第八章 疑惑
1
大叫喚地獄で惨殺体で見付かった若い男の事件を捜査している長崎県警捜査一課の熊沢警部は今、甚だ不快そうな表情を浮かべ、そして、そのデスクの上にある灰皿には、熊沢が喫った煙草の吸殻の山が築かれていた。
というのは、その若者の事件の二週間後に発生した旧八万地獄で見付かった中年の女の事件は事件発生後、三週間もしない内に解決したというのに、熊沢が担当している事件の方は、まだ被害者の身元すら明らかになっていないという状況なのだ。
もっとも、旧八万地獄で見付かった中年の女の事件の方が早く解決されるという予想は、熊沢たち長崎県警も立ててはいた。というのは、えてして中年の女というものは交友関係に富んでいる為に、その身元とか容疑者を特定出来易いと思われたからだ。
それに対して、若い男というものは、最近よく見られるように、引きこもりとかいったように、対人関係が稀薄な者が少なからず見られる。そして、被害者もそういったタイプの者であれば、事件解決は長引くと長崎県警は予想していたのである。
そして、その予想は見事に当たってしまったのである。しかし、そのようなことは、何ら自慢になることではなかったのである。
それ故、熊沢は、何とかして被害者の身元を明らかにしようとした。
熊沢たちは、元々、被害者は遠方の者ではないかと推理していた。そうでなければ、もう少し被害者に関して有力な情報が警察に寄せられてよい筈であったからだ。しかし、実際には、被害者に関する有力な情報は皆無であったのだ。
それ故、被害者は遠方の者である為に、被害者の死を身近に捉えることが出来ずに警察に情報を提供出来ないと熊沢たちは看做していたのである。
しかし、そう看做したからといって、身元判明に至るわけでもない。
それ故、熊沢たちはいかにも決まり悪そうな表情を浮かべながら、何か良い手段はないものかと頭を働かせていたのだが、興味ある情報が警視庁からもたらされた。
その情報をもたらしたのは、警視庁の古川警部(45)であった。古川は、今、東京で行方不明になっている若い男が、その男の人相風体とか、行方不明になっている時期などから、その男が雲仙の大叫喚地獄で見付かった男である可能性があると思い、その事件を担当している熊沢に連絡したのだ。
それで、熊沢は早速警視庁の古川から話を聞いてみることにした。
古川は熊沢に対して、
―その若い男の遺体が見付かったのは、九月二日でしたね。
「そうです」
熊沢は肯きながら言った。
―こちらで行方不明になっている男も、その頃から行方不明になっているのですよ。
「それは、どういった男なのですかね?」
熊沢は、興味有りげな表情を浮かべては言った。
―権田万造という二十二歳の男です。
「権田万造ですか。で、何故権田さんが行方不明になっていることが分かったのですかね?」
熊沢は再び興味有りげに言った。
―権田さんが借りている「宝荘」というアパートの管理人から警察に問い合わせが入ったのですよ。先月分の家賃がまだ入ってなく権田さんと連絡が取れないのだが、交通事故なんかに遭って入院してるんじゃないかという具合に。
更に、権田さんの友人と称している者からも、そのような問い合わせがありましてね。そして、その者たちから得た情報から、雲仙で見付かった若い男のことが僕はピンと来ましてね。それで、連絡してみたのですよ。
「そういうわけですか。で、その管理人は、権田さんの顔を知っているのですよね?」
―知ってますよ。
「じゃ、とにかくその若い男の死に顔の写真をそちらに送りますから、その管理人にその死に顔の写真を見てもらいたいのですよ」
―分かりました。
ということになり、早速「宝荘」の管理人である山崎研一郎という六十五歳の男にその写真を見てもらうことにした。
すると、山崎はその写真を見て、その男は権田万造である可能性が極めて高いと証言した。
それを受けて、「宝荘」の権田の部屋から直ちに指紋が採取され、その指紋と雲仙で見付かった男の指紋との照合が行われた。
すると、その指紋は見事に一致した。
即ち、九月二日に雲仙の大叫喚地獄で観光客によって見付けられた若い男は、東京都内の台東区にある「宝荘」というアパートに住んでいた権田万造(22)であったことが、この時点で明らかになったのだ! そして、それは万造の遺体が見付かって、一ヶ月程経った頃のことであった。
これによって、やっと捜査はスタートラインに立てたといった塩梅であった。
それはともかく、万造が東京の人間であったことから、熊沢は警視庁に捜査協力の依頼をし、万造のことを捜査してもらうことにした。
そして、その結果を今から電話ではあるが、熊沢は古川警部から話してもらうことになった。
―権田という男は、何をしていたのか分からないような得体の知れない男だったみたいですね。
と、古川は眉を顰めては言った。
「何をしてるか分からない男ですか……」
熊沢は呟くように言った。
―そうです。「宝荘」を借りた時に自らの職業を自由業と称していたみたいですが、それだけでは具体的にどのようなことをやってたのかは分からなかったので、権田さんの部屋の中を捜査してみたのですよ。しかし、権田さんがどのような仕事をしてたのか、まるで分からなかったのですよ。
更に、権田さんには家族がいないみたいなんですよ。戸籍を調べてみた結果、権田さんの父親は、権田さんが小さい時に親権を放棄しては姿を晦まし、また、母親は権田さんを遠縁の人に預けては再婚し、その後、権田さんの面倒は見てなかったみたいですね。
つまり、権田さんは恵まれてない環境で育った人と思われますね。
と、古川は神妙な表情を浮かべては言った。
「そうですか……」
古川にそう言われ、熊沢も神妙な表情を浮かべては、呟くように言った。
というのも、えてして犯罪を行なう者は恵まれない環境で育った者が多いということを熊沢は知っていた。それ故、万造もその類の者であったのかもしれないと熊沢は思ったのだ。
もっとも、万造は今回の事件では被害者だ。しかし、万造は何らかの犯罪に関わっていたのかもしれない。そして、それに絡んで万造は殺されたのかもしれないのだ。今の古川の話を聞いて熊沢はそう思ったのである。
それはともかく、熊沢は、
「で、権田さんが何故殺されたのか、それに関して何か分かったことはありますかね?」
と、些か真剣そうな表情を浮かべて言った。
すると、古川は、
―まだ、そこまでは分からないのですが……。でも、権田さんは人相がよくなかった人物だったと「宝荘」の管理人が証言しましたし、また、権田さんのことを我々に問い合わせて来た権田さんの友人だと称した人物も、自らの素性を明らかにしませんでしたからね。そういったことからも、権田さんは胡散臭い人物であったと思われますね。
と、眉を顰めては言った。
すると、熊沢は、
「僕も同感ですね」
と、古川に相槌を打つかのように言った。そして、
「権田さんの部屋の中に交友関係を示すようなアドレス帳なんかはなかったのですかね?」
―なかったですね。また、手紙なんかも見付からなかったですよ。
と、古川は渋面顔で言った。
「なる程。でも、権田さんは何者かに殺されたわけですから、権田さんを殺した人物がいることは明らかです。また、その殺され方からして、行きずりの犯行とは思えません。犯人の権田さんに対する激しい憎悪が感じられるのですよ」
と、熊沢が力強い口調で言うと、古川は、
―僕も同感ですよ。
と、熊沢に相槌を打つかのように言った。
すると、熊沢は小さく肯き、そして、
「それ故、権田さんを殺した人物の物証なんかが権田さんの部屋の中に残っている可能性は充分にあると思うのですよ。それ故、その捜査を古川さんたちにやってもらいたいのですよ」
と、熊沢は改めて古川に捜査協力の依頼をした。そして、古川はその依頼を快く受けたのであった。
2
古川は熊沢の言ったことは、もっともなことだと思った。即ち、権田万造を殺した犯人は行きずりの者ではなく、権田万造自身に強い恨みを持っていて、それ故、雲仙にまで権田万造を追い掛けて行ったりして、権田万造を殺したのだ。そして、その者に関する手掛かりが権田万造の部屋の中に存在している可能性は充分にあるというわけだ。
その点を踏まえて、古川は若手の江川刑事と共に改めて早速権田万造の部屋の中を捜査してみた。
すると、早くも気になる人物の存在が浮かび上がった。
それは、若い女であった。万造には何となく不釣合いな感じの若くて綺麗で、また、万造とは違って、何となく純朴そうな感じの女が万造と親密そうな感じで写っている写真が部屋の中にあったアルバムに何枚もあったのだ。
更に、その女の裸の写真、また、万造と抱き合っている写真、また、裸同士で万造と抱き合っている写真、また、裸の万造がその女の乳房に手を触れている写真すらあったのだ。
それらの写真から、その女は万造の彼女であったことが、自ずから察せられた。となると、この女が万造の死に関して、何らかの情報を持っている可能は充分にある。
また、万造が口座を持っている銀行の通帳も見付かったのだが、その通帳からは光熱費なんかが引き落とされていることは判明したが、勤務先の会社から振り込まれる給料なんかは全く記帳されてなかった。
そのことからも、万造の職業は依然として不明であった。
それで、江川刑事は、
「権田さんの収入源は、一体どういったものだったのでしょうかね?」
と、眉を顰めては首を傾げた。
だが、その江川刑事の問いに、古川は渋面顔を浮かべては何ら答えようとはせずに、更に部屋の中の捜査を続けた。
すると、やがて、万造の手帳が見付かった。
それで、古川は早速その手帳に眼を通してみた。
すると、興味深いメモが見付かった。そして、そのメモにはこのように記されていた。
「
五月十日 歌舞伎町 成功 十万 みちる
五月十五日 歌舞伎町 成功 十五万 みちる
五月二十五日 歌舞伎町 成功 十八万 みちる
五月三十日 新大久保 失敗 和美
六月一日 歌舞伎町 失敗 みちる
」
このメモを眼にして、江川刑事は、
「これ、一体どういう意味でしょうかね?」
と、眉を顰めて言った。
すると、古川は渋面顔を浮かべては少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「ひょっとして、権田さんはこのメモに記されているみちる、和美とかいう女と何か悪事を行なっていたのかもしれないな。そして、その悪事が成功すれば、成功額をメモし、失敗すれば、失敗とメモしてやのかもしれないな」
と、古川が言うと、江川刑事は、
「なる程。僕もそう思いますね」
と、古川に相槌を打つかのように言った。
すると、古川は小さく肯き、そして、
「で、歌舞伎町という場所からして、ひょっとして権田さんたちは、美人局を行なってたのかもしれないな」
「美人局ですか……」
江川刑事は、呟くように言った。
「そうだ。美人局だ。みちると和美という女が男を引っ掛け、ホテルなんかに入り、その場に権田さんが乗り込んで行っては『俺の女に手を出しやがって!』とか言って引っ掛けた男を脅し、そして、金を巻き上げるというわけさ」
と、古川は早口で捲くし立てた。
「なる程」
古川にそう言われると、江川刑事は感心したように言った。
すると、古川は小さく肯き、そして、
「その可能性は充分にあるよ。それに、ここしばらくの間で歌舞伎町で美人局の被害に遭ったという被害届が警察に出てるからな。そして、その被害届の中に権田さんが引き起こしたものがあるかもしれないよ」
と、力強い口調で言っては、眼をキラリと光らせた。
「なる程。で、その被害届を出した人物の名前とか連絡先は控えてあるのですよね?」
「そりゃ、勿論そうさ」
と、古川は自信に満ちた口調で言った。
「そうですか。じゃ、その人物に権田さんや、その女の写真をみてもらいましょうよ」
ということになり、早速、ここしばらくの間で歌舞伎町で美人局の被害に遭ったという人物に連絡を取り、万造の写真と、万造の部屋にあったアルバムに貼ってあった女の写真を見てもらうことにした。
すると、五月に歌舞伎町で美人局の被害に遭い、被害届を出していた二十二歳の森本伸男というフリーターは、
「この女だ!」
と、その女の写真を指差しては声を荒げて言った。
「つまり、森本さんを引っ掛けたのが、この女性に間違いないということですかね?」
と、古川は些か真剣そうな表情を浮かべては言った。
「ええ。そうです! 間違いありません! 僕はこの女とテレクラで話をして、風林会館の前で待ち合わせをして、それから、ラブホテルに入ったのですよ。
で、僕はいい女をものに出来たと喜んでいたのですが、女はホテルの中に入ってからなかなか服を脱ごうとしないのですよ。一緒にホテルに入ったにもかかわらず……。
それで、僕は何だか苛々して来て、女に触れようとしたのですが、女は僕に触れさせようとしないのですよ。
それで、僕は女に文句を言ってたりしてたのですが、すると、程なく男が室の中に入って来たのですよ。つまり、この男がですよ!」
伸男は今度は、万造の写真を指差しては、声を荒げて叫んだ。そんな伸男は、万造に対して強い怒りをぶつけてるようであった。
そして、伸男は怒りを露にした表情を浮かべながら、更に話を続けた。
「で、その男は『俺の女によくも手を出したな! 俺はこの歌舞伎町界隈で勢力を誇っているやくざの幹部なんだ! その俺様の女に手を出してどうなるか分かっているのか!』とか言って僕を脅し、僕は恐くなってしまい、とにかく財布の中の有り金の全てであった十万をその男と、その男と共に入って来たもう一人の男に渡し、何とかそいつらに帰ってもらいその場を凌いだのですよ。
でも、後でよく考えてみれば、やくざの親分というのは嘘で、最初から僕からお金を奪い取る為に女を使ってホテルに誘い込み、後で男が室の中に入って来る段取りになっていたのですよ。
つまり、この手口は美人局ですよ。僕は、美人局に引っ掛かってしまったのですよ!」
と、伸男は怒りを露にした表情を浮かべながら、甲高い声で言った。
そう伸男に言われると、古川は些か納得したように肯いた。何故なら、伸男のこの証言は、古川たちの推理通りだったからだ。
とはいうものの、これによって、権田万造の事件が解決したわけではない。
そう思うと、古川の表情は自ずから曇った。
そして、この辺で、伸男に対する聞きこみを終えることにした。
フリーターをしてるという森本伸男の証言から、古川たちの推理通り万造たちが美人局を行なっていた事実が明らかになった。また、美人局を行なっていた位だから、万造は他の悪事に手を染めていた疑いはある。そして、それらに関して、何らかのトラブルが発生し、その結果、万造は殺された可能性は充分にある。
そう思うと、古川は些か納得したように小さく肯いた。その推理は充分に現実味のある推理だと古川は実感したからだ。
となると、やはり、万造のアルバムに写っていた女を見つけ出すことが肝心であろう。
その女は、恐らくみちる、あるいは、和美だと思われるのだが、みちるも和美も万造と共に美人局を行なっていた。それ故、万造の死に有力な情報を持っている可能性は充分にある。
更に、万造の部屋にあった手帳のメモや森本伸男の証言から、万造たちが行なっていた美人局には、万造、みちる、和美以外に、後一人男が関与していたと思われる。それ故、その男を見付け出すことも、肝心であろう。
そう判断した古川たちは、それらの者を見つけ出す捜査に取り掛かったのであった。
3
「一体、どうしたのかな」
と、いかにも渋面顔を浮かべては、いかにも困ったと言わんばかりに言ったのは、小山田茂であった。
台東区内にある2DKの賃貸アパートの茂の部屋の中で、茂は恋人である和美にそう言ったのだ。
「二週間も連絡が取れないの?」
和美は些か心配そうな表情を浮かべては言った。
「ああ。そうなんだ。何度も万造のアパートに行ったんだが、いつも鍵が掛かっているんだ。勿論、何度も万造の携帯に電話もしたが、いつも留守録になっていて、連絡が取れないんだ。
一週間前に大切な打ち合わせがあったんだが、万造がいないもんだから、俺は仕事に参加出来なくなりそうなんだよ」
と、茂は正に無念と言わんばかりの表情を浮かべては言った。
実のところ、万造と茂は一週間前に李と陳が計画したピッキング強盗に関する打ち合わせをする為に都内の某ホテルで謀議を行なう予定になっていた。
だが、万造がいつまで待ってみても姿を見せないので、その謀議は延期されてしまったのだ。そして、茂は李と陳から、一刻も早く万造と連絡を取ってくれと、催促されてしまったのである。
しかし、茂は一向に万造と連絡を取ることが出来なかった。このままでは、李と陳が計画した仕事に参加出来なくなってしまう。そして、それは茂にとって、金蔓を絶たれてしまうことにもなってしまうのだ。そして、それは万造も同様だ。
それ故、今になっても万造が姿を見せないのは、万造にとって異変、例えば交通事故なんかに巻き込まれてしまったのかもしれない。
それで、茂は名前を伏せては警察に万造のことを問い合わせてみた。しかし、そのような事実は確認出来なかったのだ。
即ち、万造は二週間前からまるで神隠しに遭ったかのように忽然とその姿を消失させてしまったのである!
そして、茂と和美の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、和美が、
「万造が行方不明になる直前に、万造に何か気になることはなかったの?」
と、万造が行方不明になった手掛かりを摑もうとした。
すると、茂はその頃に思いを巡らすかのような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「そう言えば、少し気になることを言ってたな」
と言っては、眉を顰めた。
「気になること? それ、どんなこと?」
和美はいかにも興味有りげに言った。
「うん。それがだな」
と、茂は神妙な表情を浮かべては、万造がみちるに関して茂に話したことを和美に逐一話した。
和美はといえば、そんな茂の話に神妙な表情を浮かべながら、じっと耳を傾けていたのだが、茂の話が一通り終わると、
「確かにその話は、気になるね」
と言っては、一層眉を顰めた。
すると、茂は眼を大きく見開き、
「そう思うだろ」
「ええ。そう思うわ。で、万造はみちるの部屋に盗聴器を仕掛けたの?」
「そうだと思うよ。俺は、その盗聴器をまだ万造から返してもらってないからな」
と、茂は些か表情を険しくさせては言った。
「そう……。で、その盗聴は実際に成功したの?」
和美は、好奇心を露にして言った。
「いや。それは、まだ分かってないんだよ。俺がその結果を万造に訊くまでに、万造は行方不明になってしまったんだよ」
と、茂は表情を曇らせては言った。
「そう……」
茂にそう言われると、和美も表情を曇らせては呟くように言った。そして、和美は少しの間、言葉を発そうとしなかったが、やがて、
「で、万造はみちるに男が出来たのではないかと、疑っていたのね?」
「そうさ。もっとも、それは俺が万造にそう言ってやったんだけどな。
で、盗聴器をみちるの部屋に仕掛けろというのも、俺のアドバイスだったのさ。そして、万造は俺のそのアドバイスに従ったというわけさ」
茂は眉を顰めては、淡々とした口調で言った。
「そういうわけだったの……」
和美は再び呟くように言った。
そんな和美は、みちるに万造以外の男が出来たという話は初耳であった。和美は三週間前にみちると電話で話をしたのだが、その時にそのような話はまるで出なかったのである。
和美は些か表情を険しくさせては何かに思いを巡らすような仕草を見せて、少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「ひょっとして、万造の失踪にみちるが関係してるかもしれないよ」
「みちるが関係してる?」
そのようなことは思ったことがない茂は、呆気に取られたような表情を浮かべては言った。
すると、和美は眼を大きく見開いては、
「そうよ! その可能性が高いよ! 何しろ、万造はみちるの何もかもを支配したがっていたからね。そんなみちるが万造を裏切り、万造以外の男を作ったとなれば、それは万造の怒りを買うことは間違いないよ。それで、万造はみちるにその男と別れろと、強く迫ったんじゃないのかな。
それによって、万造とみちるとの間でトラブルが発生してしまったというわけよ」
と、その可能性は充分にあると言わんばかりに力強い口調で言った。
すると、茂も眼を大きく見開き、そして、
「俺も、その可能性はあると思うな。しかし、その先が問題だな。トラブルが発生し、みちるは万造をどうしたと言うのかい?」
と、いかにも困惑したような表情を浮かべては言った。そんな茂は、みちるが万造を殺しては何処かに埋めたとでも言うのかと言わんばかりであった。
和美はといえば、実のところ、茂が思ったようなことを思ってはいた。しかし、そのようなことが現実に起こり得るとは思えなかった。
それで、茂も和美も甚だ険しい表情を浮かべては、少しの間言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、和美が、
「分かった!」
と、険しい表情のまま、甲高い声で叫んだ。
「どうしたって言うんだ?」
茂は思わず身を乗り出しては、好奇心を露にして言った。
「つまり、万造はみちるに男がいたことを盗聴器によって、突き止めたのよ。そして、みちるがその男とデートする時なんかを突き止めたんじゃないかな。そして、万造は密かにその場所に乗り込んで行ったのよ。
その結果、万造はみちるとみちるの新たな男と鉢合わせをしてしまい、トラブルとなってしまったというわけよ!」
と、和美は力強い口調で言った。その和美の表情と口調は、正にそれが真相だと言わんばかりであった。
すると、茂は、
「そうだ! それだよ! その通りだ!」
と、正に和美に相槌を打つかのように言った。
そう茂に言われて、和美は自信有りげな表情を浮かべては力強く肯いた。そして、更に話を続けた。
「で、万造はその男に殺されたのよ! もっとも万造の方からその男を殺そうとしたのかもしれない……。万造ならやりそうよ。
でも、何かアクシデントが起こったりして、逆に万造が殺されてしまったというわけよ。万造が茂たちの大切な謀議をすっぽかすなんてことは、通常有り得ないことよ。それ故、万造にとって、余程重大なことが発生したに違いないわ! そして、その重大なこととは、万造の死よ!」
そう言った和美には、悲愴感が漂っていた。そんな和美は、正に万造が死んだとは信じたくないが、そう看做さないと、万造の失踪は説明出来ないと言わんばかりであった。
和美にそう言われると、茂も和美と同様の表情、即ち、悲愴感漂う表情を浮かべた。そんな茂は、万造が死んだなんて信じることは出来ないと言わんばかりであった。
だが、和美の推理を聞くと、和美の推理は正しいのではないかと実感した。正に万造はみちるの新たな男に対して強い憎悪を抱き、その男を殺そうとしたって何ら不思議ではない。それ故、その男も必死になって万造に立ち向かおうとしたであろう。その結果、腕力に自信のある万造でも、相手がナイフなんかを持っていれば、万造が逆に殺られてしまったということも有り得るというものだ。
和美の推理が、充分に現実味の有る推理だということを茂も和美も理解すると、二人の間に重苦しい沈黙の時間が訪れた。
そして、その重苦しい沈黙の時間はしばらくの間続いたが、やがて、茂が、
「よし! 分かった! とにかくみちるに確認してみるんだ! それしかないよ!」
と、意を決したかのように言った。
すると、和美は、
「それは、無理と思うわ」
と、険しい表情を浮かべては言った。
「無理? 何故無理なんだ?」
茂も険しい表情を浮かべては言った。
「茂がみちるにそんな表情を浮かべながら、『みちるの新たな男が万造を殺したんじゃないのか』と言っても、みちるが『はい。そうですよ』となんて答える筈がないからよ」
と、和美は茂の短絡的な発想を諌めるかのように言った。
すると、茂は、
「そう言われてみれば、そう思わないこともないが……」
と、些か決まり悪そうに言った。
すると、和美は小さく肯き、
「そういうことは、女の私の方が上手よ。私ならみちるは茂には話さないようなことも話すかもしれないわ。
でも、まさかみちるの新たな男が万造を殺したとまでは話さないと思うわ」
と、表情を曇らせては言った。
「じゃ、どうするんだよ」
茂は、困惑げな表情を浮かべては言った。
「だから、私がみちるにまず、みちるに新たな男が出来たのか、その点を探ってみるわ。また、最初から九月二日頃、みちるが何処で何をしてたのかなんて、訊かないわ。その問いは、それとなく持って行くよ」
と、和美は胸を張って言った。
そして、結局、その和美の思いは、実行されることになったのだ。
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お台場にある船の科学館の見物を終え、近くにある岸壁から海を眺めていたのは、岸部次郎という六十五歳の無職男であった。
岸部は大学卒業後、都内にある某電気メーカーで定年まで働き、五年前に定年退職した。そして、その後、特に職に就くこともなく、趣味の盆栽などに時間を費やしながら、自由気儘に毎日を過ごしていた。それは、働き蜂のように働いていた会社時代からは、まるで嘘のような生活振りであった。退職した当初は、そのあまりもの生活の変化に岸部は体調を狂わした位であった。
とはいうものの、やはり自由時間が出来たことは、岸部は嬉しかった。そんな岸部は最近になって、東京の新名所になったお台場を度々訪れていた。そして、ゆりかもめから流れ行く東京の光景を眼にするのがとても好きであった。正に、ゆりかもめから流れ行く東京の光景を眼にしていると、この日本が多額の借金を抱え、その返済に苦しんでいるなんてことは微塵も感じられず、正に日本は今、我が世の春を謳歌してるかのように岸部には見えたのであった。
それはともかく、船の科学館を岸部が訪れたのは、既に十回以上となっていた。というのは、岸部家が購読してる新聞の係員が何度も船の科学館のただ券をくれるからだ。子供が岸部家にいれば、そのただ券を使ってもらうのだが、岸部家には子供はいない。そうかといって、せっかく貰ったただ券を捨てるのももったいない。それ故、時間を持て余している岸部が結局そのただ券を使うことになってしまうのだ。
そういった事情が影響し、岸部が船の科学館を訪れた回数は、十回を超えてしまったのである。
それはともかく、岸部は一人岸壁に佇み、東京湾をぼんやりと眺めていたのだが、ふと岸壁際に眼をやった。すると、岸部の表情は突如強張ったものに変貌した。何故なら、岸壁際に人がぷかぷかと浮いているのを眼に留めたからだ。
それは、正に人であった。人形では絶対にない!
一目眼にして、岸部はそう確信した。
そして、それは女であった。しかも、若い女であるようであった。
そして、その様からして、女は既に魂切れているのは間違いない!
この重大な事実を目の当たりにして、岸部はこの事実を警察に話さないわけにはいかないであろう。
それで、岸部は血相を変えては、携帯電話で110番通報したのであった。
岸部からの通報を受け、直ちに警視庁の巡査がパトカーに乗って現場に駆け付けた。とはいうものの、その女を海から岸に引き揚げる作業は潜水士が受け持つことになった。
三人の潜水士は、巡査たちより少し遅れて現場に着いた。そして、その頃には、少なからずの野次馬の姿が辺りに見られた。
潜水士によって岸壁に引き揚げられた女は、まだ二十歳代の前半位と思われ、黒っぽいブラウスと、紺色のジーパンをはいていて、耳にはピアスをつけ、両手の指にはマニキュアが施されていた。また、その容貌は美人の部類に入ると思われ、身長は162、3センチ、体重は45,6キロ位であった。更に、女の頭部には裂傷が見られていた。
即ち、女の死はその頭部の裂傷によるものであり、また、死後、海に遺棄されたと思われた。
そういった事情により、女の遺体は直ちに司法解剖されることになった。
すると、死因と死亡推定時刻が明らかになった。
死因は頭部を鈍器のようなもので殴打されたことによる脳挫傷で、死亡推定時刻は昨夜、即ち、十月二日の午後七時から八時であった。
また、女の頭部の傷痕から女の死は殺しによってもたらされたことも明らかとなった。
これによって、所轄所に捜査本部が設置され、警視庁捜査一課の皆川警部(50)が、捜査の指揮を取ることになった。
捜査は、まず女の身元を明らかにすることから始められた。女は、身元を明らかにするものは、何ら所持してなかったのだ。
とはいうものの、女の身元はここ二、三日中に判明するのではないかと、皆川たち捜査陣は思っていた。というのは、女の容貌とか服装などから、女は東京近辺に住んでいたものと推察され、また、女の死はTV,新聞で大々的に報道された為に、女の関係者がその報道を眼にし、警察に問い合わせをして来ることが、当然予想されたからだ。
案の定、女の遺体が見付かった翌日頃から女に関する問い合わせが少なからず警察に寄せられ始めた。
そして、その中で有力と思われる件に関しては、実際にその情報を寄せた者に女の遺体を直に見てもらったりしたのだが、身元判明には至らなかった。
だが、女の遺体が見付かって三日目に女の身元が明らかになった。その女の身元を明らかにしたのは、その母親であった村木明美(50)であった。
明美は新聞で船の科学館近くの海で見付かった若い女の記事を見て、何となく気になっていた。その女の年齢、身体つきなんかが、なんとなく娘の和美を思わせるものがあったからだ。
それで、和美が住んでいる台東区内にある「レジェンド秋山」という賃貸マンションの和美の部屋に何度も電話したのだが、一向に繋がらなかった。
それで、警察に問い合わせてみたところ、女の遺体が安置されているS病院に来てくれと言われた。
それで、明美は半信半疑の表情を浮かべながらS病院に行ってみたところ、その女の遺体は案の定、娘の和美であったのだった。
だが、明美は気丈な性格であったのか、娘の和美の遺体を眼にしても涙一つ流さなかったのである。
それはともかく、和美の事件を捜査してる皆川は、早速明美と話をすることになった。
そして、まず和美の遺体が見付かった時の状況を改めて説明し、そして、和美の死は殺しによるものだということを説明した。
明美はそんな皆川の説明に何ら言葉を挟むことなく耳を傾けていたが、皆川の説明が一通り終わっても、険しい表情を浮かべてはすぐに言葉を発そうとはしなかった。
それで、皆川は、
「和美さんを殺した犯人とか動機に関して心当たりありませんかね?」
と、明美の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、明美は険しい表情を浮かべては少しの間言葉を詰まらせたのだが、やがて、
「あの娘は、学生時代から不良でしたからね」
と、蚊の鳴くような声で言った。
「学生時代から不良ですか……」
「そうです。中学の時から万引きとか、同級生虐めを行なったりしてましたね。また、その頃から男友達の家に泊まったりしてました。警察のお世話にならなかったのが不思議な位でしたよ」
と、明美はまるで胸の痞えを吐き出すかのように言った。
「そうでしたか……」
明美にそう言われて、皆川はまるで明美のことを労わるように言った。だが、今の時点では和美を殺した犯人、動機に関して推測は出来なかった。それで、引き続き明美の話に耳を傾けることにした。
「で、和美は高校卒業後、一人でアパートに住むようになりましてね。それで、それから和美が付き合っていた友達のこととか仕事に関して、私はよく知らないのですよ。何しろ、和美はそれに関して私に話そうとしませんでしたからね。ですから、和美を殺した犯人や動機に関して、私は具体的には分からないのですよ。
でも、先程申したように、和美は学生時代から不良でしたから、今でも何か悪いことをやっていたのではないかと思いますね。そして、そのことが絡んで和美は殺されたと思いますね」
と、明美は沈痛な表情を浮かべては、淡々とした口調で言った だが、そんな明美の様からは、和美の死には哀しんではいるようなのだが、和美を殺した犯人に対する怒りはあまり感じてはいないように見受けられた。
それはともかく、明美にそう言われ、皆川も確かにそう思った。即ち、和美は今も尚、何か悪いことをやっていて、それに絡んでトラブルが発生し、和美は殺されたというわけだ。
だが、その和美がやっていた悪いことが分からなければ、捜査は進展しないというものであろう。
そして、それに関して明美は情報を持ってないとのことなので、明美から和美が住んでいた賃貸マンションのことを聞くと、皆川は早速その「レジェンド秋山」というマンションの和美の部屋を捜査することになった。
すると、アドレス帳が見付かった。そのアドレス帳には十人程の男女の名前が記されていた。
また、棚にはアルバムがあったので、皆川はそのアルバムに眼を通してみた。
すると、和美と共に写っている男の存在が浮かび上がった。その男は和美と同年齢位と思われたが、髪の毛を角刈りにしていて、人相がよくない男であった。長年の刑事生活で培われた皆川の勘が、この男は胡散臭いと告げていた。
それはともかく、棚の引出しなんかを引き続き捜査してみた。
すると、銀行の通帳が見付かった。だが、その通帳には定期的に給料のようなものが振り込まれている記帳は見られなかった。
そんな状況を目の当たりにして、皆川と共に捜査に携わっている若手の外山刑事(28)は、
「どうやって和美さんは、生活していたのでしょうかね」
と、眉を顰めて言った。
「分からんよ。でも、給料を手渡してる会社もあるからな」
と、皆川も眉を顰めては言った。
すると、その時である。
リビングの中にあった卓上電話の呼び出し音が鳴った。
それで、皆川と外山刑事は顔を見合わせ、肯くと、外山刑事がとにかく電話に出た。
すると、送受器からは、
―和美か! 何処に行ってたんだ!
と、威勢のよい男の声が聞こえた。
それで、外山刑事は少しの間、言葉を詰まらせていると、
―和美! 聞こえてるのか!
と、男の威勢のよい声が再び聞こえた。
それで、外山刑事は、
「僕は和美ちゃんじゃないんだよ」
そう外山刑事に言われて、男の言葉は詰まった。それは、正に外山刑事の声を聞いたその男の困惑したような表情が眼に浮かぶかのようであった。
十秒程間があった後、男は、
―あんたは、一体誰なんだ!
と、警戒したような言葉を発した。
それで、外山刑事は、
「僕は、和美ちゃんの親戚の者なんですが」
―親戚の者? 親戚の者がどうして和美ちゃんの部屋にいるんですか?
和美の親戚と外山刑事に言われ、男は一転して穏やかな声で言った。
「それがですね。和美ちゃんとここしばらくの間連絡が取れないから和美ちゃんの部屋を見に行ってくれないかと、和美ちゃんのお母さんに頼まれたのですよ。それで、僕は来てみたのですが、やはり和美ちゃんはいないのですよ。どうなってるんですかね」
と、外山刑事は正に困ったと言わんばかりに言った。
すると、男の言葉は少しの間詰まったが、やがて、
―僕もこの三日間、和美ちゃんと連絡が取れないのですよ。
と、いかにも困ったと言わんばかりに言った。
それで、外山刑事は、
「で、失礼ですが、あなたは和美ちゃんとどういった関係にあるのですかね?」
と、いかにも真剣そうな表情を浮かべては言った。
すると、男は、
―まあ、和美ちゃんの彼氏とでも言いましょうかね。
と、些か面映そうな声で言った。
「彼氏ですか。じゃ、あなたから少し話を聞きたいので、都合がよければこの和美ちゃんの部屋に来てもらえないでしょうかね」
と、外山刑事は再び真剣そうな表情で言った。
というのは、外山刑事のこの誘いに電話の男が乗って来るかどうかは分からないからだ。
即ち、男は和美の彼氏と名乗ったが、それは嘘で、和美の死に関わりの無い者と断言は出来ないのだ。それ故、外山刑事は身分を名乗らずに、とにかく直に男と会って、話をしようとしたのである。
すると、男はあっさりと外山の誘いに応じたのである。
そして、その男は外山刑事と電話を終えて三十分後に和美の部屋に姿を見せた。
そして、外山刑事はその男を一目見て、その男が和美のアルバムに和美と共に写っていた男であることが分かった。即ち、この男は人相は良くないのだが、この男が和美の彼氏であるというのは、どうやら嘘でないみたいだ。
そんな男を外山刑事は部屋の中に招じ入れると、その時に、皆川が姿を見せた。外山刑事も皆川も私服であった為に、見ただけでは警官だとは分からないことであろう。
だが、刑事生活が長く、また、凶悪事件に何度も携わって来た皆川のただならぬ容貌を眼にして、男の表情は何となく警戒したようなものへと変貌した。
そんな男は、外山刑事と皆川の顔を交互に見やっては、
「あんたたちは、一体誰なんだ?」
と、警戒したような視線を外山刑事と皆川に投げた。
それで、この時点で皆川は警察手帳を男に見せては、自らの身分を名乗った。
すると、男、即ち、小山田茂は、
「刑事? 何故刑事が和美ちゃんの部屋にいるんだ?」
と、表情を険しくさせては、いかにも納得が出来ないような表情と口調で言った。
それで、皆川はこの時点で和美の死を話した。今の時点では、船の科学館近くの海で見付かった若い女の姓名はまだTVや新聞では報道されてなかったのである。
茂は、そんな皆川の話に、強張った表情を浮かべては黙って耳を傾けていたが、皆川の話が一通り終わると、突如表情を和らげ、笑い始めた。そんな茂は、おかしくて堪らないと言わんばかりであった。
そんな茂を眼にして、皆川は眉を顰め、
「何がおかしいのですかね?」
すると、茂は表情を和らげたまま、
「刑事さんも人が悪いと思いましてね。つまり、刑事さんは僕をからかっているんですよ。和美ちゃんが死んだなんて、そんな悪い冗談は止めてくださいよ。アッハッハッ!」
と、いかにもおかしくて堪らないと言わんばかりに豪快に笑った。
すると、皆川は、
「冗談じゃありません。今朝、和美ちゃんのお母さんの明美さんが、和美ちゃんの死をS病院で確認したのですよ」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
すると、茂の表情からは、笑みが消えた。明美という名前を皆川が言った為か、茂は皆川が冗談を言ってるのではないことを理解したかのようであった。
案の定、茂の表情からはすっかりと笑みは消え、茂の表情は強張ったものへと変貌していた。
そして、茂は強張った表情を浮かべながら、しばらくの間、言葉を発そうとはしなかった。そんな茂は、皆川の言葉の真偽を必死で確かめているかのようであった。
皆川はといえば、そんな茂の様を見て、茂は和美の死に心当たりがあるのではないかと思った。
それで、
「あなたは、和美ちゃんの死に関して、何か心当たりありますかね?」
と、茂の顔をまじまじと見やっては訊いた。そんな皆川は、和美の事件を解決するには、この人相のよくない和美の彼氏だったという男の証言に掛かっていると言わんばかりであった。
茂はといえば、皆川にそう訊かれても、強張った表情を浮かべては、すぐには言葉を発そうとはしなかった。
だが、やがて、
「特にないですね」
と、呟くように言った。
すると、皆川の表情は曇った。皆川は和美の彼氏だったというこの男が、和美の死に何か情報を持っていると読んでいたからだ。それ故、茂の返答は期待外れだったというわけだ。
それはともかく、茂の今の皆川の問いに対する返答は、嘘であった。茂は無論、和美を殺した人物に心当たりあった。和美は、みちるとみちるの新たな男が万造の失踪に関わりがあるという推理を確かめる為にみちるに会いに行ったのだ。そして、その後、茂は和美と連絡が取れなくなり、その翌日に和美の死体が船の科学館近くの海で見付かったというのだ。そして、和美の死は、鈍器のようなもので殴打された為による脳挫傷とのことだ。即ち、殺しである。そして、和美は殺されてから海に遺棄されたと、今、茂の眼前にいる皆川という刑事が、そう茂に説明したのだ。
となると、和美を殺したのは、みちるに決まっている! あるいは、みちるの新たな男も、その殺しに加わったのかもしれない。
いずれにしても、そのどちらかに違いないのだ!
とはいうものの、茂は率直にその茂の思いを皆川に話すのを拒んだのだ!
というのは、もしその思いを話してしまうと、自ずから茂や万造たちが行なって来た悪事も話さざるを得なくなってしまう。
茂は、それを拒否したのだ! それ故、和美の死に心当たりないと言わざるを得なかったのだ!
そう茂に言われると、皆川は、
「そうですか……」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては呟くように言った。
だが、
「失礼ですが、あなたの名前は、何とおっしゃるのですかね?」
そう皆川に言われると、茂は隠しても無駄だと思ったのか、
「僕は、小山田といいます」
と、眉を顰めては、素っ気無く言った。
「小山田さんですか……。で、小山田さんと和美さんが最後に連絡を取ったのは、いつでしたかね?」
「四日前ですね」
「電話で話したのですかね?」
「そうです」
「どんな話をしたのですかね?」
「他愛ない話ですよ」
「その時、和美さんは何処かに行くとか、誰かに会うとか言ってませんでしたかね?」
「そのようなことは、言ってませんでしたね」
と、茂は眉を顰めては言った。
すると、皆川は、
「そうですか……」
と、いかにも残念そうに言った。もし、和美がその時に何処かに行くとか、誰かに会うとか言っていれば、そこに和美を殺した犯人が存在してるに違いないからだ。
「で、和美さんのこの部屋には、きちんと鍵が掛かってましたし、また、部屋の中は何ら荒されてなかったことから、和美さんは外で殺されたと思われるのですがね。また、身体に暴行された痕も見られなかったことなどから、行きずりの犯行というよりも、顔見知りの者の犯行と思われるのですがね」
と、皆川は茂の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、茂は渋面顔を浮かべては、
「そう言われても、僕はその犯人に心当たりないのですよ」
すると、外山刑事が、
「和美ちゃんのお母さんから聞いたのですが、和美ちゃんは学生時代から不良だったそうです。そして、今も何か悪いことをやっていて、それに絡んでトラブルが発生し、殺されたかもしれないとのことです。
で、小山田さんは和美さんの彼氏だったとのことですから、和美さんの悪事ということに関して、何か心当たりあるのではないですかね?」
と、茂の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、茂は眼を大きく見開き、
「そう言われても、僕には分からないのですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
そう茂に言われてしまえば、仕方ない。
それで、皆川と外山刑事は、この辺で一旦茂に対する聞き込みを終えることにした。
和美の部屋を後にすると、外山刑事は、
「僕は、あの小山田という人物の証言は信頼出来ませんね」
と、眉を顰めては言った。
すると、皆川は、
「外山君もそう思ったか。実は僕もそう思ったんだよ」
と、外山刑事に相槌を打つかのように言った。
「小山田さんの表情は正に不良といった感じのものでしたからね。つまり、小山田さんと和美ちゃんは共に何か悪事を行なっていたのですよ。そして、それに絡んで何かトラブルが発生し、和美ちゃんは殺されたのですよ。それ故、小山田さんは、和美ちゃんを殺した犯人に心当たりあるに違いありません!
しかし、そのことを我々に話すと、小山田さん自身が行なって来た悪事も暴露してしまうことになってしまうので、小山田さんは知らぬ振りを装ったのですよ」
と、外山刑事は眼をキラリと光らせては、些か興奮気味に言った。
すると、皆川は、
「僕もそう思うよ。しかし、今のところ、和美ちゃんたちか、どんな悪事を行なって来たか、見当が付かないからな」
と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
そして、署に戻ってから、和美の部屋で入手したアドレス帳をもとに、和美の友人、知人であった者たちに聞き込みを行なってみようとしたのであった。