として、受け止めるようになったのだ。
しかし、和郎は不満だった。和郎の生まれ育った横浜から何故新潟に引っ越さなければならないのか、その理由を良子から説明されても、そんなこと、和郎には関係ないように思われた。和郎はやはり、住み慣れた街や、仲の良かった友人たちと別れるのは、嫌だったのだ。
しかし、大造が経営していた会社が倒産したとなれば、どうにもならないということを、中学二年の和郎はやっとのことで理解し、新潟行きを認めたのであった。
そして、初めて新潟に来た日は、雪だったのだ。
駅前に佇み、辺りを眺めやると、辺りのものを雪が白く覆っていたのだ。和郎は横浜にいた時に、雪降りの日があったということに記憶がなかった。
それ故、駅前からの雪景色を眼にすると、まるで異国にやって来たような思いを抱いたものであった。
それと共に、和郎の心の中は不安であった。何しろ、新潟には、和郎の友達は一人もいないのだ。そんな所で、果して今まで通り愉しくやっていけるのかどうか、和郎にはよく分からなかったからだ。
また、良子の心の中も、とても不安であった。
というのも、何しろ、今や平野家は、無一文となってしまったからだ。
大造の会社が倒産した時に、貯金は元より家財道具も何もかもを持って行かれたからだ。
そんな状況下で、大造は果して今まで通り、良子たちを養えるのか、良子にはてんで分からなかったのだ。
それはともかく、大造と良子が知り合ったのは、大造が経営してる土建屋に良子が事務員としてパートで働くようになったことがきっかけだった。
そして、その頃、大造は四十歳で先妻に病死され一人身だった。また、その頃、良子は独身で三十であった。
そんな良子に大造がプロポーズしたのは、良子がパートとして大造の会社で働くようになって四ヶ月が経った頃であった。
良子は幼い頃に父親に病死されてしまった。それ故、良子は力強い男に惹かれた。そんな良子に、ごつい身体付きで、三十の時に会社を興した大造は、とても力強く頼りになる男に見えたのだ。
それ故、良子は大造のプロポーズをあっさりと承諾したのであった。
そして、その一年後に和郎が生まれた。そして、その頃は会社の業績もよく、和郎が生まれ五年経った頃には、郊外に一戸建ての新居を購入した。良子に言わせれば、一家はその頃は、幸せそのものであった。
大造は仕事から帰って来ると、よく和郎を風呂に入れ、和郎の身体を洗ってやったものであった。和郎もそう大造にしてもらうのが、とても愉しみであったのだ。
だが、そんな大造が酒に溺れるようになったのは、和郎が小学校六年になった頃であった。不況のあおりを受けて、仕事が激減し、従業員を半減しなければならなくなったのだ。それだけでなく、大造の給料も半分に減額せざるを得なくなったの。
その頃から、家計を助ける為に、良子もパート勤めに出なければならなくなった。
そうだからといって、暮らしは一向によくはならなかった。
仕事が激減しただけではなく、取引先への売掛金が、取引先の倒産の煽りを受け、回収出来なくなった。
その結果、従業員の給料を払えなくなり、サラ金に手を出してしまった。
だが、仕事は減るばかりであった。
そして、大造の会社は、他の同規模の同業者と同じように、倒産の憂き目に遭わざるを得なくなってしまったのだ。そして、その結果、前述したように、貯えは勿論、家屋敷も売却し、借金の返済に充てざるをえなくなってしまったのだ。
大造は良子に泣いて詫びた。
良子は和郎を連れて、大造との離婚も考えた。
しかし、子供のように泣いて詫びる大造を見切り、離婚することは出来なかったのだ。
そして、新天地を求めた新潟行きであったのだが、前述したように、大造は半年もしない内に、無職の身の上となってしまったのだ。