第七章 復讐

     1

 茂が言ったように、みちるには男が出来たのかもしれない。それ故、万造のことを避けるようになったのかもしれない。
 万造もその茂の意見に同調した。
 それ故、茂が言ったように、みちるの部屋に盗聴器を仕掛けてみることにした。
 もっとも、そのことは万造にかなりの労力をもたらすことになった。というのは、みちるは万造がみちるを無理矢理ものにしようとした日以来、万造がみちるの部屋に入ることを承諾しようとしなかったのである。
 とはいうものの、万造が以前の行為を侘び、そして、乱暴は決してしないと約束し、その結果、何とか万造はみちるの部屋に入ることに成功した。
 もっとも、その時ですら、万造は突如、みちるのアパートを訪れた。何故なら、事前に連絡すれば、みちるに拒否されることは凡そ分かっていたからだ。
 それで、万造は突如みちるのアパートを訪れるという作戦に出た。そして、その結果、万造は何とかみちるの部屋に入ることに成功したのだ。
 だが、その時のみちるの様は、正に冷ややかなものであった。それは、正に今まで何度も身体の交わりを交わして来た相手に見せる様とは思えないものであった。
 とはいうものの、みちるがキッチンで万造の為にコーヒーを淹れてる時に、万造は何とか卓上電話器の近くに盗聴器をセットすることに成功した。万造が盗聴器のセットを終えるや否やみちるが万造の前に現れたので、万造は正に冷や汗を掻いたものであった。そして、万造はみちるにぎこちない笑みを見せ、万造は何とか盗聴器をセットしたことをみちるに見抜かれずにすんだのであった。
 それはともかく、万造は、みちるのこの部屋に来た時はいつも万造が座る肘掛椅子に座っては、
「最近、みちるはめっぽう俺に冷たくなったじゃないか」
 と、いかにも神妙な表情で言った。
 すると、みちるも神妙な表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせた。そんなみちるは、まるで万造のその問いに答えたくないかのようであった。
 だが、やがて、みちるは、
「私たち、高校一年の時からずっと付き合って来たからね。だから、そろそろ万造のことが飽きちゃったのかもしれないな」
 と、万造から眼を逸らしては言った。
 万造は、みちるにそう言われ、万造の表情から血の気が退いてしまった。何しろ、みちるの口から今まで直にそのような言葉を聞いたことがなかったからだ。
 そして、その言葉は正にショッキングなものであった。何しろ、万造がみちるのことを思う気持ちは今も昔も何ら変わらなかった。その愛くるしい笑顔に均整の取れたプロポーション。更に、その弾力性のある乳房に白い肌。それらは、正に万造を魅了するに充分なものであった。万造に誇れるものは何一つないといって過言ではなかったが、その例外が一つだけあった。その例外が、みちるであったのだ。みちるが万造の女であることが、万造の唯一の誇りであったのだ!
 だが、そのみちるの口から直に初めてそのように言われ、それは万造に強い衝撃をもたらしたのだ。そして、今の万造の様は、歌舞伎町でみちるが引っ掛けた男に鉄拳を浴びせた男とは思えない位、初心な印象を抱かせた。
 だが、やがて、万造は険しい表情を浮かべた。万造はやはりみちるの言葉を聞いて、平静を保てなかったようだ。
 万造は肘掛椅子から立ち上がると、みちるに近付こうとした。
 すると、みちるはそんな万造に、
「手荒なことはしないと約束したじゃない!」
 と、声を荒げては、万造を制した。
 すると、万造は我に還った。万造は確かにみちるに抱きついてやろうとしたのだ。そうすれば、みちるは昔のみちるに戻るのではないかと思ったのだ。
 だが、今のみちるの言葉によって、万造の思いは一気に崩壊した。そして、万造は何とか平静を取り戻した。
 とはいうものの、万造は、「じゃ、俺たちの関係は、これで終わりになるのか」と、言おうとしたのだが、その言葉は万造の喉で留まり、言葉として発せられることはなかった。何故なら、今、万造がその言葉を発し、みちるがそれを肯定してしまえば、それによって、万造とみちるの関係にピリオドが打たれてしまうと、万造は恐れたのだ。
 万造はみちるを失いたくなかった。万造の唯一の誇り。それが、みちるであったのだ!
 それで、今からでもみちるの機嫌を取り、縒りを戻したい。万造は、そう痛感した。
 それで、万造はとにかく、
「今日も気分が悪いのかい?」
 すると、みちるは、
「今日は気分は悪くないけど、何だか眠いのよ」
 と、万造から眼を逸らしては、素っ気無く言った。
 すると、万造は、
「そうか……」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。そして、
「また、会ってくれるんだろうな」
 と、真剣な表情でみちるをまじまじと見やっては言った。
 だが、みちるはその万造の問いに対して、何も言おうとしなかった。
 だが、程なくみちるは、
「私、もう眠いのよ。早く、寝たいのよ」 
 と、万造から眼を逸らしては言った。
 万造はそんなみちるの言葉に何ら言葉を返そうともせずに、些か険しい表情を浮かべては立ち上がった。そして、玄関に行くと、靴を履き、そして、玄関扉を開けては、みちるの部屋を後にした。
 みちるは、万造が去って行くや否や、さっと玄関に行っては、玄関扉の鍵を閉めた。
 すると、みちるは安堵したような表情を浮かべた。そんなみちるは、正に疫病神がやっと去ってくれたと言わんばかりであった。
 みちるの部屋を後にした万造は、みちるの部屋にセットした盗聴器の電波の受信機を何処に隠したらよいか、その場所を物色した。茂によれば、盗聴器をセットした場所から数百メートルも離れてしまうと、盗聴電波は届かないらしい。更に、家が密集してる住宅街なんかであれば、一層盗聴電波は届きにくくなるという。
 それ故、みちるの部屋からさ程離れてない場所に受信器をセットしなければならない。万造は、そういった場所がないものかと、辺りを物色したのだ。
 すると、その場所はやがて見付かった。それは、みちるのアパートの近くにあるみちるのアパートと同じようなアパートの居住者用のゴミ置場の窪んだ所であった。
 そのゴミ置場は、コンクリートのブロックで囲まれているが、そのコンクリートには窪んだ所があり、その窪みの中に盗聴電波の受信器を巧みに隠せ、しかも、少し見ただけでは、まさかそのような場所に受信機が隠されてるなんて誰も気付きはしないことは請け合いであった。正に、盗聴電波の受信機を巧みに隠せる場所が、都合よく見付かったというわけだ。
 また、その受信機にはテープレコーダーがセットされ、盗聴電波が受信された時にだけ、テープレコーダーに録音されるというわけだ。
 万造は手際良く、受信機とテープレコーダーのセットを終えた。そんな万造は、正に大きな仕事を一つやり終えたという満足気な表情を浮かべていた。
 だが、万造の表情はすぐに険しいものへと変貌した。そんな万造は、万造からみちるを奪ったまだ姿を見せぬ男に激しい敵意を剥き出しにしてるかのようであった。
 その数日後、万造は、万造がセットした受信機とテープレコーダーを密かに回収した。そして、そのテープレコーダーの状態から、どうやら盗聴電波を受信することに成功したみたいであった。
 それで、万造は眼を輝かせ、そして、些か興奮しながら万造のアパートに戻り、早速テープレコーダーの再生を始めた。
 そのテープに録音された内容を聞くに連れて、万造の表情は徐々に険しいものへと変貌して行った。そして、万造はそのテープの再生を一通り終えると、万造の部屋の中にあった雑誌を畳の上に投げ付け、また、傍らにあったマンガ本のページを破り捨てた。
 そんな万造の表情は、まるで湯で蛸のように真っ赤であり、また、歯を剥き出しにしていた。正に、万造は、今、怒り狂っていたのだ!
 万造をそのように変貌させたテープには、一体どのような内容が録音されていたのだろうか?
 そのテープに録音されていたみちるの会話はかなり長いものなので、その内容を全て逐一記すわけにはいかない。
 しかし、その内容は正に茂が指摘していたように、みちるに男が存在していたという事実を裏付けるものであった。
 もっとも、その男がどのような男なのか、テープで録音されてる内容だけでは充分に推測することは出来なかったが、みちるがその男をみちるの部屋に入れていたことと、みちるがその男とみちるの部屋の中でセックスしたことも確実であった。何故なら、万造とみちるとの関係が絶頂であった頃、みちるが万造に聞かせたみちるの歓喜を示す喘ぎ声がテープに録音されていたからだ。
 更に、みちるはその得体のしれない男との会話の中で、万造のことにも言及していた。みちるは、その男に対して、万造のことを「不良男と別れられずに困っている」と、万造のことを不良男とけなし、また、万造との決別というみちるの意思を示すみちるの言葉を発していたのだ。
 正に、このテープの内容は、万造に甚大なショックをもたらすに充分なものであった。
 みちるは万造と別れたいと、万造の前に姿を見せぬ男の前で明言したものの、万造としては、みちると絶対に別れてやるものかと、心の中で誓った。
 それ故、万造からみちるを奪ったその男が憎くて仕方なかった。正に、殺してやりたい位その男が憎かった。一体いつからみちるはその男と出来てしまったのだろうか? それは、正に万造の気になる所であった。
 それ故、何度もそのテープに耳を傾けていると、その万造の疑問に対する答えが録音されてることに徐々に気付き始めた。
 というのは、男が「あの時の傷はまだ痛むんだよ」とか、「あの不良男は、本気で僕を殴ったからな。僕は、本気で殴られた経験は今まで一度もなかったよ。最後の膝蹴りが首に当たっていれば、僕の首の骨は折れてたかもしれないな」という言葉が、少し聞き取りにくかったといえども、明らかに録音されていたからだ。
 即ち、万造からみちるを奪ったその男とは、何と数ヶ月前に歌舞伎町でみちるや万造たちが美人局を行なった時に引っ掛けた男であったのだ! そうに違いない!
 この意外な事の成り行きを目の当たりにして、万造はしばらくの間、呆気に取られたような表情を浮かべざるを得なかった。万造からみちるを奪った男がどんな男で、また、いかにしてみちるは、その男と知り合ったのか、それは正に万造の大いに気になることであったが、まさかその男がみちるが引っ掛けた万造たちのカモだったなんて、万造は夢にも思わなかったのである!
 そう理解すると、万造は尚しばらくの間、呆気に取られたような表情を浮かべ続けたのだが、やがて、冷静になって来ると、あの時のことが自ずから思い浮かんで来た。
 あれは、二ヶ月位前のことであっただろうか。
 いつものように、みちるは歌舞伎町付近で男を引っ掛け、ホテルに連れ込んだ。そして、いつもなら、みちるが男に巧みに睡眠薬を飲ませ、男の金品物を失敬していったものだ。
 だが、その時はみちるがホテルに男と入って二十分経っても、みちるから連絡がなかった為に、万造は茂と共にみちるが男と共に入ったホテルに向かった。そして、みちるが男と共に入った室に入った。
 そして、いつもなら、万造たちが室に入れば、みちるが万造の傍らに来ては、「やられちゃったよ」とか言って、万造たちが男を脅す為の口実を作り、男から金品物を頂戴する。
 しかし、あの時は万造と茂が室の中に入った時に、何とみちるは裸でベッドの上に横たわっていたのだ。正にこのような事態は万造たちが美人局を始めて初めての経験であった。
 そして、万造はみちるの様を眼にして事の次第を理解した。即ち、みちるはみちるが引っ掛けた男に本当にやられてしまったのだ!
 そのことは、万造を逆上させ、万造の平静を奪った。それ故、万造は今までにない位、激しい鉄拳を男に喰らわせた。万造の女を寝取られたことが、万造は悔しくて、また、腹が立って仕方なかったのだ!
 そして、「これでもか!」と言わんばかりに、万造と茂は男に制裁を加えたのである。
 その男に充分な制裁を加えると、万造たちはホテルから引き揚げ、万造とみちるはタクシーで渋谷まで行き、円山町のラブホテルで夜を明かした。その時にみちるはいかにも悔しそうに、あの男にやられてしまったと、万造に話したものであった。それ故、万造はそんなみちるを慰めてやろうと言わんばかりに、みちるを思う存分、抱いてやったものであった。
 しかし……。
 この時点で、万造の表情は、甚だ険しいものへと変貌した。
 というのは、もしみちるがあの時、本当にみちるが言ったように無理矢理あの男にやられてしまったとすれば、あの男とその後、恋仲になる筈はない。
 となると……。
 万造は、日頃あまり使わない思考をこの時ばかりは大いに働かせた。
 その結果、万造が得た結論はこうであった。
 即ち、みちるはあの男に無理矢理やられたのではなく、みちるは意図的にあの男に抱かれたということだ。正に、そうに違いない!
 万造はその時のことを改めて思い出してみると、あの男はなかなかの美男子であったような記憶がある。
 そんな男であった為に、みちるはあの男に惹かれてしまったのではないだろうか? いわば、一目惚れというわけだ。何しろ、手練手管を持っているみちるのことだ。そう簡単に引っ掛けた男に身体を与えるみちるではない。
 にもかかわらず、あのようになってしまったのは、みちるは意図的に男に身体を与えたのだ。惚れた男には、身体を与えたいというのが、女の性というものであろう。
 そして、みちるは帰り際にみちるの携帯電話の番号を教えたりして、後でコンタクトを取り、そして、あの男と恋仲になってしまったのではないのか。それが、事の真相ではないのか。
 そう察知した万造の表情は改めて険しいものへと変貌した。とんでもない事の成り行きとなってしまったことを改めて実感したからだ。
 その二ヶ月前の出来事が発生するまで、みちるは万造に冷ややかな態度を見せたことは全くなかったような記憶が万造にはあった。となると、その出来事が万造とみちるの人生を変えてしまったのだ!
 そう理解すると、あの男さえみちるの前に現われなければと、いくら悔やんでも、悔やみ切れなかった。
 もっとも、その男がみちるの前に現われなくても、最近殊に犯罪に手を染める傾向を強めている万造にみちるは愛想を尽かせ、万造から離れて行くという危険も万造は思ったりしたこともあった。
 しかし、みちると何度も身体の交わりを果すことによって、みちるを万造の身体の一部のような女にし、みちるを繋ぎ留めておくことは可能だと万造は看做していた。
 だが、その作戦を使う前に、みちるはどうやら万造から去って行ったみたいだ。
 だが、正確に言えば、まだ去ったと断言は出来ない。あの男さえいなければ、みちるは万造の許に戻って来る可能性はある。
 万造は、そう看做した。
 何しろ、みちるは今までに何度も万造に抱かれ、歓喜の叫び声を上げ、何度もエクスタシーを感じて来た。みちるをそのようにさせた万造のことをみちるはあっさりと忘れはしないであろう。
 そう思うと、万造は眉を顰めては、何やら考えを巡らすかのような表情を浮かべた。即ち、万造はいかにしてみちるをあの男から引き離すか、思いを巡らせたのである。
 その結果は、みちるたちの動向を引き続き探るということであった。万造がみちるの裏切り、そして、男の存在を突き止めたのは、みちるの部屋からの盗聴電波からであった。それ故、再びあのゴミ置場に盗聴電波の受信機とテープレコーダーをセットし、みちるたちの動向を探るのだ。盗聴器の電池は長く持たないとのことだから、もたもたはしてられない。
 それで、万造は直ちに以前万造が盗聴電波の受信機とテープレコーダーをセットしたゴミ置場へと向かったのである。

    2

 今、みちると麻生優は、雲仙へと向かうバスの中にいた。
 長崎バスターミナルを八時〇〇分に出発した県営バスは、やがて橘湾を望める場所に来たかと思うと、小浜温泉街へと入った。
 小浜温泉も雲仙と同様、その歴史は古く、「肥前風土記」(713年)に記されている程とのことで、その湧き出る温泉の温度は全国の温泉の中でもかなり高いらしい。
 とはいうものの、雲仙のように、その温泉街の規模は大きくなく、バスは程なく、雲仙に向かう道へと折れた。
 では、ここで、みちると共に雲仙に向かうバスに同乗してる麻生優という男に関して少し説明しておこう。
 優とみちるは、二ヶ月前に歌舞伎町で知り合った。
 こう記せば、麻生優に関して、深く説明することもないであろう。
 そう!
 麻生優とは、あの夜、歌舞伎町でみちるが美人局を行なう為に、歌舞伎町のラブホテルに入り、その時にみちると身体の交わりを果し、その後にやって来た万造と茂に滅多打ちされた男だ。その男の姓名が麻生優であったのだ。
 では、何故優とみちるが、一緒に雲仙に向かう間柄となったのであろうか?
 その点に関して少し説明しておく必要があるだろう。
 だが、その説明は、実のところ、万造の推測通りであった。即ち、あの時、みちるは帰り際にみちるの携帯電話の番号をメモして、優に渡したのである。「ごめんね。後で電話して」というメモを添えて。
 そのみちるのメモから察知出来るように、みちるは本当に優に済まないと思い、また、みちるは優との出会いをあの時一度だけに留めておきたくなかったのである。
 即ち、みちるは優に一目惚れしてしまったのである。また、再び優に抱かれたかったのである。
 みちるはその頃、悪事にどんどんと傾倒して行く万造との関係をこのまま持続して行くことに、少なからず疑問を抱いていた。また、出来れば万造と別れたいと、密かに思っていたのだ。
 そんな折に、みちるの前に現れたのが優だったのである。
 正に、優はみちるの好みのタイプであった。だからこそ、絶対に犯してはならない行為、即ち、みちるが引っ掛けた男に身体を許すというタブーをみちるは犯してしまったのである。
 しかし、今思えば、それはみちるのただならぬ決意を如実に具現化したと言うべきであろう。即ち、みちるは優に賭けたのだ! みちるの人生を賭けたのだ! だからこそ、みちるの携帯電話の番号とみちるの思いをメモして、優に渡したのである。
 そして、優はそのみちるの思いに応えたのである。
 といっても、その説明は正解ではないかもしれない。というのは、みちるが優に惹かれたのと同様、優もみちるに惹かれたのだ。だからこそ、みちるに声を掛け、みちるとホテルに入ったのである。
 そんな優はみちるを抱いてみて、みちるも優と同じ思い、即ち、みちるも優のことを思っていると実感した。優に抱かれ、歓喜の喘ぎ声を上げるみちるを見て、それは正に演技とは思えなかったのだ。
 そして、みちるの男だという野蛮な男たちが乱入して来て優は滅多打ちされ、結局、優はお金を強奪されてしまった。いわば、優は美人局の被害に遭ってしまったというわけだが、しかし、そこには何か間違いがあったのではないかと実感した。即ち、みちるは優が滅多打ちにされることを望まなかったのではないかと優は思ったのだ。
 それ故、みちるから手にしたメモを眼にして、優は躊躇わずにみちるの携帯電話に電話したのである。
 そして、優とみちるは再会すると、みちるはみちるたちの過ちを詫びた。
 そして、それによって、優とみちるとの間の蟠りは無くなり、優とみちるはその日の内に再び愛を確かめ合った。
 そして、優はやがてみちるのアパートにも来るようになり、旅行にでも行ってみないかということになった。
 そして、その場所に選ばれたのが、雲仙であった。というのは、優が雲仙に行ってみたいと言ったからだ。優は1993年に爆発した普賢岳の映像ををTVで見て、その映像が今も忘れられなかった。
 それで、まだ一度も訪れたことの無い雲仙に行ってみようとみちるを誘ったのである。
 それはともかく、雲仙旅行は一泊二日の予定であった。それ故、長崎空港からバスに乗って長崎バスターミナルに着いたのは昼頃だったので、長崎見物は行なわず、長崎バスターミナルからそのまま雲仙に向かう県営バスに乗った。そして、今、小浜温泉街を通り過ぎたというわけだ。
雲仙に向かう道に折れると、道は山の中の上り道となった。
 雲仙に向かう道はかなりくねくねしてる為に、優とみちるは少し気分が悪くなったが、やがて二人を乗せたバスは雲仙の温泉街に入った。
 雲仙は九州の軽井沢と言われるだけあって、その街並みは瀟洒だ。外国人が好んで訪れたというのも正に肯けるというものだ。
 優とみちるは、初めて訪れたそんな雲仙の温泉街を車窓から見物し、やがてバスは終点の県営バス雲仙ターミナルに着いた。
 それで、優とみちるは、まず、雲仙地獄を見物することにした。
 本来なら、雲仙に来た目的である普賢岳を最初に見るつもりであったのだが、普賢岳を見るには仁田峠に行かなければならない。しかし、仁田峠行きの手頃なバスがなかった為に、普賢岳見物は明日にし、今日は雲仙地獄と原生沼見物を行なおうと思ったのである。
 そして、予定通り雲仙地獄と原生沼見物を終え、新湯にある某ホテルにチェック・インを済ませたのは、午後四時半頃であった。
 その後、大浴場で今日一日の汗を流し、夕食も済ませ、そして、優とみちるは、部屋の中で寛いでいたのだが、午後八時が近付いた頃、部屋の中の電話が鳴った。
 それで、みちるが電話を手にすると、
―外線が入ってます。
 と、言われたので、みちるは些か怪訝そうな表情を浮かべた。何故なら、一体誰が電話を掛けて来たのか、その当ては全くなかったからだ。
 だが、とにかく電話を手にしては、
「もしもし」
 みちるがそう言うと、五秒程間があった後、
―俺だよ。
 という男の声が聞こえた。
 その男の声を聞いて、みちるの表情は忽ち蒼ざめた。何故なら、その声はみちるが決して忘れることが出来ない男の声、即ち、権田万造の声であったからだ。
 それで、みちるの言葉は詰まった。正に、みちるが思ってもみない事態が発生してしまったからだ。 
一体、何故万造がこの部屋に電話して来たのだろうか? 一体、何故万造がみちるがこの部屋にいることを知っていたのだろうか?
それらは、正にみちるにとって、不可解なことであった。
その疑問が解けないみちるは、正に蒼白な表情を浮かべては、言葉を失っていたのだが、そんなみちるを万造はからかうかのように、
―俺が何故そこに電話したのかと思っているんだろ?
そう万造に言われても、みちるは言葉を発することは出来なかった。確かにその通りであったからだ。
だが、そのみちるの思いを万造に話すのは気が退けた。
それで、みちるは黙っていると、万造は、
―実はな。俺、今、雲仙にいるんだよ。
そう万造に言われると、みちるの表情は一層蒼白になった。万造が今、みちるが優といるこの部屋に電話して来たことだけでも、それはみちるを驚愕させるに充分であったのに、更に万造は今、雲仙にいると言う。これらは、正にみちるの腰を抜かさんばかりにみちるを驚かせた。
それで、みちるはあまりにも信じられない出来事を目の当たりにして、依然として言葉を発せないでいると、万造はそんなみちるに追い討ちを掛けるかのように、
―実はな。俺は今、みちるがいるそのホテルの近くにある公衆電話から電話してるんだよ。
「……」
―だから、外に出て来てくれないか。少し話があるんだよ。
 そう万造に言われ、みちるは蒼白な表情を浮かべたまま、言葉を発することが出来なかった。
 みちるがなかなか言葉を発しようとしないので、万造は、
―みちるが外に出て来ないのなら、俺がその部屋に乗り込んでやろうか。俺はみちるがどの部屋にいるか、ちゃんと分かってるんだぜ。だから、今、みちると話が出来てるんだからな。
 と、万造はいつも見せてるようなふてぶてしい口調で言った。
 だが、そのようなことをされてしまえば、みちるが困ってしまうことは請け合いであった。何しろ、みちるは今、この部屋に麻生優と二人でいるのだ。そして、その麻生優とは、元はといえば、みちるが歌舞伎町で美人局をして引っ掛けた男なのだ。そして、その優に万造は茂と共に歌舞伎町のホテルで滅多打ちにしたのだ。そんな優とみちるが、今、雲仙のこのホテルにいることを万造に知られてしまえば、みちるは苦しい立場に追い詰められることは必至だ。
 そう察知したみちるは、とにかくこの場を凌がなければならないと判断し、
「分かったわ。じゃ、今からそっちに行くよ」
 と言っては、送受器を置いた。
 そんなみちるの表情は、正に蒼白であった。
 優は、そんなみちるを眼にして、
「誰からだったんだい?」
 と、いかにもみちるのことを心配したかのように言った。
 優は、みちるの表情を見れば、今の電話の話はみちるにとっていいものではなかったということは、充分に察知出来た。それ故、優はそのような表情を浮かべたのだ。
 優にそう言われると、みちるは薄らと笑みを浮かべては、
「何でもないのよ。大したことじゃないわ。でも、私、ちょっと階下に行って来るから、優はここにいてね」
 と、まるで優に言い聞かせるかのように言っては、外出用の身支度を整えると、その部屋を後にした。
 みちるは程なく、そのホテルのエントランスから外に出た。
 すると、そこには確かに万造がいた。
 そんな万造を眼にして、みちるは思わず緊張したような表情を浮かべた。そんなみちるの表情を間近で見れば、正に疫病神を眼にした時に見せる表情だということに気付いたことであろう。
 それはともかく、みちるを眼にした万造は、にやにやした。そんな万造は、正に捜し求めていた獲物をやっと手にしたと言わんばかりであった。
 みちるは、そんな万造とホテルの前で話をするのには抵抗を感じたので、とにかくホテルの裏の方にある雲仙地獄に万造を連れて行った。
 そして、手頃な場所にまで来ると、みちるは、
「これ、一体どういうことなの?」
 と、いかにも納得出来ないように言った。
 すると、万造は急に真剣な表情を浮かべては、
「それは、こっちの台詞さ!」
「こっちの台詞? それ、どういうことなの?」
 みちるは、いかにも不快そうに言った。
 すると、万造も、
「俺という男がありながら、何故あんな野郎と共に雲仙に来たのかということさ」
 と、いかにも不快そうに言った。そんな万造は、今の万造の言葉通り、みちるが万造以外の男と共に雲仙に来たことを強く非難し、また、怒っているかのようであった。
 そう万造に言われ、みちるの言葉は詰まった。そもそも、何故万造が、みちるが今、雲仙のあのホテルにいたことを知っていたのか、それ自体が甚だみちるにとって理解し難いことであったのに、更に万造はみちるが男と共に来てることまで知っていたのだ。
 一体、何故……。
 その理由が分からないみちるは、甚だ顔を赤くさせ、そして、万造から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべた。
 そんなみちるを眼にして、万造はにやにやした。そんな万造は、みちるを虐めて愉しんでいるかのようであった。
 みちるは万造から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせているので、万造は、
「俺はな、みちるのことは、いつもちゃんとお見通しなんだよ。何故なら、みちるは俺の女だからな」
 と言っては、みちるの肩を右腕で抱き抱えようとした。
 すると、みちるはそんな万造の右腕を払い除けようとした。
 すると、万造の表情が変わった。万造は甚だ険しい表情を浮かべたのだ。
 そして、
「何故、俺の手を払い除けるんだ」
 と、いかにも納得が出来ないように言った。
 すると、みちるはそんな万造に怒りを露にしたような表情を見せては、
「私、もうあんたの女じゃないよ! だから、馴れ馴れしくしないで!」
「そうじゃない! お前はいつまでも俺の女だ! お前は俺から離れられないんだ! お前は何度も俺に抱かれ、エクスタシーを感じたじゃないか! まさか、そのことを忘れたんじゃないだろうな」
 万造がそう言うと、みちるは些か表情を赤らめては、俯いた。そんなみちるは、些か恥ずかしそうであった。
 そんなみちるを眼にして、万造は、
「お前はあの野郎に騙されてるんだよ。あの野郎にどんなテクニックがあるって言うんだ? 俺より上手いのか?
 それに、あの野郎は元々俺たちが歌舞伎町で引っ掛けた野郎じゃないか! そんな野郎がお前の面倒なんて見れっこないぜ! お前はあの野郎に騙されてるに過ぎないのさ! 
 だから、眼を覚ますんだ!
 そして、俺の元に戻って来いよ!」
 と、万造が滅多に見せたことのないような穏やかな表情と口調で言っては、再び右腕でみちるの肩を抱き抱えようとした。
 すると、みちるは再びそんな万造の右腕を振り払った。
 すると、万造の表情は、忽ち険しいものへと変貌した。
 そんな万造にみちるは、
「私、もうあんたの女じゃないわ! あんたとは、もう会いたくない!
 あんたが何故私が今、ここにいることを知ったのか分からないけど、妙な真似をしないでね。妙な真似をすれば、警察に言うからね!」
 と、正に敵意を剥き出しにして言っては、抗った。
 すると、万造は、
「警察だと? 笑わせるな!」
 と、強い怒声をみちるに浴びせた。そして、
「警察に言えば、俺は俺たちが今までにやって来たことを全部ばらしてやるぜ! そうなって困るのは、そっちの方じゃないのかな」
 そう言っては、万造はにやっとした。
 すると、みちるの表情は忽ち蒼ざめ、そして、みちるの言葉は詰まった。みちるは今まで万造たちと行なって来た後ろ暗い行為を思い出してしまったからだ。万造は、根っからの悪人だ。だから、逮捕されることの恐れはないかもしれない。しかし、みちるは、根っからの悪人ではない。万造と付き合っていた為に、悪の片棒を担がされたに過ぎないのだ!
 とはいうものの。言い訳は通用しないであろう。みちるが、悪の片棒を担いだことは、事実なのだから。
 そう思うと、みちるはいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんなみちるを眼にして、万造はにやにやと不敵な笑みを見せ、みちるの眼前に来たかと思うと、いきなりみちるの唇に自らの唇を重ねては、みちるの唇を強く吸った。
 すると、みちるは顔を左右に振り、万造の唇から逃れようとした。
 だが、万造はそんなみちるを両手でしっかりと抱き締め、そして、
「お前は俺の女なんだよ! 俺から絶対に逃れられないんだよ! そのことを分からせてやるよ!」
 と言うや否や、右手をみちるの胸へと持って行った。そして、荒々しくみちるのブレザーの上からではあるが、みちるの乳房を鷲摑みにしては揉みしだいた。
「嫌!」
 みちるは、そんな万造に激しく抗った。
 しかし、万造とみちるは同罪だという先程の万造の脅しが応えたのか、みちるの抗いには、激しさがさ程見られなかった。そんなみちるは、万造に抗ってはいるものの、その一方、万造には逆らえないという諦めの思いも垣間見えているかのようであった。
 みちるの弱々しい抵抗に対して、万造は自らの主張が受け入れられると理解したかのようであった。
 そんな万造は、やがてみちるのブレザーを脱がしに掛かった。
 みちるは、そんな万造に「嫌……」と抗いの姿勢は見せるものの、そのみちるの声はまるで蚊の鳴くような声であった。みちるがその気になって万造に抵抗すれば、万造を払い除けることは可能のように思われたが、みちるにはそのような強い抵抗は見られないかのようであった。
 万造はやがでみちるのブレザーを脱がすことに成功すると、今度はみちるがブレザーの下に身に付けていたブラウスをたくし上げた。すると、万造の眼にみちるのピンク色のブラジャーが晒されてしまった。
 正に久し振りに眼にしたみちるのブラジャーに気を良くしたのか、万造はにやっと淫靡な笑みを浮かべたかと思うと、一気にみちるのブラジャーを毟り取ろうとした。
 だが、さすがにこれにはみちるは激しく抵抗した。みちるは激しく身体を揺さぶり、万造の行為を阻止しようとしたのだ!
 だが、万造はみちるの強い抗いに頭に血が上ったのか、今度こそみちるを逃がさないぞと言わんばかりに、強い力でみちるに組み付いたかと思うと、その儘みちるを地面に押し倒した。そして、みちるの身体に馬乗りになっては、再び一気にみちるのブラジャーを毟り取ろうとした。
「止めて!」
 みちるは、今度は激しく叫んだ。
 しかし、辺りには誰もいなかった。この夜の最中、いくら雲仙の代表的な観光スポットといえども、暗闇に視界を遮られている雲仙地獄を見物しようとする観光客は誰もいなかったというわけだ。
 それ故、今、この場所には万造とみちる以外は誰もいなかったというわけだ。それ故、いくらみちるが金切り声を上げても、そのみちるの声は誰にも届くことはなかったというわけだ。
 因みに、辺りは漆黒の闇ではなかった。月明かりが煌々と下界を照らし、また、雲仙のホテルなどの明かりも光を放っていたからだ。
 それはともかく、万造は激しく抗うみちるに対して、
「お前は俺の女だということを身体で分からせてやるさ」
 と言っては、不敵な笑みを浮かべ、また、淫靡な笑みも浮かべた。そして、みちるのブラジャーを毟り取ろうとしたその時である。
 万造の身体は、突如、みちるの身体から離れた。万造は自らの意思でみちるから離れたのであろうか?
 否。そうではなかった。万造はみちるの身体から無理矢理、優によって離されてしまったのだ。密かに優が物陰に潜んでいては、みちるが危ないと察知し、飛び出して来たのか、あるいは、優がこの場に来た時に偶然みちるの危機を眼にした為に飛び出して来たのか分からないが、とにかく優は万造をみちるから離しては、万造の上に伸し掛かり、両手で万造の首を絞めようとしたのだ。
 だが、万造はそんな優を払い除けた。何しろ、万造は身体頑健で怪力の持ち主だ。それに対して優は細身で腕力もさ程なさそうだ。そんな万造と優であるから、どちらに軍配が上がるかは深く考えるまでもなかった。万造は程なく逆に優の上に馬乗りになるのに成功したのである。
 そして、万造は馬乗りにした男のことをいかにも憎々しげな表情で見やった。
 すると、万造の表情は血の気が引いたように蒼ざめた。万造は万造が馬乗りにした男の顔にやはり見覚えがあったからだ。辺りには、月明かりと、雲仙のホテルの窓などから洩れてくる明かりしかなかった為に相当に暗い状態であったのだが、それでも万造はその男が誰なのか分かった。
 もっとも、盗聴電波によって、その男の正体は凡そ分かっていたのだが、今、改めて確信した! 即ち、この男はやはりみちるが美人局をする為に歌舞伎町で引っ掛けた男だったのだ!
 万造は、そのような男にみちるを寝取られてしまったという事実を目の当たりにして、改めて悔しさが込み上げて来た。
 それで、万造は、
「この盗人野郎め!」
 と、怒り狂った表情で優を罵っては、優の顔面に唾を吐いた。
 すると、優は、
「あんたがみちるちゃんを虐めている不良男か!」
 と、いかにも万造のことを非難し、また、蔑むかのように言った。
「不良男とは何だ!」
 万造はいかにも不快そうに言った。
「不良男じゃないか! 美人局なんかをやって、お金を脅し取るなんて、不良しかやらないじゃないか!」
 すると、万造は不敵な笑みを浮かべては、
「お前は、その不良男の片棒を担いでいた女に手を出したんだぜ! それは、お前の理屈に合わないんじゃないのかな」
「そうじゃないさ! みちるちゃんはあんたに脅されていたんだ! みちるちゃんも犠牲者なんだ!」
 優は、甲高い声でみちるを弁護した。
 すると、万造は「ふん!」と、鼻を鳴らし、そして、
「つまり、みちるは俺の女なんだよ。だから、俺の手によって何度も抱かれ、絶頂に達したんだ! いわば、みちるは俺の身体の一部みたいなもんなんだよ。俺とみちるは一心同体なんだよ。
 だから、俺のやることにみちるは喜んで協力するんだよ! つまり、お前の説明は正しくないんだよ!」
 万造はそう言っては、優を睨み付けた。そんな万造は、万造の女であると自負しているみちるに手を出した優のことを激しく非難してるかのようであった。
 すると、優も、
「ふん!」
 と、鼻を鳴らした。そして、
「よくぞ、そんな出鱈目を言えるもんだ! みちるちゃんは、もうあんたの女じゃないんだ。あんたみたいな不良男と付き合うのはもう懲り懲りだ! あんたみたいな男に抱かれたことを、みちるちゃんは大いに後悔してるんだ! もう、あんたの顔なんか見たくないと言ってるんだ!
 だから、潔くみちるちゃんのことは、諦めるんだな。そして、この場から、とっとと消え失せるんだ!」 
 と、優は今度は些か穏やかな表情と口調で、そして、万造に言い聞かせるかのように言った。
 だが、万造はその優の言葉を聞いて、頭に血が上ってしまった。万造はみちるを諦めるつもりは全くなかった。みちるは万造にとって、宝物であったのだ。
 それ故、みちるの身体を再び奪い取って、その身体で万造の大切さをみちるに分からせてやろうと意気込んで、この雲仙に乗り込んで来たのだ。
 そんな万造が優の言葉に耳を傾ける訳がなかった。それどころか、万造は今の優の忠告のような言葉を耳にし、逆上して我を忘れてしまった。
 そんな万造は、阿修羅のような表情を浮かべては、優の首を絞めに掛かった。
「殺してやる……」
 万造は、呟くように言った。
 そして、万造は渾身の力を込めて、優の首を両手で絞めに掛かった。
「ゴホン……」
 万造に首を絞められたことによる苦しさの為に、優は苦しそうに咳をしては、万造を払い除けようとした。
 だが、体力的に優に勝る万造を、優は払い除けることは出来そうもなかった。
 だが、優は渾身の力を込めて、両足で万造の背中を蹴った。
「うっ!」
 優の両足で背中を蹴られた衝撃で、万造は優の首を絞めていた両手の力を緩めてしまった。それを受けて、優は万造を払い除けることに成功した。
 そして、体勢を立て直すと、万造に、
「僕を殺すつもりか!」
 と、いかにも殺気立った表情で言った。
 すると、万造は不敵な笑みを浮かべては、
「ああ。殺してやるさ! お前みたいな野郎をのさばらせていると、みちるちゃんの気持ちがぐらついてしまうからな。お前はこの雲仙地獄で死んで、地獄に落ちるというわけさ!」
 万造は、そう言うや否や、上着のポケットから何かを取り出したかと思うと、その鞘を抜いた。
 それは、包丁であった。刃渡り十五センチ程の包丁であった。だが、それでも人を殺すことは充分であろう。
<本気だ! 万造は、本気で優を殺そうとしてるんだ!>
 優もみちるもそう察知した。
 だが、万造は、優とみちるにそれ以上考える時間を与えることはなかった。何故なら、万造はその包丁を右手で持っては、優に突進して来たからだ。
 だが、優は間一髪で、それをかわした。
 だが、優は蹴っ躓いてしまい、散策路上に尻餅をついてしまった。
 すると、万造は不敵な笑みを浮かべた。そんな万造はもう優を仕留めたと言わんばかりであった。
 そんな万造はゆっくりとした足取りで優に近付いて来た。万造の右手には包丁がしっかりと握られていて、正に優の命は風前の灯火であった。
 万造が話の分かる相手なら、思い留まらせることは可能であろう。しかし、万造がその種の人間でないことは、優もみちるも分かっていた。
 それ故、優の命は、今や風前の灯火であった。
 だが、この時、万造は突如、
「うっ!」
 と、呻き声を上げたかと思うと、万造の右手から包丁が滑り落ちるかのように落ちてしまった。そして、万造は屈み込んだかと思うと、地面に崩れ落ちるかのようにうつ伏せの状態で倒れ込んでしまった。
 一体、これはどういうことであろうか? 一体、万造に何が起こったのであろうか?
 その疑問に対する答えは、今、万造の傍らで三十センチ程の岩を手にしては、激しく息をついているみちるを眼にすれば分かることであろう。
 そう! みちるだ! みちるが万造の後頭部目掛けてその岩を思い切り叩き付けたのだ! 優の危機を眼にして、万造に攻撃を加えなければならないと理解したみちるは、傍らにあった岩を手にすると、万造の後頭部目掛けて思い切りその岩を叩き付けたのである!
 その衝撃を受けて、万造の後頭部からは、血が吹き出してしまった。
 だが、万造の血が吹き出しているのは、万造の後頭部だけからではなかった。万造は、胸からも血が吹き出していたのだ。というのは、万造が地面に崩れ落ちるようにぶっ倒れた時に、万造自らが落としてしまった包丁が、万造の胸に突き刺さってしまったのだ!
 正に、今やまるで息絶え絶えになっているかのような万造が苦しげに悶えているのを眼にして、優とみちるは抱き合いながら正に恐怖に慄いたような表情でじっとそんな万造の様を見やっていたのだが、この時、優が突如、
「僕とみちるちゃんは、同罪さ!」
 と、血走った眼で口走った。
「えっ?」
 優にそう言われ、みちるは怪訝そうな表情を浮かべては眼を大きく見開いた。みちるは、優のその言葉の意味がよく分からなかったのである。
 すると、優は不敵な笑みを浮かべては、
「つまり、みちるちゃんは僕を助ける為に、こいつの脳天に岩を叩き付けたんだ。そして、その結果、こいつが死んだら、みちるちゃんがこいつを殺したということになってしまう。
 しかし、こいつを殺したのは、みちるちゃんだけではない! 僕もその殺しに加わらなければならないというわけさ!」
 と、言うや否や、万造の胸に突き刺さっていた包丁を手にしたかと思うと、一旦万造の胸から引き抜き、そして、何度も万造の胸を突き刺したのだ!
 優が二、三度包丁を万造の胸に突き刺した時はまだ万造は生きていた。優が万造の胸に包丁を突き刺すと、万造は小さな悲鳴を上げたからだ。
 だが、優が万造の胸に四回目の攻撃を加えると、もう万造に反応は見られなかった。万造は頭をガクンと垂れ、正に万造には何ら生気は見られなくなったのだ。
 まだ万造の胸に突き刺さった状態のままになっている刃渡り十五センチ程の包丁を万造の胸から抜き取ると、優は、
「死んだ……」
 と、生気のない表情を浮かべては、呟くように言った。
 すると、みちるはそんな優の傍らに擦り寄っては、
「私たちが殺したのね」
 と、優と同様、生気のない表情を浮かべては言った。
 そんなみちるに優は、
「ああ」
 と、呟くように言った。
 すると、みちるはそんな優にそっとその身体を任せようとした。
 それで、優はそんなみちるを優しく抱き寄せた。
 そして、その優とみちるの抱擁は少しの間続き、やがて二人は唇を合わせた。そして、それは正に熱いキスであった。まるで、万造の死を追い払おうと言わんばかりの熱いキスであった。
 そして、そのキスは少しの間続いたが、やがて、優は、
「こいつの死体を、あの柵の向こうに移動させよう。その方が死体の発見を遅らせることが出来るよ」 
 優にそう言われると、みちるは、
「そうね」
 と、優に相槌を打つかのように言った。
 そして、優とみちるは、万造の遺体を抱えながら地獄と散策路を隔てている柵を跨いで地獄の中に入って行き、そして、手頃な場所に万造の死体を置いた。そして、その地獄が大叫喚地獄と呼ばれていることを、優とみちるは知らなかった。
 しかし、今の二人には、そのような名前はどうでもよいことであった。
 優とみちるは、万造の死体の始末を終えると、優が万造を仕留めた包丁をどのように処分するか話し合った。
 そして、その結果、この雲仙地獄内に包丁を遺棄するのはまずいという結論を得た。というのは、万一包丁が発見されれば、そこに優の指紋が付いていることを警察が暴くに違いないからだ。そして、それは優にとって、やばいというわけだ。
 それで、優は散策路上に落ちている包丁を拾い上げると鞘をはめ、上着をめくっては腹の上に置いた。そして、上着を元通りに戻しては、包丁を人目に付かないようにした。万一、ホテルの従業員なんかに優が包丁を手にしてるのを眼にされてしまえば、それは正に大変なことになってしまうからだ。
 そして、優とみちるは、やがて努めて平静を装い宿泊先のホテルへと戻った。室の鍵は優が手にしたままであったから、帰り際に優やみちるが、フロントに顔を出す必要はなかった。そして、そのことも、優とみちるの犯行に足が付かなかったということに影響したといえるだろう。


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