「悪いね。学校、休ませてしまって……」
 良子は申し訳なさそうに言った。
「仕方ないさ。今日は親孝行するさ」
 和郎は軽く笑った。
 良子は床についたままであった。
 冬将軍は遂にこの地方を襲い、昨夜だけでも、積雪が三十センチにもなったという。
 そして、十二月に入ると、辺りは白一色となった。
 そうなると、人々は昼間でも、外出を控えるようになってしまう。
 良子は風邪をこじらせてしまった。これまでの過労と一家を支えなければならないという心労が重なって、遂に寝込んでしまったのだ。
 和郎が学校を休んだというのも、良子の看病をしなければならなかったからだ。
 良子は熱が三十九度もあったのだ。それ故、そんな良子を一人にしておくことは、和郎は出来なかったのだ。
 大造は昨晩は帰って来なかった。
 最近は、時々、家に帰って来ないことがあった。
 そして、そういう時は、度々、翌日になって警察から連絡が入ったりするのだ。酔っ払って喧嘩をし、警察に保護されたというわけだ。
 和郎はそんな大造のことを憎くもあり、また、恥ずかしかった。
 そう和郎が思ってると、良子が何か言ったようであった。
 だが、和郎には聞き取れなかった。
 だが、良子は再び呟くように、二言、三言った。聞き取れないような覚束ない声で。
 それで、和郎は良子の枕元に行っては、
「何か言ったかい?、母さん」
 と、囁いた。
 すると、良子は、
「郵便局に行ってくれないかい」
 良子は高熱の為か、口調は覚束なかったが、そう言った。
「郵便局に行けばいいの?」
「そうだよ。戸棚の引出しにカードがあるから、お金を下ろして来てもらいたいんだよ。そして、そのお金で晩ご飯のおかずを買って来てくれないかい」
「幾ら下ろせばいいの?」
「三万にしてくれるかい」
「おかずは何を買えばいいの?」
「好きなものを買ってきな」
 良子はそう言うだけでも、苦しそうであった。そんな良子の額には、脂汗が浮き出ていた。
 それで、和郎は良子の額に手を当ててみた。すると、凄い熱であった。
 和郎はタオルを水で搾って、良子の額に当てた。
 すると、良子は、
「心配しないでいいよ。その内に、治るから」
 と、苦しそうに笑った。
 和郎はそんな良子を家に残し、郵便局に向かった。
 郵便局は、村役場の隣にあった。それは、アパートから歩いて二十分程の道程であった。
 雪の為に、和郎は歩いて行くことにした。
 長靴を履いて行ったのだが、それでも、長靴の中に雪が入って来た。そして、雪が長靴の中で溶け、それが徐々に和郎の足に冷たさを与えたのであった。
 和郎は郵便局に着くと、現金自動預払機にキャシュカードを入れた。
 すると、二万しか残金が残っていなかったのだ。
 しかし、良子は三万下ろしてくれと行った。しかし、実際には、二万しか残っていなかったのだ。
 だが、和郎はとにかく、二万下ろし、役場近くのスーパで、魚の干物と豆腐を買って、アパートに戻った。
 アパートに戻ると、母は眠っていた。
 和郎は台所で、雪で濡れた足を雑巾で拭いた。
 母が眠ってる六畳間は、ストーブで暖かくはあった。
 しかし、和郎の心の中は不安で渦巻いていた。この先、どうやって暮らして行けばよいのかと。
 和郎に蓄えなど、あるわけがなかった。また、父が貯金を持ってるという話は、聞いたことはなかった。
 それ故、平野家の貯金といえば、母の口座に残ってるお金だけであったのだ。それが、僅か二万で、和郎が今、その二万を下ろして来たのである。
 そんな状況下において、母がこのまま病気で寝込んでしまえば、この先、一体誰がお金を稼ぐのだろうか?
 和郎はもし母が寝込むことになれば、和郎が働くしかないと思った。
 そう思うと、和郎は一層哀しくなって来た。どうして、和郎はこんなに惨めにならなければならないのかと……。
 そのようなことを和郎は思っていたのだが、やがて、陽はすっかりと暮れてしまった。
 陽といっても、今日は太陽が顔を出していたわけではなかった。しかし、明るさはあった。その明るさが、今はすっかりと消え失せてしまったというわけだ。
 やがて、午後六時を過ぎた。
 だが、母は寝込んでいるので、和郎が今夜の晩飯を作らなければならないのだ。
 だが、その時、大造が帰って来た。そして、今の時間に大造が帰って来るのは、珍しかった。
 だが、大造は一人ではなかった。薄汚れたコートを羽織り、胡麻塩頭に口髭を生やした大造と同じ位の男と一緒であった。
 大造は靴を脱ぎ、玄関から上がると、
「おーい! お茶を出してくれ! お客さんがいるんだ!」
 と、叫んだ。そして、男を伴っては、つかつかと良子が寝込んでいる六畳間に入って来た。
 だが、良子が寝てるのを眼に留めると、
「何で寝てるんだ? 風邪でもひいたのか?」
と、傍らにいた和郎に言った。
「熱が三十九度もあるんだ」
 と、和郎が些か表情を険しくさせては言うと、
「しょうがないな」
 と、吐き捨てるかのように言っては、男と共に、四畳半の部屋に行っては話し出し、少しすると、大声になり、更に、大声で笑い合ったりした。
 和郎はもう堪らなかった。
 和郎ですら、これ程、一家のことを心配してるのに、大造にはその心配というものは、まるで感じられなかったのだ。
 和郎はそんな大造のことを何処かに行ってしまえばいいのにと思った。また、死んでくれた方がましだとも思った。
 そう思うと、和郎は息苦しさを覚え、アパートを出た。そして、何処かに行く当てはなかったのだが、雪の道を歩き出した。
 先程までは止んでいた雪は、まるで目覚めたかのように、降り始めていた。
 和郎は雪に降られるがままに、何処かに行く当てもなく、ただひたすら歩みを進めた。
 すると、偶然に少し向こうの方に、北野太郎の姿を眼に留めた。そんな太郎は、高価そうな皮ジャンパーを着ては、黒い傘をさしていた。
 和郎ははっきりと、太郎の姿に気付いたのだが、太郎は和郎のことに気付いていないようであった。
 というのも、太郎は一人ではなかったからだ。太郎の傍らに、もう一人の人間がいたからだ。
 そして、それは女であった。
 だが、辺りがかなり暗かったので、和郎はその女の顔を太郎の顔を確認出来たように確認出来なかったのだが、その時、和郎の表情は、かなり青褪めてしまった。何故なら、その女は花井直子のように思えたからだ。
 だが、そんな二人は、遠くからそんな二人を注視してる和郎の姿に皆目気付かず、程なく、和郎に背を向けては歩き始めた。
 それで、和郎はまるで磁石に吸い付けられるかのように、二人の後をつけ始めた。
 太郎の傘に収まった二人は、やがて、小山田神社にやって来た。小山田神社は、その昔、五穀豊穣を祈って、村人によって建立された村内の唯一の神社であった。
 和郎は二人に気付かれずに、尾行出来た。何しろ、小山田神社に向かう道はとても暗かったし、また、二人は夢中になって話し込んでいたからかもしれない。
 二人はやがて、朱塗りの鳥居を抜け、参道に踏み出した。参道を三十メートル程歩くと、本殿があった。参道の外側には、杉の大木が林立していた。
 和郎は参道を歩かずに、杉並木の中を進んだ。そうしないと、太郎たちに気付かれてしまう可能性があったからだ。
 もうすっかりと夜になってしまった為に、境内には太郎たち以外に誰もいないようだった。辺りは、正にひっそりと静まり返っていたのだ。
 二人はやがて本殿の前に来ると、いきなり抱き合った。そんな二人を杉並木の中から見入っていた和郎は、その光景を見て、啞然とした様を浮かべた。その光景は、正に和郎が予想していないものだったからだ。
 それと同時に、大きな不安に襲われた。というのは、太郎の相手が、直子ではないのかと思ったからだ。
 和郎は小山田中学に転校してから、太郎から受けた様々な仕打ちを思い出した。それは、正に、和郎にとって屈辱的なものであった。
 しかし、和郎はじっと耐え忍んで来たのであった。
 それは、何故?
 和郎は太郎と喧嘩になれば、今の学校に居辛くなるのではないかと、思ったのだ。
 しかし、転校するわけにはいかない。和郎の為に、一家は転居するだけの金はないのだ。それ故、和郎は良子に迷惑を掛けたくなかったのだ。
 そう思い、和郎はじっと太郎からの屈辱を耐え忍んで来たのであった。
 そういった中で、直子の存在は和郎にとって、心の支えとなっていた。太郎からの苦渋を受けても、直子が慰めてくれれば、和郎は生き返った気になったものだ。いわば、直子は和郎にとって、天使であり、また、初恋の相手でもあったのだ。
 そんな直子が、今、和郎の眼前で、太郎と抱き合っている。
 その光景は、和郎にとって信じられないものであり、また、それは、和郎にとって許されないものであった。
 それ故、和郎は太郎と抱き合ってる女は、直子ではないとも思ってみた。直子だと言われれば、そんな気はするのだが、そうでないと言われてみれば、そうなのかもしれなかったからだ。
 それで、その真偽を確認する為に、和郎は更に杉並木の中を二人に近付いた。
 だが、二人の視線の前方にまで移動することは出来なかった。そのようなことをすれば、二人に気付かれてしまう恐れがあったからだ。
 そういう理由から、やはり、その女が直子であるかどうかの確認は出来なかった。
 しかし、太郎が、
「じゃ、明日もこの場所で会おう。午後七時でいいね」
と言った声は聞こえた。
 そして、程なく二人は手を繋いでは、本殿に背を向けては、鳥居に向かって参道を歩き出したのだ。和郎はそんな二人の後姿を睨み付けるように見やっていたのだった。
 今や、和郎の古びたジャンパーには、薄らと雪が積もっていた。今になって、和郎はそのことに気付いたのであった。
 また、それと共に、改めて寒さが身に染みた。
 しかし、太郎が言った言葉は、はっきりと耳にしたのであった。



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