第一章 死の雲仙

  1
 
 正志からの知らせを受けて、正志と早苗が宿泊している某ホテルの係員である島袋明夫(48)は、正志と共に血相を変えて早苗が待っている現場に向かった。
 といっても、島袋と正志が現場に来ても、その男が息を吹き返すことはなかった。
 やがて、島袋と正志は現場に着いたのだが、島袋は、その銀縁の眼鏡に手を当てては気難しそうな表情を浮かべては言葉を発しようとはしなかった。しかし、そんな島袋の表情は正にとんでもないことになったと言わんばかりであった。
 即ち、雲仙観光の目玉である雲仙地獄で若い男の死体が見付かったとなれば、それは雲仙にとってイメージダウンとなり、観光客が雲仙のことを避けるようになるのではないかということである。何しろ、観光によって生計を立てている島袋たちにとって男の死は大打撃になる。島袋はそう算盤をはじいているかのようであった。
 そんな島袋、そして、正志に対して、早苗は、
「どうやら、この人はナイフなんかで刺殺されたみたいよ」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべて言った。
「ナイフなんかで刺殺?」
 正志は、険しくなっている表情を一層険しくさせては、呟くように言った。
 というのは、正志は男を抱き抱えては大叫喚地獄から散策路まで運んで来たのだが、男は頭から血を流していたような形跡が見られたことを覚えていた。
 それ故、正志は言葉としては発しなかったものの、男は鈍器なんかで頭を殴られて殺されたのではないかと思っていたのだが、ナイフなんかで刺殺されたとは思っていなかったのだ。
 そのように正志に言われると、早苗は、
「胸の辺りから血を流した形跡があるのよ」
 と、正に生まれて初めて他殺体を眼にした早苗は、今更ながら引き攣った表情を浮かべながら言った。
 それで、正志は男の胸の辺りをまじまじと見やった。すると、確かに胸の辺りから血が流れたような形跡が見られた。男は黒っぽいシャツを身に付けていた為に、正志は胸の辺りから流れた血の形跡に気付かなかったようだ。
 しかし、いずれにしても、男の死は殺しによるものであろう。また、男の死体は、惨殺死体といってもよかった。正に、惨い死に様といえるであろう。
 一体何が男をこのような惨い死に追いやったのであろうか?
 正志たちは、そのように思っていると、やがて制服姿の警官が四名、現場に到着した。そして、警官たちは持参してきた担架にその男を載せた。そして、二名の警官がその担架を手にしては、現場から去って行った。
 そして、現場に残った二名の警官は、畑中夫妻からまず男の死体を見付けた時の状況を訊いた。
 畑中夫妻は、有りの儘にそれを話した。
 といっても、特に深い説明をする必要はなかった。何しろ、畑中夫妻はただ単に朝の地獄巡りを行った時に、男の死体を見付けただけなのだから。
 だが、警官は、そんな畑中夫妻の話を真剣な表情を浮かべながら、手帳にメモをした。
 そして、畑中夫妻の連絡先を確認すると、その時点で畑中夫妻は、男の死体が見付かった大叫喚地獄を後にした。
 因みに、今の雲仙地獄は、まだ朝早いという為か、畑中夫妻のような観光客は、まるで見当たらなかったのである。

   2

 九月二日午前七時二十分頃、東京から来た観光客である畑中夫妻によって発見された男は、直ちに雲仙市内のS病院に運ばれて、司法解剖されるに至った。男の死は、明らかに殺しによってもたされたことが、その男の外見によって明らかになっていた。何しろ、男の頭部には、鈍器のような物で殴られた為か、頭蓋骨の陥没が見られ、更に、胸の辺りには、ナイフのような鋭利な刃物で刺された様な痕跡も見られたからだ。
 この様な男の外見を見れば、素人でも男は何者かに殺されたと理解するであろう。
 だが、男にこれほどまでに惨たらしい死をもたらした動機とは一体どの様なものなのであろうか?
 この疑問は、死体発見者の畑中夫妻も抱いたのだが、初動捜査に当たった雲仙駐在所の仲本巡査長(35)たちも、無論抱いた。
 そんな仲本たち雲仙駐在所の巡査たちは、男の死体が発見された大叫喚地獄の周辺で、男の死に関係している物証はないかと捜査を行なった。
 それ故、九月二日は、終日大叫喚地獄にはロープが張られ、立ち入り禁止となった。
 それによって、さぞ多くの観光客が、迷惑を被ったことであろう。
 それはともかく、仲本たちは、特に男の捜査に役立ちそうな物証を見付けることは出来なかった。
 それ故、自ずから捜査の主導は、長崎県警捜査一課へと移ったのであった。
 司法解剖の結果、男の死亡推定時刻と死因が明らかになった。
 死亡推定時刻は、九月一日の午後八時から九時頃であり、死因はナイフのような鋭利な刃物によって刺された為によるショック死であった。
 とはいうものの、男の身元を示す物は、何ら所持してなかった。
 身長175センチ、体重70キロの二十代前半位で技術者というよりは、営業職に携わっていたように見受けられたが、その程度のことでは、男の身元証明には至らないのは、当然のことであろう。
 男の死は、新聞やTVで報道された為に、男に関する問い合わせは、確かに入った。行方不明になっている息子ではないかという具合に。
 そういった問い合わせは、三十件位入り、その中で十件はかなり信憑性があったので、男の遺留品が残されている雲仙署にまで来てもらったのだが、男の身元証明には至らなかった。
 また、男の指紋が警察に保管されていないか、また、家出捜索人の中で男の該当者がいないか、その線での捜査も行なわれたが成果は得られなかった。
 また、男の死亡推定時刻からして、男は九月一日に雲仙周辺のホテルや旅館などに宿泊していた可能性は充分にあった。
 それ故、その線から捜査してみたのだが、成果は得られなかった。
 その結果を受けて、男の捜査を担当することになった長崎県警捜査一課の熊沢仙一警部(49)は、いかにも決まり悪そうな表情をうかべながら、
「一体どうなってるんだ?」
 と言っては、大きく首を傾げた。
 熊沢としては、雲仙周辺のホテルとか旅館を当たれば、被害者と思われる男は浮かび上がると読んでいた。しかし、その読みは、あっさりと外れてしまったのだ。
 熊沢と共に捜査に携わることになった若手の野々村刑事(27)は、
「問題は、男がどうやって雲仙にまでやって来たのかということですよ」
 と言っては眼を鋭く光らせた。
「というと?」
 熊沢は、些か興味有りげな表情を浮かべて言った。
「つまり、雲仙までは、歩いては来ませんよ。それ故、バスで来たか、タクシーで来たか、レンタカーで来たか、マイカーで来たか、あるいは、誰かと共に来たかのどれかというわけですよ」
 そう言っては野々村刑事は小さく肯いた。
「そりゃ、そうだが……。 だが今のところ、レンタカーやマイカーで来たという可能性は小さいな。何故なら、雲仙周辺で九月一日から放置されている車は見付かっていないからな。もし、男がレンタカーやマイカーで来たのなら、それらが見付かっていい筈だよ」
 と、熊沢は、渋面顔で言っては小さく肯いた。
「確かに警部の言われる通りです。
 それ故、バスで来たか、タクシーで来たか、あるいは、誰かと共に来たかということです。
 そして、もし誰かと来たとしたら、その誰かが、男を殺した犯人というわけですよ」
 と、野々村刑事は眉を顰めては小さく肯いては言った。
「その可能性はあるだろうが……」
 と、熊沢は、呟くように言った。
「そうですよね。で、僕たちとしては、男がその誰かと共に雲仙に来たのではなく、バスとかタクシーで来た方が都合が良いのですよ」
 と、言っては、野々村刑事は、眼をキラリと光らせた。
「何故そうなんだ?」
 熊沢は、野々村刑事の意図が分からなかったので、些か怪訝そうな表情を浮かべて言った。
「それは、男を殺した犯人が九月一日に雲仙周辺のホテルなんかに宿泊していた可能性が高いからですよ」
 と、野々村刑事は、再び眼をキラリと光らせては言った。
 すると、熊沢は、
「確かに野々村君の言うことは、もっともなことだよ」
 と、野々村刑事に相槌を打つかのように言った。
 そして、その野々村刑事の意見が取り入られ、早速、九月一日に雲仙に到着したバスやタクシーの運転手たちを見付け出しては、男と思われる者を雲仙まで乗せなかったかという捜査が行われた。
 すると、何と成果があった。
 長崎と雲仙を結ぶ県営バスの運転手である佐藤昇(34)が、雲仙に午後六時十分頃に着いたバスにその男と思われる人物が終点の雲仙バスターミナルで降りたと思われると証言したからだ。
 佐藤は、熊沢から男の死に顔の写真や全身の写真、更に、その人相風体から、その男が、佐藤の運転して来たバスに乗車して雲仙にまで来たようだと証言したのだ。
 だが、佐藤は、
「でも、絶対にそうだとは、断言はしませんがね」
 と、付け加えた。
 すると、熊沢は、
「分かっていますよ」
 と、いかにも愛想よい表情と口調で言った。
 すると、佐藤は、
「でも、そのバスで雲仙バスターミナルで降りたお客さんは、三人でしてね。中年の夫婦とその若い男ですよ。
 で、その若い男は、長崎から乗って来ましてね。長崎からの運賃を運賃箱に入れたのを僕は覚えていますね。
 で、僕は、その時にちらっとその若い男を見たのですが、すると、今、刑事さんから見せられた写真の男に似てると思ったのですよ」
 と、自らの証言が警察の捜査にとって重要なものになると思ったのか、いかにも真剣な表情を浮かべて言った。
 そんな佐藤の証言を耳にして、熊沢は十中八、九、佐藤が眼にしたその若い男が、大叫喚地獄で見付かった男だと思った。
 となると、男を殺した犯人は、九月一日に雲仙の何処かのホテルか旅館に宿泊していた可能性が俄かに高まった。
 だが、男が何処の誰なのかまるで分からない為に、九月一日の雲仙のホテルや旅館の宿泊者を調べようがなかった。
 もっとも、男と何ら接点のない観光客が夜の雲仙を散歩中、男と偶然にトラブルが発生し、男が殺されたという可能性が全くないわけでもない。
 だが、その点に関して、熊沢は、
「男の殺され方からして、やはり何らかの怨恨が存在していた可能性が高い」
 と、主張した。
 それ故、男の殺害犯は男の知人であった可能性が高いというのが熊沢たちの見解であった。
 とはいうもの、九月一日に男は、一体何処のホテルや旅館に宿泊する予定であったのであろうか? 男が九月一日に雲仙周辺のホテルとか旅館を予約していた可能性はあったので、その捜査は既に行なわれていたのだが、成果は得られてなかった。
 ということは、男は野宿でもするつもりであったのだろうか?
 それはともかく、男の死体が見付かって二週間が過ぎた。
 だが、捜査に進展は見られなかった。
 男は、県営バスに乗って長崎から雲仙にまで来たらしいということは分かったものの、それ以上の進展は見られなかったのだ。
 ところが、そんな捜査陣を嘲笑うかのように、雲仙で第二の事件が発生してしまったのである。


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