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今日は全くの秋晴れになりそうであった。何しろ、空には雲一つ見当たらないのだから。
そう思うと、和郎は何だか嬉しくなりそうであった。それで、とにかく、今日の文化祭がうまく行くようにと思いながら、和郎は自転車を学校に向けて走らせたのだが。
そんな和郎は、今日はいつもより早く学校に向かっていた。何しろ、和郎は文化祭のクラスの副実行委員長なのだから、皆より多くのことをやらなければならないのだ。
和郎が教室に入ると、和郎よりも早く来てる者がいた。
それは、和郎と同じく、実行委員となっている鎌田晴夫、花井直子たちであった。
「おはよう!」
和郎は晴夫たちに声を掛けた。
すると、
「おはよう!」
という声が返って来た。
そして、晴夫たちは、既に作業を始めていた。
作業とは、教室の中の机とか椅子などを組み合わせては、屋台などを作るのだ。もっとも、その作業は昨日、殆ど終わっていたのだが、まだやり残した作業があったのである。
そして、作業は順調に進み、八時頃には、作業はほぼ終わった。後はガス器具をセットするだけだ。
それで、一息つくことになった。
「見物客は来るかな」
晴夫たちと同様、実行委員の佐野和彦は言った。
「きっと来るさ。何しろ、この上天気だ。父さんや母さん、それに、姉さんも来ると言ってたからな」
と、晴夫。
「そりゃ、僕の父さんや母さんも来ると言ってたよ」
と、和彦。
そんな晴夫と和彦の遣り取りを耳にして、和郎は冴えない表情を浮かべた。というのは、和郎の父と母のことを思い出したからだ。
相変わらず、大造は酒浸りで、まだ、仕事は見付かってなかった。母の良子は、今日も仕事で働きに出ることになっていた。
それ故、和郎は良子に文化祭が一般にも開放されてるということを話してなかった。そうしないと、母に迷惑が掛かると思ったからだ。母に仕事を休んでまでして、来てもらいたくなかったのである。母なら、きっとそうするだろうと、和郎は思っていたのだ。
和郎は知っていた。今の平野家の生活を母が支えているということを! それ故、和郎は母の手間を掛けるようなことは、やってはいけないと自覚していたのだ。
和郎が神妙な表情を浮かべてるので、和彦は、
「どうかしたのか?」
「ううん。何でもないさ」
と、和郎は笑って見せた。
〈そうさ! 今日はとても愉しみにしていた日さ! 暗いことを思うのは、止めよう!〉と、和郎は自らに言い聞かせたのである。
そんな和郎の心情を和彦が察したのかどうかは分からないが、和彦は話題を変え、
「しかし、ロッカーからお金が無くなるなんて、絶対におかしいぞ」
と、眼を大きく見開いては、腕組した。
すると、和郎たちと同様に、朝早くからやって来ては、準備の手伝いをしていた安田幹男が、
「そのことなんだけどな」
と言っては、眼を大きく見開かせては、手をパチンと叩いた。そして、
「実は、大変な情報を耳にしたんだ」
そう言った幹男の声は些か上擦っていた。
「何だい、情報って?」
と、晴夫はいかにも興味有りげに言った。
「ああ。やはり、平野君が集めた金は、盗まれたみたいなんだよ」
と、幹男は興奮気味に言った。
「誰が盗んだんだ!」
晴夫は思わず甲高い声で言った。
「あいつさ! 北野と仲がいい倉林さ。倉林勇二さ! あいつが怪しいんだよ!」
「詳しく話してくれよ」
晴夫はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「三日前に、倉林は街のゲーム販売店で、ゲームソフトを三つも買ったんだよ。そこの店員は、倉林と顔見知りらしく、倉林に、
『景気いいねぇ。お小遣いをたっぷりともらったのかい?』と訊いたそうなんだよ。
すると、倉林は、
『そうじゃないんだ。今回は特別の金が入ったんだよ。四万もね』と、言ったそうなんだよ。
平野君がお金を無くした頃に、その同じ位のお金を倉林が手にしたことは、偶然過ぎるのではないかと、僕は思うんだよ。
で、僕もその店員と顔見知りでね。その話を偶然に耳にしたんだよ」
と、幹男は正に重大な話をしたと言わんばかりに言った。
すると、晴夫は、
「うーん。その話は、確かに気になるな」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては、眉を顰めた。
「じゃ、倉林が盗んだということなのか?」
と、和郎は些か険しい表情を浮かべては言った。
「その可能性はあるんじゃないのかな。倉林はなかなか器用だからな」
と、幹男はその可能性は充分にあると言わんばかりに言った。
すると、晴夫は、
「とにかく、そのことは、僕たちの間だけの話にしておこうぜ。僕らの間で、そのことが事実なのかどうか、確かめてやろうぜ!」
と、力強い口調で言った。
「ああ!」
和郎たちは口を揃えて言った。
八時半になると、学友たちが次から次へと、教室に入って来た。今日は九時集合で、文化祭は、十時から始まるのだ。
九時になると、全校生徒が講堂に集められ、文化祭開始宣言の祝辞がPTAなどからあり、また、校長の言葉と生徒代表の言葉があった。
そして、それが終わると、生徒たちは各々の教室に戻り、最後の仕上げを行なうことになった。和郎たちのクラスの教室は、正に〈祭り〉の如く、祭りの時に見られる模擬店のようなものが造られていた。おでん屋の模擬店、ポップコーンの模擬店、たこ焼き屋の模擬店という具合だ。
そして、十時になった。
文化祭開始を告げる校内アナウンスが流れると、生徒たちは、他のクラスの〈催し物〉を見物する為に、他のクラスへと、わっという具合に雪崩込んだのだ。
そして、午前中は、正に校内は活気に満ち、正に学生たちの若い熱気を迸らせ、教師たちは正にその若い情熱に眼を細めていたのだが、昼前になると、父兄たちの姿がちらほらと見られるようになった。
和郎は午前中は、他のクラスの〈催し物〉を見物した。和郎は午前中は、自由時間で、午後からは、たこ焼きの販売を担当することになってたのだ。
和郎は他のクラスの催し物を見物して、感嘆の声を上げることもしばしばであった。殊に、三年三組のロックコンサートには、感激したものであった。エレキギターから流れ出る金属音、小気味良いドラムの音にはわくわくしたものだ。
また、三年一組のパソコン教室にも魅了させられた。三年一組の生徒の中にパソコンが得意な者がいて、パソコンの使い方を教えるのだ。その生徒たちは、正に和郎とは同じ年齢の生徒とは思えない位、パソコンに詳しかったのである。正にパソコンを使ったことのない和郎を感嘆させるに十分であったのだ。
それに刺激され、和郎は午後のたこ焼き販売で、美味しいたこ焼きを作り、皆をあっと言わせてやろうと自らに言い聞かせたのであった。
一時を過ぎた頃になると、父兄たちの数も徐々に増えて来た。といっても、生徒の数と比べれば、大したことはなかった。
文化祭といっても、所詮、中学生である。一般の市民の関心を集めるとまではいかないのである。
それはともあれ、文化祭は順調に行なわれていた。
和郎はといえば、たこ焼き販売担当であるから、たこ焼き作りに没頭していた。たこ焼き販売担当者の中には、家で何度もたこ焼きを作ったことがあるという黒川智弘という生徒がいたので、その黒川の指導の下に、和郎たちはたこ焼を巧みに作ることが出来たのだ。そして、和郎たちのクラスの〈催し物〉は、食べ物がふんだんに食べられるということもあり、食べ盛りの中学生たちにはとても好評であった。正に、生徒たちが次から次へと入って来るので、入り口で入場制限を行なわなければならない位であった。
和郎が担当してるたこ焼き屋は、和郎たち四人で担当してるのだが、正に息を抜く暇もない位の大忙しであった。たこ焼き屋の前には、正に生徒たちが順番待ちをしなければならなかったのである。
やがて、和郎の前に、和郎の顔見知りの生徒が現われた。
それは、中村五郎であった。そして、五郎の隣には、北野太郎もいた。
五郎は、
「たこ焼き、百円分くれないか」
と、和郎に向かっては言った。
「僕もそうしてくれないか」
と、太郎も言った。
たこ焼きは五十円で三個であったが、同じ和郎たちのクラスの者は、なるべく自分たちの催し物の食べ物を買うのを控えるようにと、先生から言われていた。つまり、他のクラスの生徒たちがいない時なら構わないが、そうでない時は控えるようにと、釘を刺されていたのだ。
そして、今は、他のクラスの生徒たちが一杯いたので、五郎や太郎は、今は控えなければならないのだ。それなのに、五郎と太郎は、無謀なことを言って来たのだ。
それで、和郎は眉を顰めては、
「北野君も中村君も、後にしてくれないかい。今、とても混み合ってるんだよ」
すると、五郎も眉を顰めては、
「そう言うなよ。俺たち、たこ焼きを食べたいんだよ」
そんな五郎に、和郎は、
「だから、後にしてくれないかと言ったじゃないか!」
と、そんな五郎のことを無視し、再びたこ焼き作りに取り掛かった。
そんな和郎を見て、五郎は、
「おい! 平野! 偉そうな口を利くなよ! このたこ焼きの材料代を誰が立て替えたと思ってるんだ!」
と、声を荒げては言った。
そう五郎に言われて、和郎はたこ焼き作りを中断し、五郎を睨め付けた。そんな和郎と五郎との間に火花が散った。
そんな和郎に、五郎はいかにも不快そうな視線を浴びせては、
「とっとと、俺たちの為に、たこ焼きを作ればいいんだよ!」
と、声を荒げては言った。
すると、そんな和郎と五郎との間に、和郎と共にたこ焼き作りを担当していた花井直子が入って来ては、
「平野君! いいじゃない! 作ってあげてよ。北野君と中村君の分を! 言い争ってる分だけ、時間の無駄になるわ」
それで、和郎は仕方なく、五郎の分と太郎の分を素早く作り、既に出来てる分を加えて、六個ずつパックに入れ、太郎と五郎に渡した。
すると、五郎は、
「全く、手間を掛けやがって! 最初からこうしてくれりゃ、無駄な時間を作らずに済んだんだ」
と、些か機嫌良さそうに言った。そして、
「じゃ、北野さん。教室の隅で食べましょうか」
と言っては、五郎は太郎と共に、教室の隅へと行った。
そんな太郎と五郎を眼にして、和郎は悔しかった。正に、今まで気分良く、文化祭に没頭出来ていたというのに、あのような態度を取られてしまい、今までの夢心地の気分が一気に吹っ飛んでしまったのだ。
しかし、何故中村五郎は、あのような挑戦的な態度で、和郎に接して来るのだろうか? それは、和郎には理解出来なかった。
和郎がロッカーに入れておいたお金を紛失した時にも、五郎は待ってましたと言わんばかりに、和郎を攻撃した。それに、今だって、和郎に何かと難癖をつけて来るのだ。
それは、やはり、北野太郎のことが影響してるからか。
太郎と五郎は、仲が良い。
そして、太郎は和郎のことを良く思ってないらしい。それ故、五郎は和郎に何かと攻撃して来るのだろうか?
そう思うと、和郎の気分は一気に陰鬱になってしまい、和郎の口が止まってしまった。先程までは、直子と愉しげな会話を語っていたというのに!
和郎が陰鬱な表情を浮かべては、口を閉ざしてしまったのを見て、直子は、
「どうしたの?」
と、些か心配そうに言った。
それで、和郎は、
「何でもないさ」
と、笑って見せた。
そして、この時、和郎は直子の優しさを感じた。女の優しさというものを!
それは、正に落ち込んでる和郎を助けてくれるような母のような優しさであった。
それで、和郎の気分も幾分か持ち直して来たのだが、すると、その時に、
「馬鹿野郎! ふざけた真似をするんじゃない!」
という怒声が、教室の中に響き渡った。
その声の主は、中村五郎であった。一体、五郎は何故あんな声を上げたのであろうか?
そう思ったのは、和郎だけではなかった。教室の中の誰もが、そう思ったであろう。何故なら、教室の中の誰もが、そんな五郎に視線を注いでるからだ。
すると、五郎はその時、
「蛞蝓を入れやがって! ふざけるのもいい加減にしろ!」
と、怒鳴り声を上げた。そして、その声は、和郎にも届いた。
そして、五郎は疾風のように和郎の前にやって来ては、
「おい! 平野! よくもやりやがったな!」
と、和郎を睨め付けた。
「何を言ってるんだ? 僕には分からないよ」
と、和郎は眉を顰めた。
「とぼけるな! 北野君のたこ焼きの中に蛞蝓を入れたんだろ?」
と、五郎は顔を真っ赤にしては言った。そんな五郎は、明らかに興奮していた。
そこに太郎がやって来た。太郎は割り箸でパックの中に入っていた蛞蝓の死骸を軽く摘み、
「これが、僕のたこ焼きの中に入っていたんだよ」
と、いかにも不快そうに言った。
「そんな馬鹿な……。僕はそんなものを入れやしないよ」
そう言った和郎の声は、小さなものであった。何故なら、確かに太郎が割り箸で摘まんだものが蛞蝓の死骸であると思ったからだ。
「平野! お前はわざと入れたんだろ? 北野君を困らせる為に!」
五郎はそう言うと、唇を歪めては、和郎を睨め付けた。
「そんなことやらないよ!」
和郎は顔を真っ赤にしては、今の五郎の言葉を否定した。
「平野! お前は余程、僕に恨みがあるみたいだな。そんなに僕のこと、憎いのかい? 金を僕が立て替えたことが、気に食わないのかい? 僕のことを生意気だと思ってるのかい? それで、僕のたこ焼きにわざと蛞蝓の死骸を入れたのかい?」
と、太郎はいかにも不快そうに言った。そんな太郎の言葉は、和郎に向けられた太郎の初めての和郎を非難する言葉であった。
そんな太郎の言葉には、冷たく非情の響きがあった。そんな太郎は、眼鏡の奥に潜む細い眼で、和郎のことを嘲ってるかのようであった。
和郎はそんな太郎を見て、太郎は今まで和郎にこのような言葉を浴びせるのを待ち望んでいたのではないだろうか? そんな印象を抱かせた位であった。
それはともかく、
「何かの間違いだよ!」
と、和郎は、太郎の言葉を否定した。
「間違いなものか! これが、本当なんだろ? ずばりと北野君に指摘され、狼狽してるんじゃないのかい?」
と五郎は言っては、唇を歪めた。そして、
「謝るんだ! 北野君に!」
と、五郎は捲くし立てた。
そんな五郎に、和郎は何も言うことが出来なかった。ただ、唇を噛み締めるばかりであった。
そんな和郎に、五郎は、
「早く謝るんだ! 北野君に!」
と、声を荒げた。
だが、和郎はそんな五郎から視線を逸らせ、ただ唇をわなわなと震わせるばかりであった。
そんな和郎に、五郎は業を煮やしたのか、自らが食べ終えたたこ焼きのパックを投げ付けようとした。そして、素早く投げ付けたのであった。そして、それが和郎の左頬に当った。
そんな五郎を見て、和郎はもう我慢出来なかった。傍らにあった折り畳みの椅子を手にしては、五郎に投げ付けようとしたのだ。
そんな和郎を見て、直子が、
「止めて! 平野君、止めて!」
と言っては、和郎に組み付いた。そして、和郎の手から、折り畳みの椅子を奪い取ろうとしたのだ。
そんな二人を見て、五郎は、
「よう! 平野! 今度は、直子と抱き合ってるじゃないか!」
と、和郎に冷やかしの罵声を浴びせた。
〈くそ! ここまでま馬鹿にされなければならないのか!〉
和郎は頭に血が上ってしまった。そして、握り拳に力を入れた。
すると、そんな和郎の思いに直子は気付いたのか、和郎に組み付いて、和郎から離れようとしないのだ。
すると、この時、和郎は直子の匂いを感じた。和郎の体内からは決して放たれない女の匂いを和郎は感じたのだ。そして、その匂いと共に、和郎は直子の柔らかい肌の感触を初めて感じたのであった。
そして、もう十分に和郎に罵声を浴びせたので、満足したのか、太郎と五郎は程なく、和郎たちの許から去って行った。
すると、和郎はやれやれと、息をついた。すると、気恥しさを感じたのであった。
正に、何てことをやらかしてしまうところだったのだろうか。後少しで、五郎に椅子を投げ付けるところだったのだ。和郎は頭に血が上ってしまえば、何を仕出かすか分からないと和郎は自らで思った。
そんな和郎を見て、直子は、
「中村君たちのことを、気にしては駄目だよ」
と、日頃の五郎たちのことを知っている直子は、和郎を諭すかのように言った。
そんな直子に、和郎は黙って肯いた。和郎とて、半年以上、一緒にいれば、五郎がどんな生徒なのかは、凡そ理解出来ていたからだ。
とはいうものの、和郎は改めて、五郎憎しの思いが込み上げて来たのだが、実のところ、そんな五郎のことより、直子の存在が、この時、和郎の脳裏に大きく伸し掛かって来たのであった。仄かな女の匂いを漂わせ、必死で和郎に組み付いて来た時の柔らかな肌の感触。
それは、今までの和郎が感じたことのない新鮮なものであった。また、とても、強烈なものであった……。