第三章 東京
 
     1

 ここは、東洋一の歓楽街といわれている新宿歌舞伎町内にあるとある路上。
 終電の時間は既に過ぎた午前一時近くというのに、まだ路上には人気が無くなるということはなかった。
 三十、四十を過ぎたサラリーマンなら、ビジネスホテルとかカプセルホテルなんかで夜を過ごすことは慣れているだろうし、また、水商売に従事しているような者なら、タクシーで帰宅することにも慣れているだろう。
 しかし、まだ高校生とも思われる男女の姿がこの時間に見られるというのは如何なものか。高校生なら、小遣いもまだ乏しく、カプセルホテルに泊まるのにもなかなか踏ん切りがつかないというものであろう。
 そして、正に今、カプセルホテルに泊まろうか、あるいは、路上で夜を過ごそうかと悩んでいるような男がいた。
 その男は、高校生ではなかったのだが、まだ二十歳になったばかりの堂本幹男というフリーターであった。  
 幹男は歌舞伎町にあるゲームセンターで友達と午後十一時からゲームに興じ始めたのだが、つい羽目を外してしまって時間が経つのも忘れてしまった。
 友達は、「先に帰るよ」と言っては、午後十一時半頃にはゲームセンターから去り、気が付けば午前零時半を過ぎていた。
 午前零時半を過ぎていたともなれば、もう東京郊外に向かう電車が動いてないことを幹男は知っていた。
 それで、ゲームセンターを後にしてからどうやって夜を過ごそうかと幹男は迷っていたという次第だ。
 幹男が取るべき手段としては、カプセルホテルに泊まるか、路上で夜を過ごすかだ。
 カプセルホテルなら、以前一度泊まったことがあるし、また、路上で夜を過ごしたことも既に三度ある。
 そんな幹男は自らの財布の中身を確認してみた。
 すると、千円しかなかった。
 つまり、ゲームセンターでゲームに熱中してしまい、幹男は持っていた有り金を殆んど使ってしまったのだ。
 そんな幹男にはもはやカプセルホテルに泊まるだけの金は残っていなかった。 
 この時点で決まった!
 幹男は、今夜は歌舞伎町の路上で夜を明かすのだ!
といっても、そんな幹男には深刻さは見られなかった。何故なら、以前に一度ではあるが歌舞伎町の路上で夜を明かした経験があったからだ。
 そして、以前夜を過ごしたことのあるその路上、即ち、コマ劇場前の広場に向かった。
 コマ劇場前のその広場にはベンチはなかったものの、人が寝転がるのに充分なスペースはあった。また、五月という季節柄、夜を路上で過ごすことには何ら問題はなかったし、また、以前にも夜を過ごした場所ともなれば、何ら不安もない。
 それで、幹男の足は自ずからコマ劇場前の広場へと向かっていた。それは、午前一時十分頃のことであった。
 幹男は、コマ劇場前のその広場にやって来ては辺りを見回してみた。すると、辺りには幹男以外は誰も見当たらなかった。
 コマ劇場に向かってセントラルロードを歩いている時は、まだちらほらと人は見られていたのだが、歌舞伎町といえども、午前一時を過ぎたともなれば、流石に人気はめっきりと減っていた。そして、コマ劇場前の広場に来た時はもはや人の姿は見られなかったというわけだ。
 もっとも、一年前にこの広場で夜を過ごした時も、幹男のようにこの広場で夜を過ごそうとした者は、幹男を入れて、僅か二人であった。
 それ故、この広場で夜を過ごそうとする者は決して多くないということは幹男は予め分かっていた。東洋一の歓楽街といわれる歌舞伎町のこの場所に幹男しかいないというのは何だか妙だと幹男は思ったが、とにかく手頃な場所で横になろうとしたその時である。
 コマ劇場とは反対側の方から若い女が一人で歩いて来るのが、突如、幹男の眼に留まった。
 通常、深夜の歌舞伎町を若い女が一人で歩いているとすれば、それは水商売の仕事に携わっている女である可能性が高いといわれるが、幹男がその女を一瞥した限りでは、水商売に携わっている女には見えなかった。いわば、素人の女に見えたのだ。
 更に、その女は可愛いという印象を受けた。白っぽいシャツにジーンズ地のミニスカートをはいたその様は、男の眼を引くのに充分と思われた。
 こんな可愛い女が一体何故、深夜の歌舞伎町を一人で歩いているのだろうか?
 その疑問が自ずから幹男の脳裏を捕えた。
 幹男はそう思ったのだが、そんな幹男の思いなど無関係のように、女は幹男の方に一歩一歩近付いて来た。
 そう! 女は幹男の傍らをすたすたと通り過ぎるのではなく、幹男が腰を下ろしている広場の中に入って来ては、幹男の方に近付いて来るのだ。
 幹男は無論、そんな女の姿を眼で捕えていたが、敢えて女の方に顔を向けようとはせずに、女のことなど眼に入らない振りを装っていた。
 しかし、女は一歩一歩幹男に近付いて来ては、遂に幹男の傍らにやって来た。そして、幹男と同じ様に何と腰を下ろしたのだ。
 今、この広場には、幹男と女の二人しかいなかった。
 それなのに、女は幹男の傍らに腰を下ろしたのである。
 しかし、依然として幹男は女に対して素知らぬ振りを装っていた。
 そして、その時間は一分程続いたと思われるのだが、突如、女が、
「すいません」
 と、話し掛けて来た。
 それで、幹男は思わず女を見やった。
 すると、その時幹男は、
<可愛い!>
 と、感じた。
 女を遠眼で眼にしていた時もその様に感じてはいたのだが、間近で眼にすると一層そう実感してしまったのだ!
 そんな女から突如話し掛けられてしまった幹男は、些か緊張してしまった。
 とはいうものの、女から「すいません」と、話し掛けられたので、幹男は何か言わなければならないと思い、それで、
「はあ……」
 そんな幹男に女は、
「終電に乗り遅れてしまったのですか?」
 と、幹男の顔をまじまじと見やっては言った。
 女にそう言われ、幹男は、
「そうなんですよ。つい、ゲームセンターでゲームに熱中してしまって……。気がつけば、もう終電の時間は終わっていたのですよ」
 と、些か苦笑いしながら、決まり悪そうな表情を浮かべながら、言った。
「そうですか。私は友達と居酒屋で少しお酒を飲んでいたのですが、その居酒屋で偶然その友達がその友達の彼氏と会ってしまって……。それで、友達は彼氏と共に先に帰っちゃったのですよ。
 一人残された私は、この近くのパチンコ店でパチンコをしたりしてたのですが、つい熱中しちゃって……。気が付いたら終電に乗れなくなっちゃったのですよ」
 と、女はいかにも困ったと言わんばかりの表情と口調で言った。
 そう女に言われると、幹男は、
「じゃ、僕と同じだな」
 と、思わず笑みを浮かべては言った。
 すると、女も笑みを浮かべた。
 そんな女に、幹男は、
「じゃ、どうやって夜を過ごそうと思っているんだい?」
 と、女の顔をまじまじと見やっては言った。
 実のところ、幹男は今までに女をナンパしたことが、数回あった。
 つまり、新宿とか、渋谷の繁華街で夜遅くに所在なげにしている若い女に声を掛けては、その日の内にものにしたことがあったのだ。
 幹男は、雑誌なんかで夜遅くに新宿とか渋谷の繁華街で所在なげにしている若い女は男からナンパされるのを待っているんだという記事を読んだことがあった。
 それ故、幹男はその記事の内容を実際に実践してみたのだ。
 すると、声を掛けてみた十回の内、何と三回も成功したのである!
 そして、その時に培われた幹男の勘が今、こう告げているのだ!
<この女はナンパされてがっている!>
 と。
 即ち、この女は口先では何だかんだと言ってはいるが、実際にはカモを探しているのだ。今夜のセックス相手というカモを!
 そしてそのカモが見付かった。それが、幹男であったのだ!
 そう思うと、幹男は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。こんな上玉の女とやれるのかと思うと、思わず興奮してしまったのである。
 とはいうものの、その興奮を露骨に出してしまうとそれは幹男にとって墓穴を掘ることに繋がってしまうことを幹男は知っていた。
 即ち、ナンパにはテクニックが必要なのである! 女と巧みにホテルに入れるように会話を持っていくことが肝心なのだ。
 幹男はそのように思いながら、また、努めて平静を装いながら、女の次の言葉を待った。女は、幹男の「じゃ、どうやって夜を過ごそうと思っているんだい?」という幹男の問いに対して、まだ返答をしてないのだ。
 幹男のその問いに、女は些か顔を紅潮させては、少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「このような場所で夜を過ごすわけにもいきません。そうかといって、タクシーで帰るわけにもいかないのです。私の家はかなり遠方にありますので……」
 と、蚊の鳴くような声で言った。
「そうかい。それは、困ったな」
 と、幹男は正に女に同情するかのように言った。
 幹男は本当は「じゃ、一緒にホテルに泊まろうぜ!」と、言いたかったのだが、そのような言葉を露骨に発してしまうと、女は気を悪くしてこの場から去って行くかもしれない。そうなってしまえば、正に逃がした獲物は大きいというものだ。 
 それで、幹男はその言葉を発するのを堪え、女の次の言葉を固唾を呑んで待った。 
 すると、女は程なく、
「この辺で、私が泊まれそうなホテルはないでしょうかね? それに、あまり高くないホテルがいいのですが……。一万円もすれば、私、払えなくなっちゃうので……」
 と、今度は幹男の方に顔を向けながら、再び蚊の鳴くような声で言った。
 女にそう言われ、幹男は、
「じゃ、予算はどれ位だ?」
 と、いかにも愛想良い表情を浮かべては、女の機嫌を取るかのように言った。
「七千円位がいいのですよ」
「七千円か……。僕は、それ位の料金で泊まれるホテルを知っているよ」
 と、幹男は眼を大きく見開いては、輝かせ、そして、弾ませては言った。
 幹男にそう言われると、女は些か嬉しそうな表情を浮かべたが、何故か言葉を詰まらせている。そんな女は言葉を発するのを遠慮しているかのようだ。
 そう察知した幹男は、
「もしよろしければ、僕がそのホテルに案内してあげるよ」
 と、再びいかにも愛想良い表情を浮かべては、女の機嫌を取るかのように言った。
 すると、女は眼を大きく見開き、そして、輝かせては、
「いいのですか?」
「そりゃ、勿論いいよ。じゃ、行こうか」
「ええ」
 ということになり、幹男は女と共に立ち上がると、幹男が意図しているホテルへと歩み始めた。
 幹男が意図しているそのホテルは、区役所通りと明治通りに挟まれた歌舞伎町二丁目辺りに集まっているラブホテルであった。そのホテルがあるラブホテル街には七、八千円で泊まれるホテルがあることを幹男は知っていた。
 幹男と女は、そのラブホテル街に向かって歩みを進めていたが、コマ劇場前の広場からそのホテル街には五分もあれば着けるというものだ。
 とはいうものの、歩みを進めるにつれて、辺りは何となく物騒な雰囲気へとその様相を変貌させ始めていた。
 歌舞伎町一番街やセントラルロード辺りにも所々に風俗店があり、普通の繁華街とは様相を異にはしていたが、しかし、普通の飲食店なんかも結構あり、別にその辺りを歩いていても、恐さというものは、まるで感じさせなかった。
 しかし、歌舞伎町一番街とかセントラルロードを通り過ぎ、歌舞伎町を更に進んで行くと、何となく物騒な雰囲気を感じてしまうのだ。
 また、その辺りには外人も多く、刑事事件も多発している。そのことも、辺りの雰囲気をそのように変貌させる一因となっているのかもしれない。
 そういった雰囲気を女は敏感に感じ取ったのか、女は、
「何だか、物騒な感じね」
 と、些か不安そうな表情を浮かべては言った。
 幹男はといえば、この辺りには既に何度も来ているので、この辺りは慣れていた。
 しかし、そんな幹男でも女のように感じてしまう。
 それで、女に相槌を打つかのように、
「そうだね。でも、僕がいれば、安心だよ」
 と、まるで女を安心させるかのように言った。
 そういった遣り取りを交している内に、やがて、幹男が意図しているラブホテル街に入った。
 幹男としては、ここまで来たからには、女に何だかんだと屁理屈を付けては、女と共にホテルに入ってやろうと目論んでいた。
 また、幹男と共に、ここまで来たからには、女は暗黙的に幹男と共にホテルに入ることを承諾しているに違いない! 幹男は、今までの経験からそのように看做していた。
 やがて、幹男が意図していた宿泊料金七千円のそのホテルの前まで来た。辺りには、同じようなラブホテルが連なり、イルミネーション豊かなネオンが、まるで華やかに辺りに光彩を放っていた。このホテル街は、夜になれば、一気に生気を帯びるかのようであった。
 とはいうものの、夜の一時を過ぎている今は、ホテル街には、幹男と女以外には人気は見られなかった。ただ、イルミネーション豊かな光彩が眼につくばかりであった。
 その宿泊料金七千円のホテルの前で、幹男と女は立ち止まっていた。
 この時点で、幹男は女に女と共にホテルに入りたいという旨を話そうとしたのだが、幹男がそう話す前に、女が、
「私、このようなホテルに入るのは初めてなのです。何だか私、心細くて……」
 と、いかにも蚊の鳴くような声で言った。
 すると、幹男は正に眼を輝かせた。
 正に、幹男にとって、これ程都合の良い言葉はなかった。そして、まさかこんなに幹男にとって都合の良い言葉が発せられるとは、幹男は、思ってもみなかった。
 とはいうものの、幹男がこんな好機を逃がすわけがない。
 幹男は正に待ってましたと言わんばかりに、
「じゃ、一緒に入ろうか」
 そう幹男に言われると、女は小さく肯いた。そんな女は、まるで幹男にそのように言われるのを待っていたかのようであった。
 これによって、幹男と女は、その某ホテルの中に入った。
 ホテルの中に入ると、出入口の脇にフロントがあったが、フロントにいる係員からは幹男と女の顔は見えない仕組みとなっていた。
 それはともかく、女は空いている室が表示されているボードで303号室を選び、そして、フロントで料金を払った。
 女は、フロントで鍵を受け取ると、幹男と共に、エレベーターで三階に上がった。
 そして、ふかふかの赤い絨毯が敷き詰められた廊下を通り、303号室の前まで来た。
 すると、女はフロントで渡された鍵で鍵を開け、幹男と共に室の中に入った。
 室の中は真っ暗だったが、明かりを点けると、室の中の様子が分かった。
 室の中は、三分の二位のスペースにダブルベッドが置かれ、その傍らに小さなテーブルを挟んで小さな椅子が二脚置かれていた。
 女はその椅子に腰掛けたので、幹男も椅子に腰を下ろした。
 女はといえば、椅子に腰を下ろすと、脚を組み、携帯していたバッグから煙草を取り出すと、テーブルに置いてあったライターで火を点けては一吹かしした。
 幹男はそんな女を見ては、意外に思った。
 というのは、女は外見や今までに少し話した感じでは、純朴そうな感じを受けるのだが、今の女の仕草は、まるで遊び慣れた女が見せる様に見えるからだ。
 しかし、今の幹男にとってみれば、そのようなことは、どうでもよいことであった。何しろ、今から女とやれることは間違いないことなのだから。
 そう思うと、幹男は興奮して来たのだが、幹男はそんな幹男の興奮を抑えようとした。今、この時点で女を抱きしめることは可能なのだが、しかし、それは、軽率な行為だと、幹男は看做したのである。
 そんな幹男を女は煙草を喫いながら、チラチラと見やっていたのだが、煙草を半分位喫うと、煙草をテーブルの上に置いてあった灰皿に押し潰した。そして、
「ちょっと待っててね」
 と言っては、バッグを手に立ち上がると、室から出て行った。
 幹男は<一体何処に行くのだろうか>と、思ったが、その理由を深く考えようとはしなかった。そして、女は、二分位で戻って来た。
 そんな女に幹男は、
「何処に行ってたの?」
 と、さりげなく訊いた。
「廊下にライターを落としたんじゃないかと思って、見て来たのよ。でも、落ちてなかった」
 と、女はあっけらかんとした表情で言った。
<何だ。そんなことか> 
 幹男は心の中で苦笑した。
 そして、幹男と女との間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて女は、
「シャワー浴びようか」
 と、些か媚びるような眼つきを見せては言った。
 女にそう言われると、幹男は、
「ああ」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。
 幹男は、正にこんなに事がうまく運ぶとは思っていなかった。
 幹男は、今までナンパした女をホテルまで引き込み、シャワーを浴びせさせるにまで持っていくのに随分苦労したものであった。散々、女に褒め言葉を浴びせては機嫌を取り、まるで女王のように扱い、そして、歓心を買ったものであった。
 その結果、女はやっと心を開き、幹男に身体を与えたのだ。
 だが、今夜は、明らかに勝手が違っていた。女の方から幹男をホテルに誘い、ホテル代も払い、更に女の方からシャワーを浴びようと誘っているのだ。
 正に、このような経験は幹男は初めてだったのである。それ故、長い人生の中では、このような事も有り得るのだと幹男は妙に悟った気分になっていた。
 女は衣服を脱ぎ始めると、やがて、下着だけの姿となった。
 女は、黒のレースのブラジャーとパンティをはいていた。
 そんな女を眼にして幹男は思わず眼を細めた。何故なら、思ってた以上に、女の身体が眩しかったからだ。
 衣服を身に付けていても幹男の性欲を刺激するのに充分な色香を放っていたのだが、下着姿になると、その色香は正に倍加されたのだ。それは、正に幹男の性欲を甚だ刺激するのに充分なものであったのだ。
 女が下着姿になったのを見て、幹男も衣服を脱ぎ始め、やがて、ブリーフだけの姿となった。
 そんな幹男は遂に自らの欲望を抑えきれなくなった。
 これが、中年の男なら、この時点ではまだ女を抱きしめようとはしなかったことであろう。
 だが、幹男はまだ二十歳で、自らの欲望を充分にコントロール出来る冷静さを持ち合わせていなかったのである。
 幹男は突如女に近付き、女を抱き締めようとした。
 すると、女は、
「嫌!」
 と、甲高い声を上げては、そんな幹男に抗おうとした。
<嫌なわけはないじゃないか!>
 幹男は声に出さなかったものの、心の中でそう思った。
<俺をホテルにまで引き込んだからには、この女だって、やりたいに決まっている! 俺からやられるのを待っているんだ! そうに違いない!>
 幹男は自信を持ってそう看做した。
 それ故、幹男は女にキスをしようとしたが、女は首を左右に振った。そんな女は正に幹男のキスを拒んでいるかのようであった。
 そんな女を見て、幹男は戸惑ってしまった。何故なら、女は正に幹男のキスを拒んだからだ。
 しかし、そんな女に構わずに幹男は女の唇を無理矢理奪おうとした。 
 すると、その時である。 
 突如、室の扉が開いたかと思うと、幹男の見知らぬ男が二人、まるで疾風のように雪崩入って来た。その二人の男の容貌は明らかに強面で、どちらかといえば優男っぽい幹男とは正に対称的であった。また、幹男はこのようなタイプは好きでなく、幹男の友人の中ではこのようなタイプはいなかった。
 また、この二人組みは身長175センチ、体重は70キロ以上はありそうで、その身体は幹男よりもかなり大きかった。
 それはともかく、まるで幹男の見知らぬ男が二人、突如室の中に侵入して来たのを眼にして、幹男は正に腰を抜かさんばかりに驚いてしまった。正に、このような事態が発生するなんてことを幹男が想像したことがないのは、いうまでもないだろう。
 その二人の男が来たことを幸いとばかりに、女は一気にその身体を幹男から離すと、その二人の男の許に駆け寄った。そして、黒いジャケットを着た男に、
「助けて!」
 と、声高に言った。
 すると、黒いジャケットを着た男は、忽ち幹男の前に来ると、
「おい! 俺の女に手を出しやがって! どういうつもりだ!」
 と、正に表情を険しくさせては幹男を睨み付けた。
「俺の女に手を出しやがってとは、それ、どういう意味ですかね?」
 幹男は、啞然とした表情を浮かべては言った。
 見知らぬ男が二人、いきなり侵入して来たかと思ったら、今度は訳の分からない言葉を聞かされてしまい、幹男は平静を失ってしまった。
「しらばくれるな! お前は、コマ劇場の前で、俺の女に何だかんだと難癖をつけては、このホテルまで引き込んだじゃないか! そして、俺の女を犯そうとしたじゃないか!」
 と、男は顔を真っ赤にさせては、幹男を怒鳴りつけた。
 すると、幹男は甚だ真剣な表情を浮かべては、
「とんでもない! 僕がコマ劇場の前で夜を明かそうとしてたら、この女性が僕に何だかんだと話し掛けて来たのですよ。そして、今夜泊まれそうな七千円位のホテルを知っていたら案内してくれと言うので、僕がこのホテルまで案内したら、一緒に入りましょうと言うので、そうしただけなんですよ」
 と、懸命に弁解した。正に、この二人の男に幹男が女とホテルに入った経緯を懸命に弁解しないと幹男は何をされるか分からないと察知したのである。
 すると、女は、
「それは、嘘よ!」
 と、まるでヒステリックに言った。
「嘘?」
 幹男は、女を見やりながら呆気に取られたような表情を浮かべては言った。
「そうよ! 嘘よ! コマ劇場の近くを私が歩いていたら、この男がいきなり私に近付いて来ては、話があるんだとか言って、私の手を離さないのよ。
 それで、私、逃げようとしたら、この男、私にナイフを突き付けてきたの!
 私、下手に逆らったら殺されると思ったの。
 それで、強制的にこのホテルに連れ込まれ、そして、衣服を脱がされてしまったの。そして、後少しで犯されそうになったの。
 でも、謙二たちが助けに来てくれてよかった……」
 と、女は強張った表情を浮かべて言った。そんな女は、幹男から受けた恐怖に依然として立ち直れないと言わんばかりであった。
 そう女に言われ、幹男は、
「嘘だ! そんなの出鱈目だ!」 
 と、引き攣った表情を浮かべては、声高に言った。
「嘘なものか! この女は俺の女なんだ! 俺の女が他の男とホテルに入るわけないじゃないか!」
 黒いジャケットの男は、幹男に罵声を浴びせるように言っては、幹男の眼前へと歩み寄った。そんな男は、今にも幹男に殴り掛かろうとしてるかのようであった。
 そんな男にブリーフ一枚の格好の幹男は、何も出来そうもなかった。何しろ、眼前の男たちはやくざのような男たちなのだ!
 そして、この時、幹男の脳裏には、
<えらいことになった!>
 という思いが過ぎった。 
 そう! 最初からこの女と男は、ぐるだったのだ! カモになりそうな男を巧みに見付けてはホテルに入り、その後、仲間の男がホテルに駆けつけては何かと難癖をつけては金品を巻き上げようとしているのだ!
 即ち、この男女は美人局なのだ!
 そう理解すると、幹男は頭に血が上ってしまい、どうしたらよいのか分からなくなってしまった。
 そんな幹男に黒いジャケットの男は、
「俺はな。新宿でも有数の勢力を誇っているやくざの幹部なんだ。その俺の女に手を出してどうなるか分かっているんだろうな」
 と、右手で幹男の顎をしゃくった。
「僕はまだ手を出していません! ただ、少しキスをしようとしただけなんですよ!」
 幹男は、男の言葉に間髪を入れずに応えた。
「嘘! この男、散々私のオッパイを弄び、私を無理矢理犯そうとしたのよ!」
 と、女は、いかにも大変な目に遭ったと言わんばかりに言った。
「この野郎!」
 女の言葉を聞いて、黒いジャケットの男は、早くも平手打ちを幹男に喰らわした。
 幹男は、その痛さに思わず男にぶたれた右頬に幹男の手を持って行った。
 そんな幹男に黒いジャケットの男は、
「この落とし前は、どうつけてくれるんだ?」
 と、凄い形相で幹男を睨み付けた。
「ですから、僕は彼女に手を出してないのですよ!」
 幹男は、必死で弁明した。
「ふざけるな!」
 黒いジャケットの男は、その言葉と共に、再び幹男に平手打ちを喰らわした。
 そして、灰色のジャケットを着たもう一人の男も幹男に殴り掛かろうと身構えていた。
<やばい!>
 その思いが、幹男の脳裏を過ぎった。
 体力的にとても太刀打ち出来そうもない男二人に戦いを挑んでも、勝負は分かりきっている。更に、この男たちは、刃物を持っているかもしれないのだ。
 正に何を仕出かすか分からない男たちだ。そんな男たちに下手に逆らえば、取り返しのつかない事態に見舞われるかもしれない。
 そう察知した幹男は、
「じゃ、どうすればよいのですか?」
 と、まるで男たちに哀願するかのように言った。
「金さ! 金を払えば許してやるよ!」
 黒いジャケットの男は、居丈高の表情で幹男に命令するかのように言った。
「金ですか……。でも、僕は今、千円しか持っていないのですよ」
 と、幹男はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「千円だと! ふざけるな!」
 と、黒いジャケットの男が怒声を発すると、灰色のジャケットの男が素早く幹男のズボンのポケットに入っていた財布を取り上げては中を調べた。
 すると、確かに千円しか入っていなかった。
 すると、灰色のジャケットの男は、素早くその千円を自らのズボンのポケットに入れると、
「確かに僅か千円しか入ってないよ」
 と、いかにも不満そうな表情と口調で言った。
「何だと! 俺の女に手を出しやがって僅か千円とはどういうことだ! 嘗めてるのか!」
 黒いジャケットの男は、いかにも険しい表情を浮かべては、幹男に殴り掛かろうと身構えた。
 すると、灰色のジャケットの男が、
「こいつは、カードも持ってないぜ! 千円以外に何も持ってないぜ!」
 と、いかにも不貞腐れた表情を浮かべては言った。そんな男は、正に引っ掛けた獲物が碌でもない屑野郎だったと言わんばかりであった。
 その灰色のジャケットの男の言葉を聞いて、黒いジャケットの男は、
「本当に千円以外に何も持ってないのか?」
 と、半信半疑の表情を浮かべて言った。そんな黒いジャケットの男の表情と口調は、今時千円しか持ってないのに、街をぶらぶらしてる奴がいるのかと言わんばかりであった。
「本当ですよ。だから、僕はコマ劇場の前の広場で夜を過ごそうとしてたのですよ」
 と、幹男がまるで男たちに哀れみを請うかのように言った。
 すると、黒いジャケットの男は灰色のジャケットの男と顔を見合わせた。そんな男たちは一体幹男のことをどうするか、眼で相談してるかのようであった。
 そして、その相談はすぐに決まったかのようであった。何故なら、黒いジャケットの男が幹男の方に顔を向けたかと思うと、幹男の鳩尾に渾身の力を込めて鉄拳を喰らわしたからだ。
 幹男はその苦痛に思わず顔を歪めた。
 そんな幹男の脳天に今度は灰色のジャケットの男が鉄拳を喰らわした。 
 それを受けて、幹男の意識は呆気無く無くなってしまったのであった。

   2

「もし、もし」
そう谷山幸男(21)が甘い声を出して言うと、十秒程間があった後、
―もし、もし。
 という甘い女の声が聞こえた。
 ここは、新宿にある某テレクラ。
 テレクラはかなり昔から存在しているが、幸男は、半年位前から、時々テレクラを利用していた。
 地方出身の幸男が東京のS大に入学する為に上京して来たのは三年前だ。
 即ち、幸男は今、S大の四年生なのだ。そして、今は就職活動の真っ只中なのだ。
 とはいうものの、遊び盛りの年齢である為にテレクラを時々利用していたというわけだ。
 そして、今夜も時間の都合を取れたということもあり、新宿にある某テレクラに来ていた。そして、今は午後十一時であった。
 幸男は既にテレクラを八回利用していた。だが、今までに一度も女と会う約束をしたことはなかった。無論、実際に会ったこともなかった。
 そのことを、幸男は友人の沢口信二に話した。何しろ、信二はテレクラで話をした女と実際に会い、その日の内にホテルにまで行った実績があった。そして、信二はそのことを何度も幸男たちに自慢げに話すのだ。
 それで、幸男も信二のようにいい思いをしたいと思っていたのだ。
 それで、テレクラに度々来るようになったのだか、なかなか信二のようにうまく行かない。それで、幸男は信二にそのことを話してみたところ、信二は、
「時間が悪いんだよ」
 と、眉を顰めては、幸男に言い聞かせるように言った。
「時間が悪い?」
 幸男も眉を顰めては言った。
「ああ。そうだ。幸男がテレクラに行くのは、昼間ばかりじゃないか。昼間テレクラに電話して来る女っていうのは、冷やかしが多いんだよ。元々、男と会ってデートしてやろうなんてことは思ってないんだよ。
 でも、夜の十時過ぎにテレクラに電話して来る女っていうのはな。下心があるのが多いんだぜ。
 だから、そういった女を狙わなければならないというわけさ。
 実際にも、俺がテレクラに電話して来た女をものにしたのも午後十一時頃だったぜ。
 だから、女をものにしようと思えば、それ位の時間を狙わないと駄目だということさ」
 テレクラでの成功者である信二にそのようにアドバイスされた幸男は、早速その信二のアドバイスを実践してみたのだ。
 幸男がテレクラに入って二十分過ぎに、幸男は手応えを感じた。何故なら、女の方から幸男に会いたいと言って来たからだ。
 それで、幸男は早速、待ち合わせをした。
 待ち合わせ場所は、コマ劇場前の広場であった。そして、女は身長162センチで、赤いハンドバックを手にしていて、また、白いハイヒールをはいているという。
 幸男はそんな女と待ち合わせの約束をすると、テレクラの時間が後三十分残っているというのに、テレクラを後にした。そして、コマ劇場前にある広場へと向かった。
 そんな幸男は正に期待で胸が一杯であった。
 その女の声はとても可愛らしく、日頃幸男なんかを相手にしない女であるかのような感じがしたからだ。
 高慢ちきで、近寄りがたい女であっても、それは、表面的な体裁に過ぎず、心の中では男とやりたくて仕方なく、テレクラに電話して来る女もいると、幸男は雑誌で読んだことがあった。
 そして、夜のテレクラに電話して来る女の中には、その手のタイプも少なからずいるということも幸男は雑誌で読んだことがあった。
 もっとも、その雑誌の記事が真実なのか、出鱈目なのか、それは、その記事を書いた者しか分からないかもしれない。
 しかし、幸男はその記事を鵜呑みにしていた。
 そして、今、幸男を待っている女は、その手のタイプの女ではないかと、幸男は期待していたのである。それ故、今、幸男の胸は期待でドキドキしていたのである。
 そして、程なく幸男はコマ劇場前の広場にやって来た。
 まだ午後十一時を少し過ぎただけということもあり、歌舞伎町の通りにはまだ少なからずの人が見られた。
 それ故、赤いハンドバッグという鮮明な特徴を示してくれなければ、幸男を待っていてくれる女が誰なのか、幸男が見定めるのは困難かもしれない。
 幸男はそのように思ったりしていたのだが、コマ劇場前の広場に来ては、広場をさっと見渡してみると、幸男はお目当ての女のことをすぐに眼に留めた。何故なら、その女は広場の中のコマ劇場に最も近い所で、さも大切そうに赤いハンドバッグを手にしては佇んでいたからだ。そして、その様はかなり目立つものであったからだ。
 そんな女を眼にして、幸男の表情は思わず笑みに包まれた。何故なら、その女は高慢ちきとは思えなかったが、相当な美人で、しかも、相当にスタイルも良かったからだ。正に、こういったタイプの女と付き合ってみたい。幸男にそう思わせるに充分な位の女が、今夜の幸男の相手だったのだ!
 そう理解すると、幸男は正に胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
 とはいうものの、何とか胸の高鳴りを抑えようとし、やがて女の許にすたすたと近付いて行った。そして、女の眼前に来ると、
「僕が、先程のテレクラの男です」
 と、精一杯の笑顔を見せては言った。
 すると、女も笑顔を見せては、
「そう……。じゃ、行こうか」
 と、言ったかと思うと、幹男の手を取っては、すたすたと歩き始めた。そんな女と幸男が向かってるのは、歌舞伎町二丁目の方であった。
 女に足並みを合わせている幸男は女に「何処に行くの?」と、訊くのは野暮だと思った。
 それ故、そのようなことは決して口に出さずに女に任せようと幸男は思った。
 コマ劇場前の広場を後にしてから、幸男と女はまだ一言も会話を交わしてはいなかったのだが、風林会館に近付いた頃、女がやっと言葉を発した。
「今夜、帰らなくていいの?」
「ああ。構わないよ。僕は一人で住んでいるから、家で僕を待っている者は誰もいないんだよ」
 と、幸男は笑いながら言った。
「そう。それを聞いて安心したわ。じゃ、今から私の相手をしてくれる?」
 と、女はちらっと幸男を横眼で見やりながら言った。
 そう女に言われ、幸男は眼を大きく見開き、そして、輝かせた。その女の言葉は、正に幸男が待ちに待っていた言葉であったからだ。
 また、その言葉を耳にして、幸男は意外にも思った。というのは、幸男と共に歩いている女は可愛い初心な女という印象を受けたのだが、今のその女の言葉は初心な女が発する言葉とは思えなかったからだ。
 これは、正に矛盾であった。正に、人は見掛けによらないという格言を幸男はこの時、ひしひしと実感した。
 また、この女は初心な印象は受けるものの、実際には結構遊んでいるのかもしれない。
 しかし、今はそのようなことは、どうでもよい。とにかく、この女の今夜の相手は、この幸男様なのだ!
 幸男はそのように思いながら、やがて幸男と女は、ラブホテル街に入った。
 そして、ラブホテル街の中でしばらく歩みを進めていたのだが、やがて、某ホテルの前で立ち止まると、女は、
「ここでいいかしら」
 と、まるで囁くように言った。
 それで、幸男は、
「いいよ」
 と、肯いた。
 すると、女は、
「あの……」
 と、いかにも言いにくそうに言っては、言葉を濁した。
「何だい? 遠慮なく言ってよ」
 幸男はいかにも愛想良い表情を浮かべては言った。
「あの……。ホテル代、出してもらいたいの」
 女は、顔を赤くさせ俯きながら、些か言いにくそうに言った。
「何だ。そんなことか。構わないさ。さあ! 入ろうぜ!」
 と幹男は言っては、女と共にホテルの中に入って行った。幸男は今夜、女をナンパするつもりでテレクラに行ったのであり、ホテル代は無論、もし女から援助交際を持ちかけられても、その対価として支払う金を用意して来たのだ。
 即ち、今、幸男の財布には十万程の金が入っていたのだ。そして、それはアルバイトで貯めた金であった。
 幸男は空室を示すボードで305号室を選ぶと、フロントで宿泊料金を払った。即ち、幸男はこのホテルでこの女と共に夜を過ごすつもりであったのだ。
 そして、程なく幸男と女は、305号室の中に入った。
 実のところ、幸男はこういったラブホテルの中に入るのは初めての経験であった。何しろ、幸男はこの年になっても、彼女無しの人生を送って来たのだ。もっとも、ソープとかいった風俗店には行ったことがあったのだが、こういった素人の女とやるのは今夜が初めてであったのだ。
 幸男と女は、室の殆どのスペースを占めているダブルベッドの傍らに置かれている二脚の小さな椅子にそれぞれ座っては、何だかんだと他愛ない話を少しの間交わしていたのだが、やがて、女が、
「喉が渇いちゃったわ」
 と言っては、冷蔵庫の前に行っては程なくコーラを二本取り出した。
 そして、缶を開けては一本を幸男の前に差し出しては、
「どうぞ。これ、私の奢りです。ホテル代を払ってもらったのだから、これ位はさせてもらわないと……」
 と、女はいかにも愛想良い笑みを浮かべては言った。
 それで、幸男は、
「ありがとう」
 と、嬉しそうに言っては、女が差し出したコーラを受け取った。
 幸男は大して喉が渇いてはいなかったが、女がいかにも美味しそうにコーラを飲んでいるので、とにかく幸男もコーラを飲むことにした。
 もっとも、コーラの缶は女が開けていてくれたので、幸男は缶を開ける必要はなかった。
 幸男はコーラの缶が開いていたということに関して、何ら思いを巡らすこともなく、コーラを飲み始めた。
 そんな幸男は一気に半分程飲んだ。
 すると、女は、
「テレクラはよく利用されるのですか?」
 そう女に言われ、幸男は、
「時々ね」
 と、さりげなく言った。
「そうですか。で、今のように、女の子とホテルに入ったりするのですかね?」
 女は、些か興味有りげに言っては、脚を組んだ。
 すると、女の太股が自ずから幸男の眼に飛び込んで来た。
 すると、幸男は思わず眼を細めた。その太股は充分過ぎる程幸男の欲望を刺激したからだ。そして、このような太股を持った女と後少しでやれるのかと思うと、その興奮を抑えるのは正に無理難題を押し付けられたのと同然だ。
 それはともかく、女の問いに幸男は、
「それが、今のように女の子とホテルに入ったことは元より、僕は女の子とデートしたこともないのですよ」
 と、いかにも照れ臭そうに言った。
「そう……。だったら、童貞さん?」
「いや……。童貞じゃないんですが……」
 と、幸男は今度は些か決まり悪そうに言った。
「そう……。だったら、私が初めての素人女性というわけね」
 と、女はいかにも悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「まあ、そういうことかな」
 と、幸男は再び照れ臭そうに言った。
「そう……。で、感想は?」
 女は、興味有りげな表情を浮かべては言った。
「え?」 
そう女に言われ、幸男は思わず眉を顰めては訊き返してしまった。何故なら、幸男は女の問いの意味がよく分からなかったからだ。
 それで、幸男は怪訝そうな表情を浮かべては言葉を詰まらせてしまった。
 そんな幸男を見て、女は再び悪戯っぽい笑みを浮かべ、そして、
「つまり、私とホテルに入った感想よ」
 そう言った女の表情には笑みはなかった。そんな女の表情を見ると、真剣に幸男が女とホテルに入った感想を幸男に訊いているかのようであった。
 女にそう訊かれ、幸男は<えっ!>と、心の中で思ってしまった。
 幸男は、今までほんの少しの時間しか今、幸男の眼前にいる女と共に時を過ごしたに過ぎなかったが、それでも、この女が今、言ったような思いを抱いているような女には見えなかった。
 即ち、今、幸男の眼前にいる女は、知性や人格などまるで持ち合わせてないような、ただ性的に魅力があるだけの女だと幸男は看做していたのだ。
 それ故、今の女の問いは幸男にとって意外だったのである。
 それで、幸男は思わず言葉を詰まらせてしまったのだが、この時、幸男は大きく頭を振ってしまった。というのは、幸男は何だか妙に眠くなってしまったのだ。
 ホテルに入るまでは別に眠くなかった。普段なら、午前零時を過ぎたともなれば、既に眠りの中なのだが、今夜は女とやれるという事実を目の当たりにして、眠気など吹き飛んでいたのだ。
 それが、コーラを飲んでから、何故か急に眠くなって来たのだ。
 そんな幸男は再び大きく頭を振った。そして、眼を手で擦った。
 そんな幸男に女は、
「どうしたの?」
 と、いかにも悪戯っぽそうな笑みを浮かべては言った。
「うん。何だか、とても眠くなって来たんだよ」
 そう言った幸男の眼には、女の姿は殆んど映っていなかった。幸男は、眠くて眼を殆んど開けていられない位の状態に陥っていたのだ。
「眠い? 眠っちゃ駄目よ! 私とやる為にホテルに入ったんでしょ!」 
そう言った女は、悪戯っぽい笑みを浮かべてはいなかった。女は確かに笑みを浮かべてはいたのだが、その笑みは幸男に対する嘲りの笑みであるかのようであった。幸男にはそのように見えてしまったのである。
 そう思ったのが最後であった。幸男は、その後のことは覚えていなかったのである。
 幸男が目覚めたのは、何と朝の六時であった。幸男が辺りを見回してみると、そこは幸男の部屋ではなく、確かに昨夜女と共に入ったホテルの中だということは分かったのだが、昨夜の女は室の中にはいなかった。
 それで、幸男は頭を左右に振った。幸男は今、夢の中にいるのではないかと思ったのだ。 
 だが、夢の中にいるのではないことは、早々と分かった。
<一体、どうなってるの?>
 幸男の意識は完全に戻ったみたいなのだが、幸男はまだ事の次第が完全に把握出来ていなかった。
 それで、幸男は昨夜のことを順次思い出してみることにした。
 幸男は昨夜テレクラで女と待ち合わせをしては、コマ劇場前の広場でその女と会った。そして、このホテルの中に入った。そして、少しの間、他愛ない話をしていたが、やがて、女からコーラを差し出されたので、幸男はそのコーラを飲んだ。すると、その後、何だか眠くなって来た。そして、眠りこける寸前に女の顔を見やったところ、女はまるで幸男のことを嘲笑っているかのようであった。そして、それ以降のことは幸男は覚えていないのである。
 すると、この時、幸男は突如、険しい表情を浮かべた。そして、ズボンのポケットの中を調べてみた。
 すると、幸男は忽ち安堵した表情を浮かべた。何故なら、財布は確かにあったからだ。
 とはいうものの、幸男はとにかく財布の中を調べてみることにした。
 すると、幸男の表情は一気に強張ったものへと変貌してしまった。何故なら、財布の中は空っぽだったからだ。財布の中には十万程の金が入っている筈であったのだが、その十万程の金はまるで消え失せていたのだ!
<やられた!>
 そう後悔しても後の祭りであった。
 あの女は、とんでもない食わせ者であったのだ!
 即ち、あの女が差し出したコーラの中には、睡眠薬が入っていたのだ! 睡眠薬をコーラの中に入れたのは、無論あの女だ!
 そして、あの女は幸男を眠らすと、幸男の財布の中にあった金をかっ払って行ったのだ! 幸男は女のペテンに見事に引っ掛かってしまったのだ!
 そう理解すると、幸男は悔しくて仕方なかった。
 しかし、正確に言えば、幸男はあの女を抱けなかった方が余程悔しかった。幸男はあの女に十万払っても良かったと思っていたのだ。十万払っても抱いてみたかったようなあの女であったのだ!
 それ故、事をもう少し慎重に進めるべきであった。軽率にも女が差し出したコーラを飲んでしまったのが失敗だったのだ。コーラを飲まずに最初から女を抱いてやればよかったのだ! そうすれば、このような失敗は犯さなくてもよかったのだ!
 そう思うと、幸男は悔しくて仕方なかった。しかし、もはや、後の祭りであった。

   3

「もうそろそろ、新宿から手を退いた方がいいかもしれないな」
 と、渋面顔で言ったのは、権田万造(22)であった。
 万造のことを初めて眼にした者は、万造のことを不良染みた男だと思うだろうが、その反面、都会的で何となくカッコいいと思わせる面もないわけでもなかった。そんな万造は筋骨逞しく、体力は相当にありそうであった。
「そうだな。みちるたちの顔を覚えている奴もいるだろうからな」
 と、小山田茂(22)も、渋面顔で言った。
 茂も万造と同様、不良染みていて、筋骨逞しかったが、万造とは違ってお世辞にもカッコいいとはいえなかった。正に強面の男。それが、小山田茂であった。
 それはともかく、今、部屋の中には、権田万造、小山田茂と共に、仲村みちる(22)と村木和美(22)が、姿を見せていた。
 この四人は、都内の某高校時代の同級生であり、万造とみちる、茂と和美が恋人関係にあった。
 即ち、今、この部屋には、二組のカップルが姿を見せているのだ。
 では、万造が発した言葉、即ち、「もうそろそろ、新宿から手を退いた方がいいかもしれないな」という言葉は、一体どのような事を意味しているのだろうか?
 実のところ、この四人組はここしばらくの間、正に悪事を行なっていたのだ。そして、その悪事とは美人局であった。
 即ち、みちるとか和美が路上とかテレクラで手頃な男を引っ掛けてはホテルに連れ込み、そのホテルに万造と茂が押し掛ける。そして、みちるや和美が引っ掛けた男に「俺の女に手を出しやがって!」とか、難癖をつけては脅し、金品を巻き上げるのだ。
 また、みちるや和美が引っ掛けた男に、みちるや和美がホテルの中で睡眠薬を巧みに飲ませては男の金品を失敬してはとんずらする。
 そういった手段で、万造たちは、ここ四ヶ月位で二百万程荒稼ぎしていた。
 もっとも、二百万といっても、一人当たりに計算すれば、五十万だ。四ヶ月で五十万という金額は、決して多い金額とはいえないであろう。
 しかし、定職にも就かず、また、アルバイトも行なっていない四人にとっては、その五十万は貴重なお金であったのだ。
 そんな四人は、いわば高校時代からの不良仲間で、高校時代から万引き、売春、クスリなんかに手を染めていた。
 そんな四人であったから、高校を卒業してからフリーターになったものの、長続きしなかった。
 そんな四人が行き着いた先が美人局だったのだ。何しろ、みちるは相当な美人だし、和美もまずまずだ。それ故、みちると和美なら充分に男を引っ掛けることが出来ると万造と茂は読んだのである。
 そして、みちると和美は万造と茂から美人局を行なうにあたって、そのテクニックをみっちりと教え込まれ、そして、今年の三月から実践に入った。
 すると、面白い程、成功した。
 しかし、それは、みちると和美がいい女であったからであろう。もし、みちると和美が醜女なら、成功はしなかったであろう。
 そして、みちると和美が引っ掛けた男は、既に三十人を超えていたが、みちると和美は引っ掛けた男にまだ一度もその身体を与えたことはなかったのである!
 とはいうものの、何度もこういった行為を行なえば、引っ掛けた男から報復行為を受けるかもしれない。
 それ故、万造は、そろそろ新宿から手を退いた方がいいかもしれないと言ったのである。
 万造にそう言われると、和美は、
「そうよ。私、引っ掛けた男と顔を合わすんじゃないかと、最近ドキドキしながら、新宿の街を歩いているのよ」
 と、些か決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「私も、同感よ。いくらその時ごとに髪型とか服装を変えてるからといっても、安心出来るというものではないからね」
 と、みちるは和美に相槌を打ちかのように言った。
「そうか。じゃ、そろそろ渋谷に移ろうか。俺たちは、渋谷にも詳しいからな。
 でも、後一回だけ新宿でやろうよ。後一回位なら大丈夫だよ」
 と、万造は渋面顔で言った。
 万造とて、渋谷より新宿の方が都合がよかった。新宿の方が遊び慣れていたからだ。しかし、新宿ばかりで美人局を行なっていると、足がつくかもしれないから、いずれ新宿からは引き揚げなければならないと、万造は思ってたのだ。
 もっとも、新宿で引っ掛けた男が渋谷に現れないという保障は何もない。
 しかし、確率からすると、渋谷の方が引っ掛けた男と合わない可能性が高いのだ。万造はそのように看做したのである。
 そう万造に言われて、誰も意義を述べようとはしなかった。何しろ、四人は皆、お金が欲しいのだ。嫌な思いをしながら稼ぎの少ないフリーター暮らしなど、四人は我慢出来なかったのだ。
 そして、結局、その夜、美人局は実行されることになった。場所は、歌舞伎町の一番街辺りだ。
 以前はコマ劇場前の広場でカモを引っ掛けたこともあった。しかし、その作戦は見事に失敗してしまったのだ。引っ掛けた男が金を持ってなかったのだ。
 そもそも、路上で夜を過ごそうとしてる男が金を持ってると看做すこと自体が誤りだといえよう。金を持っていれば、ホテルなんかに泊まる筈だからだ。
 しかし、以前、コマ劇場前の広場で夜を明かそうとしていた男を引っ掛け、十五万巻き上げたことがあったのだ。しかし、柳の下にいつも泥鰌はいなかったのである!
 また、テレクラで引っ掛けた男にも油断出来ない。顔が分からないから、どういった男なのか分からないからだ。
 それで、みちるが綺麗な格好をしては、路上でナンパされるという手段が用いられることになった。今まで、この手段が最も効率良く金を稼げていたのだ。この手段ばかり用いないのは足がつくことを恐れていたに過ぎないのだ!
 そして、その夜、みちるはタンクトップの白いブラウスにジーンズ地のミニスカートをはき、歌舞伎町に姿を見せた。それは、午後十一時頃のことであった。
 午後十一時では、歌舞伎町は元より新宿の繁華街では人通りはまだまだ途絶えることはなかった。地方の街であれば、午後六時ともなれば店のシャッターが下りてしまう所もある。正に日本一の繁華街は眠らぬ街と形容される位、夜遅い時間でも活気づいているのだ。
 それはともかく、みちるは歌舞伎町一番街の入り口辺りで正に一人で佇んでいた。 
 そして、十分、更に、十五分が過ぎた。
 しかし、みちるを待たせている連れの姿は一向に見られなかった。
 しかし、それは当然だ。みちるは別に誰かと待ち合わせをしてるわけではないのだから。
 そんなみちるのことを、五分程前から遠目で眼にしてる男がいた。その男はみちるより三、四歳程年上という感じで、些か甘いマスクをしていた。そして、昔流行ったグループサウンズのように髪を長く伸ばしていたが、髪を染めてはいなかった。もし、髪を染めていれば、ホストでも通用しそうな塩梅であった。
 それはともかく、男は遠目でみちるのことを見ていたが、みちるはといえば、その男の存在には気付いてはいないようだ。何故なら、みちるはその男の方に全然視線を向けてないようだからだ。みちるは、ただ、二、三時間前と比べては、かなり人の流れは減ったといえども、いまだに途絶えることのない人の流れにぼんやりと眼をやってるばかりのようであった。
 だが、その時、その男は意を決したかのような表情を浮かべたかと思うと、動き始め、そして、みちるの方に一歩一歩近付いて来た。そして、みちるの傍らにまで来ると、
「一緒に歩かないか」
 と、みちるをまじまじと見やっては言った。
 みちるはそんな男を見た。
 すると、<カッコいい!>という思いが何故かみちるの脳裏を過ぎった。
 みちるが今まで美人局を始めて、男に声を掛けたり、また、声を掛けられた男の数は三十人を超えていた。だが、その三十人のどの男よりも、今みちるに声を掛けて来た男はカッコいいと、みちるは感じたのだ。
 それ故、男に声を掛けたり、掛けられたりすることに慣れているみちるの頬が少し赤くなってしまった。
 そんなみちるの心の中を見抜いたのかどうか分からないが、男は薄らと笑みを浮かべた。
 そして、再びみちるに、
「一緒に歩かないか」
 と、顔と同様に甘い声で言った。
 すると、みちるはそんな男に魔法に掛けられたわけではなかったが、男と共にコマ劇場の方に向かって歩き始めた。
 そんなみちるに男は、
「これから用はないんだろ?」
 と、眼を正面に向けながら言った。
 みちるは、そんな男の方にちらっと眼をやった。
 すると、男は薄らと笑みを浮かべているかのようであった。
 男にそう言われると、みちるは、
「ええ」
 と、些か面映そうに言った。
 すると、男は些か満足そうな表情を浮かべ、そして、声は出さなかったものの小さく肯いた。そんな男は、まるでみちるが男から声を掛けられるのを待っていたと理解したかのようであった。
 しかし、みちるとしては、そのように理解されるのには些か抵抗があった。何故なら、それはまるで男からナンパされるのを待っていたかのように思われるからだ。それでは、体裁こきである女の立場が悪いというものだ。女は本心ではナンパされるのを望んでいても、その本心は見せないものなのだ!
 しかし、ここで「用がある」なんてことをうっかりと言ってしまえば、みちるたちの作戦は失敗してしまうというものだ。それで、みちるは取り敢えずそう言ったのである。
 男とみちるは、コマ劇場の傍らを通り過ぎると、ラブホテル街に向かって歩みを進めていた。辺りの雑居ビルには、クラブとかスナックなんかの看板のイルミネーションが煌々としていて、正に歌舞伎町は不夜城であることを証明しているかのようであった。
 男とみちるは、声に出さなかったものの、今からホテルに入るということは、既に二人の間で決められた事実であるかのようであった。
 そして、案の定、男とみちるはホテル街に入った。辺りには、正に煌々と煌くイルミネーションを放つラブホテルが立ち並んでいた。
 それらのホテルを五、六軒通り過ぎたかと思うと、男は立ち止まり、
「ここにしようか」
 と、みちるに言った。
 それは、四階建てのホテルで、明らかにラブホテルであった。
 男にそう言われると、みちるは、
「ええ」
 と、小さな声で言っては肯いた。そんなみちるは、まるでそのように言われるのを待っていたかのようであった。
 そんなみちるを見て、男は薄らと笑みを浮かべた。
 そんな男の様は、正にナンパ師そのものであったが、男の容貌からはナンパ師というよりも、純朴な青年と思わせた。
 それはともかく、ホテルの中に入ると、男はボードで室を選ぶと、フロントで料金を払った。室は、四階の403号室であった。
 男とみちるはエレベーターで四階まで上がると、ふかふかの茶色っぽい絨毯が敷き詰められた廊下を通り、403号室の前まで来ると、男はフロントで手渡された鍵で扉を開けた。
 室の中は真っ暗だったが、明かりを点けると、室の中の三分の二位のスペースにダブルベッドが占められていて、その傍らに小さなテーブルを挟んで小さな椅子が一脚ずつ置かれていた。
 男とみちるは、室の中に入ると、男はすぐにみちるを抱き寄せては唇を合わせた。
 みちるは、男に唇を吸われるがままであった。そんな男とみちるは、ほんの少し前に出会った男と女というよりも、長年の恋人であるかのようであった。
 そして、男とみちるの抱擁はまだしばらくの間続いた。
だが、やがて、男は抱き寄せていたみちるを離した。
 そして、
「まず、お風呂に入ろうか」
 と、優しげに、そして、まるで囁くように言った。
 そう男に言われ、みちるは、
「そうね。それがいいわ」
 と、男に相槌を打つかのように言った。
 それで、男はバスルームに行き、湯船に湯を入れ始めた。
 そんな男に、みちるは、
「ちょっと待っててね」
 と言っては、室から出ようとした。何しろ、みちるは万造たちにみちるがどのホテルの何号室に入ったのか知らせなければならないのだ。
 それで、室を出ようとしたのだが、すると、男はそんなみちるに、
「まさか、帰るんじゃないだろうな」
 そう言った男の表情は些か不満げであった。そんな男の表情をみちるは正に初めて眼にした。カッコいいこの男にもこのような表情が存在してるのかと思った位であった。
 すると、みちるは、
「大丈夫よ。すぐに戻って来るから」
 と、満面に笑顔を見せては言った。
 そして、みちるは室を後にすると、密かにスカートのポケットに忍ばせてあった携帯電話で万造に連絡すると、すぐに室へと戻った。
 すると、室の中では、男は椅子に腰掛け、些か強張った表情を浮かべていた。
 だが、男はみちるを眼にすると、忽ち表情を綻ばせた。
 そんな男にみちるは、
「私を信じなきゃ駄目よ」
 と、笑顔で言った。
「ああ。心配した僕が馬鹿だったのかな。だって、こんなに事がうまくいくなんて、僕、びっくりしてたから」
 と、男は些か顔を赤らめては、はにかむように言った。
 すると、みちるは、
「だって、カッコいいもの。私の好みのタイプなのよ」
 と、笑顔を浮かべながら言った。そして、それはみちるの本音でもあったのだ。
それはともかく、今までのパターンなら、この時点でみちるが冷蔵庫にある飲み物を男に勧め、その中に密かにみちるが睡眠薬を入れておく。そうとも知らずに男は睡眠薬入りの飲み物を飲んでしまい、あっさりと眠りこけてしまう。その隙にみちるが男の金品を失敬してはホテルからとんずらするであった。
 それ故、みちるは早速冷蔵庫の中に眼をやった。
 すると、冷蔵庫の中には、確かにオレンジジュース、コーラ、ウーロン茶などがあった。
 それで、みちるはその中のどれかを取り出しては男に飲ませようとしたのだが、何故かそのみちるの動きが止まった。そんなみちるは、正に戸惑ったような表情を浮かべていた。
 すると、みちるの中にいるもう一人のみちるが、
「何をしてるの! 早く男に睡眠薬入りのコーラを飲ませるのよ!」
 と、みちるに強く命令しているかのようであった。
 しかし、みちるはそんなもう一人のみちるを払い除けるかのように、冷蔵庫に入っている飲み物を取り出そうとはしなかった。
 そんなみちるを尻目に、男は服を脱ぎ始めた。そして、
「一緒にお風呂に入ろうよ」
 と、みちるを誘うかのように言った。
 男にそう言われると、みちるは、
「うん」
 と、小さな声で肯いた。
 この時点で、みちるの裏切りは決まった。みちるは本来のみちるの役割を無視し、みちるの本能に基づいた行動を取ろうとしたのだ。
 男がブリーフ一枚の姿になると、みちるも身に付けている衣服を脱ぎ始めた。
 といっても、既に七月に入っていた為にタンクトップのブラウスとジーンズ地のミニスカートを脱げば、後は白いブラジャーと白いパンティだけであった。
 男は、そんなみちるのことを、さも眩しげな眼で見やっていた。
 すると、みちるは些か顔を赤らめた。男の視線がまるでみちるの身体を嘗め回すかのように見やっていたからだ。
 やがて、男はブリーフも脱いだ。
 それで、みちるも一気にブラジャーとパンティを脱いだ。
 正に、みちるはこのような経験は初めてであった。
 即ち、美人局を始めて男とホテルに入ったのは十五回は超えていた。
 しかし、そんな男にみちるの素っ裸を見せたのは、今が初めてであったのだ。そして、みちるはまさかこのような事態が発生するなんて、想像すらしたことがなかったのである!
 もし、みちるが睡眠薬入りの飲み物を男に飲ませることが出来なかった場合は、万造と茂が、みちると男が入っている室に駆けつける。即ち、みちるが男と共に室に入って二十分経過した後、みちるから何ら連絡がない場合は、万造と茂が駆け付ける。
 このような作戦となっていたのである。
 それ故、みちるが睡眠薬入りの飲み物を男に飲ますことに失敗しても、二十分という時間を稼げばいいのだ。もし、男がみちるの身体を迫って来ても、みちるは何だかんだと言って、少しの時間を稼げばいいのだ。
 そういった事情の為にみちるは今までに下着姿までは見せたことはあったものの、素っ裸までは見せたことはなかったのである。
 しかし、そのみちるのガードは今夜、初めて破られる成り行きとなった。
 男とみちるは、やがて、バスルームに入った。
 男は無論、初めてみちるの裸を眼にしたのだが、そんな男は、
「綺麗な身体だね」
 と、いかにもみちるを煽てるかのように言った。
「嬉しい」
 みちるは、男にそう言われ、そう言った。みちるは、正に本当に嬉しかったのだ。
 この時、みちるは万造たちのことを忘れてしまっていた。みちるは、正に一目惚れしてしまったかのようなこの男と共に裸でいることに逆上せ上がってしまい、みちる本来の役割を忘れてしまっていたのだ。
 みちるは、男と共に湯に浸かったのだが、その時間はほんの僅かな時間であった。何故なら、湯船がとても小さかったので、二人で浸かるには居心地が良くなかったのである。
 みちるより先にバスルームから出た男は、バスタオルで充分に身体を拭くと、椅子に座り、みちるがバスルームから出て来るのを待った。
 男に遅れて三分程で、みちるもバスルームから出て来た。そんなみちるは身体にバスタオルを巻いていたものの、既に男にみちるの裸身を晒していた。それ故、みちるがその身体にバスタオルを巻いているのは、まるで儀式のように思われた。
 男は、みちるがバスルームから出て来たのを眼に留めると、椅子から立ち上がり、ダブルベッドに横になった。そんな男は、まるで男にみちるが身体を任すかどうかは、みちるの意志に任すと言わんばかりであった。
 みちるはといえば、今は本来のみちるの役割のことを思い出していた。
 即ち、みちるは、今、みちるの眼前にいる男を眠らすとかして、その金品を強奪しなければならないのだ!
 にもかかわらず、みちるはそのみちるの本来の役割を忘却してしまったかのような状況に陥ってしまってたのだ。 
 しかし、このようなことが許される筈はない。
 しかし、みちるは敢えてそのみちるの本来の役割を無視した。みちるの本能が、みちるの本来の役割を裏切ってしまったのである。 
 とはいうものの、みちる本来の役割を裏切るのは僅かな時間だけだと、みちるは割り切っていた。
 もし、みちるが男とホテルに入って二十分が経過してもみちるから連絡がない場合は、万造と茂が室に押し掛けて来ることをみちるは充分に分かっていたからだ。
 しかし、その僅かな時間だけでもいい。その僅かな時間だけでもいいから、この男に抱かれていたい……。
 みちるの本能が、そのようにみちるに告げたのだ!
 そんなみちるは、男がダブルベッドに横たわると、速やかにバスタオルを脱ぎ捨てては、男の傍らにその身体を摺り寄せた。
 すると、男はみちるを抱き寄せた。そして、しばらくの間、みちるの唇を吸い続けた。 
 そして、男はやがて、その唇をみちるの胸に持って行った。そして、みちるの右乳房を唇で吸いながら、右手でみちるの左乳房を揉みしだいた。 
 そして、その行為が少しの間続くと、今度はみちるの左乳房を唇で吸い始め、その一方、左手でみちるの右乳房を揉みしだいた。
 その行為が少しの間続いたかと思うと、今度は男は唇をみちるの上半身を這うようにしながら、やがてみちるの下腹部へと持って行った。
 下腹部はみちるの性感帯であった。万造にその部分に顔をあてがわれ、唇で舐められると、みちるの身体に電流が走ったかのように快感が貫くのだ。
 だが、今、みちるの身体に貫いている快感は、万造の時に感じる以上のものであった。正に、男が好みのタイプの女であればある程、快感を感じるように、みちるもみちるの好みのタイプであればある程、快感を感じてしまうのだ。
 みちるは、男にみちるの女の部分を執拗に舐められると、思わず歓喜の喘ぎ声を上げてしまった。
 みちるの喘ぎ声を耳にした男は、男の行為がみちるに快感をもたらしたということを理解したのか、更に一層みちるの女の部分を舐め回した。
 それを受けて、みちるは喘ぎ声を発し続けた。正に、今、みちるの全身に快感が貫いているのだ!
 そして、男のみちるの女の部分に対する攻めはまだしばらくの間続いたのだが、そろそろ時間が来たと察知したのか、男はみちるの女の部分から顔を離すと、
「入れるよ」
 と、囁くように言った。
 すると、みちるは無言ではあるが、肯いた。
 それを受けて、男は男の怒張したものをみちるの女の部分にあてがったかと思うと、一気に没入させた。そして、二、三回腰を振った。 
 みちるは男に突かれて激しく喘いだ。それで、男は更に四、五回激しく腰を振った。
 すると、その時である。
 室の扉がノックされる音を、男もみちるも耳にした。
 それで、男の動きが止まった。
 男は、
<一体、どうしたのかな?>
 と。言わんばかりの怪訝そうな表情を浮かべていた。
 みちるはといえば、頭の中が真っ白になっていた。快感がみちるの身体に激しく押し寄せ、みちるは何が何だか分からなくなっていたのだ。
 それはともかく、扉がノックされたからには、出ないわけにはいかなかった。ホテルの関係者から重要な知らせがあるかもしれないと男は思ったのである。
 因みに、みちるはいつもなら、携帯電話で万造に連絡して男がいる室に戻って来た時は、密かに室の鍵を外しておいた。その方が万造と茂が室に入り易かったからだ。しかし、今回は何故かみちるは室の鍵を掛けてしまったのである。
 それはともかく、男はとにかくバスタオルを身体に巻いてはそっと扉に近付き、そして、
「誰ですか?」
「ホテルの者ですが」
 という男の声が聞こえた。
 それで、男は何ら迷うことなく、扉の鍵を外しては扉を開けた。 
 すると、二人の男が室の中に雪崩入って来た。
 二人の男とは、無論、万造と茂であった。万造と茂は、みちるからなかなか連絡が入らないことを受けて、遂に男とみちるが入っている室に姿を現したのである!
 みちるは、万造と茂を眼にして、忽ち我に還った。
 そして、みちるは突如、
「キャー!」
 という悲鳴を上げた。
 すると、万造は素早くみちるの傍らにやって来ると、
「どうしたんだ?」
 と、強張った表情を浮かべては言った。
「やられちゃったのよ!」
 と、みちるはいかにも悲愴な表情を浮かべては言った。
 そのみちるの言葉と表情を受けて、万造は全てを理解した。
 そう!
 みちるは、失敗したのだ!
 みちるは、男を巧みに引っ掛けホテルに連れ込んだものの、男に睡眠薬入りに飲み物を飲ますことが出来ず、また、万造と茂が室に駆け付けるまで時間を稼ぐことが出来なかったのだ! そして、男は万造と茂が室に駆け付けるまでにみちるをものにしてしまったのだ!
 そう察知した万造は、頭に血が上ってしまった。みちるは、正に万造の女であった。そんなみちるが、カモにした男に寝取られてしまったという事実を目の当たりにすれば、万造が逆上しないわけはなかった。
何しろ、万造は血の気が多い男だ。今まで、何度も殴り合いの喧嘩をしたことがあった。今まで、逮捕されたことがないのは、正に奇跡的であったのだ。
 そんな万造は、男を睨み付けては、
「この落とし前をどうつけてくれるんだ!」
 と、いかにも不快そうに言った。
「どうつけてくれるかって、僕たちは合意の上でこうなったのですよ。
 それに、あんたたち、一体誰なんだ? 他人の室に勝手に入って来て……。ホテルの者というから鍵を開けたのに……。
 ホテルの者でないのなら、勝手に他人の室に入って来るな! 早く出て行け! 出てかないのなら、ホテルの者を呼ぶぞ!」
 男は、万造に負けてなるものかと言わんばかりに万造を睨み付けた。
「何だと! 嘗めた口を利きやがって!
 俺たちを一体誰だと思ってるんだ。俺たちはな。この新宿界隈で勢力を誇っているやくざの幹部なんだ!」
 茂が、凄みを利かせては言った。
 甚だ強面の茂がそう言うと、今までは大抵の男は怯み、泣き言を言ったものだ。
 しかし、この男は違った。この男は、
「それが、どうしたっていうんだ?」
 と、まるで、茂の脅しに屈しようとはせずに、万造と茂を睨み付けたのだ。
 そんな男の様を眼にして、万造と茂は、啞然とした表情を浮かべた。この男のような態度を万造と茂に見せた男は、今までにいなかったからだ!
 それと共に、万造と茂は、焦りを感じた。脅しに屈しないとなると、力ずくで男から金品を奪わなければならないからだ。
 とはいうものの、万造はもう少し、男を脅してみることにした。
「おい! 俺たちはやくざなんだぞ! やくざの女に手を出して只で済むと思ってるのか。
 俺の女は高いんだぞ。何百万と払ってもらわないと、俺たちには示しがつかないんだぞ!」
 万造は、これ以上万造が見せることが出来ない位の凄みのある表情を浮かべて男を威圧し、男を参らせようとした。
 すると、男は、
「やくざ、やくざって、威張るんじゃない! じゃ、やくざっていうのなら、証拠を見せてくれよ。
 それに、やくざの女が高いって、一体誰が決めたんだ? そんな法律があるって言うのかい?
 とにかく、あんたたちの言い分は話にならないよ。だから、この室から、早く出てってくれよ!」
 そう男に怒鳴りつけるように言われ、遂に万造は切れた。
 万造は、今までここまで甘く見られたことはなかった。明らかに、万造や茂に比べて優男に見えるみちるが引っ掛けたこの男に、みちるをものにされただけではなく、ここまで嘗められたような言葉を浴びせられれば、万造のプライドが許さなかったのだ!
 万造と茂は顔を見合わせては目配せすると、一気に男に摑み掛かった。
 茂が男を羽交い絞めにすると、万造が男の鳩尾に何度も鉄拳を喰らわせた。更に、男の顔面にも鉄拳を喰らわせた。
 それによって、男の唇が切れた。更に、男は血反吐を吐いた。そして、腹を手で押さえては、身体をくの字に曲げては、蹲ってしまった。
 男は明らかに苦しそうであった。
 そんな男に構わず、今度は万造は男の背に膝蹴りを喰らわせた。
 すると、男は大の字になっては、うつ伏せの格好で倒れてしまった。
 そんな男を眼にして、万造と茂は、不敵な笑みを浮かべた。そんな万造と茂は、俺たちに逆らえばどうなるか分かったかと言わんばかりであった。
 みちるはといえば、おどおどとした表情を浮かべながら、そんな万造たちの行為を見やっていたのだが、男がグロッキーになったのを確認した万造は、みちるに、
「何をしてるんだ。早く服を着ろよ」
 と、裸のまま呆然として、我を忘れてるかのようなみちるに、服を着るように促した。
 それで、みちるはとにかく服を着始めた。
 みちるが、服を着ようとしてる間に、茂はちゃっかりと男のズボンのポケットに手を伸ばしていた。そして、財布を抜き取っては、中を見た。
 すると、十二万程入っていた。
 茂はその十二万を手にすると、些か満足そうな表情を浮かべた。まずまずの収穫であったからだ。
 みちるが服を着終えると、三人はこの時点で室を後にした。
 万造と茂は、ホテルに入る時、もしフロントで呼び止められれば、料金を支払うことにしていた。だが、呼び止められない時は、料金を支払わずに中に入っていた。
 そして、今回はフロントで呼び止められなかったので、そのまま中に入ったというわけだ。
 そんな万造と茂であったから、もし今からホテルを出て行く時にフロントに呼び止められればまずいと思った。何しろ、二人は後ろ暗い行為を行なっているからだ。
 それ故、ホテルを出る時は慎重にならなければならなかった。即ち、三人は少し時間をずらして一人ずつ、ホテルを出たのだ。
 そういう風にして、三人は何とかフロントに呼び止められることなくホテルを後にすることが出来た。
 そして、万造とみちるは、手頃な場所でタクシーに乗ると、渋谷へと向かった。また、茂は、タクシーで池袋へと向かった。茂は池袋でカプセルホテルに泊まるつもりであったのだ。
 タクシーで渋谷まで来た万造とみちるは、円山町のラブホテル街へと向かった。そして、手頃なラブホテルに入ると、万造は、やれやれと安堵したような表情を浮かべた。どうやら、万造たちの今夜の行為は、足がつかずに済んだということを万造は察知したのである。
 だが、そんな万造の表情は程なく神妙なものへと変貌し、そして、
「一体、どうしたって言うんだ?」
 と、みちるの顔をまじまじと見やっては言った。
 今までは、みちるが引っ掛けた男と共にホテルに入れば、みちるが巧みに男に睡眠薬入りの飲み物を飲ませては男を眠らせ、男の金品を失敬して万造たちの許に戻って来たものであった。
 もっとも、それがうまくいかない場合も無論ある。
 しかし、そういった場合も、万造と茂がみちるが男と入った室に押し掛け、男を脅したりして金品を巻き上げて来たのだ。
 しかし、今回のように、みちるが引っ掛けた男にやられてしまったという前例はなかったのだ。
 それ故、万造たちの行為は、男の金品を強奪したという点においては成功したものの、ある意味では失敗したともいえるのだ。
 万造にそのように言われ、みちるは些か表情を赤らめては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「だから、うまくいかなかったのよ」
 と、些か決まり悪そうに言った。
「つまり、あの男が睡眠薬入りのコーラなんかを飲まなかったのかい?」
 万造は眉を顰めて言った。
「というより、私がコーラを勧めようとする前にさっさと服を脱ぎ始め、私にも服を脱げと言ったの。
 で、私、その言葉に逆らえなくなってしまって……。 
 それで、やむを得ず男とシャワーを浴びることになってしまったの。でも、少しでも時間を稼ぎ、万造たちが来るまで頑張ろうとしたの。
 でも、男の行動がとても早く、私は男と忽ちベッドに寝るように持って行かれ、それで……」
 と、みちるは些か決まり悪そうに言っては、俯いた。
「それで、やられてしまったのか?」
 万造は、渋面顔で言った。
 すると、みちるは黙って肯いた。
 しかし、そのみちるの説明は明らかに嘘であった。万造の手前では、みちるはそのように嘘をつくしかなかったのである。
 だが、万造はみちるの嘘を信じた。
 そんな万造の顔には、正に万造の女をものにした男に対する怒りが露骨に表れていた。そんな万造は、正にあの男をもっと痛め付けてやればよかったと後悔しているかのようであった。
 みちるは、そんな万造にちらっと眼をやった。すると、怒りを露にした万造の顔がそこにあった。
 みちるは、そんな万造から視線をすぐに逸らせた。そして、みちるは正に決まり悪そうな表情を浮かべた。
 万造は、そんなみちるを抱き寄せ、唇を重ねた。そして、ブラウスの上からみちるの乳房を弄った。みちるはといえば、そんな万造に自らの身を任せるばかりであった。
 万造はしばらくの間、みちるのブラウスの上からみちるの乳房の愛撫を続けていたのだが、やがて、みちるのブラウスとスカートを脱がしに掛かった。
 そして、ブラジャーとパンティも脱がしてしまった。
 万造はみちるを素っ裸にすると、自らも素っ裸になった。
 すると、後はいつもとお決まりのパターンであった。二人は、まるで獣のような交わりをしたのであった。
 だが、この時、みちるの脳裏には、みちるを今、抱いているのは万造ではなく、あの男なのだという思いが渦巻いているのを、万造は知る由もなかったのだ。




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