プロローグ
雲仙は、昭和九年に瀬戸内海、霧島屋久と共に日本で最初に国立公園に指定された。
だが、雲仙の歴史は、それより古く、明治初期には、シーボルトやケンペルによって海外に紹介され多くの外国人が雲仙を訪れている。
だが、雲仙の歴史はもっと古く、大宝元年(701)には、行基によって雲仙に真言宗の寺が建てられたと伝えられている。
そんな雲仙は、春のツツジ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の霧氷と、それぞれ見所があり、訪れる者を魅了している。とりわけ、天然記念物に指定されているミヤマキリシマが咲き誇る春に訪れれば、一層雲仙の自然の素晴らしさを実感出来ることであろう。
また、平成三年には、普賢岳が噴火し、その火砕流によって外国人火山学者など四十三人の命が奪われたことは、記憶に新しい。
だが、今、普賢岳は、すっかり落ち着きを取り戻し、平成新山として新たな観光資源と化しているのは、些か皮肉なことである。
それはともかく、雲仙の名所として最初に挙げなければならないのは、雲仙地獄であろう。
雲仙地獄とは、瀟洒なホテルが集まっている新湯近くにある旧火山の中央火口丘のことで、黄色に変色した地面からは、音を立てて噴気が噴出し、また、硫黄の臭いが鼻をつく。正に荒涼とした景観で、地獄とはさながらこのような光景であろうということで、雲仙地獄と名付けられたようだ。
そんな雲仙地獄には、江戸時代にキリシタンの信者が処刑されたという哀しい歴史がある。
江戸時代に長崎に住んでいたキリシタンの清七は、この雲仙に連れて来られては、熱湯を浴びせられて殺された。そのときに噴出した地獄が清七地獄と呼ばれている。
また、島原城下で密通の罪で処刑されたお糸に因んで名付けられたお糸地獄とか、雀の鳴き声に似てることから名付けられた雀地獄のように雲仙の地獄は、様々な名前で名付けられている。
そんな雲仙の地獄の中で最も活動が激しいといわれている大叫喚地獄は、雲仙地獄の中では、最奥部に位置し、荒涼とした地肌に百度近くある水蒸気が噴出してる様は、正に地獄とはこういう所だと思わせる。
東京から二泊三日の予定で長崎、雲仙方面を旅行中の畑中正志(29)、早苗(28)夫妻は、一昨日と昨日は、長崎と佐世保を巡り、昨夜、雲仙へと到着した。そして、雲仙地獄近くの某ホテルに泊まり、朝を迎えた。
といっても、昨夜雲仙に到着した為に、雲仙という観光地がどの様な所なのか畑中夫妻はまだ知らずにいた。何故なら畑中夫妻はまだ一度も雲仙を訪れたことがなかったからだ。
それ故、畑中夫妻は朝食前にホテル前にあるという雲仙地獄を散策してみようと思い、朝七時にホテルを出発した。何しろ、畑中夫妻は雲仙地獄は三十分もあれば散策出来るということを観光ガイドを読んで知っていたのだ。
そんな畑中夫妻は、清七地獄に近付くや否や、忽ち驚いてしまった。というのは、清七地獄が噴出する噴気の為に辺りが真っ白になってしまい、辺りの視界が利かなくなってしまったからだ。畑中夫妻は以前、北海道の登別温泉に行った時に地獄なる所を訪れたことがあり、その時にもこのような噴気を経験したが、この雲仙地獄の噴気は、登別温泉の地獄以上という思いが畑中夫妻の脳裏を過ぎった。
とはいうものの、その噴気は程なく去り、辺りの視界は戻った。といっても、辺りの視界が完全に戻ったわけではなかった。
それはともかく、畑中夫妻は清七地獄の名前の由来が記してある立看板を少しの間、見やっていた。
そして、その説明に些か納得し、そして、早速雲仙地獄散策に乗り出した。
畑中夫妻の予定は、清七地獄からお糸地獄、真知子岩を通過し、大叫喚地獄、邪見地獄を経て雲仙お山の情報館に出るというものであった。そして、そのコースは、三十分も掛からないとのことだ。
それ故、七時半にはホテルに戻れると畑中夫妻は読んでいた。それ故、ホテルに戻って朝食を食べ一風呂浴びても、九時半にはホテルを出発出来る筈だ。畑中夫妻の計画では、ホテルを後にしてから仁田峠でロープウェイに乗って平成新山を見物し、その後、島原城を訪れるつもりであった。
その強行予定をこなす為にも、畑中夫妻は朝早くから行動に出る必要があったのである。
それはともかく、畑中夫妻は、まだ、畑中夫妻以外はまるで人気の見られない雲仙地獄を時々写真撮影を行ないながら、軽快な足取りで散策していた。
そして、お糸地獄、真知子岩を通り過ぎ、やがて大叫喚地獄に差し掛かった。
さすがに、この辺りの噴気は凄く、正に雲仙地獄は生きていると実感させられた。
そう思いながら、ここでも畑中夫妻は記念撮影を行なうことにした。カメラはセルフタイマー付きだから、無論二人仲良くカメラに収まることが出来るというものだ。
そして、正志は、散策路の手頃な場所にカメラを置き、先程のようにセルフタイマーをセットしようとしたその時である。
早苗が、
「あなた!」
と、甲高い声を上げた。その声は、甚だ尋常なものとは思えなかった。
それで、正志は些か強張った表情を浮かべては、早苗の許に駆け寄った。
すると、早苗は、正志に背を向けては、散策路と地獄とを区切っている柵に左手を置きながら、右手で噴気が黙々と上がっている大叫喚地獄の方を指差している。
正志は、早苗が指差してる方に眼を向けた。
すると、正志もその異常にすぐに気付いた。何故なら、激しく水蒸気を噴出している大叫喚地獄の中に人間が仰向けになって倒れていたからだ。正に、その様は、尋常とは思えなかった。
そして、二人が大叫喚地獄に来た時は、その人間が倒れている辺りの水蒸気がとても激しく、その為に視界が悪かった為に、二人はその人間が眼に入らなかったのである。
早苗は、早苗と同様にその異変に気付いた正志に、
「あなた……」
と、いかにも神妙な表情を浮かべて言った。
早苗にそう言われると、正志は一瞬眉を顰めはしたが、さ程躊躇わずに柵を越えては、水蒸気が激しく噴出している大叫喚地獄の中に入って行った。そして、その仰向けになって倒れている人間の許に素早く近付いて行っては抱き抱え、そして、早苗のいる散策路へと速やかに戻って来た。倒れていた人間は、噴出している水蒸気にその身体を濡らしてはいたが、水蒸気が噴出している所の上に倒れていたわけではなかったので、正志は何とか水蒸気を浴びずに済んだ。
正志は、どうにかその人間、即ちまだ二十代の前半位と思える位の男を散策路に運んで来ることは出来たが、正志の表情はとても険しかった。というのは、正志はその男に触れてみて、その男は既に魂切れていることを理解したからだ。その男の身体は既に冷たく、また、硬直していたのだ。更に頭から血を流したような痕も見られた。
正に、険しい表情を浮かべている正志に対して早苗は、
「死んでいるの?」
と、正志と同様、険しい表情で言った。
すると、正志は、
「ああ」
と、険しい表情のまま言った。
そして、二人は今、携帯電話を持っていなかったので、早苗がこの場に残り、正志がホテルに戻っては、事の次第を係員にまず話すことになった。正に、正志と早苗にとってとんでもない朝の雲仙地獄巡りとなってしまったのである。