広田弦一の小説サイト


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  言葉は元来、人間の意思の伝達手段だ。従って、言葉の集合体である小説は作者の意思の塊である筈なのだ。だが、意思のない小説というものが存在してることが分かった。また、思い、情緒が表現されていれば、小説ではないと看做す人がいることも分かった。
 これ、おかしいと思わないですか。小説には誤魔化しが通用します。本来の小説とはかけ離れた小説というものが、存在し過ぎてると思わないですか。
 広田弦一は、小説にとって大切な要素は、感性、思い入れ、物語と登場人物の心理だと考えています。
 では、何故この三つの要素が大切なのか説明します。
 文芸(小説)とは、言葉の通り、芸を文で表現するもの。小説にとって、文と芸は飛行機の両翼であり、どちらかが欠如しても、成り立たない。
 では芸とは何か。国語辞典で芸という意味を調べてみると、芸術とある。では、芸術を調べてみると、美を創造、表現しようとする人間活動とその成果の総称とある。では、美を調べてみると、美しいこととある。つまり、芸とは、美しいと感じることなのだ。美しいと感じなければ、芸といえないのだ。感性がなければ、美しいと感じることが出来ない。即ち、文芸(小説)には、文が表現出来ることは当然なのだが、それと共に感性が大切だというわけだ。
 では、何故思い入れが大切なのかというと、前述したように、言葉は人間の意思の表現手段で、人間が発する一言、一言には、意思が込められてるのだ。そして、その意思が作者にとって軽微なものであれば、敢えて小説など書かなくてもよいだろう。軽微なことを小説として敢えて文章にする必要はないからだ。くだらないことを書いても、馬鹿馬鹿しいだけだからだ。小説を書くからには、小説を書きたいという作者の強い思いが存在しなければならないのだ。作者の強い思いがなければ小説など書かなくてもよいというわけだ。それ故、小説は作者の強い思いがなければ、存在する意義がないのだ。それ故、強い思い、即ち、思い入れが大切だというわけだ。              
 では、物語と登場人物の心理が何故大切なのかというと、元来、小説というものは、物語性のあるものだからだ。物語が存在しない作品が小説でないとは言わないが、小説の本来の姿である物語を無視するなということだ。物語が存在すれば、当然、人物が登場するだろう。登場人物は人間だから、当然心の中で思ったり、考えたりするだろう。その部分が心理というわけだ。即ち、この二つが大切だというわけだ。
 ここで言っておかなければならないのは、文学とは本質的に心の中で思い感じることから出発するものだ。その基本が無視され、人の知らないことをいかに数多く知っているかで、文学が出発している傾向が強いということだ。このことが一層小説の社会的地位を低下させる要因となってると広田弦一は思っています。

 今、日本の小説界を俯瞰してみると、私小説とか私小説風の作品、妄想のようなものを表現してる作品、無意志、無感動、無味乾燥的に普通の人が知らないような単語を並べているような作品が席巻してるようだ。また、こういった類の作品でなければ、小説ではないという暗黙的な掟も存在してるかのようだ。
 こういった現象は、寧ろ必然的なのかもしれない。というのも、19世紀のフランスの冒険小説作家であるジュール・ウ゛ェルヌの死後出版された作品である
「20世紀のパリ」(ウ゛ェルヌの初期の作品であるが、日本の年代区分では、江戸時代末期に書かれた作品)の中で、20世紀のパリは、ウ゛ィクトル・ユーゴーとかいったロマン派の作品は消失し、本というものは、学術書とか社会書的なものばかりで、個性、人間性が迫害され、詩人を志すの者は落ち零れ人間で、社会人として失格だと書いたのだ。即ち、二十世紀のパリは産業社会が進展し、人間性、芸術は迫害されると予言したのである!
 この「二十世紀のパリ」で表現された世界は、二十世紀のパリというよりも、21世紀の日本というべきではないだろうか.
 今の日本では、見知らぬ他人から頭を小突かれても文句を言わないような感性の鈍そうな人が、普通の人が知らないような単語を無意思、無感動的に並べてるような作品でなければ、小説ではないと看做されてるようだからだ。今や、小説における芸術性、ロマンなどと言えば、失笑を浴びせそうな人が小説を書き、また、評価しているかのようなのだ。正に、今の日本は「二十世紀のパリ」で描かれた世界と酷似してるかのようなのだ。                
  しかし、今や時代は確実に変化した。今やインターネットにより、国民の誰も が自らの作品を発表出来る時代が到来したのだ。これは、流石ウ゛ェルヌでも予想してなかったようだ。今や、作品を評価するのは、一部の選者というよりも、国民一人、一人と化したのである!           
 

                                          
                                            

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